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第五章 空っぽの部屋


八月六日



 二〇三の鍵は、俺が思っていたより長かった。


 管理会社の女性が、鍵束から一本を選ぶ。先端を差し込んだところで、志保さんが一歩下がった。


「まだ、誰も住んでないんですね」

「ええ。六月に一度お話があったんだけど、駐車場が二台分要るってことで」


 女性はそう答え、鍵を回した。


 扉が開くと、閉め切った部屋の匂いがした。


 古い木と、新しい洗剤の匂い。志保さんは玄関から中を見渡し、靴を脱ぐ前に、上がっていいですか、と訊いた。


「どうぞ。そのために来たんでしょう」


 女性が笑った。


 彼女の名刺には、松原、とあった。初めてこの部屋を案内したときにも、志保さんと会っているそうだった。


 俺と七緒は玄関の端へ寄った。部屋には、台所と、引き戸で仕切られた六畳の居室があった。窓の外は、隣家の屋根だった。


「思ったより、明るい」


 七緒が言った。


 志保さんは窓へ歩いていく。


「最初に見たとき、夕方だったから。午前中は、こうなんだ」


 窓を開けると、物干し金具が二つ見えた。柵の手前に、鳩よけの細い糸が張ってあった。


 松原さんは台所の水を少し流した。蛇口を閉めてから、持参した書類を流しの横へ置く。


「ご家族へお返しした書類と同じものだけど、こちらに控えがあって」


 志保さんは鞄から小封筒を出した。


 表には、四月二十四日、と書いてあった。


「これ、会社のロッカーに入れてたんです。母がまとめて引き取って、箱にしまってくれてたみたいで」


 図面と、部屋を仮に押さえたときの紙が入っていた。


「私、どこまで話をしてましたか」


 松原さんは志保さんを見た。


「忘れちゃった?」

「覚えてます。ただ、自分で決めたことと、これから決めようとしてたことを、分けたくて」


 女性は頷き、書類の二か所を示した。


 入居の希望日。連絡を待っていた保証の欄。俺には詳しいことは分からなかったが、部屋を借りるまでに、まだ終わっていない手続きがあった。


「鍵も、まだお渡ししていませんでした」

「はい」


 志保さんは窓の外を見た。


 七緒が、画板を持ったまま俺の隣に座った。床へ直接座るつもりではなかったらしく、鞄から薄いハンカチを出し、敷いてから腰を下ろす。


 俺は立ったままだった。


 松原さんは台所の棚を一つ開けて閉じた。


「二十六日にも、見に来る予定でしたよね」


 志保さんが頷いた。


「カーテンの寸法。電話をいただいたとき、ちょうど近くにいたから」

「私が遅れてしまって。もう少し待ってもらえますか、って、連絡したのが最後だった」


 松原さんは言いながら、書類の角を揃えた。


「警察にもお伝えしたんです。こちらでちゃんと会えていたらって」


 志保さんは視線を戻した。


「松原さんが悪いことは、何もないです」


 松原さんは、そう言ってくれるけど、と小さく答えた。


 七緒の手が、ハンカチの角を掴んだ。


 志保さんは図面を窓際の床へ置いた。


「今日、測ってもいいですか」


 松原さんは目を上げた。


「カーテン?」

「はい。もう買わないですけど」


 返事までに、少し間があった。


「どうぞ。私は下にいるので、お昼までは使ってもらって大丈夫。水道だけ、最後に閉めておいてください」


 女性は鍵を自分の鞄へ戻した。


 私があとで閉めますから、と言って、玄関から出ていく。


 残った三人のあいだに、床の広さだけがあった。



 志保さんは、鞄から巻尺を取り出した。


 俺は手を出しかけたが、七緒が先に窓際へ行った。


「こっち持つ」


