↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/21

第九章 船の上の約束


八月十三日



 六時十七分に、千尋さんから写真が届いた。


 皿の上に、卵焼きが一つ載っていた。昨日より少し平たく、端に焦げ目がある。


 文は短かった。


 二回目なのに、形が戻った。


 俺は布団から片腕だけ出して、写真を見た。


 志保さんが、味は、と送った。


 少しして、千尋さんの返事が来た。


 醤油は減った。


 美玖から親指を立てる絵が送られてきた。七緒はまだ何も言っていなかった。


 俺は目覚ましを止めた。鳴るまで、まだ十分あった。



 八時三十五分に、七緒の家の前を通った。


 彼女は玄関の段差へ座って、靴紐を結んでいた。髪はいつもより高い位置でまとめてある。鞄は小さく、画板は持っていなかった。


「今日は早い」


 俺が言うと、七緒は結び目を引っ張った。


「寝坊すると思った?」


「朝、返事なかったから」


「あの時間は、普通に寝てる」


 立ち上がり、家の中へ行ってきますと声を掛けた。


 おばさんが奥から、帽子、と言った。


 七緒は鞄の外側を叩いた。


「入ってる」


 俺も自分の帽子を確かめた。


「航くんも、水持った?」


「はい」


「じゃあ、行ってらっしゃい」


 七緒が扉を閉めた。


「二人まとめて点検されてる」


「おまえ、一回、遠足で水筒忘れただろ」


「小学校の話、いつまで言うの」


 坂を下りた。空は白っぽかったが、雨は降っていなかった。


 湊屋の前には椅子が二脚出ていた。八重さんと、俺がまだ子供のころに見たことのある男の人が座っている。


 八重さんは俺たちを見つけ、手を上げた。


「今日は仕事?」


「船、乗ってきます」


 七緒が答えた。


「ああ、いいね。向こうの港に、アイス売ってるから」


 隣の男の人が、店はもうない、と言った。


「あるよ。前の店じゃなくて、今の」


「そうなのか」


 男の人は少し首を伸ばして、こちらを見た。


「帰ったら、教えて。何売ってたか」


 七緒は、見てきます、と答えた。


 俺たちは止まらずに港へ向かった。



 いちばん早く来ていたのは、美玖だった。


 待合所の壁に背をつけ、帽子の紐を直していた。俺たちが近づくと、電話の時刻を見せた。


「まだ、船いない」


「出発まで二十分ある」


「早いほうがいいと思って」


 七緒が美玖の隣へ座った。美玖は電話で去年の写真を開いた。


 石垣の上に、猫がいた。顔の近い一枚で、耳の先が画面から少しはみ出していた。


「あっちで撮ったの?」


 七緒が海の向こうを指すと、美玖は頷いた。


「動かないから、いっぱい撮った」


「私も、今日、これ撮りたい」


 七緒が自分の電話を出した。画面を拭き、鞄の取り出しやすいところへ入れ直す。


 俺は待合所の時計を見てから、船の入ってくるほうを見た。


 美玖が次の写真へ送った。同じ猫が大きく伸びをしていた。


「こっちのも」


 七緒が言った。美玖は、猫に訊いて、と答えた。


 志保さんは八時五十五分に来た。千尋さんは八時五十八分だった。


 千尋さんが鞄から紙袋を出したので、七緒が、料理してきたの、と訊いた。


「買ってきた。朝ご飯の続き」


 中には小さな菓子パンがあった。


「お父さん、ちゃんと新しい箱に詰めたよ。緑の。今日はご飯を詰めすぎなかった」


 俺たちに見せるつもりで撮ったのか、電話に写真があった。深緑の箱の中で、卵焼きは昨日より小さく切られていた。


 七緒が指を差す。


「果物の箱も使ってる」


「中身はトマト。果物ないって言ったら、それでいいって」


 千尋さんは電話をしまった。


