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第三章 最後にいた場所


八月三日



 駅前の案内板には、観光地へ向かう矢印が四本あった。


 港まで八分。展望台まで二十五分。砂浜まで十五分。古い灯台までは、バスの絵だけが描かれている。


 その下に立つ宮内さんは、上着を着ていなかった。腕に掛けてもいない。今日は白いシャツの袖を一折りしていた。


「暑いので、途中で休みを入れます」


 彼が言うと、千尋さんが保冷袋を持ち上げた。


「水、余分にあります」

「ありがとうございます。ただ、皆さんが持つ分はご自身で飲んでください。こちらも用意しています」


 少し離れたところに、もう一人の警察官がいた。女性で、薄い灰色の服を着ている。宮内さんと同じように、俺たち一人ずつへ名前を名乗った。


 ここへ来ることになったのは、昨日、図書館の帰りに志保さんが言ったからだった。


 戻ってきた場所を、昼間に一度見ておきたい。


 あそこからどうやって北の住宅地へ行くつもりだったのか、自分の足で確かめたい、と。


 千尋さんも、自分の場所を見たいと言った。美玖はそのときは答えなかったが、夕方、七緒に、みんなとなら行く、と連絡してきた。


 浦瀬さんを通して宮内さんへ相談すると、同行するという返事があった。すでに聞き取りで確認したことを、俺たちにもう一度話す必要はない。そう念を押されていた。


 俺の手元にあるのは、図書館でもらった町の地図だけだった。


 七緒は日焼け止めを塗り直している。腕の途中に白い筋を残し、美玖へ貸した。


「耳の後ろも」


 美玖が耳へ手をやった。


「ここ、塗るの?」

「焼けると痛いよ。髪、結んだとき」


 俺は用意した順路を広げた。三か所を短くつなぐなら、美玖の場所、千尋さんの場所、志保さんの場所という順になる。


 宮内さんが、最初はどなたから、と訊いた。


「私からで」


 志保さんが答えた。


 俺は地図を畳んだ。



 北口から十分ほどの休憩所は、俺が思っていたより小さかった。


 遊歩道の脇へ、ベンチ二つ分だけ道が膨らんでいる。屋根はない。街路樹が三本、細い影を落としていた。すぐ後ろには月極め駐車場があり、金網越しに車の後部が見える。


 志保さんはベンチを見たあと、遊歩道の先を確かめた。


「ここからだったら、あっちへ行く」


 右を指す。俺は昨日彼女が歩いた道を思い出した。二〇三の部屋がある建物は、その方向だった。


 宮内さんは、どちらのベンチでしたか、と訊いた。


「奥です」


 志保さんは座らなかった。ベンチの端から二歩ほど離れたところに立ち、靴先を揃える。


「座って、鞄をここへ置いて」


 右隣を示した。


「電話を見た。返事をしようか迷っていたのは覚えてます」


 宮内さんが頷く。


「その内容は、今ここでお話しいただかなくて大丈夫です」


 志保さんは一度だけ彼を見た。


 俺は歩道の方角を地図へ書いた。七緒は何も書かず、志保さんと並んで立っている。


「四月も、この木はこんな感じでした?」


 七緒が訊いた。


「もっと葉が少なかった。上を見たから、覚えてる」


 枝の間から、小さな空が見えた。


「何かいました?」


 俺が訊くと、志保さんは首を振った。


「何も。ただ、まだ明るいんだなって思っただけ」


 ペンの先が止まった。


 宮内さんは、そのことを書き留めた。俺は自分の紙に、明るい、と書こうとして、ここでは季節の話なのか時刻の話なのかも確かめていなかったと気づく。


 道の向こうから自転車が来た。俺たちは端へ寄った。


 前籠に長葱を差した女性が通り過ぎる。志保さんの前で少し速度を落としたが、何も言わずに走っていった。


 美玖がベンチの脚を見ていた。


「花、あったんだ」


 地面に、四角く色の違うところがある。小さな容器を置いていた跡らしかった。


 志保さんはそちらへ目を落とした。


「一昨日、私がここへ戻ったって分かってから、置いてくれたんだって。母があとで通ったら、お花とお茶があったって」


