第八章 弁当箱を買いに
八月十二日
七緒が、俺の手帳から付箋を一枚剥がした。
「それ、まだ終わってない」
「知ってる。だから裏に移した」
黄色い付箋には、桐谷志保さんの帰宅経路、再確認、と書いてある。七緒はそれを表紙の裏に貼り、手帳の最後から青い付箋を取った。三日前に描いた船の上へ時刻を書き、空いた場所に貼る。
十五時四十分。五人で船。
船の下には、俺の字のアイスと、七緒の字の二本が残っていた。
「勝手に書くなよ」
「三日前から決まってます」
「覚えてる」
「その三時半の図書館って、何。船の横に書いてあるけど」
向かいの席で、美玖が小さく手を挙げた。
「私は船に一票」
「採決じゃない」
「じゃあ二票」
「増やせないんだよ」
美玖は挙げた手をそのまま伸ばし、俺の前にあった団扇を取った。十五歳で、俺たちより二つ年下。最初のころは、話しかけても短い返事しか返ってこないことが多かった。最近は、訊いてもいないことに答える。
町民センターの窓は全部開いている。昨日まで借りていた扇風機は、今朝、隣の部屋へ戻された。そこでは、先月亡くなったというおじいさんが、職員にスマートフォンの操作を習っている。さっきから同じ着信音が七回鳴っていた。
「志保さんは」
助けを求めると、志保さんは眼鏡を外して、鼻の上を指で押さえた。
「船は一日三便。図書館は六時まで。船が優先」
「正論が欲しかったわけじゃ」
「それは申し訳ない」
謝る気のない声だった。
窓際で路線図を畳んでいた千尋さんが、こちらを向く。
「その前に、一軒寄っていい?」
「どこに?」と七緒。
「うち」
千尋さんは帆布の鞄から、紺色の弁当箱を取り出した。
角が白く擦れている。留め具の片方がなく、蓋と本体が、緑色の輪ゴムで何重にも縛られていた。机に置くと、ことん、ではなく、かたかた、と底のどこかが鳴った。
「お父さんの。これを買い替えたいんだけど、同じ大きさじゃなきゃ嫌だとか言って。結局、今日も持っていこうとするから没収してきた」
「中身は?」
「別の容器に入れて渡したよ。私、そこまで鬼じゃない」
千尋さんは輪ゴムを外そうとして、爪を蓋の隙間に挟んだ。
「あ、痛っ」
「貸して」
七緒が受け取った。輪ゴムを引っ張らず、一本ずつ回して外す。
「こんなに巻いたら、お昼までに開かないよ」
「現場に工具あるし」
「弁当の開封に工具を使わせるな」
千尋さんが笑った。十九歳の彼女は、五人でいるとき、いちばんよく笑う。けれど家の話になると、そのあとが少し早口になる。
「あと、冷凍庫、ちょっと見てもらいたくて。買い物の量を決めたいんだよね」
俺は路線図から顔を上げた。
「お父さん、今日は何時に戻るんですか」
「十二時くらい。午後の現場が明日にずれたんだって」
「だったら、六月十七日のことをもう一度――」
机の下で、七緒の靴が俺の靴に当たった。
千尋さんは少し考え、頷いた。
「いいよ。いるうちに聞こう」
七緒を見ると、もう弁当箱の留め具を調べていた。目は合わなかった。
佐伯家の台所には、小さなカレンダーが二つあった。
一つは冷蔵庫の横。もう一つは食器棚の側面。どちらも同じ工務店のもので、海の写真の下に八月の日付が並んでいる。
冷蔵庫側には仕事の予定が書いてあった。食器棚側には、肉じゃが、鮭、カレー、と献立が埋まっている。月末の三十一日まで、ほとんど空欄がなかった。
「座ってて。麦茶出すから」
千尋さんは俺たちの返事を待たず、戸棚を開けた。
「いつもここ、あんまり人来ないんだ。椅子、そっちの部屋にもある」
七緒が椅子を取りに行き、美玖が戸棚から五つ目のコップを見つけた。志保さんは弁当箱を借りた定規で測っている。俺はテーブルの端に手帳を置いた。
冷蔵庫を開けた千尋さんが、動かなくなった。
「……あれ」
下の引き出しを閉め、もう一度開ける。
「何かない?」
七緒が椅子を抱えて戻ってきた。
