↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/21

第八章 弁当箱を買いに


八月十二日



 七緒が、俺の手帳から付箋を一枚剥がした。


「それ、まだ終わってない」

「知ってる。だから裏に移した」


 黄色い付箋には、桐谷志保さんの帰宅経路、再確認、と書いてある。七緒はそれを表紙の裏に貼り、手帳の最後から青い付箋を取った。三日前に描いた船の上へ時刻を書き、空いた場所に貼る。


 十五時四十分。五人で船。


 船の下には、俺の字のアイスと、七緒の字の二本が残っていた。


「勝手に書くなよ」

「三日前から決まってます」

「覚えてる」

「その三時半の図書館って、何。船の横に書いてあるけど」


 向かいの席で、美玖が小さく手を挙げた。


「私は船に一票」

「採決じゃない」

「じゃあ二票」

「増やせないんだよ」


 美玖は挙げた手をそのまま伸ばし、俺の前にあった団扇を取った。十五歳で、俺たちより二つ年下。最初のころは、話しかけても短い返事しか返ってこないことが多かった。最近は、訊いてもいないことに答える。


 町民センターの窓は全部開いている。昨日まで借りていた扇風機は、今朝、隣の部屋へ戻された。そこでは、先月亡くなったというおじいさんが、職員にスマートフォンの操作を習っている。さっきから同じ着信音が七回鳴っていた。