 千尋さんが自分の水筒を握り直す。


「私のところも、戻ってきた朝に。線香まで置いてあって、店の人が火を消してたって、お父さんが言ってた」


 志保さんが、もう一度空を見た。


「花を置いてくれた人に、ここで死んだって思われてるのかな」


 宮内さんはすぐには答えなかった。


「そう思っていらっしゃる方も、いるかもしれません」

「私も、分からないんですけどね」


 志保さんは言った。


「ここに戻ったから、ここだったのかなって。一瞬思った。でも、そこから運ばれたのかもしれないんですよね」

「はい。最後に意識のあった場所と、亡くなった場所が同じとは限りません」


 彼女は頷いた。


 俺たちが立っている場所から、ニュースで見た雑木林は見えなかった。


 その間にどれだけの道があったのか。車で通ったのか。雨は降っていたのか。


 志保さんの記憶には、どれもない。


「もう、いいです」


 彼女が言った。


 宮内さんが次へ進もうとすると、美玖が小さく手を挙げた。


「撮ってもいいですか」


 電話を胸の高さへ持っていた。


 志保さんは美玖の見ている先を確かめ、頷いた。


「私、どけばいい?」

「いえ。その、木の上を」


 美玖は少し角度を変えた。


 シャッターの音がして、画面の中に、葉の間の空が残った。



 東口へ戻る途中、俺は宮内さんに訊いた。


「三人とも、別の場所で見つかったんですよね」


 宮内さんは歩みを少し緩めた。


「報道にあった範囲で、そうです」

「戻った場所には、何も残ってなかったんですか」

「何が残っていたかは、お話しできません。確かめる必要のあるところは、私たちが調べています」


 俺は頷いたが、たぶん顔には出た。


 宮内さんは、君には分からない、とも、任せておきなさい、とも言わなかった。


「ここまで一緒に来た人として、知りたいのは分かります。ただ、皆さんにお伝えしてよいことと、ご本人にだけお伝えすることは分けています」


 俺は彼の手帳ではなく、前を歩く三人を見た。


 千尋さんが水筒を開け、志保さんに何か話していた。美玖は二人の半歩後ろを歩く。七緒は反対側から、美玖の電話の画面を覗いた。


 声を低くしたから聞こえていない、という保証もなかった。


「すみません」

「いえ」


 宮内さんは交差点を見て、前の四人に、こちらの信号で渡りましょう、と声を掛けた。



 千尋さんの戻った軒下には、洋品店の名前の一文字だけが残っていた。


 取り外した看板の釘の跡が、壁に等間隔で並んでいる。シャッターは下りたままで、その前へは商品台の足跡が白く残っていた。


「ここ、子供のとき靴下買った」


 千尋さんは通りの反対側に立ったまま言った。


「三足五百円で、同じ色にすれば片方なくしてもいいって、お母さんが。でも、お父さんのと混ざっちゃって」


 七緒が、足の大きさ、違いませんか、と訊いた。


「洗うと縮むんだよ。安いから」


 千尋さんは笑った。すぐに口を閉じる。


 宮内さんは信号を確かめた。通りを渡ってから、千尋さんが自分で軒下へ入るのを待った。


 歩道の一部が、建物に沿って一段高くなっていた。千尋さんはそこに片足を置いた。


「雨が止むまで、ここで待ってた。鞄を置いて、靴も直した。踵が痛くて」


 今履いているのは、底の柔らかい運動靴だった。


「前の靴は?」


 俺が訊くと、彼女は少し考えた。


「家。戻ってきたときのは、履きたくなくて」


 七緒が俺を見た。責める目ではなかったが、俺は口を閉じた。


 千尋さんは片足を下ろした。


「電話をしたのは覚えてる。お父さんに。パン屋を出て、信号のあたり。何時だったかは、今朝教えてもらった。六時二十三分だって」


 記憶と、あとから聞いたことを、ゆっくり分けて話した。


「ここまで来たのも、少し覚えてる。シャッターが閉まってて、もうそんな時間なんだって。でも、お店はもっと前から閉まってたのにね」


 彼女は剥がれた看板を見上げた。


 歩く人の姿は、通りのこちら側にはなかった。道路の向こうに小さな食堂があり、換気扇が回っていた。もう少し先の交差点には、家庭用品の看板が立っている。