 巻尺の先端を窓枠へ当てた。志保さんが反対側を引っ張る。


「百六十三」


 数字を読んで、止める。


 俺は図面の余白へ書いた。


「高さも?」

「床までは百九十八。でも、カーテンは少し短くする」


 七緒が巻尺を離すと、金属の帯が強く戻った。志保さんが途中で押さえた。


「危ない。指切る」

「ごめん」


 今度はゆっくり、二人で縮めた。


「何色にするつもりだったんですか」


 七緒が訊く。


 志保さんは床へ座った。俺も向かいへ座る。


「黄色」

「いいですね」

「でも、たぶん買う直前で、白に変えてたと思う」


 指で床の板目を辿った。


「母が、飽きるよって言うから。黄色は」


 七緒が画板の裏から紙を一枚出した。


「絵で試せばいいじゃないですか。こっちなら、飽きたら替えられる」


 志保さんが、窓の図、と訊いた。


「部屋ごと。下手かもしれないけど」


 七緒は部屋の隅へ移動した。窓と台所の一部が同時に見える位置を探し、鉛筆で四角を作る。


 志保さんが横から覗く。


「奥行き、ここの線をもう少し上げると」

「あ、ほんとだ」


 線が消され、引き直された。


 俺は二人に背を向けないようにして、邪魔にならない場所へずれた。


 窓の下には机を置く予定だった。布団は押し入れに入れる。テレビは買わず、最初の給料が出たら、小さな棚を買う。


 志保さんが一つ言うたびに、絵の中へ物が増えていった。


「冷蔵庫、ここだと扉が開かない」


 俺が言った。


 志保さんは頷いた。


「左右を付け替えられるものにするつもりだった。買うとき確認しなきゃと思ってた」


 七緒は小さく、右、と書いた。


 俺は入口近くのコンセントを見た。


「棚、こっちなら何か置けますね。電気使うものも」


「ラジオが欲しかった」


 志保さんが言った。七緒の鉛筆が一度止まった。


「どんなの?」


「小さいの。前、家で使ってたのは大きくて、持っていくなら新しく買おうと思ってた」


「ラジオ、聴くんですか」


「夜だけ。知らない曲が流れて、知らない人が話してるの、結構好き」


 七緒が棚の上へ四角を描いた。志保さんは、もう少し横長、と自分の手で幅を示した。俺は床へ片手を置き、棚を置くといった場所までの距離を見た。


「布団からも、手が届きそう」


「届いたら、止めてそのまま寝ちゃうかな」


「朝も鳴らせば」


 七緒が言うと、志保さんは笑った。


「そういうのは、止めるために起きちゃう」


 俺は指で床を軽く叩いた。空っぽの部屋では、机を叩いたときより高い音になった。


 七緒が同じところを爪で叩いた。今度は、小さい硬い音がした。


「家具置いたら、変わるんだろうね」


 志保さんは自分では叩かず、窓の下を見ていた。


「うん。たぶん、もっと静かになる」


 七緒は棚の足を描き足した。まだ音のしないラジオが、絵の中にあった。


 窓から見える屋根には、太陽の光が白く溜まっていた。遠くで、誰かが布団を叩いている。


 それを聞きながら、志保さんは台所のほうを見た。


「ここだと、お湯が沸いたら聞こえるね」


 七緒が笑った。


「どこにいても」


「家では、母が先に止めるの。気づいても、私が立つ前に」


 志保さんは膝を抱えた。


「親切なんだけど」


 そこから先は言わなかった。



 美玖と千尋さんが来たのは、十一時半過ぎだった。


 階段の下で待っていると連絡が来たので、俺は志保さんに確かめてから、迎えに下りた。


 千尋さんは大きな布の袋を持っていた。


「お昼、買ってきた。まだ店が決まってなかったから」


 袋から、パン屋の包みが覗いていた。


「部屋では食べないほうがいいですかね」


 彼女に訊かれ、俺は管理会社の松原さんへ確認した。松原さんは、床にこぼしたら拾ってね、とだけ言った。


