第二章 名前を呼ぶ日
八月一日
呼ばれていた名前の持ち主は、玄関のすぐ外にいた。
麦藁帽子を胸へ当てた小柄な老人で、呼ぶ声がするたびに、はい、と返事をしている。声のする受付からは、開いた扉が邪魔になって見えないらしい。
七緒が扉を押さえた。
「ここにいらっしゃいます」
受付の女性が身を乗り出し、老人はもう一度、はい、と言った。
「お耳が遠いのかと思って」
「わしもそっちがそうかと」
二人とも少し困った顔で笑った。
志保さんはその横で靴を履き替えた。踵へ指を入れ、二度、爪先を床へ当てる。さっきまで膝に抱えていた鞄は、肩に掛ければ普通の通勤鞄に見えた。
「駅北の公園を通ります」
俺が伝えると、彼女は首を振った。
「公園の手前で曲がって。裏の道に出たいから」
案内図を開き直す前に、七緒が玄関の日陰を指した。
「外、暑いです。ここで決めよ」
午前九時を回ったばかりなのに、日向へはみ出した靴の先が熱かった。
志保さんの指した道には、店も公共施設もなかった。古い家の間を抜け、その奥にある集合住宅の前へ出る。俺が線を引くあいだ、彼女は腕時計を見た。文字盤の内側が曇っている。
「動いてない」
七緒に見せるでもなく言い、耳へ近づけた。
「電池かも。しばらくしまってあったから」
「駅に時計屋ありますよ」
「うん。あとで寄る」
時計を外して鞄に入れる。その仕草のあとで初めて、彼女がどれくらいの時間を飛び越えてきたのかを考えた。
担当用の紙に、亡くなった日は書かれていなかった。
この一年に亡くなった人が、一度だけ八月に帰ってくる。九月になれば去って、次の年にはもう来ない。
それでも、歩くのは俺たちと同じ今日の道だった。志保さんは横断歩道の手前で日陰を選び、信号が変わるのを待っていた。
北へ向かう道の途中で、志保さんは一軒の美容室を見た。
入口のガラスに閉店のお知らせが貼られ、椅子も鏡も運び出されている。
「ここ、なくなったんだ」
「六月だったかな。隣の市で娘さんと一緒にやるって」
七緒が答えた。
「私、ここで前髪を切ってもらってた」
志保さんは額へ手をやった。目にかかる少し手前で、髪を横へ払う。
「失敗してた?」
「いえ。うまかったです。私がいつも、前と同じで、って言うから」
七緒は、自分が客でもないのに慰めようとしていたことに気づいたらしく、そうなんだ、とだけ答えた。
住宅地に入ると、日陰の幅が増えた。軒に干されたシーツが風を吸って膨らむ。志保さんはその下をくぐるように歩き、茶色い二階建ての前で止まった。
一階に四つ、二階に四つの扉が並んでいた。階段の脇には空の植木鉢が重ねてある。二階の端の部屋だけ、窓にカーテンがなかった。
「ここですか」
「うん」
門はなかった。敷地との境には、色の違う舗装が一本走っている。志保さんはそこを越えず、集合ポストへ近づいた。
二〇三の名札には、何も入っていなかった。
封筒が鞄から出てきた。端に、黒いペンで数字が書かれている。中身を確かめる前に、志保さんはポストの横の管理会社の札を読んだ。
「電話、借りられる?」
俺が取り出すと、七緒がその前へ手を出した。
「支援室のにしません? あとから連絡が来るかもしれないし」
志保さんは少し考えた。
「番号だけ控えてもいい?」
「これ、使ってください」
手帳を差し出すと、彼女は開いてある予定表を見て、別の紙は、と訊いた。
俺は最後のページを一枚切った。
薄い紙を七緒の画板に載せ、管理会社の番号を書き写す。画板には、夏祭りのポスター案がクリップで留まっていた。雲の上に、描きかけの魚が浮いている。
「これ、空の魚?」
志保さんが訊いた。
「鯨にするつもりだったんですけど」
「尾が縦だから?」
「そう。航にも言われた」
俺は何も言っていない。今日は、という意味では。
