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第一章 迎えに来て


七月三十一日



 靴下を片方脱いだところで、七緒から電話がかかってきた。


「迎えに来て」

「俺、いま帰ったんだけど」

「知ってる。一本前ので帰ったんでしょ」


 知っているなら、なぜ。


 玄関に片足で立ったまま、もう片方の靴下をどうするか考えた。廊下の奥には、風呂場の明かりが見えている。入浴も着替えも、あと少しだった。


「どこにいるんだよ」

「駅」

「駅のどこ」

「いつもの方。荷物重い」


 後ろで、列車が動き出す音がした。単線を走る列車は、夜になると妙に音が大きい。さっき俺が降りたときも、線路の向こうにある家々の窓まで震わせるように走っていった。


 電話を肩に挟み、靴下を戻した。


「迎えって、車じゃないぞ」

「航に車頼んでないよ。荷物を持つ人を頼んでる」

「人を宅配便みたいに呼ぶな」

「飲み物買ってあげる」

「閉まってるだろ、もう」

「自販機」


 七緒の側から、何かを引きずる音がした。キャリーケースだろう。今朝、隣町の美術学校の見学に行くと言っていた。一泊した親戚の家から、何を増やして帰ってきたのか。


「お母さんは」

「今日、夜勤。お父さんには、帰ったら連絡する」


 相沢のおじさんは、県外の現場に出ている。七緒が電話すれば、こんな時間でもまず出るけれど、荷物を持ちに来るには二時間かかる。


「歩けるだろ。そのくらい」

「歩いてもいいけど、明日、町民センターに遅刻するかもしれない」

「何で明日まで」

「全身が痛くなるので」


 明日から八月だった。


 夏休みの初日に学校から渡された、帰還者支援活動の予定表が、玄関の棚に置いてある。母親が冷蔵庫に貼ろうとしたものを、俺が剥がして持ってきた。家庭の予定に混ざると、集合時間が見つけにくかった。


 八月一日、八時三十分。町民センター。


 相沢七緒と高瀬航の名前は、同じ欄に並んでいた。


「分かったよ。待ってろ」

「ベンチにいる。あと、駅、飾りついてる」

「飾り?」

「あの、青いやつ。迎えの」


「もう立ってるのか。さっき、なかったのに」


「風で顔に当たる。座る場所、間違えた」


 駅を出て、十分ほどしか経っていない。俺が通ったときには、ベンチの横は空いていた。


「急にやったんだな」


 少しの間、七緒の声が遠くなった。


「すごい。お土産、袋の底が抜けそう」

「何を買ったんだ」

「いいから早く来て」


 電話が切れた。


 画面には二十三時四十九分と出ていた。呼び出した方から切るのは、いつものことだった。



 居間を覗くと、父親がテレビを見ながら、干してあったタオルを畳んでいた。


「どこ行くんだ。帰ったばかりだろ」

「七緒が駅にいるって。荷物持ってくる」

「ああ」


 父親は、タオルを一枚膝に置いた。


「相沢さん、今日いないもんな。遠回りしないで戻れよ」

「分かってる」


 母親はもう二階へ上がっていた。明日は店が早い。父親に伝えておけば、呼び戻すための電話は来ないはずだった。


 台所で水を一杯飲み、玄関に戻った。


 さっき脱いだ靴の踵を、もう一度起こして履く。自転車を出すか迷ったが、帰りはケースを引くことになる。歩いて行くことにした。


 外へ出ると、昼間の熱が塀に残っていた。


 駅までの道は、坂を下りて、小さな川を渡り、海沿いの斜面を少し上がる。川の手前までは家並みが続いている。渡った先は、閉店した店と、倉庫と、駅だけになる。


 家を出て二分ほどのところで、湊屋のシャッターが半分開いているのが見えた。


 酒や調味料や、急に必要になった電池を買える店だった。日中は店主の八重さんが外の椅子に座っている。この時間に明かりがついているのは珍しい。


 店の前に、ビールの空き瓶が転がっていた。


「八重さん?」


 呼ぶと、シャッターの陰から顔が出た。


「ああ、航くん。遅いねえ」

「それ、こっちの台詞ですよ」


 八重さんは両手に瓶を持ち、少し困ったように笑った。


「台車の車輪がね。段差に引っかかっちゃって」


 黒い台車が、店の入口に斜めになっている。荷台の上のケースが一つ傾き、中身が半分ほど道へこぼれていた。


 幸い、割れたものはなさそうだった。


「動かさないでください。下にまだあります」


 俺はしゃがみ、台車の下から一本拾った。


「置いといてもいいのよ。明日、息子が来るから」

「ここに置いといたら、誰か転びますよ」


 川へ向かう歩道は、店の前だけ少し狭い。段差を避ければ、ちょうど瓶の転がっているところを通ることになる。


 スマートフォンを出し、七緒へ短く送った。


『湊屋の前。ちょっと待って』


 すぐ既読になった。


『もう待ってる』


 続けて、目だけが半開きになった犬の絵が送られてきた。


 急げ、という意味らしかった。


 八重さんの手からケースを受け取り、先に店の中へ運んだ。酒瓶の底には、思っていたより水が残っていた。腕にかかる重さが、持つ向きによって変わる。


「明日、息子さん来るんですか」

「うん。午前中に。それで、店の前をちょっと空けようと思ってね」


 長く会っていなかった誰かを迎える準備にしては、片づけているのは空き瓶と台車だけだった。八重さんはそれでよかったらしい。店の入口の、椅子二脚を置ける場所を見ていた。


