第九章 船の上の約束
八月十三日
六時十七分に、千尋さんから写真が届いた。
皿の上に、卵焼きが一つ載っていた。昨日より少し平たく、端に焦げ目がある。
文は短かった。
二回目なのに、形が戻った。
俺は布団から片腕だけ出して、写真を見た。
志保さんが、味は、と送った。
少しして、千尋さんの返事が来た。
醤油は減った。
美玖から親指を立てる絵が送られてきた。七緒はまだ何も言っていなかった。
俺は目覚ましを止めた。鳴るまで、まだ十分あった。
八時三十五分に、七緒の家の前を通った。
彼女は玄関の段差へ座って、靴紐を結んでいた。髪はいつもより高い位置でまとめてある。鞄は小さく、画板は持っていなかった。
「今日は早い」
俺が言うと、七緒は結び目を引っ張った。
「寝坊すると思った?」
「朝、返事なかったから」
「あの時間は、普通に寝てる」
立ち上がり、家の中へ行ってきますと声を掛けた。
おばさんが奥から、帽子、と言った。
七緒は鞄の外側を叩いた。
「入ってる」
俺も自分の帽子を確かめた。
「航くんも、水持った?」
「はい」
「じゃあ、行ってらっしゃい」
七緒が扉を閉めた。
「二人まとめて点検されてる」
「おまえ、一回、遠足で水筒忘れただろ」
「小学校の話、いつまで言うの」
坂を下りた。空は白っぽかったが、雨は降っていなかった。
湊屋の前には椅子が二脚出ていた。八重さんと、俺がまだ子供のころに見たことのある男の人が座っている。
八重さんは俺たちを見つけ、手を上げた。
「今日は仕事?」
「船、乗ってきます」
七緒が答えた。
「ああ、いいね。向こうの港に、アイス売ってるから」
隣の男の人が、店はもうない、と言った。
「あるよ。前の店じゃなくて、今の」
「そうなのか」
男の人は少し首を伸ばして、こちらを見た。
「帰ったら、教えて。何売ってたか」
七緒は、見てきます、と答えた。
俺たちは止まらずに港へ向かった。
いちばん早く来ていたのは、美玖だった。
待合所の壁に背をつけ、帽子の紐を直していた。俺たちが近づくと、電話の時刻を見せた。
「まだ、船いない」
「出発まで二十分ある」
「早いほうがいいと思って」
七緒が美玖の隣へ座った。美玖は電話で去年の写真を開いた。
石垣の上に、猫がいた。顔の近い一枚で、耳の先が画面から少しはみ出していた。
「あっちで撮ったの?」
七緒が海の向こうを指すと、美玖は頷いた。
「動かないから、いっぱい撮った」
「私も、今日、これ撮りたい」
七緒が自分の電話を出した。画面を拭き、鞄の取り出しやすいところへ入れ直す。
俺は待合所の時計を見てから、船の入ってくるほうを見た。
美玖が次の写真へ送った。同じ猫が大きく伸びをしていた。
「こっちのも」
七緒が言った。美玖は、猫に訊いて、と答えた。
志保さんは八時五十五分に来た。千尋さんは八時五十八分だった。
千尋さんが鞄から紙袋を出したので、七緒が、料理してきたの、と訊いた。
「買ってきた。朝ご飯の続き」
中には小さな菓子パンがあった。
「お父さん、ちゃんと新しい箱に詰めたよ。緑の。今日はご飯を詰めすぎなかった」
俺たちに見せるつもりで撮ったのか、電話に写真があった。深緑の箱の中で、卵焼きは昨日より小さく切られていた。
七緒が指を差す。
「果物の箱も使ってる」
「中身はトマト。果物ないって言ったら、それでいいって」
千尋さんは電話をしまった。
「あとは、お昼に開くかどうか」
「そこは大丈夫でしょう」と志保さんが言った。
港の向こうから、低い音が近づいてきた。
船は写真で見たより小さかった。海に浮いているからなのか、昨日岸についたまま見ていたときより揺れていた。
窓口が開き、俺たちは切符を買った。
五枚の紙片を一枚ずつ受け取る。七緒が全員の手元を確認してから、船へ向かった。
タラップの前で船員に止められた。
「降りる方が先ね」
七緒が一歩戻る。
俺は笑わないようにした。
「何」
「別に」
乗っていた人たちが、手荷物を抱えて下りてきた。最後の一人が岸へ足をつけてから、七緒はもう一度進んだ。
俺も、そのあとに続いた。
