第七章 あの人を知っている
八月十日
長岡さんが台車を押すと、車輪が敷居に当たって止まった。
荷台には細長い箱と、口の開いた段ボールが載っていた。中で金属が触れ合う音がした。
「前、少し持てる?」
俺は七緒の画板を壁へ立て掛け、台車の前へ回った。
「どのくらい上げますか」
「車輪が越えればいい。せーので」
数センチ持ち上げると、思っていたより重かった。長岡さんが後ろから押し、車輪が敷居を越えた。
七緒が箱の縁を押さえていた。
「中、動くよ」
「下ろします」
俺たちはゆっくり手を離した。箱の中には、平たい金属の重りが重なっていた。
「のぼりの土台に、足すやつ」と長岡さん。
「水を入れるのも使ってますよね」
「あれだけじゃ倒れるところもある。海のほう、風が違うから」
七緒は港のほうを見た。
「看板も、揺れるかな」
「揺れる。下も留めるから、穴を空ける場所だけ、あとで相談しよう」
七緒は画板を取り、下の端へ二つ、小さな印をつけた。描いた文字に紐が掛からない位置を、紙の上で試していた。
俺たちは町民センターの裏手にいた。映画会場へ立てる案内の支柱が届いたので、寸法を測りに来ていた。
長岡さんが台車を押していくあいだ、俺は画板を七緒の見やすい向きで持った。
長岡さんは役場の人ではなかった。町の設備の修理を請け負う会社で働いていて、今月は会場の照明や配線も受け持っている。
ポケットから電話を出し、短く返事をした。
「そこの鍵は奥村さん。倉庫なら、俺が開ける」
通話を終えると、首の後ろをタオルで拭いた。
「君ら、まだ学校?」
「高校です」
「そうか。じゃあ運転は頼めないな」
冗談なのか本気なのか分からずにいると、彼は車から巻尺を取った。
「支柱、横に置くよ。踏まないように」
七緒がしゃがんだ。俺は画板を向け、測った数字を書いていく。
長岡さんの車は白いワゴンだった。扉に会社の名前があり、その下へ町の作業中を示す板が磁石で留められていた。
似た板を、町の車でも見たことがあった。
七緒が支柱の上端を持つ。
「ここ、ちょっと曲がってる」
「使える。布は通るから」
「絵が傾きます」
長岡さんは七緒の顔を見た。七緒は冗談の顔をしていなかった。
彼は車へ戻り、別の支柱を一本出してきた。
「これは?」
七緒は端から覗いた。
「こっちがいいです」
「じゃあ、そっちにしよう」
長岡さんは曲がった一本へテープを巻いた。俺は、直すための印なのか、使わないための印なのかを訊いた。
「あとで自分が忘れないため。どっちにするかは、作業場で見て決める」
書かれていたのは、曲がり、の三文字だけだった。
奥村さんは、支援室の入口で帳面を抱えていた。
運び込んだ資材の数と、紙に書かれた数が合わないらしい。長岡さんが台車を押して近づくと、彼女は台車の上を数えた。
「支柱、一本多い」
「曲がったのを換えた。これは持って帰る」
「持って帰ってから、そう言って。今のままだと、こちらへ二本来たことになる」
長岡さんは舌を鳴らしたが、帳面の訂正には応じた。
七緒が小さく俺に言った。
「航が二人いる」
「俺、あんな言い方しない」
「どっちのほう?」
返事をする前に、奥村さんがこちらを向いた。
「看板を描いてくれる人?」
七緒が頷く。
「はい。相沢です」
「ありがとう。大きさ、合いそう?」
七緒が数字を示すと、奥村さんは書類から一枚抜いて重ねた。
「幅は大丈夫。高さは、上の輪っかのところを空けて」
俺はその数字も控えた。
奥村さんは長岡さんをもう一度呼び止めた。
「昨日、川沿いの道、通った?」
「通った。役場の裏へ回ったから」
「入口のチェーン、掛け直した?」
「掛けたよ」
「今朝、外れてたって」
長岡さんは眉を寄せた。