「あとは、お昼に開くかどうか」


「そこは大丈夫でしょう」と志保さんが言った。


 港の向こうから、低い音が近づいてきた。


 船は写真で見たより小さかった。海に浮いているからなのか、昨日岸についたまま見ていたときより揺れていた。


 窓口が開き、俺たちは切符を買った。


 五枚の紙片を一枚ずつ受け取る。七緒が全員の手元を確認してから、船へ向かった。


 タラップの前で船員に止められた。


「降りる方が先ね」


 七緒が一歩戻る。


 俺は笑わないようにした。


「何」


「別に」


 乗っていた人たちが、手荷物を抱えて下りてきた。最後の一人が岸へ足をつけてから、七緒はもう一度進んだ。


 俺も、そのあとに続いた。



 九時十分に、船は岸から離れた。


 美玖は船室に座り、窓の外を見ていた。千尋さんがその隣。志保さんは通路を挟んだ席に座り、動き出してすぐに眼鏡を外した。


「揺れるの、苦手ですか」


 俺が訊くと、彼女は頷いた。


「読むつもりだった本、しまう」


「持ってきたんですか」


「乗るまで暇かと思って」


 七緒が鞄を覗く。


「何の本?」


「怪談」


 俺たちは一瞬、顔を見合わせた。


 志保さんがこちらを見た。


「何。読むよ」


 千尋さんが、船で読むと怖そう、と言った。


「地面がないし」


 志保さんは本をしまった。


「いまは、それどころじゃない」


 船が防波堤を抜けると、大きく一度上下した。


 七緒が俺の袖を掴んだ。


「わ」


 座席の背へ手を移すまで、布が引っ張られていた。


「外、行く?」


 俺が訊くと、七緒は頷いた。


 甲板の出入口の横には、開けたら必ず閉めるようにと書かれていた。俺が押さえ、七緒が先に出る。


 風が、思っていたより強かった。


 七緒はすぐに帽子を押さえ、肩をすくめた。俺も手すりを持つ。


 白い波が船の後ろに伸びていた。港はもう小さくなり、町の家々が一枚の斜面に重なっている。


「うち、どの辺?」


 七緒が大きな声で訊いた。


「あの屋根の向こう」


「どの屋根」


「赤いのの、右」


「赤いの、いっぱいある」


 俺が指を伸ばすと、船が揺れた。


 七緒が今度は俺の肘を押さえた。


「分かったから、手すり持って」


 俺は掴み直した。


 七緒の髪が顔に掛かった。片手では全部押さえられず、鼻のところの一筋だけを、口を尖らせて吹いた。


 笑うと、怒った目で見られた。


「代わりに、そこ見て」


 彼女が指した先で、小さな魚が水面から跳ねた。


 見つけたときには、もう海へ戻っていた。


「いた?」


「いた」


「もう一回、跳ばないかな」


 しばらく待ったが、跳ねなかった。


 七緒は諦めて、海へ肘を向けた。


「昨日、来たかったね」


 俺は頷いた。


「うん」


 七緒が俺を見た。


「でも、昨日の卵はおいしかった」


「おまえ、自分の失敗したやつ、食ってたじゃん」


「それも」


 彼女は手すりを両手で持った。


「今日の船も、乗れてよかった」


 俺は何か言おうとしたが、扉が開き、美玖が顔を出した。


「ここ、出ていい?」


 七緒は空いた場所を指した。


 美玖は一歩出て、すぐに帽子を押さえた。首の紐がなければ飛んでいたかもしれない。


「電話、落とさないように」


 俺が言うと、美玖は頷いた。


「撮らない。揺れるから」


 三人で手すりへ並んだ。


 船室の窓越しに、千尋さんがこちらへ手を振った。志保さんも、座ったまま片手を上げる。


 七緒は両手を上げかけ、片方だけにした。



 島の港へ着いたのは、九時半を少し過ぎたころだった。


 タラップを下りた志保さんが、岸壁の上で立ち止まった。


「地面、まだ揺れてる」


