第七十七話 約束はするものではない 果たすものでもない させられるものである
ーー朝の登校の時間。
今日も一日、全校生徒が登校してくる。
そこにはやる気に満ち溢れているもの、気だるくやる気のないもの、何かを期待して来るもの、行きたくなくてでも仕方がなく来るもの。
恋をしていてドキドキしながら来るもの。嫌いなあいつと顔を合わせたくなくて気まずい空気を背負って来るもの。などなどーー
様々な思惑が交錯する学校という場所は、人々にとって貴重な財産となる。それはやがて、思い出や青春となってーー
ここにも一人いや、二人。貴重な財産を作り上げているものがいたーー
そう、俺は今女子生徒に恋人のフリを頼まれた挙げ句、その女子生徒を泣かせてしまっているのだーー
「あいつが......怖い......」
そう話す女子生徒もとい、天道の後ろの席の女子の目には少しだが涙を蓄えていた。
「あいつって誰のこと?」
俺は全く想像がつかない『あいつ』のことを聞いてみることにした。
「......っ......」
だか、返ってきた反応は無反応であった。
俺は目の前で泣いている女の子に無言でハンカチを差し出す。
「......っ、ありがとう......」
そう言って彼女はハンカチを手に取り、涙を拭った。
「それで、怖いって何が怖いんだ?」
もう一度、俺は質問してみることにした。
「......須藤が......あいつが......」
言いにくそうに放った言葉は震えているような声で、それは鼓膜に伝わる前から震えているのだとすぐにわかった。
「須藤って......同じクラスのあいつ!?」
「......うん」
俺はその名前を知っていた。クラスの人間の名前なんてろくに知らないし、ましてや話したこともないようなやつなんか知るわけもない。
ーーが、そいつのことだけは知っていたのだ。
そうーーそれは天道が休んだ日。俺が一人でしおり作りの希望をクラスの皆に聞いた時のことであったーー
『なんで俺らが言わなきゃならねーんだよ』
あいつの一言で、俺はクラスから袋叩きにあった。
挙げ句、最後には俺に対して明らかに見下したようにーー
『お前、何様のつもりなんだよ』
あの一件から俺はあいつの事が一番嫌いだ。
第一、クラス替えで一緒になったその日からあまり良くは思っていなかった。
短髪で長身で目付きが鋭く、目が合っただけで何かされそうで怖かったからだ。
だが、人は見かけによらないという言葉があるので偏見を持たないようにしていたのだが、実際には人は見かけによるのであったのだ。
そんなあいつが女子に対しても何か乱暴をしているのか?
俺はいてもたってもいられずに、さらに聞いてみることにした。
「あいつに一体何をされたんだ!?」
少し大きな声で勢い良く問いかけたせいで、彼女は少し驚いていたようだった。
「あのね......、私......」
それでも不安げに語ろうとする彼女の華奢な手は震えているように見えた。
彼女が話し終わるまで相槌すら打たずに黙ってその場に立って聞いていた。
「あいつに......ストーカーされてるの......」
耳を疑った。
「えっ?す、ストーカー!?」
驚きを隠せずに聞き直す。
「うん......」
言いづらそうに彼女はそう答えた。
「ストーカーって、一体どういうこと!?」
俺は事態が飲み込めずにすぐに問いかけた。
「あのね......私、あいつに告白されたの......」
またもや衝撃の事実が告白された。
「そ、そうなんだ......」
「うん」
俺はなんと言って良いのか分からずにいた。
「そ、それで......どうしたの?」
唾を飲み込む音が聞こえるのではないかと思うくらい二人の間には静寂が覆い被せられていた。
「......断ったよ」
その言葉で少し安心していた自分がいた。
「じゃあ、それでストーカーに?」
「うーん、どうだろう?前に告白された人はそんなこと言ってなかったみたいだったけど......」