 美玖は玄関で靴を脱ぐと、鞄から一枚の紙を出した。


「これ、昨日、印刷した」


 志保さんへ渡したのは、北の休憩所で撮った写真だった。枝の下に、車が三台並んでいるほうだ。


「もらっていいの?」

「うん。家のだと、下に線が入るけど」


 写真の下端に、薄い青の縞が走っていた。


 志保さんは、ありがとう、と言って受け取った。


 千尋さんが床へ包みを広げた。紙皿はなかった。包装紙を一人ずつの前に敷き、パンを置く。


「手、洗ってきて」


 彼女が言うと、俺たちは順番に台所へ行った。


 蛇口を最後に閉めた七緒が、もう一度きつく回し直す。水が一滴落ち、止まった。


「私、ここ、すぐ壊すかも」


 七緒の言葉に、志保さんは、古いものはそう簡単には壊れない、と答えた。


「新しいのは?」

「壊したことがある」


 千尋さんが笑った。


 机のない部屋で食べると、自然に全員の膝が内側を向いた。俺は包装紙を床へ置いたまま齧り、膝にパン粉を落とした。


「拾ってねって言われた」


 美玖が言う。


「分かってる」


 志保さんは丸いパンを両手で割った。中に白いチーズが入っていた。


「これ、おいしい」


 千尋さんが嬉しそうに頷いた。


「焼き立てだったら、もっと伸びるんだけど」


 そう言い、自分のパンを大きく引っ張ってみせた。チーズではなく、生地の端が細く繋がった。


 七緒は画板を裏返していた。完成していない絵を、油のついた指で触られたくなかったらしい。


 志保さんが、黄色はあとでいい、と言った。


「うちに戻れば色鉛筆あるから、明日、塗ってきます」

「その前に、一回、見せて」


 七緒が画板を持ち上げた。


 絵の中には、机と棚と、小さな冷蔵庫があった。窓の下へ椅子が置いてある。カーテンは左右で少し長さが違った。


「こっちは、私が短くした」


 七緒は右側の線を指した。


「揃えるの、あとで」


 志保さんは絵を見たまま、最後の一口を食べた。


 飲み込んで、紙コップを持ち上げた。


「ここに、住みたかった」


 声が部屋の壁に当たった。


 千尋さんが膝の上の包み紙を畳む。美玖は顔を下げなかった。


「広いところが欲しかったわけじゃなくて。朝、自分で窓を開けて、閉め忘れたら雨が入って、失敗したなって思う、そういうのが」


 志保さんの指が紙コップを押した。少しへこんだ。


「今、こんなこと言っても仕方ないって、何度か言われた。もっと大事なことをしようって。家族といるとか、亮太と旅行するとか」


 誰も口を挟まなかった。


「そういうのも、大事だとは思う。でも、私が決めてたことは、もう要らないことなのかなって」


 窓の外で、布団を叩く音が止んだ。


 七緒は画板を志保さんの前へ置いた。


「机、ほんとは何色ですか」


 志保さんが顔を上げた。


「え?」

「ここ。白く塗るか、木の色のままにするか」


 志保さんは涙の出ていない目を指で押さえた。


「木。予算があまりなくて、実家で使ってるのを持ってくるつもりだった」


 七緒が絵の隅へ、木、と書いた。


「じゃあ、机は木。カーテンは黄色」


 志保さんは何度か頷いた。


 俺は床のパン粉を拾った。包装紙を折ったとき、一つだけ指にくっついた。


 志保さんは立ち上がり、窓際へ行った。


「電話、一本してもいい?」


 俺たちは頷いた。


 彼女は番号を選び、少し待ってから言った。


「お母さん。今、部屋を見てる」


 声はさっきと同じだった。


「一人で暮らそうと思ってた部屋。四月に話をしてたの。帰ったら、図面、見てもらっていい?」


 返事は聞こえなかった。


 志保さんは窓枠へ手を置いた。