「志保さんは」


 助けを求めると、志保さんは眼鏡を外して、鼻の上を指で押さえた。


「船は一日三便。図書館は六時まで。船が優先」

「正論が欲しかったわけじゃ」

「それは申し訳ない」


 謝る気のない声だった。


 窓際で路線図を畳んでいた千尋さんが、こちらを向く。


「その前に、一軒寄っていい?」

「どこに?」と七緒。

「うち」


 千尋さんは帆布の鞄から、紺色の弁当箱を取り出した。


 角が白く擦れている。留め具の片方がなく、蓋と本体が、緑色の輪ゴムで何重にも縛られていた。机に置くと、ことん、ではなく、かたかた、と底のどこかが鳴った。


「お父さんの。これを買い替えたいんだけど、同じ大きさじゃなきゃ嫌だとか言って。結局、今日も持っていこうとするから没収してきた」

「中身は?」

「別の容器に入れて渡したよ。私、そこまで鬼じゃない」


 千尋さんは輪ゴムを外そうとして、爪を蓋の隙間に挟んだ。


「あ、痛っ」

「貸して」


 七緒が受け取った。輪ゴムを引っ張らず、一本ずつ回して外す。


「こんなに巻いたら、お昼までに開かないよ」

「現場に工具あるし」

「弁当の開封に工具を使わせるな」


 千尋さんが笑った。十九歳の彼女は、五人でいるとき、いちばんよく笑う。けれど家の話になると、そのあとが少し早口になる。


「あと、冷凍庫、ちょっと見てもらいたくて。買い物の量を決めたいんだよね」


 俺は路線図から顔を上げた。


「お父さん、今日は何時に戻るんですか」

「十二時くらい。午後の現場が明日にずれたんだって」

「だったら、六月十七日のことをもう一度――」


 机の下で、七緒の靴が俺の靴に当たった。


 千尋さんは少し考え、頷いた。


「いいよ。いるうちに聞こう」


 七緒を見ると、もう弁当箱の留め具を調べていた。目は合わなかった。



 佐伯家の台所には、小さなカレンダーが二つあった。


 一つは冷蔵庫の横。もう一つは食器棚の側面。どちらも同じ工務店のもので、海の写真の下に八月の日付が並んでいる。


 冷蔵庫側には仕事の予定が書いてあった。食器棚側には、肉じゃが、鮭、カレー、と献立が埋まっている。月末の三十一日まで、ほとんど空欄がなかった。


「座ってて。麦茶出すから」


 千尋さんは俺たちの返事を待たず、戸棚を開けた。


「いつもここ、あんまり人来ないんだ。椅子、そっちの部屋にもある」


 七緒が椅子を取りに行き、美玖が戸棚から五つ目のコップを見つけた。志保さんは弁当箱を借りた定規で測っている。俺はテーブルの端に手帳を置いた。


 冷蔵庫を開けた千尋さんが、動かなくなった。


「……あれ」


 下の引き出しを閉め、もう一度開ける。


「何かない?」


 七緒が椅子を抱えて戻ってきた。


「いや。あるんだけど」


 冷凍庫の引き出しには、白い保存容器が隙間なく詰まっていた。蓋に貼ったテープに、鶏そぼろ、切り干し大根、ハンバーグ、と丸い字で書いてある。


「これ、下にも?」


 志保さんが覗き込んだ。


「うん。そっちは主食」

「量は?」

「数えてない。毎日ちょっとずつだから」


 美玖がしゃがみ、容器を一つ持ち上げた。その下にも同じものがあった。蓋の端から、薄い霜が落ちた。


「この冷蔵庫、取扱説明書ある?」


 志保さんが訊く。


「容量なら、ここに書いてありますよ」


 俺が側面のシールを指すと、志保さんは首を振った。


「容量じゃなくて、吹き出し口。ここまで詰めていいのか確認したい」


 千尋さんが容器を戻しかけたところで、玄関の引き戸が開いた。


「ただいま」


 お父さんは作業着の袖を肘までまくり、片手にコンビニの袋を持っていた。俺たちを見ると、少しだけ顎を引いた。


「お世話になってます」

「こちらこそ」と志保さんが答えた。


 誰が誰の世話をしているのか、俺にはまだうまく分からない。


「お父さん、冷凍庫さ」

「ああ、言おうと思ってた」


 袋がテーブルに置かれた。カップ麺が二つ、透けて見えた。


「もう入らんぞ」

「上を空ければ、もう少し入るよ」

「アイスを捨てるなよ」

「捨てない。食べる」

「俺の分までか」


 千尋さんは返事をせず、冷凍庫を閉めた。


 お父さんは流しで手を洗うと、輪ゴムの外れた弁当箱を見つけた。持ち上げて、蓋を押さえる。


「これ、ここでよかったのか。朝、探した」

「だから、もう替えるって言ったでしょ」

「まだ使える」

「勝手に開く弁当箱を、使えるって言わない」


 お父さんは壊れた留め具を親指で撫でた。


「これでいいんだよ」


 千尋さんが、冷凍庫の取っ手から手を離した。


「……私がいるうちに、新しいの選ぼうよ」


 台所が静かになった。


 お父さんは弁当箱を置き、俺の手帳を見た。


「何か、分かりましたか」


 俺は椅子を引いた。



 六月十七日。千尋さんが帰ってこなかった日。


 彼女が働いていたパン屋を出たのは、午後六時十分。お父さんと電話で話したのが六時二十三分。


 翌朝には警察へ届けが出され、三日後、町の外れで遺体が見つかった。


 八月一日の午前零時、千尋さんが戻ったのは、遺体の発見場所ではなかった。駅の東側、閉店した洋品店の軒下だった。


 帰還者は、生前最後に意識のあった場所へ戻ってくる。前年の八月から七月末までに亡くなった人たちが、八月一日の午前零時に一度だけ。八月が終わる零時には、全員が去る。


 研修で教わるより前から、俺たちが知っていることの一つだ。支援室には、今年の帰還先を記した町の地図が貼ってある。病室や自宅の印が多い。その中に、橋の下や道路の脇の印も混じる。


