第四章 五人で一卓
八月四日
「一番辛くないものをお願いします」
志保さんが言った。
食堂のおばさんは、五枚のメニューを見回してから答えた。
「カレー以外なら、大体」
志保さんの指はカレーを指していた。
「カレーの中では」
「同じ鍋だからねえ」
千尋さんが手で口元を隠した。七緒は我慢せずに笑った。
俺たちは昼の食堂にいた。もとはセンターへ戻って食べる予定だったが、出先で雨に降られ、入口の軒先を借りたら、そのまま五人分の冷たいお茶が出てきた。
頼んでいないと言う暇もなく、おばさんは天井の扇風機を回した。
「五人なら、奥の卓くっつけて」
四人掛けの机が二つあった。
俺は椅子を一脚足せば済むと思ったが、おばさんは通路が狭くなるから、と机を寄せた。机の高さが少し違い、繋いだところに段差ができる。
美玖がそこへコップを置きかけ、ずらした。
「注文、そっちから」
そう言われて最初に答えた志保さんが、カレーで止まっていた。
「親子丼にします」
決め直して、メニューを閉じた。
千尋さんは日替わり。美玖は小さなうどん。七緒は冷やし中華。俺は焼きそばにした。
「冷やし中華は、まだ麺が来てないの」
七緒の指が止まる。
「何時に来るんですか」
「来れば作れるんだけど」
雨は入口のビニール屋根を叩いていた。
七緒は俺のメニューをもう一度開いた。俺は箸箱を引き寄せる。
図書館での用事は終わっていた。千尋さんは本を返し、美玖は写真の印刷方法を調べた。志保さんが以前の職場へ電話をするあいだに、俺と七緒は案内図の印刷を頼んだ。
帰り道で、俺が近道を指した。
七緒は、走れば間に合う、と言った。
結果は、五人とも濡れた。
「私、途中から歩いた」と美玖が言った。
「賢い。走った分、お腹すいた」と千尋さん。
俺は鞄を開けた。濡れたのは一番外側の案内図だけだった。七緒のポスターを抜いて渡すと、彼女は紙の角を確かめ、長く息を吐いた。
「よかった」
「中に入れといて正解だったな」
「走るのは駄目だったね」
「近道もな」
美玖が見ていた。
「二人とも、いつも?」
「何が?」
俺と七緒が同時に訊き返した。
美玖は、何でもない、と言った。
食堂の壁には、五月の野球大会の写真と、去年の盆踊りの写真があった。どちらも何人かが半分しか写っていない。入口の鴨居にぶら下がった風鈴は、風がないので音を立てなかった。
千尋さんが、水の輪を拭く俺の手元から台布巾を取った。
「そこ、机の継ぎ目。布入れると引っかかるよ」
細かい木屑が布に付いていた。彼女は濡れていない面へ折り返して、別の場所を拭いた。
「パン屋でも、よくやるの?」
七緒が訊く。
「机はあんまり。床のほうが大変。粉、いくら掃いても出てくる」
「パン、焼いてるんですか」
「朝は手伝う。形、揃わないけど」
千尋さんは両手で細長いものを作る仕草をした。
「丸いのが一番難しいの。簡単そうでしょ。私の、焼くと、こう」
片手の指が横へ開いた。
「隣にくっつく」
美玖が、あの二個繋がったの、と小さく言った。
千尋さんが顔を向ける。
「買ったことある?」
「安くなってたから」
「それ、私のかも」
美玖は少し困ったように、でもおいしかった、と足した。
「うん。味は変わらない。形を作ったのが私でも、生地は店長だから」
注文の品は、志保さんの親子丼から来た。
蓋を取ると湯気が顔へ掛かり、眼鏡が曇る。志保さんはそれを外して机へ置いた。箸を取ろうとして、向こう側の机の端を探る。
俺が箸箱を寄せた。
「ありがとうございます」
「見えないんですか」
「何かがあるのは見える。でも、それが箸なのか、爪楊枝なのかは怪しい」