「俺のあとにも入ってる人、いるだろ。鍵、俺だけじゃないんだから」
奥村さんは頷いた。
「順に訊いてる。責めてない」
七緒が、川沿いってどこですか、と訊いた。
奥村さんは窓から見える川のほうを示した。
「駅の裏から、倉庫を回ってくる道。狭いから、普段は作業の車だけなの。学校の帰りでも入らないでね。出るところが見えにくいから」
俺は湊屋の向こう岸に見える道を思い出した。
あそこは、途中までしか川から見えない。倉庫の裏を回ったあとは、駅の建物の陰へ入る。
長岡さんは持ち帰る支柱を肩へ載せた。
「歩きで入る子は、チェーンの下くぐっちゃうけどな」
奥村さんが、それでも掛けて、と言った。
彼は片手を上げて、裏へ出ていった。
部屋に戻ると、千尋さんが小さな箱を膝へ置いていた。
美玖はその蓋を押さえていた。志保さんが中を覗き、何本入っているの、と訊く。
保冷剤だった。
「パン屋で使わないの、もらってきた。大きいのは重いから、小さいのを少しずつ」
千尋さんは一つ持ち上げた。
「あとで家へ持って帰る」
「冷凍庫、入ります?」
俺が訊くと、彼女は、大丈夫、と答えた。そのあとで、たぶん、と付け足した。
七緒が看板の寸法を美玖へ見せた。今日の午後に下書きをするつもりだった。
美玖は紙を縦へ回した。
「矢印、こっち?」
「そう。港の入口から曲がるほう」
「だったら、文字は大きくしたほうがいい。立って見たら、小さくなる」
志保さんが椅子から立ち、部屋の反対側へ行った。
「ここからだと、いまは読めない」
七緒が鉛筆を取った。
俺は保冷剤の箱を運んだあと、机の隅へ座った。宮内さんから、昨日美玖が送った写真の受け取りを確認する連絡が来ていた。返事は美玖自身がしていた。
写真店の記録で分かった五時四十二分と、最後の写真の時刻。その間を確かめるため、もう一度店の人へ話を聞くそうだった。
「自分の記憶、あんまり役に立たなかった」
美玖が画面を閉じて言った。
「注文したの、六時過ぎだと思ってた」
志保さんが席へ戻る。
「私も、四月のことを、もっと寒かった日みたいに覚えてた。薄い上着だったって、母に言われるまで」
千尋さんが頷いた。
「お昼のことを訊かれても、すぐに答えられないよね。今日なら、分かるけど」
「今日、まだ食べてません」と俺。
千尋さんは少し考え、昨日のことだった、と笑った。
美玖の口元も動いた。
七緒が大きな矢印を描いた。
「これは、間違えたらみんな逆へ行くから、ちゃんと見て」
俺たちは顔を寄せた。今度は全員が同じ方向を指した。
柏木さんが来たのは、昼食のあとだった。
窓を直した代わりに壊したわけではないが、今度は網戸の滑りが悪い、と職員から呼ばれていた。
俺が椅子をどけると、彼は工具箱を載せる場所だけ借りた。
「掃除してから触ります。砂が噛んでるかもしれない」
千尋さんが顔を上げた。
「あ、パン屋の」
柏木さんがこちらを向いた。
「佐伯さん。こんにちは」
「お店で会いましたよね。胡桃のパンの」
「あれ、昼に行くとなくなってしまうんです」
柏木さんは笑い、ブラシで窓枠の砂を落とした。
「電話してくだされば、取っておけますよ」
千尋さんは言い、すぐに付け足した。
「今は店長に。私、お休みなので」
「そうでしたね」
落ちた砂を受ける紙を、俺が差し入れた。
「もう少し、こっちを持ってください」
窓枠の裏から、細いビスが出てきた。俺が落とさないよう指で押さえると、柏木さんは手を止めて褒めてくれた。
「高瀬くん、こういう仕事、向いてるね」
「自分の机は散らかってるんですよ」と七緒。
「それなら僕も同じです。仕事で片づけると、家まではね」
七緒が、二人とも言い訳だ、と笑った。
柏木さんはビスを受け取り、布へ包んだ。手を拭くものを探していた俺に、工具箱から乾いた布を一枚くれた。