九時十分に、船は岸から離れた。
美玖は船室に座り、窓の外を見ていた。千尋さんがその隣。志保さんは通路を挟んだ席に座り、動き出してすぐに眼鏡を外した。
「揺れるの、苦手ですか」
俺が訊くと、彼女は頷いた。
「読むつもりだった本、しまう」
「持ってきたんですか」
「乗るまで暇かと思って」
七緒が鞄を覗く。
「何の本?」
「怪談」
俺たちは一瞬、顔を見合わせた。
志保さんがこちらを見た。
「何。読むよ」
千尋さんが、船で読むと怖そう、と言った。
「地面がないし」
志保さんは本をしまった。
「いまは、それどころじゃない」
船が防波堤を抜けると、大きく一度上下した。
七緒が俺の袖を掴んだ。
「わ」
座席の背へ手を移すまで、布が引っ張られていた。
「外、行く?」
俺が訊くと、七緒は頷いた。
甲板の出入口の横には、開けたら必ず閉めるようにと書かれていた。俺が押さえ、七緒が先に出る。
風が、思っていたより強かった。
七緒はすぐに帽子を押さえ、肩をすくめた。俺も手すりを持つ。
白い波が船の後ろに伸びていた。港はもう小さくなり、町の家々が一枚の斜面に重なっている。
「うち、どの辺?」
七緒が大きな声で訊いた。
「あの屋根の向こう」
「どの屋根」
「赤いのの、右」
「赤いの、いっぱいある」
俺が指を伸ばすと、船が揺れた。
七緒が今度は俺の肘を押さえた。
「分かったから、手すり持って」
俺は掴み直した。
七緒の髪が顔に掛かった。片手では全部押さえられず、鼻のところの一筋だけを、口を尖らせて吹いた。
笑うと、怒った目で見られた。
「代わりに、そこ見て」
彼女が指した先で、小さな魚が水面から跳ねた。
見つけたときには、もう海へ戻っていた。
「いた?」
「いた」
「もう一回、跳ばないかな」
しばらく待ったが、跳ねなかった。
七緒は諦めて、海へ肘を向けた。
「昨日、来たかったね」
俺は頷いた。
「うん」
七緒が俺を見た。
「でも、昨日の卵はおいしかった」
「おまえ、自分の失敗したやつ、食ってたじゃん」
「それも」
彼女は手すりを両手で持った。
「今日の船も、乗れてよかった」
俺は何か言おうとしたが、扉が開き、美玖が顔を出した。
「ここ、出ていい?」
七緒は空いた場所を指した。
美玖は一歩出て、すぐに帽子を押さえた。首の紐がなければ飛んでいたかもしれない。
「電話、落とさないように」
俺が言うと、美玖は頷いた。
「撮らない。揺れるから」
三人で手すりへ並んだ。
船室の窓越しに、千尋さんがこちらへ手を振った。志保さんも、座ったまま片手を上げる。
七緒は両手を上げかけ、片方だけにした。
島の港へ着いたのは、九時半を少し過ぎたころだった。
タラップを下りた志保さんが、岸壁の上で立ち止まった。
「地面、まだ揺れてる」
千尋さんが隣に立った。
「座る?」
「少し歩く。止まってるほうが変だから」
俺たちは港の端までゆっくり歩いた。
売店は開いていた。八重さんの言ったアイスは、冷凍ケースの中に五種類あった。俺は看板の名前を控えた。七緒は、忘れないように写真に撮った。
「食べるのは帰りでいい?」
志保さんが訊いた。
誰も反対しなかった。
島の案内板には、展望台まで十五分、とあった。
美玖が道を指す。
「こっち。最初は、そんなに坂じゃない」
「あとから坂?」と千尋さん。
「うん」
正直な案内だった。
海沿いの道をしばらく進み、小さな石段を上った。家の脇を通ると、窓の中からラジオの音が聞こえた。
七緒が、小さな黄色い花を見つけて立ち止まる。
俺は少し先で待った。美玖はその花ではなく、花の影を撮っていた。
千尋さんは日陰へ入り、水筒を出した。
「まだ半分も来てない?」
俺が地図を見ると、美玖が、あと坂一つ、と言った。
坂は、一つという数え方で安心できる長さではなかった。
途中から全員の口数が減った。七緒が先頭で、俺が最後尾。志保さんは眼鏡を何度も押し上げていた。
頂上へ着くころには、曇っていた空の隙間から太陽が出ていた。
美玖の言ったとおり、海が広かった。