 千尋さんが隣に立った。


「座る?」


「少し歩く。止まってるほうが変だから」


 俺たちは港の端までゆっくり歩いた。


 売店は開いていた。八重さんの言ったアイスは、冷凍ケースの中に五種類あった。俺は看板の名前を控えた。七緒は、忘れないように写真に撮った。


「食べるのは帰りでいい?」


 志保さんが訊いた。


 誰も反対しなかった。


 島の案内板には、展望台まで十五分、とあった。


 美玖が道を指す。


「こっち。最初は、そんなに坂じゃない」


「あとから坂?」と千尋さん。


「うん」


 正直な案内だった。


 海沿いの道をしばらく進み、小さな石段を上った。家の脇を通ると、窓の中からラジオの音が聞こえた。


 七緒が、小さな黄色い花を見つけて立ち止まる。


 俺は少し先で待った。美玖はその花ではなく、花の影を撮っていた。


 千尋さんは日陰へ入り、水筒を出した。


「まだ半分も来てない?」


 俺が地図を見ると、美玖が、あと坂一つ、と言った。


 坂は、一つという数え方で安心できる長さではなかった。


 途中から全員の口数が減った。七緒が先頭で、俺が最後尾。志保さんは眼鏡を何度も押し上げていた。


 頂上へ着くころには、曇っていた空の隙間から太陽が出ていた。


 美玖の言ったとおり、海が広かった。


 港の防波堤がずっと下に見える。その向こうに町があり、行き交う船が小さな白い点になっていた。


 千尋さんは手すりへ両腕を載せた。


「ああ、こういうの、久しぶり」


 志保さんがその隣へ立つ。


「坂?」


「上り終わるほう」


 千尋さんが笑った。


 七緒はベンチへ座り、首の後ろをタオルで拭いた。俺も隣へ座る。鞄を置くと、七緒の鞄と角がぶつかった。


「広いほうに座ればよかった」


「移る?」


「もういい。疲れた」


 美玖が手すりの端から写真を撮っていた。


 千尋さんが横へ入ろうとすると、美玖は少し待って、と言った。海だけを一枚撮ってから、今度は千尋さんへ電話を向ける。


「いいよ」


 千尋さんは手を振った。写真を見せてもらうと、顔より手のほうが大きく写っていた。


「近いな、私」


「手、前に出したから」


 千尋さんは自分の腕を見て、もう一枚頼んだ。


 俺は水筒を開けた。


 電話に宮内さんからの返信が入っていた。昨日、千尋さんと父親の話を本人たちの了承で伝えた、その受け取りを知らせるものだった。


 必要な確認はこちらで進めます。


 それを読んでから、電話を戻した。


 七緒は足元の影を見ていた。


「美玖が撮るやつ、ちょっと分かる」


 ベンチの脚の影が、斜めに地面へ落ちている。


「何が」


「ここ、描くと平らになるんだけど、ほんとは砂利で少しずつ曲がってる」


 指で辿る。


 俺には初め、黒い線にしか見えなかった。顔を近づけると、小さな石の表面で影がずれていた。


「こういうの、描いて持っていくのか」


「学校に?」


「うん」


 七緒は少し考えた。


「風景も入れたい。今、部屋の中で描いたやつばっかりだから」


 千尋さんが戻ってきた。


「七緒ちゃん、絵の学校行くんだっけ」


「まだ、決めてないです。秋に作品を見てもらって、それから」


 千尋さんはベンチの背へ手を置いた。


「今日の海、描いたら見せて」


 七緒が頷いた。


「うん」


 志保さんが、部屋の絵も入れたら、と言った。


 七緒は顔を上げる。


「あれ、練習みたいなものだったので」


「私は気に入ってるよ。どちらも」


 七緒は、じゃあ写真を撮らせてください、と答えた。


 それから自分の電話を出し、海を一枚撮った。


 美玖が横へ来る。


「もう少し、下向けたほうが」


 七緒は言われたとおりに向け、画面を確かめた。