志保さんは魚をもう一度見てから、電話番号を封筒にしまった。
「入らなくていいんですか」
俺が訊くと、彼女は二階を見上げた。
「今、誰かの部屋かもしれないから」
鞄の留め金を閉じた。
駅前まで行くのだと思って歩き出した俺の背中に、支援室へ戻ってもらってもいいかな、と声が掛かった。
戻ると、俺たちが運んだスリッパの箱は空になっていた。
浦瀬さんは電話を肩と頬で挟み、隣の机へ指を伸ばしている。届きそうで届かない紙を七緒が渡した。浦瀬さんが小さく頭を下げ、そのまま誰かの待ち合わせ場所を確かめた。
志保さんの電話は、奥の相談室で掛けることになった。七緒が付き添い、俺は戻ってきた札を受付へ返す。
「高瀬さん、こっちの方も、少しだけ一緒に待っていていただけますか」
浦瀬さんの指す机で、女の子が紙袋の口を折っていた。
俺たちより少し年上だろうか。髪を後ろで一つにまとめ、袖の短いシャツを着ている。紙袋に描かれた麦の穂に覚えがあった。駅前のパン屋の袋だった。
「佐伯です。すみません、忙しいときに」
「高瀬です。何か手伝えますか」
「人を待つだけなんだけど。ここで待ってていいって」
袋の口をさらに折る。もう中にパンがあるようには見えなかった。
俺が椅子を引くと、佐伯さんは椅子の背の紙を見た。
「それ、予約席じゃない?」
面談、と書いてあった。
「すみません」
「私に謝らなくても」
彼女が笑った。自分の椅子を少し横へずらし、隣の丸椅子を足で引き寄せようとして、うまくいかずに立つ。
俺が先に取った。
「ありがとう。足、短かった」
袋の中には、白いエプロンが畳まれていた。
「パン屋の人、ですか」
「うん。あそこで働いてた。もう聞いた?」
「何をですか」
佐伯さんの手が止まった。
俺の参加証を見てから、ああ、と言った。
「袋で分かったんだ」
「よく買うんです。四個入ってる小さいチーズパン」
「あれ、最後の一個が食べにくいよね。紙にくっついて」
「剥がすと下が残る」
「店長に言ったんだけど、敷く紙変えたら、今度は横へ転がるんだって」
彼女は紙袋を机へ置いた。
「今日、顔だけ出してきたの。店の人がお昼に来てくれる。エプロンは着替えなくていいって言われたんだけど、返さないままだったから」
「また働くんですか」
「どうだろ。食パン一本切るだけで、店長が後ろに立つから。指切りそうで、かえって怖い」
笑ってから、彼女は唇を結んだ。
「怪我したらいけないのは、前も同じなんだけどね」
相談室の扉が開いた。志保さんと七緒が戻ってくる。
七緒は丸椅子を見るなり、私のは、と口を動かした。俺が立とうとすると、佐伯さんが反対側にあった椅子の上の箱を持ち上げた。
「これ、どこに置くんだろう」
「上です。棚の」
俺が答えたが、七緒は箱を取らなかった。
「先に名前、聞いていいですか」
佐伯さんが瞬きをした。
「千尋。佐伯千尋」
「七緒です。こっちが志保さん」
紹介され、志保さんが会釈した。
千尋さんは箱を持ったまま、志保さんの顔を見た。
「あの。違ったら、ごめんなさい。今朝、警察の」
「ええ。隣の部屋にいた」
千尋さんの腕から、箱が少し下がった。
俺はそこでやっと、彼女の名字をどこで聞いたのかを思い出した。
六月のニュースだった。駅前のパン屋に勤めていた十九歳の女性。町の外れの水路沿いで見つかった、と報じられていた。
桐谷志保。その名前も、もっと前に見ていた。
駅の掲示板には、この二人と、もう一人の顔写真が並んでいた。
箱を受け取ろうとした俺に、千尋さんが渡してくれた。中身は使い捨てのコップだった。
さっきまで、その顔をどこで見たのかより、パン屋の袋のほうが先に分かっていた。
箱を棚へ載せたあと、俺は自分の椅子の背へ手を置いたまま立っていた。