「いや。あるんだけど」
冷凍庫の引き出しには、白い保存容器が隙間なく詰まっていた。蓋に貼ったテープに、鶏そぼろ、切り干し大根、ハンバーグ、と丸い字で書いてある。
「これ、下にも?」
志保さんが覗き込んだ。
「うん。そっちは主食」
「量は?」
「数えてない。毎日ちょっとずつだから」
美玖がしゃがみ、容器を一つ持ち上げた。その下にも同じものがあった。蓋の端から、薄い霜が落ちた。
「この冷蔵庫、取扱説明書ある?」
志保さんが訊く。
「容量なら、ここに書いてありますよ」
俺が側面のシールを指すと、志保さんは首を振った。
「容量じゃなくて、吹き出し口。ここまで詰めていいのか確認したい」
千尋さんが容器を戻しかけたところで、玄関の引き戸が開いた。
「ただいま」
お父さんは作業着の袖を肘までまくり、片手にコンビニの袋を持っていた。俺たちを見ると、少しだけ顎を引いた。
「お世話になってます」
「こちらこそ」と志保さんが答えた。
誰が誰の世話をしているのか、俺にはまだうまく分からない。
「お父さん、冷凍庫さ」
「ああ、言おうと思ってた」
袋がテーブルに置かれた。カップ麺が二つ、透けて見えた。
「もう入らんぞ」
「上を空ければ、もう少し入るよ」
「アイスを捨てるなよ」
「捨てない。食べる」
「俺の分までか」
千尋さんは返事をせず、冷凍庫を閉めた。
お父さんは流しで手を洗うと、輪ゴムの外れた弁当箱を見つけた。持ち上げて、蓋を押さえる。
「これ、ここでよかったのか。朝、探した」
「だから、もう替えるって言ったでしょ」
「まだ使える」
「勝手に開く弁当箱を、使えるって言わない」
お父さんは壊れた留め具を親指で撫でた。
「これでいいんだよ」
千尋さんが、冷凍庫の取っ手から手を離した。
「……私がいるうちに、新しいの選ぼうよ」
台所が静かになった。
お父さんは弁当箱を置き、俺の手帳を見た。
「何か、分かりましたか」
俺は椅子を引いた。
六月十七日。千尋さんが帰ってこなかった日。
彼女が働いていたパン屋を出たのは、午後六時十分。お父さんと電話で話したのが六時二十三分。
翌朝には警察へ届けが出され、三日後、町の外れで遺体が見つかった。
八月一日の午前零時、千尋さんが戻ったのは、遺体の発見場所ではなかった。駅の東側、閉店した洋品店の軒下だった。
帰還者は、生前最後に意識のあった場所へ戻ってくる。前年の八月から七月末までに亡くなった人たちが、八月一日の午前零時に一度だけ。八月が終わる零時には、全員が去る。
研修で教わるより前から、俺たちが知っていることの一つだ。支援室には、今年の帰還先を記した町の地図が貼ってある。病室や自宅の印が多い。その中に、橋の下や道路の脇の印も混じる。
千尋さんは、洋品店の庇の下で、雨の止むのを待っていたことを覚えていた。鞄を足元に置いた。その先は覚えていない。
彼女の家は、駅の西側にある。
「東口へ行った理由、何か聞いてませんか」
お父さんは、俺が差し出した地図を見た。
「警察にも話しましたけど、駅に着いたって言ってました。それだけで」
「普段、東側のお店を使うことは」
「買い物なら、こっちのスーパーですし」
千尋さんも頷いた。
「雨だったし。帰りに何か買うつもりなら、電話で言ったと思う」
テーブルの下で、美玖が弁当箱の輪ゴムを拾っていた。お父さんが受け取り、片手でまとめて引き出しに入れる。
「電話のとき、後ろで誰かの声はしませんでしたか。呼びかけるような声とか」
お父さんは目を閉じた。
時計の秒針が進んだ。台所の窓から、隣の家のテレビの音が入ってくる。
「……すみません。何も」
「いえ。こちらこそ、何度も」
俺はその質問の横に、小さく横線を引いた。
「あのさ」
美玖が言った。
「電話、事件と関係ない話はしなかったんですか」
お父さんは、目を開けた。
「関係ない話?」
「うん。何でも」