港の防波堤がずっと下に見える。その向こうに町があり、行き交う船が小さな白い点になっていた。
千尋さんは手すりへ両腕を載せた。
「ああ、こういうの、久しぶり」
志保さんがその隣へ立つ。
「坂?」
「上り終わるほう」
千尋さんが笑った。
七緒はベンチへ座り、首の後ろをタオルで拭いた。俺も隣へ座る。鞄を置くと、七緒の鞄と角がぶつかった。
「広いほうに座ればよかった」
「移る?」
「もういい。疲れた」
美玖が手すりの端から写真を撮っていた。
千尋さんが横へ入ろうとすると、美玖は少し待って、と言った。海だけを一枚撮ってから、今度は千尋さんへ電話を向ける。
「いいよ」
千尋さんは手を振った。写真を見せてもらうと、顔より手のほうが大きく写っていた。
「近いな、私」
「手、前に出したから」
千尋さんは自分の腕を見て、もう一枚頼んだ。
俺は水筒を開けた。
電話に宮内さんからの返信が入っていた。昨日、千尋さんと父親の話を本人たちの了承で伝えた、その受け取りを知らせるものだった。
必要な確認はこちらで進めます。
それを読んでから、電話を戻した。
七緒は足元の影を見ていた。
「美玖が撮るやつ、ちょっと分かる」
ベンチの脚の影が、斜めに地面へ落ちている。
「何が」
「ここ、描くと平らになるんだけど、ほんとは砂利で少しずつ曲がってる」
指で辿る。
俺には初め、黒い線にしか見えなかった。顔を近づけると、小さな石の表面で影がずれていた。
「こういうの、描いて持っていくのか」
「学校に?」
「うん」
七緒は少し考えた。
「風景も入れたい。今、部屋の中で描いたやつばっかりだから」
千尋さんが戻ってきた。
「七緒ちゃん、絵の学校行くんだっけ」
「まだ、決めてないです。秋に作品を見てもらって、それから」
千尋さんはベンチの背へ手を置いた。
「今日の海、描いたら見せて」
七緒が頷いた。
「うん」
志保さんが、部屋の絵も入れたら、と言った。
七緒は顔を上げる。
「あれ、練習みたいなものだったので」
「私は気に入ってるよ。どちらも」
七緒は、じゃあ写真を撮らせてください、と答えた。
それから自分の電話を出し、海を一枚撮った。
美玖が横へ来る。
「もう少し、下向けたほうが」
七緒は言われたとおりに向け、画面を確かめた。
「ほんとだ。空、多すぎた」
俺も海を見た。
下り道では、七緒が石段を一つ飛ばそうとして、やめた。
俺が先に下りた場所へ手を伸ばす。
「鞄、ちょっと」
受け取ると、身軽になった七緒が慎重に一段下りた。
「飛ぶんじゃないのか」
「高かった」
鞄を返した。
後ろから来た志保さんは、迷わず手すりを使った。千尋さんは途中の踊り場で、風に飛ばされそうになった帽子を押さえている。
美玖が道の先を見ていた。
「猫」
石垣の上に、灰色の猫がいた。
五人が止まると、猫はこちらを見た。七緒がそっと手を上げる。猫は尾の先を一度だけ動かした。
「来ないかな」
七緒が言った。
猫は目を閉じた。
七緒は指を小さく振った。
「猫、昔から来ないんだよね。航のほうには行くのに」
「先に追いかけるからだろ」
「今日は追いかけてない」
俺は石段の端に座った。猫は薄目を開けたが、動かなかった。
七緒も隣へ座る。
美玖がしゃがみ、電話を構えた。
猫はようやく立ち、美玖のほうへ歩いてきた。近すぎて撮れなくなり、美玖は慌てて電話を下ろした。
「勝った」と小さく言った。
「何もしてないのに」と七緒。
「何もしてないからだろ」
七緒は反論しかけ、美玖の足元で伸びる猫を見て、口を閉じた。
俺たちは猫が石垣へ戻るまで座っていた。
坂を下りたところに、窓を全部開けた集会所があった。
入口の風鈴の下へ、卓球できます、と紙が貼ってあった。七緒は通り過ぎてから戻り、俺の腕を引いた。
「まだ時間ある?」
十時四十二分だった。帰りの船まで一時間ほどある。
「十五分くらいなら」
「見てくるだけ」
言い終わる前に、七緒は上履きの籠へ足を向けていた。
奥で新聞を読んでいた男性が、使うの、と訊いた。頷くと、ラケットの箱を指した。
「終わったら球の数だけ、揃えておいてね」
