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第六章 おかえりの言い方


八月八日



 美玖の写真には、人があまり写っていなかった。


 店先の椅子。雨の降る前の空。水たまりに落ちた葉。光が当たったコンクリートの壁。


 ときどき、道の端へ靴の先が入っていた。美玖はそれを見つけると、違う、と言って次の写真に送った。


 七緒は、どこが違うの、と訊いた。


「撮りたかったのは、こっちだから」


 美玖が画面を指す。靴ではなく、側溝に溜まった光のことだった。


 俺たちは支援室の机で、昨日までの休憩場所の写真を選んでいた。必要なものは浦瀬さんへ送ったが、紙の案内に載せるならどの角度がいいか、もう一度見てほしいと頼まれたのだ。


 美玖は案内用の写真を見せたあと、自分の写真へ指を滑らせた。


「これ、ここで撮った」


 窓の桟に、細い影が三本並んでいた。


 俺が窓を振り返ると、影はもう反対のほうへ伸びていた。


「いつ?」

「一昨日。朝」


 七緒が画面に顔を近づけた。


「同じところでも、違うんだ」


「時間で」


 美玖は言ってから、電話を少し引いた。


「こういうの、つまんないかもしれないけど」


 七緒が目を上げた。


「私は好き。これ、模様みたい」


 志保さんは隣で母親に渡す書類を揃えていたが、二人の間から写真を見た。


「斜めの線が、窓枠と違うのがいいね」


 美玖は画面を戻して、もう一度見た。


 俺は彼女がほかの人へ写真を見せていたことを、今日初めて知った。


 携帯電話で撮った写真を持ち寄る小さな展示が、町の写真店であったらしい。参加したいと母親に言ったら、人物が写っていない写真を何枚も持っていってどうするの、と訊かれた。