千尋さんが、美玖を見た。
お父さんはしばらく考え、それから、弁当箱の方へ視線を向けた。
「……飯の話なら」
俺は手帳の新しい行に、ペン先を移した。
「弁当箱が開いたんですよ。昼に。落としたわけじゃなくて、持ち上げたら、こう」
お父さんが、空の弁当箱を持つ形を作る。
「半分くらい、こぼして」
「それ、聞いた」
千尋さんが言った。
「覚えてる。お昼足りた、って訊いたんだ。そしたらパン食べたって」
「うん」
「あの留め具、あの日に折れたんだっけ」
お父さんは頷いた。
「ああ。おまえが帰ってこなくて、それからは、外で買うようになったから」
使わなくなった紺色の箱は、六月のまま台所に置かれていた。八月になって千尋さんが洗い、輪ゴムをかけ、また弁当を詰め始めた。
「私、弁当箱を買いに行ったのかな」
千尋さんは、地図を引き寄せた。
「東口の、マツイさん。あそこ、前から行こうと思ってた。お父さんのこれ、洗いにくいから。蓋の溝が細くて」
洋品店の二軒先に、家庭用品店がある。駅からそちらへ歩けば、庇の下を通る。
「……俺が、買ってきてくれって言ったか?」
お父さんの声が変わった。
千尋さんはすぐ首を振った。
「言わないよ。今だって、まだ使えるって言ってるんだから」
「でも、あのとき」
「私が洗いにくかったの」
彼女は弁当箱を自分の方へ引いた。
「お父さん、ここの角、洗ったことないでしょ。ここ。指、入らないじゃん」
指先を角に押し込もうとして、やっぱり入らず、爪でこつこつ叩いた。
お父さんは何も言わなかった。
俺は地図に薄く鉛筆の線を引いた。
「お店にも確認します。買いに行ったかどうかは、まだ決まったわけじゃありません。警察の宮内さんにも、この話を伝えます」
千尋さんが、俺の鉛筆を見ていた。
「私が変なところに寄り道してた、って書いてあったの?」
「変なところとは」
「じゃあ、何て?」
隠しても仕方がない。手帳を見せる。
東口へ移動。理由不明。
「そっか」
千尋さんは少し笑って、お父さんの弁当箱を鞄にしまった。
「買いに行こう。今日はちゃんと」
駅の東口へは行かなかった。
同じ店でなくてもいい、と千尋さんが言った。六月十七日の買い物と、今日の買い物を続けて扱っていいものか、俺にも分からなかった。
商店街の雑貨店で、五人は弁当箱の棚の前に並んだ。
志保さんが容量を確認し、千尋さんが蓋を外し、七緒が留め具を試す。美玖は、箱の底に貼られた値札を読む係になった。
「これ、二千八百円」
「戻して」と千尋さんが言う。
俺は手にした箱を棚へ戻した。
「見る前に却下ですか」
「お父さん、それ聞いたら使わないもん」
「値段は黙っとけばいい」
「そういう嘘、下手なんだよ。私」
七緒がこちらを見た。
「航はできそう」
「どういう意味だ」
「二千八百円、って言わずに、長く使えるから一年あたり二百八十円、とか言いそう」
「十年使うならそうなるだろ」
三人が同時に笑った。美玖だけが、少し遅れて笑った。
「分かってて踏んだ?」
「今、何も考えてなかった」
「珍しい」
七緒は、深緑の弁当箱を千尋さんへ渡した。蓋も仕切りも外せる、何の模様もない箱だった。
「これなら?」
千尋さんは隅に指を入れた。四つの角を、一つずつ確かめた。
「うん。これがいい」
俺は、彼女が洗いやすいと言った角を見ていた。
美玖が横から、同じシリーズの小さい箱を重ねる。
「果物入れるやつも」
「いらないって言うと思う」
「何で?」
「なくすから」
「ひもで繋ぐ?」
「犬の散歩じゃないんだから」
千尋さんは笑って、小さい方も籠に入れた。
店を出るとき、志保さんが台所用品の棚へ戻った。卵焼き用の小さなフライパンを見ている。
「家の、まだ使えますよ」
千尋さんが言うと、志保さんは少し困った顔で戻ってきた。
「いや。四角いんだと思って」
全員が志保さんを見た。
「……何」
「志保さん、卵焼きは?」