箱には、赤い面が少し剥がれたものと、柄へ名前の書かれたものがあった。七緒は二本を裏返し、俺へ片方を渡した。
「勝負」
「船に乗って、卓球しに来たんだっけ」
「今そうなった」
俺が構える前に、球が来た。
床を二度跳ね、椅子の下へ入る。
「いまのは、なし」
七緒が言った。
「まだ何もしてないのに、決めるなよ」
千尋さんが笑い、鞄を壁際へ並べた。美玖は卓球台の端を指で押し、がたつかないことを確かめた。志保さんは椅子へ座ったまま、ラケットを一本取った。
「ダブルスでもいい?」
「できます?」と七緒。
「できるか、やってみたい」
俺と七緒が並び、美玖が志保さんの隣へ立った。
「今日は順番なしで。届くほうが打とう」と七緒が言った。
千尋さんは五点先取、と言って、両手の指を開いた。
「点が分かんなくなったら、私が決めます」
「それ、一番強い人じゃん」と美玖が言った。
最初の球を七緒が打った。美玖が返す。俺が一歩出る前に、七緒も同じほうへ動いた。
肩がぶつかった。
「航、そこ、私がいる」
「見えてる」
「じゃあ来ないで」
俺たちの間を抜けた球が、後ろの壁へ当たった。
千尋さんの指が一本曲がる。
次は俺が打った。志保さんの返した球は、弱そうに見えたのに、台へ落ちてから急に曲がった。
七緒のラケットが空を切った。
「何それ」
「昔、少しやってた」
志保さんは眼鏡を押し上げた。
「少しって、いつですか」
「大学のとき。授業の空き時間に」
「その情報、先に欲しかったな」
七緒は俺へ小声で、作戦、と言った。
「美玖を狙う?」
「聞こえてる」と美玖が答えた。
七緒が笑った隙に、また一点入った。千尋さんは自分の指が足りなくならないように、左右を確かめていた。
俺は台から半歩離れた。七緒が横目で見たので、前は任せる、と言った。
「後ろに来たら?」
「俺が取る」
「じゃあ、全部前に落とす」
「味方だろ、お前」
今度は七緒が、台の端ぎりぎりへ返した。美玖が慌てて追い、少し高く上がる。
俺は打とうとしたが、七緒の腕が先に伸びたので止まった。
球は志保さんのラケットへ当たり、天井の蛍光灯の近くまで上がった。
「まだ、ある」
志保さんが言った。
全員が見上げた。
台へ戻ってきたところを七緒が打ち、今度こそ向こう側で床へ落ちた。
「一点」
千尋さんが俺たちへ指を立てた。
七緒はラケットの柄で、俺の柄を軽く叩いた。
「今の、来なかったのがよかった」
「消極的な褒め方するなよ」
次の球では、二人とも待ってしまった。台の真ん中で一度跳ね、誰にも触られず床へ落ちる。
美玖が台へ手をついて笑った。志保さんも、膝にラケットを置いたまま笑っていた。
負けたのは俺たちだった。
千尋さんは待ちきれずに俺のラケットを取り、志保さんの向かいへ立った。
「私は一人でやる」
「じゃあ、こっちも一人で」と志保さん。
二人の球は、俺たちのときより長く続いた。千尋さんは当てるたびに、小さく声を出した。強く打たない代わりに、届くところへ来たものを、全部返そうとした。
何度目かで、志保さんが笑いながら、暑い、と言った。
美玖が扇風機の向きを変えた途端、球が少し流れた。
「味方、助けちゃった」
「今、私の味方だと思ってたんだけど」と千尋さん。
七緒が俺の袖を引いた。もう一本、ラケットを借りていた。
「あと一回。今度は私と美玖」
「組み替えるの早いな」
「だって、負けたから」
俺は志保さんの隣へ立った。
七緒はさっき俺たちが一点取った隅へ、迷わず打ってきた。俺が拾うと、今度は美玖が逆へ返した。
勝つことをちゃんと考えている顔だった。
俺も台へ近づいた。
十五分を少し過ぎたころ、千尋さんがもう船のことは忘れないで、と言った。点を数えるために丸めていた指を、一本ずつ開いていた。
片づけるとき、球が一つ足りなかった。
五人で台の下を覗いた。七緒が向こう側から顔を出し、目が合った瞬間、俺のほうへ球を転がしてきた。
「拾って」
ラケットではなく手で止めた。
外へ出ると、さっきまで涼しいと思っていた道が、体の汗を冷やした。千尋さんは一回勝ったと言い、美玖は、自分も勝った、と言った。
