第2章 「流星たちの残光は尚残り」 第8話
翼と別れた後、鎌田二乃はでひとり家路についた。
夕暮れの街路樹が、柔らかな風に葉を揺らしている。
いつもなら軽やかにスキップするように歩く道が、
今日はやけに重く感じられた。
ロゼ・アディンの言葉が、ずっと耳の奥に残っていた。
「最低限できてる」
シンプルで、淡々としたその一言が、
二乃の胸を何度も刺す。
(私は……ほんとは、エーデルに相応しい器じゃなかったのかもしれない)
演技が好きだった。
ダンスが好きだった。
だから百合々咲音楽学院に来た。
ただ純粋に、表現することが楽しくて。
なのに今は、それが重荷に感じてしまう。
エーデル。
フラウ・ヴィンド(風の君)という称号を与えられたその日から、 すべてが変わってしまった。
誰かのためにやらなくちゃ。
後輩たちの手本にならなくちゃ。
学院の顔として、恥ずかしくない存在でなくちゃ。
自分以外の誰かのために動く日々が続き、
いつの間にか「自由」がすっかりなくなっていた。
その重荷が、人を壊すことを、二乃はよく知っていた。
あの日――
雨の中で傘も差さずに学院の門をくぐり、
魂を抜かれたように歩いていた白羽結依の姿が、
今も鮮明に脳裏に焼きついている。
「私、空から堕ちちゃった……」
あの虚空を見つめる瞳。
(怖い……)
時々、逃げ出したいと思う。
この重い称号から、期待から、
完璧を求められる日々から、
全部投げ出してしまいたいと、
心の底で叫びたくなる瞬間がある。
でも――
(エーデルだから……自分がやらなきゃいけない)
ちょうどそのとき、スマホの通知音が小さく鳴った。
動画アプリの新着通知。
D4の新動画がアップロードされていた。
イヤホンを耳に差し込み、再生ボタンを押す。
画面の中では、D4のメンバーたちが賑やかにたこ焼きパーティーをしている。
笑い声が弾け、ソースの匂いが漂ってきそうなほど生き生きとした映像。
いつもなら、二乃も一緒に笑いながら見ていたはずだった。
なのに今日は、なんだか笑えなかった。
(D4のみんなは……重圧とか、ないのかな?)
楽しそうにたこ焼きを頰張り、ふざけ合いながら笑い合う少女たちの姿が、今の二乃には眩しすぎて、目を細めてしまうほどだった。
画面の中で輝く自由な笑顔と、 自分の肩にのしかかる「フラウ・ヴィンド」という名の重み。
同じ表現者なのに、なぜこんなにも違うのだろう。
二乃はスマホの画面をじっと見つめたまま、足を止めた。
夕暮れの風が、彼女のレンジ色のポニーテールを優しく揺らす。
「風の君」であるはずの自分が、
今はただ、風に吹かれて飛ばされそうで怖い。
夕暮れのレッスン室は、静寂に包まれていた。
窓の外に広がる街の喧騒も、茜色の夕日の光も、
ここには一切届かない。
ほんのりとした非常灯だけが、
無音の室内を淡く照らしていた。
その薄暗い光の中で、ひとり、静かに踊り続ける少女がいた。
張哪吒。
その姿は、まるで影のようだった。
音もなく床を蹴り、ターンし、ステップを踏み、
跳躍する。
すべてが正確無比。
乱れは一切ない。呼吸も、軸も、力の入れ具合も、
理想的な軌道で組み立てられた“舞台の動き”だった。
完璧だった。
鏡に映る自分自身の姿を、哪吒はどこか冷めた目で見つめ続けていた。
その“完璧”な動きとは裏腹に、
鏡の奥の眼差しには、どうしようもない空白が静かに漂っていた。
(……何かが、足りない…… 何かが……満たされない…… でも……何が欲しいのか、私には分からない……)
動きを止め、哪吒は肩で息をした。
静寂が、再びレッスン室を支配する。
鏡の中の自分が、じっとこちらを見つめ返している。
美しく整った黒髪、凛とした顔立ち、
引き締まった身体――
すべてが理想通りのはずだった。
けれど、心は静かに、音もなくひび割れていた。
哪吒はゆっくりと拳を握り、
鏡に映る自分の顔に向かって強く拳を叩き付けた。
ガンッ、という鈍い音が響く。
何をしているのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、抑えきれない衝動が、身体を動かしていた。
今でも鮮明に思い出す。
完璧であった自分さえ敵わなかった、あの演技。
それを越えることができなかった自分の脳裏には、
今もなお、あの“黄金の輝き”が彷徨い続けている。
栄光を奪っていった、あの輝き――
拳を強く握りしめ、哪吒は低く、
掠れた声で呟いた。
「……私が……負けていいはずがない……」
その一言に、張り詰めた空気が、
さらに凍りついた。
レッスン室には、誰もいない。
非常灯の淡い光だけが、
少女の影を長く床に落としている。
けれど、鏡の向こうに確かにいたのは――
“勝ち続けなければ、自分でいられない”と
願い続けた少女の亡霊だった。
哪吒はゆっくりと拳を下ろし、
再び鏡の中の自分と視線を合わせた。
その瞳の奥に宿る空白は、
今日の稽古でロゼに指摘された「感情の欠落」よりも、もっと深く、もっと冷たい闇を抱えていた。
完璧を追い求め、勝利を重ねてきた少女は、
今、誰にも見せない場所で、
静かに、自分の心のひび割れと向き合い続けていた。
夕暮れのレッスン室に、
ただ一人、影のように佇む哪吒の姿は、
まるで永遠に続く孤独な舞のように、
静かに、しかし確かに、続いていた。
これは、トップスタァを目指す少女たちの物語。
そして……
夢を叶える物語である。
第8話 完