「うん。今日、帰るから。そこで話したい」


 俺たちは食べ終えた包み紙を集めた。美玖が自分の靴を取りに行き、千尋さんは台所の水が止まっているか見た。


 七緒は絵を鞄へ入れなかった。志保さんのぶんの鞄の横へ、そっと置いた。



 十二時少し前に、俺たちは部屋を出た。


 志保さんは最後に窓を閉めた。鍵を掛け、引き戸を半分だけ開けて、室内を振り返る。


 もう一度入って確かめたのは、コンセントでも蛇口でもなく、押し入れだった。


「何か忘れました?」


 俺が訊くと、彼女は首を振った。


「開けてなかったから」


 中を一度見て、閉めた。


 階段の下に松原さんがいた。志保さんは預かった書類を封筒へ入れ、頭を下げた。


「ありがとうございました」

「いいえ。暑くなかった?」


 松原さんは鍵を持ち上げた。


「窓、閉めてもらえた?」

「はい」

「じゃあ、見てきますね」


 俺たちは敷地の外へ出た。


 鍵の回る音は、通りまでは聞こえなかった。


 志保さんの鞄から、絵の端だけが出ていた。七緒が雨に濡れないようにしたいと言い、千尋さんの袋の底にあった透明な包みへ入れる。


「パンの匂い、つくかも」


 千尋さんが言うと、志保さんは、今日はいい、と答えた。



 その夜、七緒から絵の写真が届いた。


 志保さんが、色を塗るならいったん持って帰って、と言ったらしい。画像では、カーテンが黄色くなっていた。


 明るすぎるかな。


 そう添えられていた。


 俺は画面を拡大した。窓からの光が、床に細く伸びていた。六畳の床の端に、食べ終えたパンの袋が一つ置かれている。


 袋を残したのか、と送った。


 七緒からすぐに電話が来た。


「置き忘れてないよ。描き足したの」

「分かってる」

「分かってる言い方じゃなかった」


 受話口の向こうで、何かを机へ置く音がした。


「誰か住んでるみたいにしたくて。でも、志保さんは綺麗なままの部屋がよかったかもしれない」


 俺は写真を見た。


 絵には、志保さんが言ったとおりの家具があった。けれど、あの部屋で俺たちが使ったものも混ざっている。パンの袋。壁際に寄せた鞄。流しの横の、五つの紙コップ。


「あのコップ、俺が倒しかけたやつ?」


「そう。一個だけ斜め」


 画像を拡大すると、机のそばではなく床に置いてあった。七緒は俺の靴まで、小さく描いていた。


「こっちは、今日みんなで行った部屋なんだな」


 電話の向こうで、鉛筆が止まった。


「……そう。そうしたかった」


「家具だけのも見たい。志保さんが、これから住むつもりだったほう」


「二枚描けってこと?」


「大変なら、こっちだけでも」


「できる。描くのは私だから、待ってて」


 紙を探す音がした。


「元のを消さずに写す」


 俺は絵の隅の靴をもう一度見た。


「昔の絵、まだある? 俺が変な顔してるやつ」


「いっぱいあるけど」


「運動会の」


「パン食い競走?」


 七緒が笑った。


「ゴールする前に、食べちゃったから」


「腹、減ってたんだよ」


「取ってないと思われて、もう一回戻れって言われたよね」


 俺は思い出した。口がいっぱいで説明できず、七緒が横から、ちゃんと取りました、と言ってくれた。その顔を、あとで絵に描かれた。


「あれ、まだあるよ」と七緒が言った。


「捨てていいぞ」


「私の絵なので」


 笑いながら言い、また鉛筆を動かし始めた。


 俺はしばらく、電話を切らずにいた。


「まだいる?」


「いる。邪魔なら切る」


「いい。何か喋ってて」


 今日、千尋さんのパンのチーズが伸びなかった話をした。七緒は、見てたよ、と言った。見ていた話なら、途中で絵を描いても分からなくならないだろうと言うと、向こうで少し笑う声がした。