七緒は俺の横へ来た。
「航、全部負けた?」
「言わなくていい」
「次は組んであげるから」
彼女の額にも汗が浮いていた。俺が自分のタオルを出すと、七緒はそれを取らず、鞄から自分のを出した。
同じところへ水の跡ができるまで、二人で額を拭いた。
港へ戻る途中に、小さな文具と雑貨の店があった。
千尋さんが入口のガラスを覗き込む。
「釣り道具、売ってる」
釣り糸と浮きが、乾電池の隣に掛かっていた。七緒は意外そうに千尋さんを見た。
「釣りするんですか」
「自分で釣るのは、ほとんど初めて。小さいとき、一回連れてってもらったけど、お菓子食べたり、石投げたり。お父さんには、この前も言われた」
十一日の駐車場で、竿を持たずに振っていた手を思い出した。
千尋さんは小さな浮きを目で追った。
「一匹くらい、自分で釣ってみたかったなって」
「竿、借りられそうですか」
俺が訊くと、千尋さんは頷いた。
「短いの、何本か見つかったって。足りなければ、長いのも出すって。糸は、やっぱりあの日に買ってきてた」
七緒が浮きへ顔を寄せた。
「じゃあ、いつ行きます?」
千尋さんは笑った。
「朝早いんだよ。お父さん、釣りのときは、三時とか四時に出るから」
七緒が顔をしかめた。
「それは、ちょっと」
「私も」
千尋さんは店の中へ入らず、隣の陳列へ目を移した。
絵葉書があった。
海を撮ったものと、島の古い町並みを描いたもの。何も描かれていない、厚い白紙の束もあった。
七緒が白紙を持ち上げた。
「これ、五枚だ」
「また紙買うのか」
俺が言うと、彼女は鞄の厚さを見せた。
「今日は持てる」
美玖が写真の絵葉書を一枚取った。
「お母さんに」
店番をしていた女性が、それなら切手もあるよ、と言った。
「持って帰るので」
美玖が答えると、女性は、それも早いね、と笑った。
七緒は白紙の束を買った。俺は八重さんに頼まれたアイスの店の名前が書かれた、小さな島の案内を一枚もらった。
店を出たところで、志保さんの鞄から鍵の音がした。
財布を戻そうとして、留め金へ鍵の輪が引っかかったらしい。彼女は指を入れて外し、鍵を手の中へ収めた。
七緒が、落ちる、と言って足元を見た。
小さな銀色の輪だけが一つ、地面に転がっていた。
俺が拾って渡した。
「ありがとう。これ、緩んでたんだ」
志保さんは輪を元へ戻さず、財布の小銭のところへ入れた。
「家の?」
七緒が訊くと、志保さんは首を振った。
「亮太の部屋の。実家の引き出しに置いてあって、戻ってから母に渡された」
鍵の頭には小さな緑のカバーがついていた。
「返すつもりで、四月に外したままだった。これだけ、今日も持ってきてるの、変だね」
彼女は鞄の内ポケットへしまった。
「明日、連絡する」
七緒が、うん、と答えた。
それ以上、誰も訊かなかった。
アイスを食べたのは、十一時十五分だった。
船の出るところから、もう離れないことにした。売店の横の日陰へ座り、海を見ながら包みを開ける。
七緒はカップを選んだ。俺は棒のついたものにした。美玖は買う直前まで迷って、七緒と同じものを頼んだ。
志保さんは、いまなら食べられる、と小さい氷菓を選んだ。
千尋さんのは、先端にチョコレートが厚くついていた。
「一口目、難しい」
彼女が言うので、七緒が齧ってみればいいと答える。
齧ると、チョコレートが大きく一枚剥がれた。
千尋さんは手で受け止め、そのまま慌てて口へ入れた。
美玖が笑った。
「撮ればよかった」
「撮らなくていいよ、そういうの」
千尋さんも笑いながら言った。
美玖の電話が鳴った。画面を見ると、彼女はしばらく親指を止めた。
「お母さんから?」
七緒が訊く。
「昨日の卵」
美玖は画面を七緒へ見せた。俺にも見える向きだった。
上手にできたね。今度、うちでも作ってほしい。
その下に、楽しんできて、とあった。
七緒が頷いた。
「作ってあげる?」
「同じにできるか、分かんない」
美玖はアイスの匙を口へ入れ、電話を膝へ置いた。
千尋さんが、最初は一緒にやれば、と言った。