「悪い意味じゃないと思う」


 美玖は先に言った。


「でも、そう言われると、見せなくなる」


 七緒は頷き、画面を勝手に触らず、次も見ていい、と訊いた。


 美玖が指を動かした。



 母親が迎えに来たのは、その少しあとだった。


 初日に着ていたものより、ずっと普段の服装だった。買い物袋を腕に掛け、額に少し汗を浮かべている。


「ごめん、遅れた。荷物が重くなっちゃって」


 美玖は電話の画面を消した。


「まだ早い」

「でも、これ冷蔵庫へ入れなきゃ。美玖、先に帰ろう」


 美玖は時計を見た。


「午後もいるって言った」


「そうだっけ」


 母親は袋を持ち直した。


「なら、これだけ置いてくる。お昼、何がいい? お素麺でいい?」


「お昼、ここで食べるって」


 母親は口を閉じた。


 母親の袋の持ち手が、腕へ深く食い込んでいた。美玖はそこを見て、席を立った。


「荷物、下まで持つ」


 母親は、重いよ、と言った。美玖が片方を取ると、残った袋の中で卵の箱が傾いたので、母親は両手で抱え直した。


 二人で廊下へ出た。


 階段のほうから、下は持たなくていい、という声がした。続いて美玖の、そっち、卵、と言う声が聞こえた。


 七緒が自分の二の腕を見た。


「あの跡、なかなか消えないよね」


「細い持ち手だとね」と千尋さん。


 俺の腕にも、紙袋を抱えたあとの線が残ったことがあった。七緒はそこへ視線を移し、タオル持ってきてる、と自分の鞄を軽く叩いた。


 俺は、今日は何を買うつもりだよ、と訊いた。


「まだ何も」


 その言い方だと、帰りには増えていそうだった。


 千尋さんは机の下で、冷凍用の袋の箱を押していた。今日は午前中、買い物をしてから来たらしい。


「私、帰って最初の日、お父さんにパン屋へ行くって言ったの。なのに、玄関で靴履いてたら、どこ行くんだって訊かれた」


「また?」と七緒。


「またじゃなくて、一回目。でも、お父さんの中では、まだ、私が出かける予定になってなかったんだと思う」


 千尋さんは箱から手を離した。


「だからって、毎回言い直すのも、疲れるんだけど」


 美玖が戻ってきた。


 荷物は持っていなかった。席へ座り、電話を膝へ置く。


「写真、うちで印刷してもいい?」


 浦瀬さんへの確認だった。備え付けの印刷機は、写真を綺麗に出すのには向いていないらしい。


「紙の代金はこちらから出せます。お願いしてもいいですか」


 美玖は頷いた。


「午後、みんなも来る?」


 言い終わってから、俺たちを一人ずつ見た。


 七緒がすぐに、行く、と答えた。



 倉田家は、坂の途中の小さな集合住宅だった。


 自転車置き場の奥に、空気の抜けたボールが挟まっていた。美玖はそれを避けるように歩き、二階へ上がる。


 扉の前で鍵を探した。


 見つかる前に、内側から扉が開いた。


「おかえり」


 母親の声がした。


 美玖は鞄を抱えたまま、ただいま、と答えた。


 俺たちが挨拶すると、母親は、どうぞ、と奥へ招いた。テーブルには、切った西瓜が並んでいた。


「五人って聞いたから。ちょっと大きく切りすぎたかしら」


 千尋さんが、いただきます、と言った。


 美玖は先に自分の部屋へ行き、印刷機の箱を抱えてきた。母親が手を伸ばすと、大丈夫、と避ける。


「配線、私が」


 俺が言うと、美玖は電源のコードだけ渡した。


「そこの、空いてるほうに」


 機械が動き始めるまで、俺たちは西瓜を食べた。


 七緒は種を皿の端に揃えていた。千尋さんは皮の白いところまで少し食べ、甘くない、と顔をしかめる。


 母親は冷蔵庫からお茶を出した。


「美玖、白いところまで食べないの。昔から好きだけど、お腹冷える」


 美玖の手元には、赤いところがまだ残っていた。


「食べてない」


「そう。ごめんね」


 母親は謝って、千尋さんの皿には何も言わなかった。


 印刷機から最初の一枚が出てきた。


 美玖は乾くまで触らないでと言い、もう一枚を送った。入口に段差がある施設と、裏口の坂を写した写真を並べる。


 母親が覗き込んだ。


「お仕事のお手伝い?」


「案内に使うの」


 七緒が、すごく助かってます、と言った。


 母親は微笑んだ。


「昔から、頼まれると断れない子で」


 美玖の指が、印刷のボタンの上で止まった。


「自分でやるって言った」


 母親はすぐに、そうよね、と答えた。


 答えが早すぎたのか、美玖は何も言わずに次の紙を入れた。


 机のそばの棚に、学校で撮ったらしい写真が置かれていた。中学校の制服で、髪を長く伸ばしていたころの美玖だった。


 白い花が、その左右にあった。


 俺は目を逸らしかけた。


 美玖が見ていた。


「それ、変だよね」


 母親が顔を上げる。


「何が?」


「写真。目、半分閉じてる」


 俺はもう一度見た。言われてみれば、笑ったときに片方の目が細くなっていた。


 母親は棚へ手を伸ばした。


「これが一番、よく写ってたから」


「もっと普通のにしたい」


「制服のほうが、ちゃんとしてるでしょう」


 美玖は首を振った。


「今、それ着てない」


 母親は写真立てへ伸ばした手を戻した。


 印刷機が一枚の紙を吐き出した。少し斜めになっていたので、美玖は両手で受けた。


「あとで選ぼう」


 母親が言った。


「今日は、お友達がいるから」


 美玖は紙の端を見た。


「うん」


 そのあと、印刷が終わるまで、美玖は棚のほうを見なかった。



 紙を乾かすあいだ、母親が隣の部屋からアルバムを出してきた。


 美玖は、今じゃなくていい、と言った。


「そんなに時間かからないから。こっちなら、もっと自然に撮れてるのがあるかもしれないし」


 俺は西瓜の皿を重ねた。千尋さんが受け取り、台所へ持っていっていいか母親へ訊いた。母親が立ったところで、七緒がアルバムを閉じた。


「美玖、どれ見せたい?」


 美玖は答えなかった。


 七緒はアルバムから手を離した。表紙には花の刺繍がついていた。


「今じゃなくても」


 美玖はそれを棚へ戻した。


 母親が戻ってきて、机の上を見た。


「あら、もういいの?」


「あとで、選ぶ」


 美玖が言った。


 母親は少し驚いた顔をした。それから、そうね、と頷く。


 俺は乾いた写真を、入口の組と、建物の中の組に分けた。


 表の階段と、裏口の坂。現地では続けて歩いた場所だったが、机へ置くと別の建物に見えた。七緒が案内の紙へ並べてみると、間に窓一つ分くらいの白い隙間ができた。


「裏へ回るところ、どこに入れる?」


 美玖が訊いた。


 七緒は二枚を寄せた。今度は、階段のすぐ横に坂があるように見えた。


「写真、もう一枚要るかな」


「角のところは撮ってない。車が停まってたから」


 俺は余った紙を二枚の間へ敷いた。


「写真の間だけ、道を書こう。ここが表で、こっちが裏」


 机の上で指を曲げた。志保さんが紙を少し長く切ってくれた。


 美玖は自分の電話に残っている別の写真を開いた。七緒がその角を見ながら、建物の輪郭と、横の通路を描いた。俺は施設を回ったときの案内図を出し、道の曲がる向きを合わせた。