志保さんが工具箱を見ていた。
「その車で、北の遊歩道の仕事もされてますか」
柏木さんはブラシを止めた。
「設備の点検で行くことはあります。街灯とか、ベンチとか」
「そう。見たことがある気がして」
彼は窓の下を拭いた。
「委託の方も回っていますから、私とは限らないですけど。同じ表示をつけるので」
志保さんは頷いた。
俺は長岡さんの車の扉を思い出した。
柏木さんが網戸を動かす。今度は途中で止まらなかった。
「これで大丈夫だと思います。しばらく使って、また引っかかるようなら呼んでください」
七緒が何度か開け閉めした。
「軽い」
柏木さんは工具をしまい、汚れた紙を小さく畳んだ。俺はゴミ箱を寄せたが、彼は自分で持って帰ると言った。
「細かいものが混ざってるから」
出口で浦瀬さんと会い、次に運ぶ椅子の数を確かめる。廊下を離れていくまで、二人は机の配置の話をしていた。
志保さんは自分の電話を出した。
「さっきの話、宮内さんに伝えておいたほうがいいかな」
千尋さんが窓を見た。
「車のこと?」
「うん。四月、ここにあるのと同じ表示を、北の道で見たことがある。いつだったかが曖昧だったから、説明できなかったんだけど」
俺は地図を出さなかった。
「本人に、何を見たか、そのまま伝えたほうがいいと思います」
志保さんが頷く。
美玖は窓から外の駐車場を見ていた。
「朝、外にいた人。あの人は、知ってる」
七緒が、どの人、と訊いた。
「眼鏡かけて、首にタオル。白い車の」
「長岡さん?」
美玖は名前には頷かなかった。
「顔を見ないと、分かんない」
「どこで会ったの?」と俺は訊いた。
「写真店の展示。春、照明を直しに来てた。脚立に乗ってたから、入口が通れなくて」
彼女は両手を狭く揃えた。
「ここから出ていいって、教えてくれた」
千尋さんが椅子へ深く座り直した。
「私も、その人、お店で見たことある。たぶん。パン屋のほうね」
部屋の隅で扇風機が音を立てた。隣の部屋から借りたばかりで、今は七緒の紙が飛ばないように、首を反対へ向けていた。
「知ってる人、多いな」
俺は独り言のように言った。
志保さんが電話を机へ置く。
「町の中で働いてたら、見かけることは多いと思う。私も、千尋さんのパン屋は行ったことがあるし」
千尋さんが顔を向けた。
「そうなの?」
「うん。昼に。名前は知らなかったけど、覚えてる」
「何買った?」
「卵のサンドイッチ」
千尋さんは頷いた。
「じゃあ、美玖ちゃんのと同じ」
初日に半分分けたパンのことだった。
美玖が笑った。
俺は手帳を閉じたまま、机の上の矢印を見た。
同じ人を知っていることは、確かに一つの共通点だった。けれど、その人を知っている町の人は、ほかにも大勢いる。
志保さんが宮内さんへ電話を掛けるため、廊下へ出た。
七緒は矢印の端を描き直した。
俺は紙を押さえた。
道具を片づけてから、俺は柏木さんにもらった布を洗った。
網戸は、指一本で開いた。七緒がその前へ絵を持ってきて、風で乾かした。
八月十一日
宮内さんが来るまでのあいだ、美玖は封筒から写真を出していた。
七月十八日に印刷を頼んだものだった。写真店で受け取ってから一度自分で見て、事件の日に撮ったものを分けたという。
警察へは、昨日すでに画像を送ってある。今日は紙の裏の番号や、店で話した内容を確かめに来るそうだった。
「残りは?」
七緒が訊くと、美玖は持ってきた封筒の口を閉じた。
「家に置いてきた」
俺は写真を触っていいか確かめた。
美玖が頷いたので、端を持って一枚ずつ見た。町の中の細い道が写っている。画面で見たときより、壁のざらざらした感じが分かった。
黄色いものが写った写真もあった。
