第3章 「空が崩れ、影が生まれ」 第2話
朝の柔らかな光が、
ゼロタイム二階リビングに優しく差し込んでいた。
テーブルの上には、こんがりと焼き上がったトーストと、ふんわりとしたスクランブルエッグ。
色鮮やかなサラダと、香ばしいコーヒーの香りが、静かに部屋全体に広がっている。
飛彩翼はその前に座り、
スプーンを握ったまま、まるで遠くの景色でも見ているようにぼんやりと視線を漂わせていた。
向かいに座る怜人が、
タブレットをそっと閉じながら、
優しく声をかけた。
「……食欲、ない?」
翼はハッとして顔を上げ、
慌てて小さく首を横に振った。
「ううん、大丈夫」
かすかに笑って見せたが、
その笑顔は明らかに無理をしていることが、
見え透いていた。
瞳の奥に、昨日の疲れとロゼの言葉がまだ影を落としている。
怜人は静かにコーヒーを一口啜り、
穏やかな声で続けた。
「昨日……何かあった?」
答えを急がせることはしない。
ただ、妹の気持ちをそっと受け止めるように、
静かに待っている。
翼はスプーンを指で軽く弄びながら、
ぽつりと答えた。
「ううん。ただ……今やってる舞台って、すごく難しいなって思って……」
その一言に、怜人は「うん」とだけ頷いた。
それ以上は深く追及せず、
代わりに自分のカップを翼の前に静かに滑らせた。
温かいコーヒーの香りが、
優しく翼の鼻先をくすぐる。
「焦らなくていいよ。君は……君のやり方でいい」
怜人の言葉は、いつも通り穏やかで、温かかった。
「……うん」
翼は小さく頷いたものの、心はまだ晴れなかった。
胸の奥で、ロゼの冷たい声が何度も繰り返されている。
「お前の白雪姫は、存在していなかった」
「ただ、白雪姫に酔いしれている自分自身しかない」
スプーンでスクランブルエッグを少しだけ口に運んだが、味はほとんど感じられなかった。
昨夜、李梨奈さんに言われた優しい言葉と、
ロゼの厳しい指摘が、
交互に胸の中でぶつかっている。
怜人はそんな妹の様子を静かに見つめながら、
内心で深いため息をついた。
(まだ、伝えられないな……李梨奈のことも)
高虎から聞いた情報が頭をよぎる。
しかし、今の翼にさらに重いものを背負わせるのは、酷に思えた。
朝の光が、
テーブルの上に並んだ朝食を優しく照らしている。
兄と妹の間には、
言葉にできない想いが静かに流れていた。
翼はもう一度、小さく微笑もうとした。
「ごちそうさま……兄さん」
その声は、まだ少し震えていた。
怜人は何も言わず、ただ優しく頷いた。
その日の教室は、ざわついた空気に満ちていた。
翼が静かにドアを開けて入ってきた瞬間、
そのざわめきがわずかに形を変えた。
誰もが彼女を見ていた。
しかし、それは温かい「注目」ではなかった。
「……飛彩さん、来た」
「昨日の稽古……正直、微妙だったよね」
「白雪姫って雰囲気じゃないよね、あの子……」
「ていうか、やっぱ結依ちゃんの方が……凛としてて好きだったな」
小さな声たちが、
教室の隅々に静かに広がっていく。
比べる声。疑う声。遠ざける声。
期待を裏切られたような、冷たい視線。
翼はそれらが聞こえていないふりをして、
自分の席へと歩いた。
けれど、背中に浴びる視線の温度までは、
どうしても無視できなかった。
まるで針のように、細かく、
容赦なく突き刺さってくる。
ノートを開く手が、わずかに震えそうになるのを、必死にこらえた。
視界が、じわりとにじんだ。
心の中で、翼は静かに問いかけた。
私、見られてる。
けど、それは“期待”じゃない。
“比較”と“値踏み”……ただそれだけ。
私は、白羽結依さんや李梨奈みたいに、
空を飛べるの……?
あの日、
フラウ・ヒンメル(空の君)に選ばれたとき。
この場所は、
自分が羽ばたくための広い空だと思っていた。
輝かしい舞台への第一歩だと、胸を躍らせていた。
でも今、その空は冷たい風しか吹いていない。
自分が踏みしめている場所は、
彼女が歩いていた痕跡の上だった。
前任のフラウ・ヒンメル 白羽結依が残した、
大きな影の上だった。
空は、綺麗なだけじゃない。
広すぎて、孤独で、何も返してくれない。
翼は小さく、
誰にも聞こえない声で口の中で呟いた。
「……白羽さん……あなたは、どうやって……空を、飛んでたの……?」
窓の外では、
どこまでも青く澄んだ空が広がっていた。
雲一つない、完璧な青。
しかし翼の胸の中の空は、
今、静かに、静かに、ひび割れ始めていた。
翼はただじっと机を見つめていた。
教室のざわめきは、徐々に収まっていった。
けれど、翼の心に残った冷たい風は、
まだ止む気配を見せなかった。
ここは、彼女が夢見たはずの舞台への入り口。
しかし今、翼は初めて気づいた。
空を飛ぶということは、
こんなにも孤独で、こんなにも怖いことなのだと。
青い空が、
窓の向こうで無言で彼女を見つめていた。
これは、トップスタァを目指す少女たちの物語。
そして……
夢を叶える物語である。
第2話 完