(前に告白された人って、あいつどれだけ告白してんだよ)
そんな事を思いながらも続けて質問する。
「ストーカーって、具体的にはどんなことされてるんだ?」
彼女は下を向いてこう話す。
「待ち伏せされたり、手紙が机のなかに入ってたり......」
俺は少し安堵した。もっとヤバい事をしているものだと思っていたからだ。
「なんだ。それくらいか。じゃあ別に大丈夫じゃないか」
その言葉で彼女を傷つけるということを知らないでいた。
「それくらい......?本気で言ってるの?それ」
今まで泣いていた顔が真剣な表情に変わり、俺を真っ直ぐな瞳で見つめていた。
それは鬼気迫るほどのもので、俺は思わず先程の自分の意見を否定した。
「いやっ、冗談だよ!冗談!それにしてもあいつひどいよなー。あはは」
俺はこの真剣な空気が苦手で少しでも和ませようとした。
「ねぇ......」
か弱い声が聞こえた。
「ん?」
俺は彼女の続きの言葉を促す。
「なに笑ってんの?」
彼女はやはり怒っていた。確かに、真剣に悩んでる事を『それくらい』や笑ったりするのはまずかった。
だが、それほどに心配したからの反応なのだ。
「いや、君が辛そうにしてたからさ。だから少しでも和ませようとしたんだけど......気になったならごめん」
俺は正直に謝ることにした。
「そ、そうなんだ......。ありがとう......。優しいんだね」
驚くほど思っていた回答と違っていたため、急いで言葉を用意した。
「あっ、うん!」
俺はまたしても常套句のあうんを使いこなしてしまった。
「麻由美」
「へっ?」
突然、人の名前を呼び出した彼女を前にして俺はたじろぐ。
「君じゃなくて、麻由美」
そう言われてやっと、彼女の名前が麻由美だということがわかった。
「あ、うん。でも、いきなり下の名前で呼ぶのは......」
「今日から私の彼氏でしょ!?なら、それくらい普通でしょ!」
俺はまだやるとは言っていない約束とも呼ぶことすら抵抗のある約束事を当たり前のように結ばされていた。
「いや、俺彼女出来たことないし当たり前とか言われても......」
そう言うと彼女はーー
「そうなんだ......。なら、名字でもいいよ!」
意図的なのか、たまたまそうなっているのか上目遣いとやらが、俺の心拍数を上げるのを手伝っていた。
「わかった。それならってか、それこそ当たり前か。名前はえーとなんだっけ?」
そう言った瞬間、俺の幼い頃にハンコ注射を押した所に鋭い鈍痛が襲った。
「いてて......」
「嘘でしょ!?マジあり得ないんだけど」
彼女の顔を見るとマジあり得ない程の引いているような表情をしていた。
「ご、ごめん......。悪かったから離してよ」
彼女はようやく俺の左腕をつねっている手を離してくれた。
「あんたが悪いんでしょ!!普通、名前覚えてないとかあり得なくない!?仲良くしたいとか言ってたくせに!」
顔を赤らめて怒っている彼女もなかなか可愛いなと思ってしまう俺はどうかしてしまっているようだ。
「ごめん。本当にクラスの人の名前はほとんど知らないんだ」
「須藤のことは知ってるくせに?」
こういう意地悪な質問をされると困るものではあるのだが、確かに彼女の言っていることは正しい。
「いや、それはなんというか......嫌いだから?」
正解が解らない回答ほど自信がないものはない。
「......ぷはっ。ははは。なんだそれ!」
彼女は吹き出して笑った。今のにどこに笑いのツボがあったのだろうか。
「そんなにおかしいか?」
彼女は少し笑いを抑えてこう話した。
「いや、あんたもあいつの事嫌いなんだなって!あんたに頼んで良かったかもって思ったらなんだか悩んでたこともバカらしくなってね」
こう話す彼女は先程の中でも一番楽しそうな表情であった。
「なんだよそれ......」
俺も少し笑いながら返した。
「戸倉よ」
「あっ、うん」
ようやく彼女の名前を知った。