「ほんとだ。空、多すぎた」


 俺も海を見た。



 下り道では、七緒が石段を一つ飛ばそうとして、やめた。


 俺が先に下りた場所へ手を伸ばす。


「鞄、ちょっと」


 受け取ると、身軽になった七緒が慎重に一段下りた。


「飛ぶんじゃないのか」


「高かった」


 鞄を返した。


 後ろから来た志保さんは、迷わず手すりを使った。千尋さんは途中の踊り場で、風に飛ばされそうになった帽子を押さえている。


 美玖が道の先を見ていた。


「猫」


 石垣の上に、灰色の猫がいた。


 五人が止まると、猫はこちらを見た。七緒がそっと手を上げる。猫は尾の先を一度だけ動かした。


「来ないかな」


 七緒が言った。


 猫は目を閉じた。


 七緒は指を小さく振った。


「猫、昔から来ないんだよね。航のほうには行くのに」


「先に追いかけるからだろ」


「今日は追いかけてない」


 俺は石段の端に座った。猫は薄目を開けたが、動かなかった。


 七緒も隣へ座る。


 美玖がしゃがみ、電話を構えた。


 猫はようやく立ち、美玖のほうへ歩いてきた。近すぎて撮れなくなり、美玖は慌てて電話を下ろした。


「勝った」と小さく言った。


「何もしてないのに」と七緒。


「何もしてないからだろ」


 七緒は反論しかけ、美玖の足元で伸びる猫を見て、口を閉じた。


 俺たちは猫が石垣へ戻るまで座っていた。


 坂を下りたところに、窓を全部開けた集会所があった。


 入口の風鈴の下へ、卓球できます、と紙が貼ってあった。七緒は通り過ぎてから戻り、俺の腕を引いた。


「まだ時間ある?」


 十時四十二分だった。帰りの船まで一時間ほどある。


「十五分くらいなら」


「見てくるだけ」


 言い終わる前に、七緒は上履きの籠へ足を向けていた。


 奥で新聞を読んでいた男性が、使うの、と訊いた。頷くと、ラケットの箱を指した。


「終わったら球の数だけ、揃えておいてね」


 箱には、赤い面が少し剥がれたものと、柄へ名前の書かれたものがあった。七緒は二本を裏返し、俺へ片方を渡した。


「勝負」


「船に乗って、卓球しに来たんだっけ」


「今そうなった」


 俺が構える前に、球が来た。


 床を二度跳ね、椅子の下へ入る。


「いまのは、なし」


 七緒が言った。


「まだ何もしてないのに、決めるなよ」


 千尋さんが笑い、鞄を壁際へ並べた。美玖は卓球台の端を指で押し、がたつかないことを確かめた。志保さんは椅子へ座ったまま、ラケットを一本取った。


「ダブルスでもいい?」


「できます?」と七緒。


「できるか、やってみたい」


 俺と七緒が並び、美玖が志保さんの隣へ立った。


「今日は順番なしで。届くほうが打とう」と七緒が言った。


 千尋さんは五点先取、と言って、両手の指を開いた。


「点が分かんなくなったら、私が決めます」


「それ、一番強い人じゃん」と美玖が言った。


 最初の球を七緒が打った。美玖が返す。俺が一歩出る前に、七緒も同じほうへ動いた。


 肩がぶつかった。


「航、そこ、私がいる」


「見えてる」


「じゃあ来ないで」


 俺たちの間を抜けた球が、後ろの壁へ当たった。


 千尋さんの指が一本曲がる。


 次は俺が打った。志保さんの返した球は、弱そうに見えたのに、台へ落ちてから急に曲がった。


 七緒のラケットが空を切った。


「何それ」


「昔、少しやってた」


 志保さんは眼鏡を押し上げた。


「少しって、いつですか」


「大学のとき。授業の空き時間に」


「その情報、先に欲しかったな」


 七緒は俺へ小声で、作戦、と言った。


「美玖を狙う?」


「聞こえてる」と美玖が答えた。


 七緒が笑った隙に、また一点入った。千尋さんは自分の指が足りなくならないように、左右を確かめていた。