 写真を置く場所へ鉛筆で小さく印をつける。俺が紙を持ち上げると、美玖は片方の写真を押さえた。


「あ、これなら、同じ建物って分かる」


 七緒が矢印を一本足した。


 母親が台所から戻ってきて、机を覗いた。


「この坂、横から入れたの?」


「入れる。お店の人にも聞いた」


 美玖が自分の撮ったほうを指した。


「私、前の階段しか知らなかった」


 母親は写真の端に触れそうになり、手を浮かせた。美玖が、もう乾いてる、と言った。


 母親は紙を引き寄せ、入口の段差を確かめた。アルバムを置いていた場所に、今は案内の見本があった。


 千尋さんが残った紙を出した。


「もう一組のも、やろうか」


 俺は番号を書く欄を裏へ作った。どの写真をどの枠へ置くか、美玖と見比べながら記した。七緒は矢印を清書し、志保さんが余白に入る短い説明を考えた。


 最後の一枚を乾かすあいだ、誰かがコップを取ると、その場所へ別の紙が滑ってきた。机が足りなくなって、母親が台所から小さな盆を持ってきてくれた。


 帰るころには、日差しが居間の端まで入っていた。


 千尋さんが写真を袋へしまい、美玖は印刷機の電源を落とした。母親が玄関へ出てきて、一人ずつに、ありがとう、と言った。


 美玖は靴を履いた。


「下まで行ってくる」


 母親は一度だけ、どこまで、と訊き返した。


「下」


 美玖がもう一度言うと、分かった、と返事があった。


 階段を下りて、自転車置き場のところまで来た。


 美玖は俺たちより半歩遅れていた。七緒が足を止める。


「写真、ありがと。明日渡しとく」


 美玖は頷いた。


 そのまま戻るのかと思ったが、彼女は自分の電話を鞄から出した。


「私、お母さんと、喧嘩したままだった」


 千尋さんが写真の袋を持ち直した。


「七月?」


「十八日。朝」


 美玖は画面を見ていた。


「いい加減にして、って言った。それで出てった」


 俺は坂の下から来る車を見た。通り過ぎるまで、美玖は話をやめた。


「戻ったら、絶対謝ろうと思ってた。でも、謝るより先にお母さんが泣いて、ごめんねって、ずっと言ってて」


 電話の画面が暗くなった。


「私、同じこと、また言いそうになる」


 七緒は口を開きかけたが、言葉は出さなかった。


 美玖は自転車の籠へ目を向けた。


「何にも嫌じゃないふりするの、無理」


 千尋さんが頷いた。


「うん」


 その短さで、美玖が顔を上げた。


「私も、お父さんに、もう少し言い方ないのって思うよ。自分も、言いすぎたなって思うし」


 千尋さんは笑おうとして、やめた。


「戻る前に仲直りの仕方を練習できたわけじゃ、ないもんね」


 美玖は電話をしまった。


 志保さんが、今日は一つ話せたんじゃない、と言った。


「写真。自分で選ぶって」


 美玖は二階を見上げた。


 母親の姿は見えなかった。窓のカーテンだけが揺れていた。


「選べる写真、ない」


 美玖の声は、先ほどより小さかった。


「撮らせるの嫌がってたから。今の自分の、ちゃんとしたやつ、ない」


 七緒が自分の電話を出しかけた。


 美玖の顔を見て、戻した。


「撮りたいとき、言って」


 美玖は頷いた。


 俺たちはそこで別れた。階段を上る彼女の背中は、帰ってきたときと同じ速さで遠ざかった。


 扉の開く音がした。


 俺は歩き出したが、七緒がまだそこにいたので止まった。


「ただいま」


 二階から声がした。


 今度の返事は、少し遅れて聞こえた。


「おかえり」


 扉が閉じた。


 七緒が歩き出したので、俺も並んだ。



八月九日



 翌朝の美玖は、いつもより早く来た。


 志保さんがまだで、千尋さんも買い物の途中だった。俺が印刷した案内文を切っていると、美玖は椅子を寄せた。


「昨日、選んだ」


 電話に、写真が一枚出ていた。


 髪を切ったばかりの美玖が、鏡の前へ立っている。自分で撮ったものらしく、顔の下半分を電話で隠していた。


「お母さん、顔が見えないって」


 俺は、確かに、と言いかけた。