次に運ばれてきたうどんへ、美玖は手を付けなかった。
七緒が、お先にどうぞ、と言う。
「待ったら伸びるよ」
美玖は千尋さんと俺を見た。千尋さんも頷く。そこでやっと箸を取った。
俺の焼きそばは最後だった。七緒の中華そばが来たとき、つられて鞄をどけたが、自分のところへ皿は来なかった。
「まだかかるって」
七緒が言う。
「聞こえてる」
彼女は蓮華で小さな肉を掬い、俺の取り皿へ置いた。
「待つ賃」
「誰が払ってんだよ」
肉は薄く、塩味が強かった。
志保さんの電話が鳴ったのは、全員の箸が揃って動き始めてからだった。
画面を見て、彼女は眼鏡を掛け直した。
「ちょっと、ごめん」
電話を持って入口へ行く。雨はまだ降っていたが、扉の内側なら声が聞こえた。
「うん。今、お昼だから」
俺は焼きそばの下から、薄い豚肉を探していた。七緒が自分の麺を少し俺の皿へ載せようとし、千尋さんが止めた。
「汁、跳ねる」
「あ、ごめん」
志保さんは外へ半歩出た。そこから先は、扉が閉まって聞こえなくなった。
五分ほどして戻った彼女は、親子丼の蓋を取った。冷めないように、千尋さんが載せていた。
「ありがとう」
それだけ言って、箸を取る。
電話は机へ置かなかった。
食べ終わるころには、雨の音は細くなっていた。おばさんが入口から空を見て、もう行けるよ、と言った。
俺が空いた皿を端へ寄せていると、入口のガラス戸が開いた。
「遅くなりました」
濡れた帽子の男性が、白い箱を二つ運び込んできた。おばさんは受け取りながら、七緒を振り返った。
「麺、来たよ」
七緒は空の丼を見た。
「もうちょっと早ければ」
「食べる?」
千尋さんが言う。
「入る場所がない」
「さっき、私の漬物も食べたから」
「漬物の場所はあるの」
おばさんは笑って、箱を台所へ運んだ。七緒は立ててあるメニューの、冷やし中華の写真をもう一度見た。
「これ、いつまでやってますか」
「暑いうちは。なくても、あれば作るよ」
「どっちなんだろう」
美玖が言った。俺も同じことを考えていた。
志保さんが鞄を膝に載せ、そこで初めて小さく笑った。
会計は一人ずつにしてもらった。七緒は財布を出す前に、椅子に置いたポスターへ手を伸ばした。俺がそれを持ち上げると、紙の下に敷いた案内図の角が垂れた。
「そっちは濡れてる」
「分かってる」
案内図を外すあいだ、七緒が反対側を支えた。川の青い線が雨で滲み、岸からはみ出していた。
「川、太くなったな」
「増水」
「近道、沈んでる」
「航が選んだとこね」
「走れって言ったのは七緒だろ」
紙の両側を持ったまま言い合っていると、後ろで小銭の音がした。
「先に払うね」
美玖が俺たちの脇を抜けていった。二人で道を塞いでいた。
七緒はポスターを俺に預け、財布を取り出した。俺は濡れた案内図だけを外へ向けて鞄の側面へ差した。乾いたら、明日も使えそうだった。
外へ出ると、白いシャツの男性が軒先にいた。
俺たちを見て、すぐに姿勢を正す。年は志保さんに近そうだった。片手に、透明な持ち帰り用の傘を持っている。
「志保」
志保さんは足を止めた。
「来たの」
「この辺りって聞いたから。センターで」
彼は俺たちへ頭を下げた。
「すみません。いつも、ありがとうございます。川瀬です」
志保さんはその横顔を見ていた。
「私が食事に来てるって、言った?」
「いや。図書館の帰りだって聞いた。そこの道で待とうと思ったら、見えたから」
千尋さんが少し離れた。七緒は隣で傘の水を払っているおばさんへ、ありがとうございました、と言った。
川瀬さんが志保さんの鞄を見た。
「送るよ。車、向こうに停めてある」