 俺は台から半歩離れた。七緒が横目で見たので、前は任せる、と言った。


「後ろに来たら?」


「俺が取る」


「じゃあ、全部前に落とす」


「味方だろ、お前」


 今度は七緒が、台の端ぎりぎりへ返した。美玖が慌てて追い、少し高く上がる。


 俺は打とうとしたが、七緒の腕が先に伸びたので止まった。


 球は志保さんのラケットへ当たり、天井の蛍光灯の近くまで上がった。


「まだ、ある」


 志保さんが言った。


 全員が見上げた。


 台へ戻ってきたところを七緒が打ち、今度こそ向こう側で床へ落ちた。


「一点」


 千尋さんが俺たちへ指を立てた。


 七緒はラケットの柄で、俺の柄を軽く叩いた。


「今の、来なかったのがよかった」


「消極的な褒め方するなよ」


 次の球では、二人とも待ってしまった。台の真ん中で一度跳ね、誰にも触られず床へ落ちる。


 美玖が台へ手をついて笑った。志保さんも、膝にラケットを置いたまま笑っていた。


 負けたのは俺たちだった。


 千尋さんは待ちきれずに俺のラケットを取り、志保さんの向かいへ立った。


「私は一人でやる」


「じゃあ、こっちも一人で」と志保さん。


 二人の球は、俺たちのときより長く続いた。千尋さんは当てるたびに、小さく声を出した。強く打たない代わりに、届くところへ来たものを、全部返そうとした。


 何度目かで、志保さんが笑いながら、暑い、と言った。


 美玖が扇風機の向きを変えた途端、球が少し流れた。


「味方、助けちゃった」


「今、私の味方だと思ってたんだけど」と千尋さん。


 七緒が俺の袖を引いた。もう一本、ラケットを借りていた。


「あと一回。今度は私と美玖」


「組み替えるの早いな」


「だって、負けたから」


 俺は志保さんの隣へ立った。


 七緒はさっき俺たちが一点取った隅へ、迷わず打ってきた。俺が拾うと、今度は美玖が逆へ返した。


 勝つことをちゃんと考えている顔だった。


 俺も台へ近づいた。


 十五分を少し過ぎたころ、千尋さんがもう船のことは忘れないで、と言った。点を数えるために丸めていた指を、一本ずつ開いていた。


 片づけるとき、球が一つ足りなかった。


 五人で台の下を覗いた。七緒が向こう側から顔を出し、目が合った瞬間、俺のほうへ球を転がしてきた。


「拾って」


 ラケットではなく手で止めた。


 外へ出ると、さっきまで涼しいと思っていた道が、体の汗を冷やした。千尋さんは一回勝ったと言い、美玖は、自分も勝った、と言った。


 七緒は俺の横へ来た。


「航、全部負けた?」


「言わなくていい」


「次は組んであげるから」


 彼女の額にも汗が浮いていた。俺が自分のタオルを出すと、七緒はそれを取らず、鞄から自分のを出した。


 同じところへ水の跡ができるまで、二人で額を拭いた。


 港へ戻る途中に、小さな文具と雑貨の店があった。


 千尋さんが入口のガラスを覗き込む。


「釣り道具、売ってる」


 釣り糸と浮きが、乾電池の隣に掛かっていた。七緒は意外そうに千尋さんを見た。


「釣りするんですか」


「自分で釣るのは、ほとんど初めて。小さいとき、一回連れてってもらったけど、お菓子食べたり、石投げたり。お父さんには、この前も言われた」


 十一日の駐車場で、竿を持たずに振っていた手を思い出した。


 千尋さんは小さな浮きを目で追った。


「一匹くらい、自分で釣ってみたかったなって」


「竿、借りられそうですか」


 俺が訊くと、千尋さんは頷いた。


「短いの、何本か見つかったって。足りなければ、長いのも出すって。糸は、やっぱりあの日に買ってきてた」


 七緒が浮きへ顔を寄せた。


「じゃあ、いつ行きます?」


 千尋さんは笑った。