 美玖が先に頷いた。


「私も、それはそうだと思った」


「ほかには?」


「なかった。だから、棚の写真はまだそのまま」


 電話をしまったあと、彼女は机の上のはさみを取った。


「これ、切る?」


 俺は線の引いてある紙を渡した。


「ここで。一枚だけ長さが違うから」


 美玖は紙を回して、端から切り始めた。


 途中で七緒が来た。大きな筒を脇へ抱え、玄関で脱いだ靴下が片方だけ少し下がっている。


「できた」


 ポスターの完成した見本だった。


 魚の顔は切れていなかった。日付と時刻は、別の場所へ移してある。黄色い光を窓に残した家並みの上に、大きな鯨が浮いていた。


 美玖がはさみを置く。


「尾、横になった」


「そっちは直した。でも、空を飛ぶのはこのまま」


 七緒はポスターを窓へ向けた。紙を透かして見ると、海の青が少し薄くなった。


「どこから貼る?」


 俺が職員から頼まれた順路を出すと、七緒はその上へポスターを置いた。


「最初、ここでいい?」


 町民センターの玄関だった。


 画鋲を借りて下りると、浦瀬さんが椅子を運んできた。七緒は椅子の上に乗り、俺は紙の下を押さえた。


 美玖が離れて見た。


「右、ちょっと下」


 俺が下げると、七緒の指が引っ張られた。


「私の右?」


「絵の右」


 結局、一度降ろして、最初から貼り直した。


 浦瀬さんが、綺麗になったね、と言った。


 七緒は椅子を下り、ポスターの前に立った。俺は紙の下端と戸口の高さを見比べたが、何も言わなかった。少しだけ傾いていても、魚は普通に飛んでいた。


「一枚、いい?」


 美玖が訊いた。


 七緒が横へどこうとした。


「そのままで」


 美玖は電話を構えた。


 七緒は少し迷ってから、ポスターを指した。笑い方を作る前に、シャッターの音がした。


「撮れた」


 画面の中で、七緒は口を開きかけていた。指先が、鯨の腹にちょうど重なっている。


「変な顔」


 七緒が言うと、美玖は首を振った。


「こういう顔、してる」


「普段から?」


「うん」


 七緒は俺を見た。俺は頷いた。


「二人で言わなくていい」


 そう言いながら、彼女は写真を自分にも送ってと頼んだ。



 午前の最後に、写真店へ寄った。


 ポスターを貼ってもらう店の一つだった。美玖が前に写真を持ち寄ったという店でもあったので、本人が入口の扉を開けた。


 中には千尋さんと志保さんも来た。二人はセンターへ着いたあと、連絡を見て追いついていた。


 白い壁に、小さな写真が何枚も並んでいた。家族写真ばかりではない。犬の足、海の泡、真夜中の自動販売機。それぞれの下に、撮った人の名前があった。


 美玖の写真は、端から三枚目にあった。


 道路に、洗濯物の影が落ちていた。実物の洗濯物は、画面の外にある。


「これ、好き」


 七緒が言った。


 美玖は写真ではなく、下の札を見た。


 倉田美玖。


 その横に、小さく十五歳、と書かれていた。


 店主が奥から出てきた。


「ああ、こんにちは。戻って、見に来てくれたんだね」


 美玖は頷いた。


 店主は何か言いかけたが、ポスターを持つ七緒に気づき、先にそれを受け取った。


「貼るところ、こっちでいい?」


 七緒が頷き、筒から一枚出した。


 美玖は受付の前へ行った。


「前に頼んだプリント、残ってますか」


 店主は美玖の名前を確かめた。引き出しを開け、端に番号のついた封筒を探す。


「ご家族から、保管しておいてって連絡があったから。こちらで預かってた」


 美玖は封筒を受け取った。


「お金」


「受付のときに、いただいてる」


 彼女は財布を出しかけた手を戻した。


「十八日、私、ここに来ましたよね」


 店主の表情が変わった。


「来たね。警察の方にも、お話ししたけど」


 美玖は封筒の角を触った。


「何時だったか、私、覚えてなくて」


「記録、見てみようか。前のことだから、私の記憶より、そのほうがいい」


 店主が奥へ行った。