 千尋さんは、洋品店の庇の下で、雨の止むのを待っていたことを覚えていた。鞄を足元に置いた。その先は覚えていない。


 彼女の家は、駅の西側にある。


「東口へ行った理由、何か聞いてませんか」


 お父さんは、俺が差し出した地図を見た。


「警察にも話しましたけど、駅に着いたって言ってました。それだけで」

「普段、東側のお店を使うことは」

「買い物なら、こっちのスーパーですし」


 千尋さんも頷いた。


「雨だったし。帰りに何か買うつもりなら、電話で言ったと思う」


 テーブルの下で、美玖が弁当箱の輪ゴムを拾っていた。お父さんが受け取り、片手でまとめて引き出しに入れる。


「電話のとき、後ろで誰かの声はしませんでしたか。呼びかけるような声とか」


 お父さんは目を閉じた。


 時計の秒針が進んだ。台所の窓から、隣の家のテレビの音が入ってくる。


「……すみません。何も」

「いえ。こちらこそ、何度も」


 俺はその質問の横に、小さく横線を引いた。


「あのさ」


 美玖が言った。


「電話、事件と関係ない話はしなかったんですか」


 お父さんは、目を開けた。


「関係ない話?」

「うん。何でも」


 千尋さんが、美玖を見た。


 お父さんはしばらく考え、それから、弁当箱の方へ視線を向けた。


「……飯の話なら」


 俺は手帳の新しい行に、ペン先を移した。


「弁当箱が開いたんですよ。昼に。落としたわけじゃなくて、持ち上げたら、こう」


 お父さんが、空の弁当箱を持つ形を作る。


「半分くらい、こぼして」

「それ、聞いた」


 千尋さんが言った。


「覚えてる。お昼足りた、って訊いたんだ。そしたらパン食べたって」

「うん」

「あの留め具、あの日に折れたんだっけ」


 お父さんは頷いた。


「ああ。おまえが帰ってこなくて、それからは、外で買うようになったから」


 使わなくなった紺色の箱は、六月のまま台所に置かれていた。八月になって千尋さんが洗い、輪ゴムをかけ、また弁当を詰め始めた。


「私、弁当箱を買いに行ったのかな」


 千尋さんは、地図を引き寄せた。


「東口の、マツイさん。あそこ、前から行こうと思ってた。お父さんのこれ、洗いにくいから。蓋の溝が細くて」


 洋品店の二軒先に、家庭用品店がある。駅からそちらへ歩けば、庇の下を通る。


「……俺が、買ってきてくれって言ったか?」


 お父さんの声が変わった。


 千尋さんはすぐ首を振った。


「言わないよ。今だって、まだ使えるって言ってるんだから」

「でも、あのとき」

「私が洗いにくかったの」


 彼女は弁当箱を自分の方へ引いた。


「お父さん、ここの角、洗ったことないでしょ。ここ。指、入らないじゃん」


 指先を角に押し込もうとして、やっぱり入らず、爪でこつこつ叩いた。


 お父さんは何も言わなかった。


 俺は地図に薄く鉛筆の線を引いた。


「お店にも確認します。買いに行ったかどうかは、まだ決まったわけじゃありません。警察の宮内さんにも、この話を伝えます」


 千尋さんが、俺の鉛筆を見ていた。


「私が変なところに寄り道してた、って書いてあったの?」

「変なところとは」

「じゃあ、何て?」


 隠しても仕方がない。手帳を見せる。


 東口へ移動。理由不明。


「そっか」


 千尋さんは少し笑って、お父さんの弁当箱を鞄にしまった。


「買いに行こう。今日はちゃんと」



 駅の東口へは行かなかった。


 同じ店でなくてもいい、と千尋さんが言った。六月十七日の買い物と、今日の買い物を続けて扱っていいものか、俺にも分からなかった。


 商店街の雑貨店で、五人は弁当箱の棚の前に並んだ。


 志保さんが容量を確認し、千尋さんが蓋を外し、七緒が留め具を試す。美玖は、箱の底に貼られた値札を読む係になった。


「これ、二千八百円」

「戻して」と千尋さんが言う。


 俺は手にした箱を棚へ戻した。


「見る前に却下ですか」

「お父さん、それ聞いたら使わないもん」

「値段は黙っとけばいい」

「そういう嘘、下手なんだよ。私」


 七緒がこちらを見た。


「航はできそう」

「どういう意味だ」

「二千八百円、って言わずに、長く使えるから一年あたり二百八十円、とか言いそう」

「十年使うならそうなるだろ」


 三人が同時に笑った。美玖だけが、少し遅れて笑った。


「分かってて踏んだ?」

「今、何も考えてなかった」