「朝早いんだよ。お父さん、釣りのときは、三時とか四時に出るから」


 七緒が顔をしかめた。


「それは、ちょっと」


「私も」


 千尋さんは店の中へ入らず、隣の陳列へ目を移した。


 絵葉書があった。


 海を撮ったものと、島の古い町並みを描いたもの。何も描かれていない、厚い白紙の束もあった。


 七緒が白紙を持ち上げた。


「これ、五枚だ」


「また紙買うのか」


 俺が言うと、彼女は鞄の厚さを見せた。


「今日は持てる」


 美玖が写真の絵葉書を一枚取った。


「お母さんに」


 店番をしていた女性が、それなら切手もあるよ、と言った。


「持って帰るので」


 美玖が答えると、女性は、それも早いね、と笑った。


 七緒は白紙の束を買った。俺は八重さんに頼まれたアイスの店の名前が書かれた、小さな島の案内を一枚もらった。


 店を出たところで、志保さんの鞄から鍵の音がした。


 財布を戻そうとして、留め金へ鍵の輪が引っかかったらしい。彼女は指を入れて外し、鍵を手の中へ収めた。


 七緒が、落ちる、と言って足元を見た。


 小さな銀色の輪だけが一つ、地面に転がっていた。


 俺が拾って渡した。


「ありがとう。これ、緩んでたんだ」


 志保さんは輪を元へ戻さず、財布の小銭のところへ入れた。


「家の?」


 七緒が訊くと、志保さんは首を振った。


「亮太の部屋の。実家の引き出しに置いてあって、戻ってから母に渡された」


 鍵の頭には小さな緑のカバーがついていた。


「返すつもりで、四月に外したままだった。これだけ、今日も持ってきてるの、変だね」


 彼女は鞄の内ポケットへしまった。


「明日、連絡する」


 七緒が、うん、と答えた。


 それ以上、誰も訊かなかった。



 アイスを食べたのは、十一時十五分だった。


 船の出るところから、もう離れないことにした。売店の横の日陰へ座り、海を見ながら包みを開ける。


 七緒はカップを選んだ。俺は棒のついたものにした。美玖は買う直前まで迷って、七緒と同じものを頼んだ。


 志保さんは、いまなら食べられる、と小さい氷菓を選んだ。


 千尋さんのは、先端にチョコレートが厚くついていた。


「一口目、難しい」


 彼女が言うので、七緒が齧ってみればいいと答える。


 齧ると、チョコレートが大きく一枚剥がれた。


 千尋さんは手で受け止め、そのまま慌てて口へ入れた。


 美玖が笑った。


「撮ればよかった」


「撮らなくていいよ、そういうの」


 千尋さんも笑いながら言った。


 美玖の電話が鳴った。画面を見ると、彼女はしばらく親指を止めた。


「お母さんから?」


 七緒が訊く。


「昨日の卵」


 美玖は画面を七緒へ見せた。俺にも見える向きだった。


 上手にできたね。今度、うちでも作ってほしい。


 その下に、楽しんできて、とあった。


 七緒が頷いた。


「作ってあげる?」


「同じにできるか、分かんない」


 美玖はアイスの匙を口へ入れ、電話を膝へ置いた。


 千尋さんが、最初は一緒にやれば、と言った。


「お母さん、きっと、すごくうまいんでしょ」


「うん。でも、先に全部やっちゃうかも」


 志保さんが、先に言っておけば、と答えた。


「今日は、見ててって」


 美玖は頷いた。


 少し考えてから、また電話を持った。


 何を書いたかは見えなかった。送信したあと、彼女は鞄へしまい、残りのアイスを食べた。


 七緒が買った白い絵葉書を出す。


「これ、みんなで一枚ずつ、何か書かない?」


 千尋さんはチョコレートのついた指を見た。


「あとで洗ってから」


 志保さんは、私は字しか書けない、と言った。


「字でいいよ。今日のこととか」