 十時に出る約束をして切ったころには、俺の電話も少し熱くなっていた。


八月七日



 志保さんの実家は、駅からバスで十五分ほどのところにあった。


 玄関には、同じ靴が二足並んでいた。色も形も似ていたが、片方は爪先が新しかった。


 志保さんが新しいほうを端へ寄せる。


「母が買っておいてくれたの。サイズ、少し小さかった」


 俺と七緒は靴を脱いだ。千尋さんは今日は家の片づけをしている。美玖は母親と買い物へ出ていた。


 居間へ通されると、低い机の端に写真立てがあった。


 志保さんが笑っている写真だった。海の前で、白い帽子を手に持っていた。


 その隣には今の志保さんが座った。


 俺は写真から目を外すのが遅れた。彼女は気づいていたと思うが、何も言わなかった。


 母親がお茶を持ってきた。


「いつも娘がお世話になってます」


 俺が頭を下げると、七緒も隣で頭を下げた。母親は二人の参加証を見て、学校のボランティアなのね、と言った。


「来年、受験でしょう。お勉強は大丈夫?」


 七緒が俺を見る。俺も七緒を見た。


「少しずつ」と七緒が言った。


 母親は、偉いわね、と笑った。俺たちはそれ以上、詳しく説明しなかった。


 七緒が二枚の絵を出した。


 家具だけの部屋と、五人が昼食を食べたあとの部屋。


 志保さんは二枚を並べ、そのうち一枚を母親のほうへ向けた。


「ここ」


 黄色いカーテンの部屋だった。


 母親はしばらくそれを見て、窓が小さいのね、と言った。


「一つだけ?」

「台所にも、小さいのがある」

「夏、暑そう」

「昨日は暑かった。でも、風は通ったよ」


 母親が絵を置いた。


「住む前でよかったんじゃない。一人で倒れてても、誰も分からないでしょう」


 志保さんの手が止まった。


 母親はお茶の湯呑みを直した。


「ごめん。そういう意味じゃなくて」

「うん」


 志保さんは絵を引き寄せなかった。


「家にいても、分からなかったよ」


 部屋が静かになった。


 俺は湯呑みを持つ手を下ろした。七緒は絵の袋を畳んだまま、膝の上へ置いた。


 母親が口を押さえた。


 志保さんは顔を下げた。


「今の言い方、違った。ごめん」


 時計の針が一つ進んだ。


「お母さんが見てなかったって言いたいんじゃない。ただ、家にいれば大丈夫って、もう言われても、そうだねって言えない」


 母親は返事をしなかった。


 志保さんは二枚目の絵を自分の前へ置いた。


「一人になりたかったの。お母さんと喧嘩をしたかったわけじゃなくて」


 台所から、やかんの蓋の鳴る音がした。


 母親が立とうとした。


「私、止める」


 志保さんが先に立った。


 母親は一瞬だけ腰を浮かせ、そのまま座り直した。


 志保さんが台所へ行き、音が止まった。


 戻ってきた彼女は母親の隣へ座った。俺たちの向かいで、二人の肘が少しだけ離れていた。


「部屋を決める前に、相談してくれればよかったのに」


 母親が言った。


「うん。でも、相談したら、自分で決める前に、やめる理由を探すと思った」


 志保さんは絵のカーテンを指した。


「黄色も、やめてたと思う」


 母親は絵を見た。


「黄色くらい、好きにすればいいのに」

「そうだね」


 志保さんは小さく頷いた。


 それで話が片づいたわけではなかった。母親はしばらく黙ったあと、部屋の階段は急だったのかと訊いた。志保さんは、少し、と答えた。


 俺たちはもう一杯お茶をいただいた。



 帰る前に、玄関のチャイムが鳴った。


 川瀬さんだった。志保さんの母親が、仕事の前に顔を出すと聞いていたの、と言った。


 志保さんは立ち上がらなかった。


「今日、来るって聞いてなかった」


 川瀬さんは靴を脱ぎかけたところで止まった。


「お母さんから、部屋を見てきたって聞いて。話、しておいたほうがいいと思って」


 俺と七緒は鞄を取った。


 志保さんが、少しだけいてもらっていい、と言った。


 彼女は母親へ、先に言っておきたいことがある、と向き直った。


「亮太にも、いずれ話すつもりだった。でも、今日ここで全部話すつもりはなかったから」


 川瀬さんは居間の入口に立った。


「急に別れるとか言われても、俺も」


「急にじゃなかったでしょう」


 志保さんの声は大きくなかった。


 川瀬さんは母親のほうを見た。