「座っていいよ」
千尋さんが言った。
「立ってると、私たち何か悪いことしてるみたい」
俺は座った。椅子が小さく軋んだ。
何を言えばいいのかを考えていたら、七緒が千尋さんの前の紙袋を指した。
「そこのクリームパン、まだ売ってます?」
「丸いの?」
「ううん。細長いやつ」
「あ、夏のは休み。九月に再開すると思う。店長、今日来るから訊いてあげる」
そこまで言って、千尋さんは紙袋の折り目を伸ばした。
「今日のパンの話にしようか。あんぱんならある」
七緒が頷いた。
俺は机に置いたままだった手帳を、鞄へ戻した。
昼前に来たパン屋の店長は、エプロンを受け取らなかった。
「洗ってくれてあるなら、置いといて」
日に焼けた太い腕で、小さな保冷袋を机へ載せた。千尋さんが立つと、座ってて、と言い、自分は椅子を探さずに立っていた。
「店、どう?」
「回してる。大丈夫」
「夕方の値札、店長、一人で替えるの苦手でしょ」
「そこは余計なお世話」
袋には冷えた牛乳と、ラップに包んだパンが二つ入っていた。
「こっちはお父さんに」
「今日、仕事。持って帰るまでに温くなる」
「それで保冷剤入れたんだろ」
「夕方までは持たないって」
店長は保冷剤を触り、俺たちのほうを見た。
「冷蔵庫、借りられるかな」
七緒が浦瀬さんに確かめに行った。千尋さんは、私が食べてもいいのに、と言ったが、袋からは自分の分だけを出した。
店長の胸ポケットから電話が鳴る。短く返事をしたあと、彼はエプロンの袋に触れた。
「働く話は、またにしよう。休みたいときに休むでいいから」
「私が行くと、みんな休憩しなくなる」
「ああ。それは言っとく」
今度は大丈夫、とは言わなかった。
千尋さんが、うん、と答えた。
店長が帰って十分ほど経つと、浦瀬さんが弁当の数を数えに来た。俺と七緒の分は用意されていて、千尋さんはパンがあると言った。志保さんは食欲がないからいい、と言いかけて、隣の机の人に見られているのに気づいた。
「少ないもの、ありますか」
浦瀬さんは弁当の大小を見比べ、容器は同じなのに中身が違うのよね、と困った顔をした。
そのとき、相談室の奥で椅子を引く音がした。
扉から最初に出てきたのは、俺たちとそう違わない年の女の子だった。大きなTシャツに膝までのズボン。袖口を両手で引っ張り、扉の脇へ寄って立つ。
続いて出てきた女性が、廊下の誰かへ深く頭を下げた。
「すみません。まだ落ち着かなくて」
女の子が顔を背けた。
浦瀬さんは弁当の箱を置き、二人のところへ行った。女性と話しながら、机のほうを示す。女の子はそちらを見たが、近づいては来なかった。
七緒が、自分の鞄を椅子からどけた。
「お昼、食べる?」
女の子が首を横に振った。
「じゃあ座るだけでも」
返事がないまま、七緒は一つ隣の椅子に座った。空いた席を叩いたり、手招きしたりはしなかった。
女の子は壁の時計を見たあと、机まで来た。
俺の高校の、紺色の校章が鞄に付いていた。
「同じ学校?」
訊いてから、答えは見れば分かると気づいた。
彼女は頷いた。
「何年?」
「一年」
それきり、Tシャツの裾を膝へ引っ張った。
女性がこちらへ来た。
「美玖、コンビニで何か買ってこようか。おにぎりなら」
「いい」
「朝からあまり食べてないでしょう」
「食べた」
「半分だけよ」
美玖、という名前が、掲示板の三枚目の写真につながった。
倉田美玖。
写真は、中学校の制服を着ていた。今の彼女はその写真より髪が短い。
千尋さんがラップを開いた。
「私、半分余る。いる?」
美玖は首を振った。千尋さんは、分かった、と包み直した。
母親らしい女性が、私が買ってくるから、と言いかける。その前に美玖が言った。
「あとで自分で買う」
小さな声だった。女性は少し口を開けたまま、それから、そう、と頷いた。