踏切ではなく、工事用の柵だった。少し広い角度の別の写真では、その端に、道路の作業を知らせる紙が結んであった。
「ここ、工事してたんだ」
俺が言うと、美玖は頷いた。
「でも、その日は誰もいなかったと思う。写真撮ったときには」
志保さんが写真を覗いた。
「人がいなくても、車は入れたのかな」
道の奥に、柵が一つ寄せてあった。車一台分ほどの隙間があるように見えたが、写真だけでは幅は測れなかった。
七緒が、場所を決めてからだね、と言った。
俺は地図を出した。
美玖が、自分が歩いたことを覚えている道だけ指で辿った。写真店から川へ向かい、途中で一度曲がった。けれど、どの角だったのかは、まだ全部繋がらなかった。
俺は写真の裏の番号を、地図の脇へ書いた。分かっている角へ、その番号と同じ小さな印を置く。
「ほかのは、横へ並べておこう」
美玖が写真を一枚選び、地図の外側へ置いた。七緒が下敷きの紙を広げ、写真が机から落ちないようにした。
美玖は印刷された壁へ指を近づけた。
「この建物、裏側も似てるの。だから、画面だと全部同じに見える」
「地図のどっち側か、まだ分かんないか」
「うん。でも、窓の形は覚えてる」
俺は一枚ずつ、窓の位置を見た。正面の広い窓と、縦に細い窓。一本の線にする前に、見分けるものがいくつもあった。
宮内さんが来たので、俺たちは机を空けた。説明は美玖と母親が受けることになっていた。母親は仕事の都合で少し遅れると、浦瀬さんへ連絡を入れていた。
廊下へ出る前に、宮内さんが俺へ声を掛けた。
「志保さんからも、お話を伺いました。先日のご自宅での会話について、あとでお時間をいただけますか」
俺は頷いた。
七緒にも同じ確認があった。それぞれ別に、覚えている言葉を話すことになった。
俺が話し終えるまでに、十五分ほど掛かった。
宮内さんは、川瀬さんの表情が怪しかったかどうかを訊かなかった。
誰が先に何を言ったか。志保さんが言葉を挟んだのはどこか。俺の覚えている台詞は、そのままの言葉なのか、おおよその意味なのか。
途中で一度、記憶が繋がらなくなった。
先に母親が訊いたのか、川瀬さんが話したのか。その順番が分からず、俺は分からないと答えた。
宮内さんは頷いた。
部屋を出る前に、俺は古い案内図を開いた。
「美玖の写真に写っている道が、この図だと途中で切れているんです。工事があったのは分かったんですけど」
宮内さんは机の上を空けた。俺は電話に、さっき本人と見ていた写真を出した。地図の線が終わるところには、道路ではなく白い余白があった。
「この図は、いつのものですか」
俺は裏へ返した。印刷した年が小さく書いてあった。
「二年前です」
「新しい工事の区画が入っていませんね」
宮内さんは自分の図を横へ置いた。新しいほうでも、細い出入口は全部が載っているわけではなかった。
俺は写真の隙間と、両方の地図を見比べた。
「これ、町の作業の車が通る道と、歩く道を分けたら、もう少し分かりそうです」
「道が開いていた期間も要ります。いまの道と、四月の道が同じとは限りません」
宮内さんは、車の出入りと仕事の記録はこちらで確認している、と言った。同じ町の表示を使う車は何台もあるという。
「図書館に、前の工事のお知らせ、置いてあると思います。行く用事もあるので、探してみます」
「見つかったら、どの資料だったかも教えてください。元の記録と照合します」
俺は表紙の年を、手帳へ書いた。今度調べるときには、載っている道だけでなく、いつの紙なのかから見ることになる。
宮内さんが二枚の図をずらし、道路の曲がるところを示した。同じ川沿いなのに、道の太さが違っていた。
俺は自分の図の余白へ、歩道、車道、と二つ書いた。
廊下から七緒に呼ばれた。振り返ると、開いた扉のところで俺の鞄を持っていた。