 俺は、どうして西口へ行かなかったんですか、と訊きかけた。


 同じことを一昨日、彼女自身が言っていた。


「家へ帰るつもりだったかどうかも、今は自信なくて」


 千尋さんが先に言った。


「みんなに、いつもの道はどっち、って聞かれて。いつもは西って答えるんだけど、いつもじゃない日もあるよね」


 宮内さんが頷いた。


「あります。その日にしていたことが、一つずつ分かればと思っています」


「買い物、したかったのかも」


 千尋さんは言ってから、すぐに付け足した。


「でも、何を買いたかったかは、まだ分からない」


 俺の地図には、駅を挟んで線が二本引いてあった。


 実際にいた場所へ向かう線と、いつも帰っていたという家へ向かう線。


 どちらにも、千尋さんが何をしたかったのかは書けていなかった。



 休憩に入った喫茶店で、千尋さんはメニューの端を押さえたまま黙った。


 値段を見ているのかと思った。けれど目はもっと下にあり、そこには、ランチにつきます、と小さく書かれていた。


「お昼、どうするんだっけ」


 誰にともなく訊いた。


「今日はセンターに戻ってからです」


 俺が答えると、千尋さんは時計を見た。


「じゃ、間に合うか」

「何に?」と七緒。

「お父さんのお弁当、ちゃんと冷めてから包んだかなって。今日、急いで出たから」


 鞄を開け、電話を取り出した。画面を見てから戻す。


「仕事中だった」


 志保さんが、夕方訊けばいい、と言った。


「うん」


 千尋さんはメニューから指を離した。


 宮内さんたちは隣の卓にいた。こちらの話を聞いているようにも、聞いていないようにも見えた。美玖は窓際に座り、水の入ったコップの結露を紙ナプキンで拭いた。


 氷が小さく鳴った。


「私のところは、行かなくていいかも」


 俺は顔を上げた。


「疲れた?」


 美玖は首を振った。


「見ても、たぶん何もないから」


 俺は、そんなことない、と言いそうになった。


 何かがあると約束できるわけではなかった。


 七緒がコップを持ち上げた。


「今日はやめとく?」


 美玖は窓の外を見た。歩道を日傘が一つ通る。


「みんなは、見たい?」


 七緒は返事をせず、美玖を見た。


 俺は自分が開いた地図を閉じた。行かなかった場合の道を探していたことに気づき、鞄へ戻す。


 美玖はナプキンを半分に折った。


「ちょっとだけ、行く」


 志保さんが頷いた。


「それで、戻ろう」



 バスの転回場は駅から東へ離れたところにあった。


 海沿いを走る路線の終点で、乗客を降ろしたバスが大きく回って折り返す。待合所にはベンチが三つ、時刻表と、忘れ物の傘が入った筒があった。


 美玖は待合所を通り過ぎた。


 その裏手に、使われなくなった売店があった。波板の庇が道路へ張り出し、下に古いジュースの箱が積まれている。自動販売機が一台、低い音を立てていた。


「こっち」


 美玖は庇の手前で止まった。


 七緒が日向のまま立っているので、俺は半歩ずれた。彼女は美玖の靴先を見てから、自分も庇の内側へ入った。


「雨だった」


 美玖が言った。


「電話、濡れるから、しまって」


 Tシャツの裾へ手をやった。その先にポケットはない。探す仕草だけが途中まで出て、止まった。


 宮内さんは少し離れたところに立っていた。


「お話しできるところまでで」


 美玖が頷いた。


「音がしてた。バスの音。近くで」


 そのとき、転回場のほうでエンジンが掛かった。


 美玖の肩が上がった。七緒が手を伸ばしかけ、途中で止める。


 バスは低い振動を残して発車した。


 美玖は息を吐き、庇の端を見た。


「こういうの。それだけ」


 宮内さんが頷いた。


「ありがとうございます。ここまでにしましょうか」


 美玖はすぐには動かなかった。


 鞄から電話を出す。昨日、母親と一緒に写真の保存先へ入れたのだと聞いていた。中身を全部見せたくはない、と美玖が言い、手続きを手伝った浦瀬さんも、そのあとはこちらを見なかった。