「四月に話したことは覚えてる。でも、そのときは、仕事が大変なんだと思ってたし」


「二十六日に送った返事は?」


 彼は答えなかった。


 母親が、仕事のあと、そちらへ行く予定だったのよね、と訊いた。


「はい。そのつもりで」

「私、行けないって送った」


 志保さんが言った。


「その前に話したことも、なかったことにはしないでほしい」


 川瀬さんは口を開き、閉じた。


 俺は手帳へ触れなかった。今ここで言葉を記録することが、志保さんの頼んだ付き添いなのかは分からなかった。


 彼女は膝の上で、両手を一度組み直した。


「今日は、ここまでにしたい。ちゃんと話す日を、私から連絡するから」


「いつ?」


 訊いたあと、川瀬さんは視線を落とした。


「責めてるわけじゃない。日が、もう」


 そこから先は言わなかった。


 志保さんは頷いた。


「分かってる。私も、それは分かってる」


 川瀬さんはしばらく入口に立っていた。やがて、一度だけ、分かった、と言った。


 俺たちは彼とは別に家を出た。



 バス停で、七緒は二枚の絵が入っていた袋を広げた。


 中は空だった。


「二枚とも、持っててくれるんだね」


 俺は頷いた。


 帰り際、志保さんは家具だけの絵を母親へ渡していた。もう一枚は自分の鞄へ入れた。


 七緒が袋を小さく畳む。


「さっきの話、宮内さんに言う?」


 俺はバスの来る方角を見た。


「志保さんに、先に訊く」


 七緒は頷いた。


 事件の日に川瀬さんが受け取った連絡は、家族が聞いていたものと違っていた。それが事件にどれだけ関係するのかは、まだ分からない。


 志保さんから先に電話が来たのは、バスに乗ったあとだった。


 俺は次の停留所で下りて掛け直した。七緒も一緒に下り、木陰へ寄って待った。


「さっき、いてくれてありがとう」


 志保さんが言った。


「話が途中になってしまったけど、私、言いたいことは言えた」


 俺は、はい、と答えた。


「警察には、連絡を送ったことも伝えてある。亮太がどう話していたかは、私は知らない。でも、さっきのことも、私から話してみる」


 電話の向こうで、食器を重ねる音がした。


「一緒に来てもらうかもしれない。航くんたちが聞いたことを、別に確かめたいって言われたら」


「分かりました」


 少し黙ってから、志保さんが訊いた。


「今、帰り?」

「バス、下りたところです」


「ごめん。乗ってた?」


 俺が答えるより早く、七緒が電話へ近づいた。


「大丈夫です。次まで二十分あるので、アイス食べます」


 志保さんの声が少し明るくなった。


「それなら、よかった。あとで、私も買いに行く」


 通話を終えると、七緒は道路の向こうの店を指した。


「この前の飲み物のかわり。私が払うから、選んで」


 俺は信号を待った。


 店の冷凍ケースには、同じ味が三列並んでいた。七緒は二つ持ち上げて、重さを比べるようにした。


「全部、同じだろ」

「分かってる」


 彼女は片方を俺へ渡した。


 バス停へ戻って袋を開けると、先端が少し溶けていた。


 俺は落ちる前に齧った。七緒も同じところを急いで食べ、冷た、と顔をしかめた。



 七緒は棒の先を口から離し、バス停の時刻表を見た。


「あと九分」


「今度は乗るぞ」


「乗るよ。先、ちょっと持ってて」


 自分のアイスを俺へ渡し、鞄から小さいスケッチブックを出した。膝へ置こうとしたが、ベンチが日向で熱くなっていたので、立ったまま開く。


「何描くんだよ」


「手」


 俺は両手に一本ずつ、溶けかけたアイスを持っていた。


「この状態で?」


「そのまま」


 七緒は鉛筆を動かした。俺は棒を持つ位置を上げた。しずくが指へ来る前に食べてしまおうとすると、待って、と言われる。


「待ったら落ちる」


「食べるのはいい。手を、こっちへ戻して」


 言われた角度へ戻した。七緒のアイスが危なかったので、そっちも食べていいか訊いた。


「下から。上まで取らないで」


「すげえ注文」


「上が好きなの」


 俺は端だけ齧った。二本とも同じ味なのに、人のものだと思うと食べにくかった。


 七緒は紙から顔を上げ、俺の指を見て、また描いた。普段、人の顔を見て話すときより長い目だった。何か言わないといけない気がして手を動かすと、そこ、と鉛筆の尻で示される。