「珍しい」


 七緒は、深緑の弁当箱を千尋さんへ渡した。蓋も仕切りも外せる、何の模様もない箱だった。


「これなら?」


 千尋さんは隅に指を入れた。四つの角を、一つずつ確かめた。


「うん。これがいい」


 俺は、彼女が洗いやすいと言った角を見ていた。


 美玖が横から、同じシリーズの小さい箱を重ねる。


「果物入れるやつも」

「いらないって言うと思う」

「何で?」

「なくすから」

「ひもで繋ぐ?」

「犬の散歩じゃないんだから」


 千尋さんは笑って、小さい方も籠に入れた。


 店を出るとき、志保さんが台所用品の棚へ戻った。卵焼き用の小さなフライパンを見ている。


「家の、まだ使えますよ」


 千尋さんが言うと、志保さんは少し困った顔で戻ってきた。


「いや。四角いんだと思って」


 全員が志保さんを見た。


「……何」

「志保さん、卵焼きは?」

「食べる」

「作る方」

「丸いフライパンで、折ればできると思ってた」

「できるよ」と千尋さんが言った。


 志保さんが、ほっとした顔をする。


「巻くのは?」と七緒。

「巻く」

「作ったことは?」

「ない」


 美玖が俺の肩に軽く肘を当てた。


「航と一緒だ」

「俺はある」

「丸くなった?」


 俺は答えなかった。



 佐伯家へ戻ると、お父さんが、冷凍庫から容器を出していた。


「何してるの」


 千尋さんが玄関から走った。


「今日はこれ食べようと思って」

「それ、今日のじゃない」


 テーブルに四角い容器が並んでいた。鶏そぼろ。ひじき。蓋には献立と、九月一日、の文字があった。


 俺はそこで初めて、あの大量の作り置きが、今月のものではないと分かった。


「今日のは、ほら、冷蔵庫にあるでしょ」

「そっちは晩でいいだろう」

「それだと足りなくなる」


 千尋さんは容器を重ね、冷凍庫へ戻そうとした。お父さんが、まだ開いていた引き出しを押さえる。


「千尋」

「九月って、三十日あるんだよ。一日二回でも六十回でしょ。だから――」


 言いながら、自分で数が大きすぎると思ったのか、声が小さくなった。


 七緒が買い物袋を床へ置いた。


「朝もあるよ」


 千尋さんが振り返る。


「朝は」

「十月もある」


 七緒は冷凍庫の前にしゃがみ、傾いた容器を直した。


「こっちだけで全部、用意できないよ」


 千尋さんは蓋の文字を見ていた。


 九月一日。


 お父さんが、七緒の横から引き出しを閉めた。千尋さんの持っている一つだけが、戻せずに残った。


「弁当を」


 お父さんは、買ったばかりの箱を取り出した。


「俺にも、詰められるようにしてくれ」

「詰めるのはできるじゃん。だから作っておいて」

「中身から」


 台所の時計は、一時二十分を過ぎていた。


「でも、お父さん、卵焼きも」

「うん」

「お味噌汁だって、あれ、袋の」

「うん」

「何も作れないじゃん」


 お父さんは頷いた。


「だから、おまえに訊いてる」


 千尋さんが、鼻で短く息を吸った。


 俺は立ち上がった。


「今日、やりませんか。みんなで。簡単なものを、三つくらい」


 お父さんが顔を上げる。千尋さんが、腕に抱いた容器を見下ろした。


「卵なら、ある」


 美玖が冷蔵庫を開けた。志保さんが買い物袋を片づけ、七緒はコップを流しへ運んだ。


 俺は手帳を開き、必要そうなものを書き出した。


「航。ちょっと」


 七緒に呼ばれ、廊下へ出る。


「船、どうするの」

「まだ二時間ある」

「料理して、片づけて、港まで行くんだよ」

「間に合わなかったら、別の日に」


 七緒が黙った。


 台所では、千尋さんが卵のパックを開けていた。お父さんが流しの前に立ち、誰かがその手元へタオルを渡す。


「今は、こっちを先にした方がいいだろ」


 俺は声を落とした。


「あの三人には、今年しかないんだから」


 七緒は台所を見た。それから俺を見た。


「私が船に乗りたいだけだと思ってる?」

「そういう意味じゃ」

「千尋さん、何でも引き受けるから、今日は家から連れ出そうって言ったの、誰」


 俺だった。


 三日前、家の料理をしに帰ろうとした千尋さんを、五人で船へ行こうと誘った。


 俺が書き写した時刻を七緒と確かめた。美玖が乗り場の写真を送ってきた。志保さんは帰りのバスを確認した。


「……覚えてる」

「じゃあ、今言って」