「食べる」
「作る方」
「丸いフライパンで、折ればできると思ってた」
「できるよ」と千尋さんが言った。
志保さんが、ほっとした顔をする。
「巻くのは?」と七緒。
「巻く」
「作ったことは?」
「ない」
美玖が俺の肩に軽く肘を当てた。
「航と一緒だ」
「俺はある」
「丸くなった?」
俺は答えなかった。
佐伯家へ戻ると、お父さんが、冷凍庫から容器を出していた。
「何してるの」
千尋さんが玄関から走った。
「今日はこれ食べようと思って」
「それ、今日のじゃない」
テーブルに四角い容器が並んでいた。鶏そぼろ。ひじき。蓋には献立と、九月一日、の文字があった。
俺はそこで初めて、あの大量の作り置きが、今月のものではないと分かった。
「今日のは、ほら、冷蔵庫にあるでしょ」
「そっちは晩でいいだろう」
「それだと足りなくなる」
千尋さんは容器を重ね、冷凍庫へ戻そうとした。お父さんが、まだ開いていた引き出しを押さえる。
「千尋」
「九月って、三十日あるんだよ。一日二回でも六十回でしょ。だから――」
言いながら、自分で数が大きすぎると思ったのか、声が小さくなった。
七緒が買い物袋を床へ置いた。
「朝もあるよ」
千尋さんが振り返る。
「朝は」
「十月もある」
七緒は冷凍庫の前にしゃがみ、傾いた容器を直した。
「こっちだけで全部、用意できないよ」
千尋さんは蓋の文字を見ていた。
九月一日。
お父さんが、七緒の横から引き出しを閉めた。千尋さんの持っている一つだけが、戻せずに残った。
「弁当を」
お父さんは、買ったばかりの箱を取り出した。
「俺にも、詰められるようにしてくれ」
「詰めるのはできるじゃん。だから作っておいて」
「中身から」
台所の時計は、一時二十分を過ぎていた。
「でも、お父さん、卵焼きも」
「うん」
「お味噌汁だって、あれ、袋の」
「うん」
「何も作れないじゃん」
お父さんは頷いた。
「だから、おまえに訊いてる」
千尋さんが、鼻で短く息を吸った。
俺は立ち上がった。
「今日、やりませんか。みんなで。簡単なものを、三つくらい」
お父さんが顔を上げる。千尋さんが、腕に抱いた容器を見下ろした。
「卵なら、ある」
美玖が冷蔵庫を開けた。志保さんが買い物袋を片づけ、七緒はコップを流しへ運んだ。
俺は手帳を開き、必要そうなものを書き出した。
「航。ちょっと」
七緒に呼ばれ、廊下へ出る。
「船、どうするの」
「まだ二時間ある」
「料理して、片づけて、港まで行くんだよ」
「間に合わなかったら、別の日に」
七緒が黙った。
台所では、千尋さんが卵のパックを開けていた。お父さんが流しの前に立ち、誰かがその手元へタオルを渡す。
「今は、こっちを先にした方がいいだろ」
俺は声を落とした。
「あの三人には、今年しかないんだから」
七緒は台所を見た。それから俺を見た。
「私が船に乗りたいだけだと思ってる?」
「そういう意味じゃ」
「千尋さん、何でも引き受けるから、今日は家から連れ出そうって言ったの、誰」
俺だった。
三日前、家の料理をしに帰ろうとした千尋さんを、五人で船へ行こうと誘った。
俺が書き写した時刻を七緒と確かめた。美玖が乗り場の写真を送ってきた。志保さんは帰りのバスを確認した。
「……覚えてる」
「じゃあ、今言って」
「何を」
「船のこと。全員に。どうするか、みんなで決めればいいじゃん」
七緒は俺の横を通り、台所へ戻った。
俺も戻った。
「すみません。先に、船の相談していいですか」
千尋さんが、卵を持ったまま振り向く。
「行きたい」
即答だった。
「行きたいけど、今日こっちもやりたい。駄目?」
俺が答えるより先に、美玖が窓を開けた。
「じゃあ、両方やろうとしてみる」
志保さんがスマートフォンを伏せた。
「間に合わなかったとき、誰のせいにもしない。それなら」
最後に七緒を見る。
「卵焼きだけじゃ、お弁当寂しいから。赤いもの、何かある?」