「次、私?」
宮内さんが、はい、と答えた。
七緒から鞄を受け取り、地図を戻した。渡すときに持ち手が捻れ、七緒の手と俺の手が、一瞬同じ側へ回った。
「取れた?」
「取れた」
俺が廊下へ出ると、代わりに七緒が部屋へ入った。
七緒の聞き取りが終わるころ、美玖の母親も帰った。
仕事を抜けてきていたらしく、玄関で電話をしながら何度も頭を下げていた。美玖は階段の上から見送り、部屋へ戻った。
千尋さんが水筒を開けている。
「何か飲む?」
美玖は頷いた。
俺は二人の隣へ座った。
「船って、揺れる?」
美玖が唐突に訊いた。
千尋さんが水筒の蓋を閉めた。
「明日の?」
「うん。前、乗ったとき、ちょっと酔ったから」
「天気にもよると思う。港を出ると、最初だけ大きく揺れた気がする」
俺は電話で明日の風を見ようとしたが、美玖は答えを待つあいだに、七緒の描いた魚へ目を移していた。
「あれ、持って帰っていい?」
使わなかった下書きの一枚だった。
七緒は、どれ、と訊いた。
「目が小さいほう」
「描き直す?」
「これがいい」
七緒は紙の裏に大きく美玖と書きかけ、やめた。小さく、八月十一日、とだけ入れた。
美玖は二つ折りにせず、写真の封筒へ入れた。
俺は明日の天気を画面に出した。海の予報は、船が出るかどうかまで約束するものではなかった。曇り、とだけ伝える。
千尋さんは、日焼けは少し楽かもね、と言った。
午後、千尋さんの父親が来た。
保冷剤の箱を持ち帰るのに、車へ積んでもらうことになっていた。仕事の行き先がセンターの近くだったという。
玄関の前に、小さな軽トラックが停まった。
千尋さんは箱を抱えて下りた。俺も横を持とうとしたが、彼女は階段の途中で一度止まり、こちらから持って、と向きを変えた。
父親は車から下り、荷台を開けていた。
「お父さん、今日は何時?」
「六時には戻る」
「じゃあ、ご飯、先に炊いとく。あと、洗濯物」
「入れてきた」
千尋さんの言葉が止まった。
「え、帰ったの?」
「昼、道具を取りに。雨が来そうだったから」
父親は箱を持ち上げた。底を確かめ、荷台の内側に寄せる。
「これで全部か」
「うん。今日は」
俺は初めて会うので、名前を名乗った。
父親は、高瀬くん、と一度繰り返した。額の汗を袖で拭き、手を差し出しかけて引っ込める。
「手、汚れてるから。いつも、ありがとう」
「いえ」
千尋さんが車の助手席を覗いた。工具袋と水筒が載っていた。
「保冷剤、そっちに置いて。帰るまでに溶ける」
「これから現場へ寄るんだぞ」
「だから。荷台、暑いし」
父親は箱を積み直した。
千尋さんが荷台の端のロープを結び直そうとしたので、父親はそこはそのままでいい、と言った。結び目を一度引き、締まっていることを見せる。
「分かってるよ」
千尋さんが手を離した。
父親は運転席へ回り、千尋さんに呼び止められた。
「それ、まだ入れてるの」
席の後ろに、細長い布の袋が差してあった。工具かと思ったが、父親が先を持ち上げると、中で釣り竿の輪が鳴った。
「持って帰るところがないんだよ。物置、いっぱいだから」
「使ってる?」
「使ってない」
答えが早かったので、千尋さんは口を曲げた。
「じゃあ、なおさら片づければいいのに」
「使おうとは思ってるんだ」
袋の口を結ぶ紐だけ、新しかった。千尋さんがその結び目を摘むと、父親は、そこほどくと戻すの面倒だぞ、と言った。
彼女は手を離さなかった。
「前、これ、釣れなかったよね」
「竿のせいじゃないだろ」
「小学生に一時間、黙って座っとけって言うのも、よくないと思う」
「黙ってなくていいんだよ。隣で石投げるなって言ったんだ」
千尋さんが俺を見た。
「魚、見せてもらったことない」