「何を」

「船のこと。全員に。どうするか、みんなで決めればいいじゃん」


 七緒は俺の横を通り、台所へ戻った。


 俺も戻った。


「すみません。先に、船の相談していいですか」


 千尋さんが、卵を持ったまま振り向く。


「行きたい」


 即答だった。


「行きたいけど、今日こっちもやりたい。駄目?」


 俺が答えるより先に、美玖が窓を開けた。


「じゃあ、両方やろうとしてみる」


 志保さんがスマートフォンを伏せた。


「間に合わなかったとき、誰のせいにもしない。それなら」


 最後に七緒を見る。


「卵焼きだけじゃ、お弁当寂しいから。赤いもの、何かある?」


 千尋さんは頷き、冷蔵庫を開けた。



 卵焼きには、卵を使う。


 俺とお父さんの知識は、そのあたりで止まっていた。


「砂糖、どのくらい?」

「ちょっと」


 千尋さんが答える。


「ちょっとって、このくらいか」

「多い多い多い」


 父親の手首を両手で掴み、計量スプーンを水平に戻す。


「じゃあ、先に量を言えよ」

「普段、測ってないもん」


 志保さんが、借りたメモ帳に書き込んだ。


 砂糖、ちょっと。


「それ、書き残す意味あります?」


 俺が言うと、志保さんは、ちょっと、の部分に線を引いた。


「今から確定する」


 七緒が計量スプーンを洗い、美玖が卵を割った。殻のかけらが一つ、ボウルに落ちた。


「入った」と俺。

「見えてる」と美玖。

「そこ」

「だから、見えてる」


 箸の先から、白身に包まれた殻が逃げる。


「こっち側から挟んだ方が」


 美玖が無言で箸を差し出した。


 受け取って、俺も三回逃がした。


「実況、してあげようか」

「結構です」


 千尋さんが、小さなスプーンで殻をすくった。


「出ましたー。次、混ぜるよ」


 お父さんは、菜箸をボウルの底へ突き立てるようにしてかき混ぜた。黄色い液が縁まで上がり、シャツに一滴飛んだ。


「そんな力いらない」

「加減が分からん」

「もっと、手首だけで。あ、もういい、私が」


 千尋さんが手を伸ばす。


 お父さんはボウルを放さなかった。


「見ててくれ」


 千尋さんの手が止まる。


「これなら、いいか」


 今度はゆっくり、菜箸を動かした。


 千尋さんは、父親の隣に立ったまま頷いた。


「うん。あと、白いとこ切る感じで」


 七緒が俺に、まな板とウインナーの袋を渡した。


「切って」

「どう切るんだ」

「食べやすく」

「それじゃ、さっきの砂糖と同じだろ」


 七緒は一本取り出し、両端から包丁を入れた。まな板の上で転がすと、四本の脚が開いた。


「こう」

「普通の切り方でいいだろ」

「せっかく六人いるんだから、作業、あった方がいいじゃん」


 一本渡された。俺は黙って包丁を持った。


 俺の作ったものは、炒めると脚が一本取れた。


 美玖はそれを、自分の分に取っておいた。


 最初の卵焼きは、巻く途中で真ん中から切れた。お父さんが慌てて箸で押し、端が焦げた。


「火、止めていいよ」


 千尋さんが言った。


「途中で?」

「困ったら止めて。焦げるから」


 お父さんがつまみを戻した。音が少しずつ弱くなり、やがて消えた。


 千尋さんは箸で、二つに分かれた卵を寄せた。


「こっちを上に置いて、もう一回。火をつけるのは、それからでいい」


 志保さんがメモを取る。美玖がその横に、小さなフライパンの絵を描いた。取っ手が不自然に長かった。


「これ、武器みたい」と七緒。

「火から遠い方が安全でしょ」

「台所に入らないよ」


 お父さんの二回目は、片側だけ細くなった。


 三回目に使う卵を出すとき、千尋さんは冷蔵庫の中をしばらく見ていた。それから、大きいパックを全部出した。


「じゃあ、みんな一回ずつやろう。お昼にするには足りないし」


 俺は、自分だけは少しうまくできると思っていた。


 結果は、お父さんよりも巻く回数が一回少なく、焦げた面積が大きかった。


 志保さんは最初から火を弱めていた。そのせいか、待っても待っても端が固まらず、六人でフライパンを覗き込むことになった。


 七緒は、いちばん勢いよく巻き、いちばん大きく破いた。


「今のはさ」


 七緒が口を開く。


 俺は何も言わずに見た。


「……何でもない」


 千尋さんは流しに手をついて笑った。お父さんまで、少し俯いて笑っていた。