 俺は一枚受け取った。白い紙は思ったより厚く、端が少しざらついていた。


「誰に出すんだ」


「まだ決めてない」


 七緒は鉛筆を探した。


「じゃあ、書けたら交換する。誰に当たるか分からないやつ」


「何を書くか、先に考えたい」と志保さん。


 七緒はそこでやっと、全員の顔を見た。


「やる?」


 千尋さんが、手を洗ったら、ともう一度言った。


 美玖は葉書を取った。


「私、猫」


 七緒が頷き、消しゴムを半分、彼女のほうへ寄せた。



 俺は船を描いた。


 窓が多すぎて、途中から電車のようになった。下に波を描けばいいと思ったが、波の幅が揃わず、レールにも見えた。


 七緒が覗いた。


「何か書けば分かるよ」


「船、って?」


「うん」


 俺はそう書いた。


 美玖の猫は、石垣の上で小さく丸まっていた。顔はなかった。千尋さんは今日の日付と、卵焼きは二回でうまくならない、と書いた。


 志保さんの葉書には、島へ来るまでの船の揺れ方が、短い文章で書かれていた。最後に、帰りも乗るしかない、とある。


 七緒は、展望台で見た風景を描いていた。


 ベンチと、手すりと、その向こうの海。人は点のように小さかったが、五人分あった。


 裏返して混ぜようとして、俺たちは全員、自分の描いたものを覚えていることに気づいた。


「覚えてても、取るのは裏からだから」


 七緒が言った。


 千尋さんが葉書を重ね、一番上から配った。


 志保さんに猫。美玖に卵焼き。千尋さんに船。七緒には文章。


 俺には七緒の絵が来た。


「私、これ、家で読む」


 七緒は志保さんの葉書を鞄の底へ入れた。


「船で読むと、もっと酔いそうだから」


 志保さんは、体験を書くと、そうなる、と答えた。


 俺は絵をもう一度見た。


 ベンチに二人、手すりのところに二人、少し離れたところに一人。


 実際に五人がその配置にいた時間は、たぶん短かった。七緒はそのとき自分がいたところも描いていた。


「これ、俺?」


 小さな点の一つを指すと、七緒が頷いた。


「鞄、大きいほう」


「そんなに大きくないだろ」


「いっぱい入ってるから」


 否定はできなかった。



 十一時五十分の船にも、五人で乗った。


 今度は志保さんが、最初から窓の外を見る席を選んだ。千尋さんは隣で菓子パンの残りを食べ、美玖は電話をしまっていた。


 七緒は俺の横に座り、島が離れていくのを見ていた。


「十八日の映画会も、行こうよ」


 千尋さんが三つ先の席から顔を出した。


「何時からだっけ」


「六時。ご飯はその前に、向こうで買うのでもいいし」


 俺は手帳を開いた。


 志保さんは、私は大丈夫、と言った。美玖は母親に伝えておく、と答えた。


「私も。あ、ご飯、家の」


 千尋さんは言いかけて、少し考えた。


「お父さんにも訊いてみる。一緒に来ればいいのか」


 七緒が頷いた。


「卵焼き、持ってきてもらう?」


「映画のときには、もっと別のものがいい」


 千尋さんの返事に、美玖が声を立てて笑った。


 俺は十八日の欄へ、海辺の映画会、と書いた。


 その前のページに、青い付箋があった。


 九時十分。五人で船。


 俺はその脇へ、小さく丸をつけた。もう消さず、そのまま閉じた。


 船が揺れ、七緒の肩が俺の腕へ当たった。


「ごめん」


 すぐに少し離れたが、次の波でまた戻ってきた。


 俺は鞄を反対側へ動かした。


 七緒は何も言わず、浮いていた肘を座席の端へ置いた。


 港へ戻ったら、八重さんにアイスのことを伝える。センターに寄って、絵の具を取る。午後はそれぞれの用事がある。


 今は、船が着くまで座っていればよかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。