 俺は、どこからの帰りだったの、と訊きそうになり、やめた。


 美玖は自分から、最後に撮った写真を見せたかった、と言った。


「ここで選んでもらって、印刷を頼んだ。そのあと、川のほうへ行った。たぶん」


 店主が戻ってきた。受付の記録は五時四十二分だった。仕上がりは翌日になっていたが、美玖は翌日来なかった。


 店主は、紙を見せてもいいかと訊いてから、美玖に示した。


「この時刻は、注文を受けた時刻ね。お店を出た時刻ではないです」


 俺は頷いた。俺に説明したわけではなかった。


 美玖は電話でそれを撮っていいか尋ねた。店主が隣の客の欄を紙で隠したので、自分の注文のところだけ撮った。


「宮内さんに送る?」


 七緒が訊く。


「うん。あとで、この写真も」


 封筒を胸へ寄せた。


 店を出る前に、美玖は展示の札を指した。


「これ、年齢、なくしてもいいですか」


 店主は少し驚いたが、いいですよ、と答えた。


「若いのに上手って言われるの、嫌?」


 美玖はしばらく考えた。


「若いからかどうかは、分からないけど。写真だけで見てほしくて」


 店主は新しい札を出した。


 美玖は自分の名前だけを書いた。



 昼食のあと、千尋さんが席を立った。


「一回、帰るね。夕方また来られると思うけど」


 七緒が時計を見る。


「何か作るんですか」


「今日は煮物。火を通して、冷ましておかないと」


 鞄から小さな紙が落ちた。俺が拾うと、買い物の品目が裏表に書かれていた。


「こんなに?」


「全部今日じゃないよ」


 千尋さんは紙を受け取った。


 指で折り目を強くつけ、財布へしまう。


「まだ、やってないことが多くて」


 俺は彼女の前の料理本を見た。借り直したばかりなのに、もう付箋が増えていた。


「十二日、午後は空いてますか」


 自分でも急な訊き方だと思った。


 千尋さんが顔を上げる。


「何かあった?」


「船。乗りませんか」


 七緒がこっちを見た。


「この前、港で見たやつです。五人で。午後だったら、午前中は家のこともできるし」


 千尋さんは、そうだね、と言った。ただ、すぐには頷かなかった。


「買い物があるかも」


「一緒に行きます。荷物持ち、四人いるし」


 俺が言うと、美玖が片手を挙げた。


「持つ」


 七緒と志保さんが時刻表を覗き込んだ。


「三時四十分。これなら私も空いてる」と志保さん。


 千尋さんは料理本を閉じた。


「船、久しぶりだな」


 七緒が頷く。


「私たちも、小学校以来」


「じゃあ、行こうかな」


 俺は手帳へ、八月十二日、十五時四十分、と書いた。


 七緒が上から、五人、と足した。


「任せた。買い物、結構あるよ」


 千尋さんは、俺たちの腕を順番に見て笑った。


 千尋さんが出ていくと、七緒は机の上の青い付箋を取った。


「船で行けるところって、何がある?」


「島」


「それは知ってる」


 俺が案内のページをめくると、小さな売店の写真があった。七緒はその横の、展望台、という字へ指を置いた。


「夏休みっぽいこと、やっとする」


「この前も海、見たろ」


「駅から見えるのは、帰り道の海」


 彼女は付箋に小さな船を描き、手帳の最後へ挟んだ。船首のほうだけが、少し外へ出た。


 志保さんは地図で島を探していた。美玖が隣へ寄り、港から最初の坂を指した。


「ここ、上ると海が見える」


 志保さんは、船からも見えるよね、と答えた。


 美玖は少し考えて、広く、と言い直した。


 七緒が地図を覗き込む。


「じゃあ、ここだけ行こ」


 俺は展望台から下りる道を目で辿った。港へ続く線の途中に、売店がもう一つあった。


「帰りは、こっちを通ろうか」


 七緒が覗き込み、美玖は、そこアイスあるよ、と言った。


 青い付箋をもう一度開き、俺は船の下へ、アイス、と書き足した。七緒はその横へ、小さく二本、と書いた。


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