千尋さんは頷き、冷蔵庫を開けた。
卵焼きには、卵を使う。
俺とお父さんの知識は、そのあたりで止まっていた。
「砂糖、どのくらい?」
「ちょっと」
千尋さんが答える。
「ちょっとって、このくらいか」
「多い多い多い」
父親の手首を両手で掴み、計量スプーンを水平に戻す。
「じゃあ、先に量を言えよ」
「普段、測ってないもん」
志保さんが、借りたメモ帳に書き込んだ。
砂糖、ちょっと。
「それ、書き残す意味あります?」
俺が言うと、志保さんは、ちょっと、の部分に線を引いた。
「今から確定する」
七緒が計量スプーンを洗い、美玖が卵を割った。殻のかけらが一つ、ボウルに落ちた。
「入った」と俺。
「見えてる」と美玖。
「そこ」
「だから、見えてる」
箸の先から、白身に包まれた殻が逃げる。
「こっち側から挟んだ方が」
美玖が無言で箸を差し出した。
受け取って、俺も三回逃がした。
「実況、してあげようか」
「結構です」
千尋さんが、小さなスプーンで殻をすくった。
「出ましたー。次、混ぜるよ」
お父さんは、菜箸をボウルの底へ突き立てるようにしてかき混ぜた。黄色い液が縁まで上がり、シャツに一滴飛んだ。
「そんな力いらない」
「加減が分からん」
「もっと、手首だけで。あ、もういい、私が」
千尋さんが手を伸ばす。
お父さんはボウルを放さなかった。
「見ててくれ」
千尋さんの手が止まる。
「これなら、いいか」
今度はゆっくり、菜箸を動かした。
千尋さんは、父親の隣に立ったまま頷いた。
「うん。あと、白いとこ切る感じで」
七緒が俺に、まな板とウインナーの袋を渡した。
「切って」
「どう切るんだ」
「食べやすく」
「それじゃ、さっきの砂糖と同じだろ」
七緒は一本取り出し、両端から包丁を入れた。まな板の上で転がすと、四本の脚が開いた。
「こう」
「普通の切り方でいいだろ」
「せっかく六人いるんだから、作業、あった方がいいじゃん」
一本渡された。俺は黙って包丁を持った。
俺の作ったものは、炒めると脚が一本取れた。
美玖はそれを、自分の分に取っておいた。
最初の卵焼きは、巻く途中で真ん中から切れた。お父さんが慌てて箸で押し、端が焦げた。
「火、止めていいよ」
千尋さんが言った。
「途中で?」
「困ったら止めて。焦げるから」
お父さんがつまみを戻した。音が少しずつ弱くなり、やがて消えた。
千尋さんは箸で、二つに分かれた卵を寄せた。
「こっちを上に置いて、もう一回。火をつけるのは、それからでいい」
志保さんがメモを取る。美玖がその横に、小さなフライパンの絵を描いた。取っ手が不自然に長かった。
「これ、武器みたい」と七緒。
「火から遠い方が安全でしょ」
「台所に入らないよ」
お父さんの二回目は、片側だけ細くなった。
三回目に使う卵を出すとき、千尋さんは冷蔵庫の中をしばらく見ていた。それから、大きいパックを全部出した。
「じゃあ、みんな一回ずつやろう。お昼にするには足りないし」
俺は、自分だけは少しうまくできると思っていた。
結果は、お父さんよりも巻く回数が一回少なく、焦げた面積が大きかった。
志保さんは最初から火を弱めていた。そのせいか、待っても待っても端が固まらず、六人でフライパンを覗き込むことになった。
七緒は、いちばん勢いよく巻き、いちばん大きく破いた。
「今のはさ」
七緒が口を開く。
俺は何も言わずに見た。
「……何でもない」
千尋さんは流しに手をついて笑った。お父さんまで、少し俯いて笑っていた。
美玖は皆の失敗を見たあとで作ったので、いちばんまともな形になった。
「後の方が有利だろ」と俺は言った。
「だから、後にした」
返す言葉がなかった。
それぞれの卵焼きを、まな板の上で切った。
お父さんの二回目は、思ったより中が黄色かった。両端を切り落とすと、弁当箱に入れられる四切れになった。
「これでいい?」