「今日はみんなと戻る」
「なら、乗れるだけ乗って。何人?」
五人です、と俺が答えかけた。
「亮太」
志保さんが呼んだ。
彼は彼女を見た。
「歩いて帰ります」
雨の落ちる音が、軒の隅で続いていた。
川瀬さんは傘を持つ手を変えた。
「分かった。じゃあ、これ」
志保さんは受け取らなかった。
「借りてまた返すの、大変だから。ありがとう」
川瀬さんの目が、俺へ動いた。
何を言えばいいのかは、分からなかった。俺は鞄を肩へ掛け直した。
「また連絡する」
川瀬さんが言い、志保さんは、うん、とも、いいえ、とも言わなかった。
歩き出してから、七緒が少しだけ先へ出た。角を曲がるまで、その歩幅のまま進む。
川瀬さんの姿が見えなくなってから、志保さんが言った。
「婚約者だった人」
俺は振り向いた。
彼女は濡れた歩道の、乾き始めたところを選んで歩いていた。
「今も、そうなのかもしれないけど」
千尋さんが、センターに戻りますか、と訊いた。
「うん。戻る」
それだけ決めて、俺たちは駅前の信号を渡った。
八月五日
七緒は、机の上へ魚を七匹並べた。
それぞれ、少しずつ尾の形が違った。目が大きいものと、小さいもの。鱗のあるものと、ないもの。一匹だけ、途中で気が変わったらしく、下半身が鉛筆のままだった。
「どれがいい?」
美玖が三枚目を指した。
「その隣」
「これ?」
「うん」
七緒は三枚目を退け、四枚目を中央へ持ってきた。
千尋さんが、最初の大きいのもいい、と言う。志保さんは絵ではなく、日付の文字を見ていた。
「十八時と十八日が近くて、ちょっと読み間違えそう」
七緒は鉛筆を口元へ当てた。
「日付、大きくするか」
港で行われる映画会のポスターだった。海の上に魚を飛ばし、堤防を歩く人たちを小さく描く。下の余白には、持ち物と、雨のときの案内が入る。
「どんな映画?」
千尋さんに訊かれ、七緒は裏の資料をめくった。
「冒険するやつ。子供が船に乗って、島へ行く」
「怖くない?」
「途中、ちょっと嵐。最後は戻る」
美玖が、言っちゃうんだ、と呟いた。
七緒は顔を上げた。
「あ」
志保さんが資料を持ち上げる。
「大丈夫。紹介文にも書いてある」
俺は入口で受け取った印刷見本を机へ置いた。七緒が見せてと言ったので差し出すと、彼女の眉が寄った。
「ここ、魚の顔、切れてる」
「紙の端は印刷できないって」
「だから枠の内側に入れたのに」
七緒は椅子を引きかけ、見本の裏の数字を見た。
「……私だ」
用紙いっぱいに拡大する設定だった。昨日、七緒が自分で決めていた。
彼女は鉛筆で顔を小さく描き直そうとした。
「魚を縮めるなよ。設定を戻せば入る」
俺は白い紙を四つに切り、見本の周りへ枠のように置いた。印刷される範囲の外を隠すと、残す場所が見えた。
「上の余白、もう少し使える。日付をこっちへやれば、魚はそのまま」
七緒は切った紙を動かした。
「雲が切れる」
「全部入れたいなら、紙を大きくするしかない」
「大きくできる?」
「貼ってもらう店の窓、塞ぐぞ」
七緒は窓を見てから、魚のほうを選んだ。
俺が枠を押さえ、彼女が日付の位置を決めた。ずれた一枚を直そうとして、二人の指がぶつかった。
「そっち持ってて」
「はい」
「違う。指じゃなくて紙」
「分かってるよ」
美玖が向かいで笑った。
七緒は俺の手をどけず、鉛筆で新しい印をつけた。
「顔、残った」
満足そうに言った。
新しい見本を持って部屋を出ようとして、浦瀬さんとぶつかりそうになった。
浦瀬さんは机の上の魚を見て、仕上がったら相談したいことがある、と言った。
「案内図のほう。休めるところの情報が古くて、今朝も一軒閉まっていたそうなの」