浦瀬さんが廊下から呼んだ。書類に確認してほしい箇所があるらしい。女性は美玖を見て、ここにいてね、と言った。
「いるよ」
母親が離れると、美玖は膝の上の手をほどいた。
志保さんが弁当の蓋を開けた。中には、海苔の載ったご飯と焼き魚が入っていた。
「少なめって、どの辺りだったんだろう」
独り言のように言い、箸を割る。
七緒が自分の弁当を見た。
「ご飯の厚さかな」
「測れないね」
俺の弁当には、唐揚げが入っていた。七緒がすぐに気づいた。
「一個換えて」
「魚と?」
「卵焼き」
「俺にもある」
「二つに増える」
美玖が少しだけ顔を上げた。
七緒は箸を持つ前に手を洗いに行き、戻ってきてからも、交換を諦めなかった。結局、唐揚げ一つと煮物の芋二つが入れ替わった。
俺が芋を箸で押すと、真ん中に白い芯が残っていた。
「これ、固い」
「私はまだ食べてないから、知らない」
美玖の口元が動いた。笑ったのかと思ったが、彼女はもう顔を下げていた。
しばらくして、机の端から小さな声がした。
「何パンですか」
千尋さんは手を止めた。
「卵。ゆで卵が挟まってる」
「じゃあ、少し」
千尋さんはパンをちぎらず、切り目のあるところから二つに分けた。ラップごと、机の空いたところに置く。
美玖が自分で取った。
千尋さんは、紙袋の陰に置いた小さな財布を鞄へしまった。太い字で、修二、と書いてあった。
「お父さんの。とりあえず借りてきたの」
俺が字を見ていたのに気づき、彼女は言った。
「服は着て戻れるのに、財布は戻ってこないから。電話も、お父さんが前に使ってたやつ。使い方、少し違ってて」
鞄の内側で短い音が鳴った。千尋さんは画面を確かめ、店長からだ、と言った。
「牛乳、冷蔵庫に入れたかって。入れたよ、って返さなきゃ」
午後一時を過ぎるころ、支援室に少し空席ができた。
志保さんは管理会社からの連絡を待っていた。千尋さんは、冷蔵庫に入れた父親のパンを夕方受け取るまで、買い物の相談をすることになった。美玖の母親は一度帰宅し、三時に迎えに来るという。
その説明をしている間じゅう、美玖は机の木目を爪でなぞっていた。
浦瀬さんに呼ばれ、俺は廊下へ出た。
窓の前に、白いシャツの男性が立っていた。上着を腕へ掛け、紙コップの水を持っている。浦瀬さんが、県警の宮内さん、と紹介した。
「支援の担当をしてくれているんですね」
「まだ、今日からです」
「ええ。浦瀬さんから聞きました」
警察手帳を見せる仕草は短かった。テレビで見るほど高く掲げず、俺の見える位置で開いて、閉じた。
「三人の方には、今朝それぞれお話を伺っています。これからもお願いすることがありますが、ここでは普通に過ごしてもらいたいと思っています」
俺は頷いた。
「何か思い出したら、すぐ知らせたほうがいいですか」
「本人が話したいことがあれば、こちらへ。今、思い出さなきゃ、と頑張らせる必要はありません」
宮内さんは支援室の扉を見た。
「覚えていないことは、覚えていないままで構わないので」
「でも、それが分かれば」
言いかけた俺を、宮内さんは遮らなかった。
「犯人が分かるかもしれない、ですか」
俺は、はい、と答えた。
「そう期待する人は多いです。ご家族も、私たちも。ただ、その期待を三人に背負ってもらうわけにはいきません」
部屋の中から、七緒が棚を開ける音がした。
「あなたが聞き取りを代わる必要もありません。生活のことで困ったら浦瀬さんへ。事件に関わる話が出たときは、まず、ご本人が私たちへ話すお手伝いをしてください」
連絡先の紙を渡された。
俺はそれを手帳に挟み、部屋へ戻った。
七緒は棚から出した地図を広げていた。千尋さんが、駅前より向こうの店のほうが安い、と指で丸を作る。特売の情報だった。