 画面を何度か送って、美玖は宮内さんへ差し出した。


「これ、さっきの雨の前」


 宮内さんは、こちらで見てもいいですか、と訊いた。美玖は、みんなも、と言った。


 細い道の写真だった。


 塀の上に、夕方の空がわずかに残っていた。正面には誰もいない。道路の端で、水の入った小さな窪みだけが白く光っている。


「これ、どこ?」


 七緒が訊いた。


「分かるところと、分かんないところがある」


 美玖は画面を拡大しなかった。


「撮ったときは、光がきれいだと思った。それは覚えてる。でも、どこの角だったかが、分からない」


 俺は背景に店の名前がないか探した。七緒は写真の下側を見ている。


「ここの線、踏切のとこじゃない?」


 黄色いものが、隅に少しだけ写っていた。


 宮内さんは判断せず、元の画像が保存されているか、美玖へ確かめた。


「今、ここで場所を決めなくて大丈夫です。写真をお預かりして調べるかどうか、センターへ戻ってから相談しましょう」


 美玖は電話を戻した。


「撮ったの、十八日。死んだ日」


 口に出したあと、眉間へ皺が寄った。


「みんな、そう言うから」


 俺は庇の外へ目を向けた。日向を横切った人の影が、白い線の上で途切れた。


 美玖にとっては、写真を撮った日の続きだった。


「写真、もう少しある」


 彼女は言った。


「でも、全部事件のために撮ったんじゃない」


 宮内さんは、はい、と答えた。


「見てほしくないものは、先に言ってください。必要なものをお願いするときには、その理由もお話しします」


 美玖は電話を鞄の内ポケットへ入れた。


 帰り道、俺たちは待合所の自動販売機で飲み物を買った。美玖が財布を出すと、小銭が床へ落ちた。七緒が拾った百円を渡し、千尋さんが奥へ転がった十円を足で止めた。


 缶のお茶が出てきた。


 美玖はそれを頬へ当て、目を閉じた。



 町民センターへ戻ると、食堂の机はすでに拭かれていた。


 残してもらっていた弁当を別室へ運び、五人で食べた。宮内さんたちは美玖と母親への説明を済ませてから、仕事へ戻った。今日話したことの訂正があれば、いつでも知らせてほしいと言い残していった。