手元の紙には、喫茶店や休憩所に番号が振ってあった。
俺は紙を受け取り、地図の場所と見比べた。六か所のうち四つは、図書館からの帰りに通る道沿いだった。
「ポスターを印刷に出してからなら、昼過ぎに回れます」
「この紙、持っていっていいですか」と七緒が訊いた。
浦瀬さんは二人の前へ、もう一枚、連絡済みの施設の一覧を置いた。急ぐところには、すでに職員から連絡しているという。
千尋さんが料理本を閉じた。
「私も行く。南のほう、知ってる店があるから」
志保さんは自分の電話を確かめた。
「私は返事待ち。歩いても出られるから、一緒に行ける」
美玖は七緒の画板に残った魚を見てから、一覧へ目を移した。
「入口、撮ろうか」
「お願いします。案内図の印だけでは分かりにくいと言われていて」
浦瀬さんが答えた。
俺は表を六行に分け、元の地図の番号と店名を同じ欄へ書いた。空いているところには、時間、水、入口、と見出しをつける。七緒が持っていく見本を重ね、志保さんが書き込み用の紙を数えた。
千尋さんが、最初は坂の上からのほうが楽だよ、と道を指した。俺は番号を振り直さず、回る順だけ端へ書き足した。
最初の施設は、入口に三段の階段があった。
志保さんと俺が横の通路を見に行くと、裏へ上がるゆるい坂があった。扉は閉まっていて、その脇に呼び鈴がついていた。
押すと、中で遠い音がした。しばらくして、エプロンを着けた女性が扉を開けた。
「前で待ってるのかと思った」
女性は俺たちの紙を見て、休憩の人が来たときもここを開けるのだと説明した。水は出せる。ただ、店に出ていると、裏の呼び鈴に気づくまで時間がかかることがあるという。
志保さんが時計を見て、扉の位置と呼び鈴の場所を紙へ描いた。
「前に、ここへ回る案内を貼ってもいいですか」
俺が訊くと、女性は、あったほうがいいね、と答えた。
七緒と美玖も裏へ来た。七緒は細い紙へ矢印を描き、女性と一緒に表の入口へ戻った。美玖は坂の始まるところから写真を撮った。
俺は表の欄を一つ広げた。段差の有無だけでなく、裏口へ回ることと、扉が開くまで少し待つことを書き込んだ。
七緒が戻ってきた。
「表に貼ると、こっちがどこか分かりにくい」
志保さんは建物の角も入れて図を描き、美玖が表から見た写真をもう一枚撮った。あとで紙の上へ、同じ場所だと分かるように並べることにした。
次の店では、千尋さんが店主と顔見知りだった。
「千尋ちゃん、戻ったんだねえ」
そう言われた瞬間、彼女の肩が少し上がった。
店主はカウンターの中から出てこようとしたが、揚げ物のタイマーが鳴った。
「ごめん、待って」
「先に油、見て」
千尋さんが言うと、店主は慌てて戻った。
俺たちはそのまま入口で待った。
千尋さんは、いい匂い、とだけ言った。
店主が戻ってきてから、休憩する人を受け入れられる時間を確かめた。昼の混む時間は難しい。午後なら席が空く。ただし、お茶だけで長くいる人には、最初に声を掛けてほしいという。
「去年、それでお客さん同士が喧嘩しちゃって。片方は注文しなきゃ駄目だって言うし」
七緒は案内の余白へ、先にお店の人に声をかけてください、と書いた。
美玖は許可をもらって入口の写真を撮った。俺は店名を控える。
三か所目は、商店街の小さな待合所だった。
水の出る蛇口があり、長椅子が二つあった。入口から見たときには、片方が涼しそうに見えたが、座ると、屋根に溜まった熱が背中へ来た。
千尋さんは端へ移った。
「こっち、風がある」
俺も一つ分ずれると、首の後ろへ風が抜けた。通りからは見えなかった小窓が、椅子の背より高いところで開いていた。