「でも歩くと牛乳が温くなる」
「帰りだけバスは?」
七緒が訊くと、千尋さんは値段を計算して、二本買ってもバス代のほうが高い、と言った。
志保さんが、保冷袋を持っていけば、と答える。
「保冷剤は?」
「今、冷やしてる」
千尋さんが調理室を指した。
俺は地図を持ち直した。線路の東側には、千尋さんが発見された場所とは違う印が一つあった。帰還した人が無事に案内された地点を、職員が確認するためのものだった。
手を止めていると、千尋さんが気づいた。
「そこ、私が出てきたところ」
七緒も地図を見た。
「お店の前ですか」
「閉まってる洋品店。近くを回ってたお巡りさんに見つけてもらった。お父さんは、駅にいるかもしれないって、探しに来てくれてたんだけど。逆の出口にいて」
彼女は笑わなかった。
「あのまま、ちゃんと家に帰ってたらって、何回も言われたんだけど」
指先が地図から離れた。
「私、なんでこっちに来てたんだろうね」
誰も答えなかった。
美玖が、折り目で持ち上がった地図の角を押さえた。
「私も、家じゃなかった」
千尋さんは向き直った。
「どこ?」
「バスの、ぐるっと回るところ」
美玖の指は地図へ出てこなかった。
「でも、バスに乗るつもりじゃなかった」
志保さんが地図の北を示した。
「私は、休憩所。木を見ていたところまでは、覚えてるんだけど」
「私、何も答えられなかった」
美玖が言った。
「朝、いっぱい聞かれた。最後に見たものとか。誰か近くにいたかとか。全部、分かんない」
袖を引っ張っていた手が、また固くなる。
「お母さん、警察の人に謝ってた」
千尋さんが口を開き、閉じた。
俺は宮内さんの言葉をそのまま伝えようとして、うまく始められなかった。美玖は俺を見ていない。
志保さんが、机の上の地図を折った。自分の示した場所を、一つ目の折り目の内側に入れる。
「私はね、管理会社の電話番号を調べに行ったの。さっき」
美玖が目を上げた。
「事件のこととは、別の用事。今日、それをしたくて、ここへ来た」
二つ目の折り目を合わせる。
「美玖さんは?」
すぐには返事がなかった。
七緒が外から聞こえる蝉の声のほうへ顔を向けた。誰も、先を促さなかった。
「写真」
声は小さかったが、今度は全員に聞こえた。
「電話に入ってた写真。見たい。けど、電話がないから」
浦瀬さんに相談すると、家族の持つ端末や保存先から見られるものがあるか、本人と一緒に確かめてみようということになった。
千尋さんは冷凍できる食品の本を借りたかった。志保さんは電話の返事を受け取る場所があれば、今日は十分だと言った。
俺は新しい紙を出し、一番上に、写真、と書いた。
「それ、私が書いていい?」
七緒がペンを取ろうとした。俺は持ち手を向ける。その横から、美玖の手が出た。
「自分で書く」
七緒は途中で手を引っ込めた。
「そっか。うん」
美玖は俺の書いた二文字の下に、写真をさがす、と書いた。さがすの後ろに少し考えてから句点をつける。千尋さんはその下へ料理本、と書き、括弧に冷凍と足した。
志保さんは電話番号を書いた紙を出した。
「これは、自分で持ってるね」
俺は頷いた。
八月二日
翌朝、机を囲む人は一人減っていた。
美玖が来ていなかった。約束は九時だったが、九時十分になっても、入口に姿はない。
廊下で足音がして、七緒が顔を上げた。通り過ぎたのは、段ボールを抱えた職員だった。
七緒は自分の画板を机へ戻した。昨日、美玖が座った椅子だけ空いている。
俺は給茶機から麦茶を運んできた。四つ並べると、どれが誰のものか分からなくなった。七緒が鞄から太いペンを出した。
「名前、書けば」
俺は自分のコップへ、高瀬、と書いた。隣へ回すと、七緒は大きく、七緒、と書く。最後の払いが紙の丸みに沿って向こうへ消えた。