お父さんが娘に訊く。
千尋さんは切り落とした端の部分を食べた。口を閉じたまま頷き、それから、もう一切れ取りかけた。
「味見でなくなるぞ」
お父さんに言われ、引っ込めた。
「ちょっとしょっぱい」
「じゃあ、次は減らす」
「うん」
志保さんのメモを、お父さんが引き寄せた。醤油の量に線を引き、横に、もう少しへらす、と書いた。
志保さんが何か言いかけて、やめた。
ご飯と、卵焼きと、ウインナー。隙間には、今朝、千尋さんが茹でたブロッコリーを入れた。
最初、お父さんはご飯を端からぎゅうぎゅうに押し込んだ。千尋さんが少し戻し、美玖がそこへブロッコリーを立てた。
「そんな木みたいに」
「倒すと入らない」
深緑の弁当箱が埋まった。
買ったときよりも、少しだけ小さく見えた。
「お父さん、蓋、閉めてみて」
両側の留め具が、ぱちん、ぱちん、と鳴った。
千尋さんはその音を聞いてから、台所の時計を見た。
三時二十六分。
「……港、遠いよね」
「歩いて二十五分」と志保さんが答えた。
俺は手帳を開いた。青い付箋の、十五時四十分、が目に入る。
「送るか」
お父さんが言った。
「軽トラで?」
千尋さんに訊かれて、お父さんは五人の顔を順番に見た。
「……一人しか乗れんか」
誰か一人だけ船に乗っているところを想像したらしく、美玖が笑った。
「誰が行く?」
「誰も行かないよ」と七緒。
俺は手帳を閉じた。
「港まで、食べに行きませんか。船には乗れないけど」
七緒の顔を見て、それから、三人を見た。
千尋さんが、新しい弁当箱を抱えた。
「これ、私が持っていっていい?」
お父さんは頷いた。
「俺は、そっちの皿のでいい」
台所には、形の揃わない卵焼きが山になっていた。
残りの弁当を詰め、借りた器を洗い終えるころには、四時近くになっていた。
玄関で、美玖が靴の踵を踏んでいる。志保さんが弁当の入った保冷袋を持ち、七緒は落ちそうになった団扇を鞄へ押し込んでいた。
千尋さんが、台所へ戻った。
忘れ物かと思って顔を向けると、お父さんが流しの前に立っていた。卵焼きのフライパンを洗っている。
「スポンジ、柔らかい方で洗ってね」
「分かってる」
「分かってなさそうだった」
千尋さんは食器棚のカレンダーの前で立ち止まった。八月十三日の欄には、豚肉の生姜焼き、と書いてあった。
「明日の朝も、やってみる?」
お父さんの手が止まった。
「おまえ、出かけるんじゃないのか」
「朝。仕事行く前」
「起きられるか」
「起こしてよ」
お父さんはフライパンを伏せた。
「六時だぞ」
「六時半」
「間に合わん」
「……じゃあ、六時十分」
お父さんが笑った。
千尋さんはカレンダーを外して、鉛筆を探した。生姜焼きの文字を消そうとして、少し考え、消さずに、その横へ小さく書き足した。
父の卵。
その下に、自分で、焼き、と付け加える。
「千尋さん、置いていくよ」
七緒が玄関から声をかけた。
「今行く」
千尋さんはカレンダーを元に戻した。
お父さんが、九月一日と書かれた保存容器を持ち上げる。
「こっちも、食べていいんだろう」
「うん。でも、一回に全部食べないで」
「そんなには食わん」
「食べるじゃん、お父さん」
言いながら、彼女はサンダルを履いた。
港の待合所は、開いたままだった。
係の人はもういない。窓口には本日の運航終了の札が出ている。ガラスの向こうに、五人で渡るはずだった島が見えた。
海沿いの低い堤防に腰を下ろし、保冷袋を開けた。日陰は少なかったけれど、台所より風が通る。
「悪かった」
七緒に言うと、彼女は割り箸を五膳、膝の上に並べた。
「どれが?」
「相談しなかったこと」
七緒は箸を二つに割った。片方が、途中から妙に細くなった。
「これ、航の」
「おまえの失敗だろ」
「知ってる」
受け取った。
七緒はもう一膳割り、今度はまっすぐにできた方を、何も言わずに俺へ差し出した。俺が持っていた細い箸を取る。