志保さんは日傘を畳み、少しだけ目を閉じた。美玖が入口の写真を撮り終え、俺たちの隣へ座った。
七緒は案内の見本で胸元を扇いでいた。
「もう、普通に休憩してる」
「使えるか調べてる」と俺は答えた。
「じゃあ、もうちょっと調べよう」
五人とも立たなかった。千尋さんは水筒を回すような仕草をしかけて、自分の分しかない、と笑った。俺たちはそれぞれ鞄から飲み物を出した。
ここを使う人も、坂を歩いてくるのだと思った。俺は時間の欄の横へ、小窓の側の席、と書いた。七緒がその文字を覗き、入口の図に小さく窓を足した。
出る前に、俺は入口へ回り、掲示板へ貼られている利用時間をもう一度見た。午後五時までだった。
美玖が、そっちも撮っておく、と電話を上げた。
六か所回るころには、俺の表は三人の筆跡で埋まっていた。
七緒は案内文の、「自由に休憩できます」を二つ消していた。自由と言われるほど、入っていいのか迷う場所があった。
志保さんは建物の形を描き、美玖は入口の写真を見せた。千尋さんの覚えていた店は、今月はお昼も休まず開けるという。俺が知らなかった細い路地で、ほんの少し近道をした。
「ここ、去年までは通れなかった」
俺が言うと、千尋さんは、春に柵がなくなった、と答えた。
道を出たところで、港が見えた。
桟橋には小さな船が一隻ついていた。乗る人は数人しかいない。船員が綱を外すと、船体が一度、岸から離れて戻った。
七緒が手すりへ近づいた。
「島、近いよね」
港の向こうに、緑の低い島があった。白い防波堤がその手前に突き出ている。
「船、二十分くらい」と俺。
「航、行ったことあるの?」
「小学校で」
「私もそのとき一緒だったんだけど。そのあと」
「ない」
美玖が、私はある、と言った。
「去年。写真撮りに」
七緒が振り向く。
「何がある?」
「坂」
千尋さんが吹き出した。
「ほかには」
「また坂」
美玖は真顔のまま答え、それから少し笑った。
「猫もいた」
志保さんが船の時刻表を見に行った。俺は後を追ったが、彼女は時計と見比べて、今日は無理、と言った。
「いまの便、行くところだから」
船から低い音がした。七緒が振った手に、甲板の子供が手を振り返した。
俺たちは船が防波堤を回るまでそこにいた。
仕事は終わっていたが、すぐにセンターへ戻ろうとは、誰も言わなかった。
戻ると、浦瀬さんが机を一つ増やしていた。
他の部屋で使わなくなったものらしく、脚の先に青いテープが巻かれている。脚立を抱えた柏木さんが、机の裏を覗き込んでいた。
「四脚、持ってきましたよ」
柏木さんが俺に言った。壁際に、畳まれた椅子が四つあった。
「あ、ありがとうございます。覚えててくれたんですね」
「書いたからね。机も空いたので、ついでに」
開いた作業票に線を引き、小さな丸をつける。初日に使っていた、短い鉛筆だった。
俺が椅子を開くと、七緒も隣で一脚広げた。
「五人で座れる」
「足りなかったら、また言ってください」
柏木さんは机を押した。少し揺れたので紙を取ろうとしたが、志保さんが脚の下の床の溝を指した。
机をずらすと、揺れなくなった。
「助かりました。椅子も、脚を疑う前にそっちを見ます」
彼は脚立を壁へ立て掛け、窓の金具を調べた。鍵が引っかかっていると、午前中に職員が連絡していた。
俺たちは隣の机で、調べた紙を揃えた。印刷できる文章に直すのは職員の仕事で、俺たちの表はそのまま浦瀬さんへ渡した。
「写真も、送れるものだけお願いできますか」
美玖が電話を持って、浦瀬さんの机へ行った。
千尋さんは保冷袋を片づけ、明日は家の片づけをしたいから、午前は来ないかも、と言った。志保さんは管理会社から返事が来たと知らせた。