「持つところ、なくなった」
「こっち乾くまで、反対側」
俺がコップを半回転させると、今度は本人から名前が見えなくなった。七緒はもう一度回し、底を持って一口飲んだ。
志保さんは時計を外してからペンを受け取った。昨日とは違う銀色の時計で、針が動いていた。
「お母さんの。水仕事するときは外してって言われて」
「お茶、飲むのも?」
七緒が訊くと、志保さんは笑って、そこまでは、と答えた。書いたのは、志保、の二文字だった。
俺は空のコップをもう一つ出した。美玖の椅子の前へ置き、ペンを横に寝かせた。
千尋さんが料理本をめくった。
「日持ち二週間って、どう数えるんだろ。一日に作ったら十四日まで? 十五日まで?」
「本に書いてないですか」
「どれも目安。目安が知りたいんじゃないんだけど」
七緒が青いペンの蓋を閉めた。
「いっぱい作るんですか」
「うん。ちょっとずつ」
ページの端に付箋が十枚ほど並んでいた。
九時十八分に、美玖が来た。
玄関で靴を揃えてから、部屋の中を見回す。七緒が画板を持ち上げた。
「ここ」
美玖は近づいてきたが、座る前に鞄を胸へ抱え直した。
「一人で来た」
言い訳なのか、報告なのか分からなかった。千尋さんが、おはよう、と答えた。
「おはようございます」
美玖は椅子に座った。
母親の古いスマートフォンを借りてきていた。充電器を机へ置き、写真の保存先に入れるかもしれない、と浦瀬さんに教える。
俺は机の脚に沿わせてコードを通した。美玖が画面を見るには、コンセントの横へしゃがまなくてよくなった。
彼女は電話を置いてから、空のコップを見た。
「これ、使っていい?」
「うん。麦茶、入れてくる」
美玖はその前にペンを取った。机に肘をつかず、小さな字で、美玖、と書いた。
七緒が昨日の用事の紙を出した。
「今日、図書館。帰り、駅前。お昼をどうするかは、あとで」
志保さんは、私は管理会社の返事が来たら途中で抜ける、と言った。千尋さんは保冷袋を鞄から出した。美玖は充電の残りを見た。
千尋さんが自分のコップを置いた。横に書かれた名前の、尋、の下だけ、字が細くなっていた。
「何でそこだけ?」
七緒が訊いた。
「ペンがかすれた。ここ、いつも場所足りなくなるの」
美玖が自分の名前と見比べた。
「玖も、右側、狭くなる」
「分かる。左から大きく書いちゃうんだよね」
二人のコップが並んだ。千尋さんの字は斜めに大きく、美玖の字は正面から見ないと分からないくらい小さかった。
七緒が、志保さんのは読みやすい、と言った。
「仕事で、名前書くことが多かったから。誰の書き込みか、あとで困るの」
志保さんはコップを持ち上げ、俺のほうを見た。
「航くんだけ苗字だね」
「最初に書いたから。受付みたいになりました」
「表札みたい」と七緒が言った。
俺は空いているところに、航、と書き足した。高瀬と航が、コップの裏と表に分かれた。
七緒が持ち上げて回した。
「長い表札になった」
「返せよ、俺んち」
美玖が麦茶を飲む途中で笑い、口を押さえた。千尋さんが紙を一枚渡した。
出かける前に、コップを窓際へ寄せた。向きが違っても、五つとも誰のものか分かった。
図書館へ持っていく本を重ねると、一冊だけ裏表紙が上を向いていた。千尋さんが戻す。俺は五人分の出発時刻を書く欄を見つけ、ボールペンを出した。
用紙の左に、桐谷、佐伯、倉田と印刷されていた。
その右へ、高瀬、相沢と書き足す。
「七緒、行くぞ」
「分かってる。美玖、そっちのコード、まだ」
美玖が、コンセントに挿したままの充電器を抜いた。
五人で玄関へ下りると、スリッパが一足、裏返っていた。
最後尾の志保さんが、靴先で返した。
誰かの名前を呼ぶ声が、今日も受付から聞こえた。俺たちを呼ぶ声ではなかったので、そのまま外へ出た。