 美玖は皆の失敗を見たあとで作ったので、いちばんまともな形になった。


「後の方が有利だろ」と俺は言った。

「だから、後にした」


 返す言葉がなかった。


 それぞれの卵焼きを、まな板の上で切った。


 お父さんの二回目は、思ったより中が黄色かった。両端を切り落とすと、弁当箱に入れられる四切れになった。


「これでいい?」


 お父さんが娘に訊く。


 千尋さんは切り落とした端の部分を食べた。口を閉じたまま頷き、それから、もう一切れ取りかけた。


「味見でなくなるぞ」


 お父さんに言われ、引っ込めた。


「ちょっとしょっぱい」

「じゃあ、次は減らす」

「うん」


 志保さんのメモを、お父さんが引き寄せた。醤油の量に線を引き、横に、もう少しへらす、と書いた。


 志保さんが何か言いかけて、やめた。



 ご飯と、卵焼きと、ウインナー。隙間には、今朝、千尋さんが茹でたブロッコリーを入れた。


 最初、お父さんはご飯を端からぎゅうぎゅうに押し込んだ。千尋さんが少し戻し、美玖がそこへブロッコリーを立てた。


「そんな木みたいに」

「倒すと入らない」


 深緑の弁当箱が埋まった。


 買ったときよりも、少しだけ小さく見えた。


「お父さん、蓋、閉めてみて」


 両側の留め具が、ぱちん、ぱちん、と鳴った。


 千尋さんはその音を聞いてから、台所の時計を見た。


 三時二十六分。


「……港、遠いよね」

「歩いて二十五分」と志保さんが答えた。


 俺は手帳を開いた。青い付箋の、十五時四十分、が目に入る。


「送るか」


 お父さんが言った。


「軽トラで?」


 千尋さんに訊かれて、お父さんは五人の顔を順番に見た。


「……一人しか乗れんか」


 誰か一人だけ船に乗っているところを想像したらしく、美玖が笑った。


「誰が行く?」

「誰も行かないよ」と七緒。


 俺は手帳を閉じた。


「港まで、食べに行きませんか。船には乗れないけど」


 七緒の顔を見て、それから、三人を見た。


 千尋さんが、新しい弁当箱を抱えた。


「これ、私が持っていっていい?」


 お父さんは頷いた。


「俺は、そっちの皿のでいい」


 台所には、形の揃わない卵焼きが山になっていた。



 残りの弁当を詰め、借りた器を洗い終えるころには、四時近くになっていた。


 玄関で、美玖が靴の踵を踏んでいる。志保さんが弁当の入った保冷袋を持ち、七緒は落ちそうになった団扇を鞄へ押し込んでいた。


 千尋さんが、台所へ戻った。


 忘れ物かと思って顔を向けると、お父さんが流しの前に立っていた。卵焼きのフライパンを洗っている。


「スポンジ、柔らかい方で洗ってね」

「分かってる」

「分かってなさそうだった」


 千尋さんは食器棚のカレンダーの前で立ち止まった。八月十三日の欄には、豚肉の生姜焼き、と書いてあった。


「明日の朝も、やってみる?」


 お父さんの手が止まった。


「おまえ、出かけるんじゃないのか」

「朝。仕事行く前」

「起きられるか」

「起こしてよ」


 お父さんはフライパンを伏せた。


「六時だぞ」

「六時半」

「間に合わん」

「……じゃあ、六時十分」


 お父さんが笑った。


 千尋さんはカレンダーを外して、鉛筆を探した。生姜焼きの文字を消そうとして、少し考え、消さずに、その横へ小さく書き足した。


 父の卵。


 その下に、自分で、焼き、と付け加える。


「千尋さん、置いていくよ」


 七緒が玄関から声をかけた。


「今行く」


 千尋さんはカレンダーを元に戻した。


 お父さんが、九月一日と書かれた保存容器を持ち上げる。


「こっちも、食べていいんだろう」

「うん。でも、一回に全部食べないで」

「そんなには食わん」

「食べるじゃん、お父さん」


 言いながら、彼女はサンダルを履いた。



 港の待合所は、開いたままだった。


 係の人はもういない。窓口には本日の運航終了の札が出ている。ガラスの向こうに、五人で渡るはずだった島が見えた。


 海沿いの低い堤防に腰を下ろし、保冷袋を開けた。日陰は少なかったけれど、台所より風が通る。


「悪かった」


 七緒に言うと、彼女は割り箸を五膳、膝の上に並べた。


「どれが?」

「相談しなかったこと」


 七緒は箸を二つに割った。片方が、途中から妙に細くなった。


「これ、航の」

「おまえの失敗だろ」

「知ってる」