「六日に会ってくれる。明日」
俺は手帳を出した。
「何時ですか」
「十一時。ただ、来てもらっていいか、先に話しておくことがある」
七緒が画板を机からどけた。
志保さんは小封筒を取り出した。口を開くと、中から折り畳んだ薄い紙が出てきた。
部屋の図面だった。
「あの部屋、私が借りようとしてたところなの」
千尋さんが鞄を下ろした。美玖も電話を持ったまま戻ってくる。
「一人で住むつもりで、四月に」
志保さんは図面の角を押さえた。
「家族には、言ってなかった。亮太にも」
窓際で金具の音がした。柏木さんが、閉まります、と職員を呼んだ。
俺は声を落とした。
「どうしてですか」
志保さんは答えようとして、やめた。
七緒が椅子を引いた。
「相談室、空いてるか訊いてくる」
千尋さんが図面を畳まず、七緒の画板で隠した。
相談室では、志保さんが真ん中の席に座った。
いつも入口に近い端を選ぶ人が、今日は自分から奥へ行った。俺たちは向かいへ二人、左右へ一人ずつ座った。
彼女は図面を広げ直した。
「母には、今も、少し気持ちが変わっただけだと思われてる」
声は大きくなかった。けれど、さっき机で話していたときより、終わりまで聞こえた。
「八月だから気持ちが揺れてるんだろうって。亮太と会いたくない日もあるんだろうって。そういうことじゃないのに」
美玖は鞄を椅子の下へ置いた。
「四月には、もう?」
志保さんが頷いた。
「別れようとしてた。仕事も、変えるつもりだった」
彼女が亡くなった日の報道を、俺は思い出した。
職場からの帰宅途中。結婚を控えていた女性。
その言葉のどちらに何が含まれていたのか、俺は考えたことがなかった。
「警察には」
訊くと、志保さんは頷いた。
「最初の日に話した。部屋のことも、亮太と話をするつもりだったことも。だから、そちらへ黙っていたわけじゃない」
俺の手帳へ目が向いた。
「でも、家族に説明するのは、私がしたいってお願いしてある」
俺は手帳を閉じた。
「ここに来ると、みんな、戻ってよかったねって言ってくれるでしょう」
志保さんは図面の細い玄関を指で辿った。
「それは本当にそうなの。ただ、私が戻れば、前の話も全部元に戻ると思われてて」
七緒は膝の上で両手を組んだ。
「それで、あの部屋に?」
「そう。もう借りられないのは分かってる。契約を進める前に終わったから。私の部屋だったことは、一度もない」
彼女は図面から手を離した。
「でも、あそこへ行けば、自分が何を決めてたか、もう一度ちゃんと分かる気がして」
千尋さんが頷いた。
俺は、明日、何を手伝えばいいですか、と訊いた。
志保さんは少し考えた。
「終わったあと、ご飯を食べたい」
誰もすぐには答えなかった。
「昨日みたいに。聞いてほしいことがあるかもしれないし、何も話せないかもしれないけど。一人で帰ると、また家で説明しないといけないから」
千尋さんが自分の予定を確かめた。
「片づけ、午後でもいい。お昼には行ける」
美玖は短く、行く、と言った。
七緒が俺を見た。
「席、今度はちゃんと五人で座れるとこ」
俺は頷いた。
「カレー以外があるところ」
志保さんが付け足した。
千尋さんが、昨日の店にもあった、と言い、志保さんも今度は笑った。
相談室を出る前に、七緒が連絡のためのグループを作った。名前の欄に迷い、ひとまず、五人席、と入れる。
最初の連絡は、明日のお昼の場所を決めることだった。
美玖が、五人座れる店、と送った。
まだ、誰も相談室を出ていなかった。
五台の電話が、少しずつずれて鳴った。