「千尋さんに訊けば、よかっただけじゃん」
「うん」
「あの人、船に乗りたいし、お父さんと料理もしたいんだから」
七緒は蓋を開けた。
俺も弁当を開ける。
自分で作った卵焼きが入っていた。
「誰が詰めた?」
「責任を持ってお食べください」
七緒の弁当にも、大きく破れたものが入っていた。文句は言えなかった。
美玖は、五つの弁当を写真に撮ろうとしている。全員が少しずつ箱を寄せた。脚の取れたウインナーまで、真ん中に置かれた。
「待って、私の、まだ」
千尋さんが深緑の箱を開けた。
ご飯の横に、お父さんが作った四切れが並んでいる。ブロッコリーは運ぶ間に倒れ、一本だけ、ご飯の上に転がっていた。
千尋さんはそれを、元に戻さなかった。
写真を撮り終えると、各自の弁当が膝へ戻った。
「いただきます」
美玖が一口食べ、何か言いたそうに俺を見た。
「ウインナーは味、変わらないだろ」
「うん。よかったね」
志保さんが吹き出しかけて、麦茶を飲んだ。
千尋さんは卵焼きを食べていた。
一口では入らなかったらしく、半分噛んで、残りを箸で持っている。海を見て、もう半分を口へ入れた。
「どうですか」
俺が訊くと、頷いた。
「しょっぱい」
少し間を置いて、もう一度頷いた。
「私のより、しょっぱい」
七緒は何も訊かず、麦茶のボトルを彼女のそばへ置いた。
千尋さんは鼻をすすり、膝の上の弁当を持ち直した。
「……お父さんの卵焼き、初めて食べた」
美玖が、自分の箸を置いた。
「高校でお弁当作るようになって、お父さんの分も一緒に作ってたから。自分がやった方が早いし、台所汚されるの嫌だったし」
千尋さんは箸先で、卵焼きの焦げた端を触った。
「ちゃんと、一人分作れたね」
志保さんが、膝の上で自分の弁当箱を傾けた。千尋さんが顔を上げる。
「私のと交換する?」
志保さんの卵は、薄く折り畳まれていた。
千尋さんは、鼻を押さえたまま笑った。
「やだ」
「そう」
志保さんも笑い、自分の分を食べた。
美玖は写真を送っていた。画面の上に、お母さん、という文字が見えた。何かを打ちかけて消し、もう一度打つ。
「お母さんに?」
七緒が訊く。
「うん」
美玖は画面を伏せた。
「卵焼き、できたから」
七緒は頷いて、ウインナーを一つ彼女へ渡した。
千尋さんも携帯電話を出した。新しい弁当箱を、自分の側から撮る。しばらく画面を見てから、送信のボタンを押した。
ほどなく、短い音が鳴った。
「何て?」
美玖が身を寄せる。
千尋さんは画面を見せた。
『明日、砂糖は増やすか』
千尋さんは首を振り、返事を打った。
『今日と同じでいい』
送ってから、もう一通。
『醤油はへらして』
今度は五人とも笑った。
俺は空になった弁当箱を膝から下ろした。手帳を出し、今日のページを開く。
六月十七日の電話。弁当箱の破損。東口の店へ確認。
忘れないうちに書き足してから、青い付箋に手をかけた。
「それ、捨てないでよ」
七緒が言った。
「捨てない。明日に移す」
「その時間、千尋さん、買い物じゃない?」
俺は手を止めた。千尋さんを見る。
「明日は、午前中なら空いてる」
「私も」と美玖。
志保さんが、鞄から船の時刻表を出した。端が少し折れていた。
「九時十分。帰りは十一時五十分。これなら」
七緒を見ると、麦茶を飲みながら頷いた。
十五時四十分、を消して、九時十分、と書く。明日のページの、いちばん上に貼った。
五人で船。
「航、今度遅れたら、置いてくから」
「俺が遅れたことあったか」
「来るのは早いんだよ。いつも。そこから別のこと始めるんだよ」
美玖が、うんうん、と頷いた。
志保さんまで頷いたので、俺は何も言えなくなった。
千尋さんは最後の卵焼きを食べていた。箸で弁当箱の隅をさらい、米粒を一つ拾って、口へ入れる。
蓋を閉める音が二つした。
ぱちん、ぱちん。
輪ゴムはいらなかった。