 七緒は割り箸の袋を細く折っていた。


「踏切じゃなかった」


 口の中のものを飲み込んでから言った。


 美玖が頷く。


「同じ日に撮った別の写真があって。黄色いの、工事の柵だった」

「先に言っちゃってごめん」

「ううん。私も、一瞬、そうかもって思った」


 俺は食べ終えた弁当箱を横へ寄せた。地図を開くと、三つの場所につけた丸の一つに、汁の跡が重なっていた。拭こうとしたところで、七緒が薄い紙を出した。


「こっちに写したら。元の地図、読めなくなるよ」


 紙は三枚あった。俺はまず駅と線路だけ写し、一枚ずつ三人の前へ置いた。


「いつもの帰り道も、書いてもらえますか」


 千尋さんは箸を置いた。赤い鉛筆を取ると、店からまっすぐ西へ線を引きかけ、途中で先を浮かせた。


「ここ、横断歩道ないんだ」


「じゃあ、こっちの信号ですか」


「そう。でも、私、毎日は渡らない。向こうの店で買うものがある日だけ」


 鉛筆の先は、角の小さな空白を回った。俺の地図では店の名前が省かれていた場所だった。


「八百屋さん?」


「の、前の揚げ物屋さん。コロッケが安い日があって。お父さんが先に帰れる日は、そっちで買ってきてくれる」


 千尋さんはその店へ小さな丸をつけた。


「でも、知らないで私も買うから、六個になる」


「食べられます?」と七緒。


「お父さんは食べるよ。五個くらい、普通に」


「千尋さんのが一個になる」


「私が先に二個取っとくの」


 今朝作った弁当には、その店のものを入れなかったらしい。家へ帰れば夕飯がいる。そう思っている千尋さんの鉛筆は、最後まで止まらず、細い路地の先へ家の印をつけた。


 六月十七日の線は、その隣へ引いた。


 駅前の信号までは同じだった。そこから東へ向かい、洋品店で止まった。


「こっちは、配達でも通りますか」


「うん。自転車のときは。ただ、あの日は配達じゃなかった」


 彼女は店の先へ鉛筆を置いた。さっき通りから見た家庭用品の店がある方向だった。


 紙へ触れる前に、鉛筆を立てた。


「行ったことに、なっちゃうね」


「その先は空けておきます」


 俺は彼女の引いた線の端へ、丸だけつけた。千尋さんは鉛筆を返さず、普段の帰り道のほうへ、小さい丸をもう一つ足した。


「ここも寄る。郵便局。電気のお金払うの、忘れそうになるから」


 地図を見ただけでは、そこへ行く用事の違いまで分からなかった。


 美玖は青を選んだ。


 最初の一本を引く前に、地図を半回転させた。


「こっち向きのほうが、分かる」


 俺も椅子を回した。紙の上の海が向こう側へ行き、俺の家のある坂が下になった。同じ町なのに、どこを見ていいか、一瞬分からなくなる。


「学校からなら、ここを下りる。でも、暑かったら、一本こっち」


 美玖の線は、道路の真ん中を通らなかった。建物の横へ寄り、角の手前で細く曲がる。


「木があるから?」


「壁の影。こっちの道、午後だと全部日陰になる」


 七緒が身を乗り出した。


「それ、明日通りたい」


「遠回りだけど」


「涼しいほうがいい」


 美玖は日陰になるところへ短い線をいくつも並べた。青が濃くなったところで手を止め、写真を撮るなら反対側、と細く書いた。


「なんで?」


「こっちからだと、影の形が見えるから」


 七緒は紙の上で、二本の道を指で歩いた。美玖がその指の横を、鉛筆の丸いほうで叩いた。


「そっちは塀。通れない」


「あ、出口だと思った」


 美玖が少し笑った。俺は使っていない紙を一枚横へ置き、その塀の切れ目の形を書いてもらった。線が一つ増えると、急に、午前中に見た狭い道に似てきた。


 志保さんは最後まで鉛筆を選ばなかった。


 自分の前の紙を、指で軽く押さえていた。窓から風が来るたびに、角だけ浮いた。


「ここへ行った理由は、もう少ししてから話してもいい?」


 北の休憩所だった。


「はい」


「隠すつもりではないんだけど。私が順番を間違えると、ほかの人から家へ話が行くかもしれなくて」


 志保さんは、窓のほうを一度見た。隣の部屋で、誰かが家族を電話へ呼んでいた。


 俺は緑の鉛筆を、紙の脇へ横に置いた。


「今は、どこまで書いておきますか」


「駅から、ここまで。道は覚えてる」


 志保さんは自分で鉛筆を取った。駅を出て北へ向かい、角を二度曲がる。休憩所の印へ着いてからも、先端を紙から離さなかった。


 ほんの少し、先に進みかけた線があった。


「この先も、行くつもりだったんですか」


 俺が訊くと、彼女は顔を上げた。


「うん。行けなかったけど」


 消しゴムを渡そうとして、やめた。志保さんは出かかった線をそのまま残し、脇に、ここまで覚えている、と書いた。


 俺は三枚を重ねた。


 青と赤と緑は、一つの場所へ集まらなかった。千尋さんの家まで帰る線と、実際には帰れなかった線が、薄い紙を通して同時に見える。志保さんの行こうとした先は空白で、美玖の道には、帰り道とは関係のない影の形まであった。


「これ、また見せて」と美玖が言った。


「うん。書き足せるようにしておく」


「私の道、勝手にまっすぐにしないでね」


「そんなことしないだろ」


「航なら、近道ありますって言いそう」と七緒。


 俺は地図の端の、揚げ物屋へ回る線を指した。


「ここは通る。コロッケの日なら」


 千尋さんが笑った。


「じゃあ、お父さんの分まで買わないでよ。三人で買ったら、九個になる」


 美玖は弁当の残りへ箸を伸ばした。志保さんも、冷めてしまったお茶を一口飲んだ。


 地図を鞄へ入れる前に、俺は三枚とも右上へ名前を書いた。重ねる順番が変わっても、誰の道か分かるようにした。


 志保さんは鞄から管理会社の電話番号を出した。


 千尋さんは父親から届いた返事を読んだ。弁当は大丈夫だったらしい。少しだけ肩が下がった。


 美玖は電話の写真を一枚、七緒へ見せた。


 木の上の空だった。今日撮ったものだ。


「すごい。ほんとにここだけ青い」


 七緒が言うと、美玖は画面を指で少し動かした。


「端、入れると駐車場が写っちゃうから」


「それも見てみたい」


 美玖は一つ前の写真へ戻した。


 車が三台、枝の下に並んでいた。空は狭くなったが、その写真も俺には悪くないと思えた。


 志保さんが椅子を寄せて、画面を見た。


「そっち、もらってもいい?」


 美玖が頷いた。


 紙コップを捨てに立つと、俺の地図の端が机からはみ出した。風で持ち上がりそうになったところを、千尋さんが保冷袋で押さえた。


「明日、何時にする?」


 彼女が言った。


 俺は地図の横へ、別の紙を置いた。


 今度はまず、明日したいこと、と書いた。


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