「お母さん、きっと、すごくうまいんでしょ」
「うん。でも、先に全部やっちゃうかも」
志保さんが、先に言っておけば、と答えた。
「今日は、見ててって」
美玖は頷いた。
少し考えてから、また電話を持った。
何を書いたかは見えなかった。送信したあと、彼女は鞄へしまい、残りのアイスを食べた。
七緒が買った白い絵葉書を出す。
「これ、みんなで一枚ずつ、何か書かない?」
千尋さんはチョコレートのついた指を見た。
「あとで洗ってから」
志保さんは、私は字しか書けない、と言った。
「字でいいよ。今日のこととか」
俺は一枚受け取った。白い紙は思ったより厚く、端が少しざらついていた。
「誰に出すんだ」
「まだ決めてない」
七緒は鉛筆を探した。
「じゃあ、書けたら交換する。誰に当たるか分からないやつ」
「何を書くか、先に考えたい」と志保さん。
七緒はそこでやっと、全員の顔を見た。
「やる?」
千尋さんが、手を洗ったら、ともう一度言った。
美玖は葉書を取った。
「私、猫」
七緒が頷き、消しゴムを半分、彼女のほうへ寄せた。
俺は船を描いた。
窓が多すぎて、途中から電車のようになった。下に波を描けばいいと思ったが、波の幅が揃わず、レールにも見えた。
七緒が覗いた。
「何か書けば分かるよ」
「船、って?」
「うん」
俺はそう書いた。
美玖の猫は、石垣の上で小さく丸まっていた。顔はなかった。千尋さんは今日の日付と、卵焼きは二回でうまくならない、と書いた。
志保さんの葉書には、島へ来るまでの船の揺れ方が、短い文章で書かれていた。最後に、帰りも乗るしかない、とある。
七緒は、展望台で見た風景を描いていた。
ベンチと、手すりと、その向こうの海。人は点のように小さかったが、五人分あった。
裏返して混ぜようとして、俺たちは全員、自分の描いたものを覚えていることに気づいた。
「覚えてても、取るのは裏からだから」
七緒が言った。
千尋さんが葉書を重ね、一番上から配った。
志保さんに猫。美玖に卵焼き。千尋さんに船。七緒には文章。
俺には七緒の絵が来た。
「私、これ、家で読む」
七緒は志保さんの葉書を鞄の底へ入れた。
「船で読むと、もっと酔いそうだから」
志保さんは、体験を書くと、そうなる、と答えた。
俺は絵をもう一度見た。
ベンチに二人、手すりのところに二人、少し離れたところに一人。
実際に五人がその配置にいた時間は、たぶん短かった。七緒はそのとき自分がいたところも描いていた。
「これ、俺?」
小さな点の一つを指すと、七緒が頷いた。
「鞄、大きいほう」
「そんなに大きくないだろ」
「いっぱい入ってるから」
否定はできなかった。
十一時五十分の船にも、五人で乗った。
今度は志保さんが、最初から窓の外を見る席を選んだ。千尋さんは隣で菓子パンの残りを食べ、美玖は電話をしまっていた。
七緒は俺の横に座り、島が離れていくのを見ていた。
「十八日の映画会も、行こうよ」
千尋さんが三つ先の席から顔を出した。
「何時からだっけ」
「六時。ご飯はその前に、向こうで買うのでもいいし」
俺は手帳を開いた。
志保さんは、私は大丈夫、と言った。美玖は母親に伝えておく、と答えた。
「私も。あ、ご飯、家の」
千尋さんは言いかけて、少し考えた。
「お父さんにも訊いてみる。一緒に来ればいいのか」
七緒が頷いた。
「卵焼き、持ってきてもらう?」
「映画のときには、もっと別のものがいい」
千尋さんの返事に、美玖が声を立てて笑った。
俺は十八日の欄へ、海辺の映画会、と書いた。
その前のページに、青い付箋があった。
九時十分。五人で船。
俺はその脇へ、小さく丸をつけた。もう消さず、そのまま閉じた。
船が揺れ、七緒の肩が俺の腕へ当たった。
「ごめん」
すぐに少し離れたが、次の波でまた戻ってきた。
俺は鞄を反対側へ動かした。
七緒は何も言わず、浮いていた肘を座席の端へ置いた。
港へ戻ったら、八重さんにアイスのことを伝える。センターに寄って、絵の具を取る。午後はそれぞれの用事がある。
今は、船が着くまで座っていればよかった。