 受け取った。


 七緒はもう一膳割り、今度はまっすぐにできた方を、何も言わずに俺へ差し出した。俺が持っていた細い箸を取る。


「千尋さんに訊けば、よかっただけじゃん」

「うん」

「あの人、船に乗りたいし、お父さんと料理もしたいんだから」


 七緒は蓋を開けた。


 俺も弁当を開ける。


 自分で作った卵焼きが入っていた。


「誰が詰めた?」

「責任を持ってお食べください」


 七緒の弁当にも、大きく破れたものが入っていた。文句は言えなかった。


 美玖は、五つの弁当を写真に撮ろうとしている。全員が少しずつ箱を寄せた。脚の取れたウインナーまで、真ん中に置かれた。


「待って、私の、まだ」


 千尋さんが深緑の箱を開けた。


 ご飯の横に、お父さんが作った四切れが並んでいる。ブロッコリーは運ぶ間に倒れ、一本だけ、ご飯の上に転がっていた。


 千尋さんはそれを、元に戻さなかった。


 写真を撮り終えると、各自の弁当が膝へ戻った。


「いただきます」


 美玖が一口食べ、何か言いたそうに俺を見た。


「ウインナーは味、変わらないだろ」

「うん。よかったね」


 志保さんが吹き出しかけて、麦茶を飲んだ。


 千尋さんは卵焼きを食べていた。


 一口では入らなかったらしく、半分噛んで、残りを箸で持っている。海を見て、もう半分を口へ入れた。


「どうですか」


 俺が訊くと、頷いた。


「しょっぱい」


 少し間を置いて、もう一度頷いた。


「私のより、しょっぱい」


 七緒は何も訊かず、麦茶のボトルを彼女のそばへ置いた。


 千尋さんは鼻をすすり、膝の上の弁当を持ち直した。


「……お父さんの卵焼き、初めて食べた」


 美玖が、自分の箸を置いた。


「高校でお弁当作るようになって、お父さんの分も一緒に作ってたから。自分がやった方が早いし、台所汚されるの嫌だったし」


 千尋さんは箸先で、卵焼きの焦げた端を触った。


「ちゃんと、一人分作れたね」


 志保さんが、膝の上で自分の弁当箱を傾けた。千尋さんが顔を上げる。


「私のと交換する?」


 志保さんの卵は、薄く折り畳まれていた。


 千尋さんは、鼻を押さえたまま笑った。


「やだ」

「そう」


 志保さんも笑い、自分の分を食べた。


 美玖は写真を送っていた。画面の上に、お母さん、という文字が見えた。何かを打ちかけて消し、もう一度打つ。


「お母さんに?」


 七緒が訊く。


「うん」


 美玖は画面を伏せた。


「卵焼き、できたから」


 七緒は頷いて、ウインナーを一つ彼女へ渡した。


 千尋さんも携帯電話を出した。新しい弁当箱を、自分の側から撮る。しばらく画面を見てから、送信のボタンを押した。


 ほどなく、短い音が鳴った。


「何て?」


 美玖が身を寄せる。


 千尋さんは画面を見せた。


『明日、砂糖は増やすか』


 千尋さんは首を振り、返事を打った。


『今日と同じでいい』


 送ってから、もう一通。


『醤油はへらして』


 今度は五人とも笑った。


 俺は空になった弁当箱を膝から下ろした。手帳を出し、今日のページを開く。


 六月十七日の電話。弁当箱の破損。東口の店へ確認。


 忘れないうちに書き足してから、青い付箋に手をかけた。


「それ、捨てないでよ」


 七緒が言った。


「捨てない。明日に移す」

「その時間、千尋さん、買い物じゃない?」


 俺は手を止めた。千尋さんを見る。


「明日は、午前中なら空いてる」

「私も」と美玖。


 志保さんが、鞄から船の時刻表を出した。端が少し折れていた。


「九時十分。帰りは十一時五十分。これなら」


 七緒を見ると、麦茶を飲みながら頷いた。


 十五時四十分、を消して、九時十分、と書く。明日のページの、いちばん上に貼った。


 五人で船。


「航、今度遅れたら、置いてくから」

「俺が遅れたことあったか」

「来るのは早いんだよ。いつも。そこから別のこと始めるんだよ」


 美玖が、うんうん、と頷いた。


 志保さんまで頷いたので、俺は何も言えなくなった。


 千尋さんは最後の卵焼きを食べていた。箸で弁当箱の隅をさらい、米粒を一つ拾って、口へ入れる。


 蓋を閉める音が二つした。


 ぱちん、ぱちん。


 輪ゴムはいらなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。