「手って、何が難しいの」


「つながってるところ」


「全部、つながってるだろ」


「だから難しいんじゃん」


 七緒は自分の左手を一度開いてみせた。親指だけを曲げ、手首の少し上の線を確かめた。


「こっち向きだと、指が一本隠れる。あると思って描くと、余る」


「四本でいいのか」


「見えてなかったらね」


 鉛筆が止まった。


「いま、格好つけた?」


「何が」


「指、伸ばしたでしょ」


「攣りそうだったから」


 七緒は疑わしそうに俺を見て、笑った。


「そんなに力入れなくていいよ。いつものほうが、描きたいんだけど」


 いつもの手と言われても、分からなかった。


 俺は肩を下げ、肘を少し体から離した。七緒のアイスが短くなったので、最後の一口を本人へ差し出す。彼女は鉛筆を唇へ挟もうとしてやめ、俺の胸のポケットへ突っ込んでから、棒を受け取った。


「モデル、動きすぎ」


「仕事内容、先に言ってくれ」


「お金はアイスで、もう払いました」


「これ、飲み物のお返しだろ」


「じゃあ、一回で両方払ったことにしといて」


 七緒は空いた棒を包みへ戻し、俺の胸ポケットから鉛筆を抜いた。俺も残りのアイスを口へ入れ、棒を同じ包みへ重ねた。空いた右手を一度開くと、七緒はその手の甲を指した。


「それ、小学校のときの?」


 人差し指の付け根に、白い細い線があった。家の庭で、割れた植木鉢を片づけたときにつけた傷だった。


「よく覚えてるな」


「あのとき、うちまで絆創膏もらいに来たじゃん。血が出た指で、チャイム押すから」


「押すだろ。開けてもらわないと」


「別の指で押せばいいのに」


 俺は左手を見た。あのときも、こっちは空いていたと思う。


 七緒は傷を一本の線で描かなかった。周りを少し暗くして、その細いところだけ白く残した。


 小さいころから同じ道を歩いて、同じ家へ出入りしてきた。七緒の髪を切った日や、鞄が替わったことには気づかないと怒られるのに、自分の手に残ったこんな傷を、向こうは覚えていた。


「これ、前から描こうと思ってたの?」


「手は練習してる。前から」


「俺の」


 七緒の鉛筆が止まった。


 向かいの道へ車が来た。俺は一度そちらを見てから、答えを待った。


「航の手、いつも何か持ってるから」


 七緒は言った。


「鞄とか、机とか。この前も、私の紙袋、底からずっと抱えてたでしょ。ああいうとこ、描くの難しいんだよ」


「もっと大きいもの、持つか」


「持たなくていい。今、持ってないところ描いてるの」


 俺は笑った。七緒は、やっぱり話してると動く、と言いながら、消しゴムを使わずに続けた。


 バスが角を曲がってきた。


 俺が時刻表を見る前に、七緒はスケッチブックを閉じた。鉛筆を鞄へ戻し、空いた手へ小銭入れを持つ。


「終わり?」


「今日はここまで」


 バスへ乗ると、後ろのほうが空いていた。二人で座り、俺が窓を少し開ける間に、七緒はさっきのページを切り取った。


「はい」


「くれるの?」


「モデル料の残り」


 紙の中には右手があった。棒を持ったものと、何も持たずに少し曲げたもの。途中で線の切れている小指もあった。俺の手を描いていたと知らなければ、誰か分からないような絵だった。


 でも、傷のところが白く残っていた。


「顔も描いてくれよ。せっかくだから」


「時間が倍いる」


「そんなに?」


「文句言う時間が入るので」


 俺は紙を返すふりをした。七緒が手を出して受け取ろうとする前に、自分の鞄へ引っ込める。


「返さないんだ」


「もらったから」


 七緒は窓の外を向いた。笑っているのが、ガラスへ薄く映っていた。


 家へ帰ってから、手の絵は課題の本へ挟んだ。紙の上に、食べかけのアイスを持った指が一本だけ余って見えた。七緒にそう送ると、それは別の手です、と返ってきた。


 どっちも俺のだろ、と打った。


 そうです、とだけ来た。


 俺は挟む向きを直し、本を机へ置いた。


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