「市場でなら、買って帰った」
「それは知ってる」
父親は袋を戻し、運転席の窓へ腕を置いた。千尋さんは車から少し離れて、竿を振る真似をした。俺には何が違うか分からなかったが、父親は、そっちへ振るから引っ掛かるんだ、と笑った。
千尋さんがもう一度、ゆっくり同じ動きをする。
父親は運転席から片手だけ出し、途中で手首を止めてみせた。
「そこで離す」
「こう?」
「そう。前もできてた」
空の手が、駐車場の向こうへ伸びた。
千尋さんはしばらくその形で立っていた。竿がないので、指だけ見ると何かを頼んでいるようにも見えた。
「借りてもいい?」
「いつ」
「まだ決めてない。みんなで、行けたら」
俺が頷くと、父親は席の後ろを見た。
「これ、長いぞ。短いのがうちにある。糸、替えてからだな」
「何本?」
「探す」
「五人いるから」
「全員一度には無理だろ。交代でやればいい」
千尋さんは、そっか、と言い、窓枠から手を下ろした。
父親は財布の横へ置いていた小さな紙に、糸、と書いた。仕事の材料の名前が何行も並んだ、一番下だった。
「お父さん、今日、それまで買ってこなくていいからね。現場に寄るんでしょ」
「店の前を通る」
「前を通るだけじゃ、買い物は終わんないんだけど」
父親は返事をせず、紙を折って財布へ戻した。
千尋さんは笑った。戻った箱の数を確認して、今度こそ車から離れた。
「行ってらっしゃい」
「おう。お前も、日に当たりすぎるなよ」
エンジンの音が少し大きくなった。
父親は角を曲がる前に手を上げ、千尋さんも、上げた。彼女の手には、さっき結び目を触ったときの紐の跡が、薄く赤く残っていた。
車を見送ったあと、彼女はセンターの入口へ向き直った。
「私、今日はもう帰ろうかな」
俺は、夕方にまた、と言いかけた。
千尋さんは持ち帰る料理本を取りに階段を上がった。
部屋の中では、志保さんが椅子から立って、背筋を伸ばしていた。七緒は目盛りのついた紙へ数字を書いている。
「千尋さん、もう帰るって」
俺が言うと、七緒は鉛筆を置いた。
「じゃあ、明日、何時にします?」
「九時半くらい。買い物、一軒多くなるかも」
「船は三時四十分だから、その前に」
千尋さんは頷いた。
「分かってる。船、乗ろうね」
俺も頷いた。
千尋さんが帰ってから、志保さんは四月に歩いた道のことを少し話した。
宮内さんへは、あらためて部屋の管理会社の話を伝えたという。作業車の表示をどこで見たかも、覚えている範囲を話した。
「二十四日だったか、二十六日だったか、そこが曖昧で。両方、あの辺りへ行ってるから」
志保さんは地図の北側を示した。
「でも、私が帰ろうとしてたのが、家じゃなかったのは確か。部屋へ行って、寸法を測って、それから家へ帰るつもりだった」
俺は古い地図の細い通路へ、疑問符をつけた。今の案内図には載っていなかった。
図書館で確かめようと思い、明日の空いていそうな時刻を見た。
三時半、と書く横に、船の時刻があった。
そのページはいったん閉じた。
帰宅したあと、五人席に美玖から写真が届いた。
船へ持っていくつもりらしい小さな鞄だった。中には水筒とタオルが入っていた。
これで足りる?
千尋さんが、帽子、と返した。
志保さんが、船代、と続けた。
七緒は、歩きやすい靴、と送った。
俺は島の時刻表の写真を送ろうとして、前に同じものを送っていたことに気づいた。
美玖の鞄に、小さな帽子が足された写真が届く。
七緒が、航も忘れ物ないように、と書いた。
俺は、分かってる、と打った。
そのまま送らずに消して、明日九時半、と入れ直した。
机の手帳を鞄へ戻した。
部屋の外で、父親が風呂が空いたと呼んだ。
返事をして、電話を充電器へ繋いだ。美玖の鞄の写真が、画面の中で暗くなった。