「椅子も出します?」

「まだいいよ。朝、自分でやれるから」


 断られたので、台車の車輪だけ確かめた。何かが壊れたわけではない。車輪の向きが、段差に対して横になっている。


 荷物を下ろしてから持ち上げれば、簡単に戻った。


「助かった。何か持っていきな」

「いや、いま、七緒を迎えに行くところなんで」

「七緒ちゃんも戻ったの。じゃあ、二人分」


 八重さんは店の冷蔵庫へ向かった。


 断る前に引き戸が開いた。中からガラス瓶の音がしたので、俺は道路へ戻り、拾い残しがないか確認した。


 店の先には、川の歩道橋が見えている。欄干の白い照明の下を、蛾が飛んでいた。駅側からも、住宅地側からも、誰も来ない。


 川の向こうを、貨物用の細い道路が回り込んでいる。そちらは駅の裏へつながっていたが、街灯は途中で切れていた。窓の明かりらしいものが一つ動き、倉庫の陰で見えなくなった。


 八重さんが冷たい瓶を二本持ってきた。


「ラムネ。好きだったでしょ」

「ありがとうございます」


 店の奥で時計が鳴った。八重さんは二本の瓶がぶつからないよう、片方へ紙を巻いてくれた。


「明日はよろしくね。先生から聞いてるよ」


「はい」


 俺は瓶を持ったまま頭を下げた。


 ラムネの瓶を片方ずつポケットへ入れ、橋を渡った。歩くたびに、ガラスの冷たさが腿に当たった。



 駅前には、白地に青い波を描いたのぼりが二本立っていた。


 一本は掲示板の脇。もう一本は、ベンチの横。下の方だけ風に動き、布が支柱へ触れる音がした。


 七緒は、そのベンチに腰を下ろしていた。


 背中を背もたれにつけ、両足を少し前へ出している。目は閉じていた。髪が頬にかかり、風で動くたびに、眉の間が少し狭くなった。


 隣には大きな紙袋があった。キャリーケースの上に布の鞄、その上にスマートフォン。画面は暗くなっていた。


 ベンチの前へ屈み、はみ出した紙袋の底を押し戻した。


「何だよ、これ」


「勝手に開けないで」


 七緒が目を開けた。背もたれから体を起こし、俺の手を見ている。


「開けてない。落ちるところだった」


「持つところも危ないから、下からね」


「おまえ、寝てただろ」


「待たせた人が言う?」


 鞄に載せてあった電話を取り、画面を確かめてからしまった。


「八重さんのところ、終わった?」


「うん。瓶が転がってて」


「怪我は?」


「してない」


「じゃあ、こっち」


 七緒が紙袋を指した。持ち上げる前に、俺は中の重さを確かめた。


 ポケットからラムネを一本出した。


「くれた」


 七緒は受け取り、額に当てた。


「冷たい」

「飲まないのか」

「飲む。いまはこっちが先」


 彼女が立ち上がると、紙袋の持ち手が片方、音を立てて切れた。


 二人で慌てて押さえた。


「だから重いって言ったじゃん」

「紙に言えよ」


 七緒は袋の口を開き、中を確認した。


 入っていたのは、スケッチブックだった。薄いのと厚いのが何冊か、その隙間に紙の束と、菓子の箱が挟まっている。


「お土産って、こっち?」


 菓子の箱を指すと、頷いた。


「こっちは学校でもらった資料。あと、安い画材屋さん見つけちゃって」

「何冊描けば元が取れるんだ、これ」


「全部」


「頑張れよ」


 七緒は袋の口を閉じた。


 紙袋は、底から抱えれば運べそうだった。俺が持ち、七緒がキャリーケースを引くことにする。


「そっちのほうが重いよ」


「ケースなら、お前でも引けるだろ」


「私でもって何」


「俺は両方持てません、お願いします」


「最初からそう言えばいいのに」


 七緒はラムネを鞄へ入れ、ケースの取っ手を引き上げた。


 のぼりの布が、彼女の肩へ触れた。七緒は片手で押し戻し、もう一度、青い波を見た。


「今年の、去年より色薄い?」

「同じの使ってるんじゃないのか」

「あ、ほんとだ。縫ってある」


 布の裾に、四角い継ぎが当たっていた。


「仕事を増やすなよ。明日、直してって言われるぞ」

「増やすのは航でしょ」


 言い返せなかった。


 俺たちは駅を出た。



 川の橋を渡るころには、湊屋のシャッターは下りていた。


 七緒が紙袋を見上げる。


「持とうか、半分」

「分ける方が面倒だろ」

「腕、赤くなってる」

「着いたら下ろすから」


 七緒は、何か言いたそうに俺の肘を見た。それから鞄を開け、中に入っていた薄いタオルを取り出した。


「止まって」


 腕と袋の間に、二つ折りにしたタオルが差し込まれた。


「変わった?」

「少し」

「少しか」

「だいぶ」

「よろしい」


 歩き出す。


 キャリーケースが橋の継ぎ目に引っかかり、七緒が両手で持ち上げた。俺は、渡り終えたところで待った。


「学校、どうだった」

「広かった」

「感想それだけ?」

「あとね、壁に直接描いていい部屋があった」


 七緒がケースを下ろし、取っ手を持ち直す。


「失敗したら上から白く塗るんだって。前の人の絵、ちょっと透けてたりして。そういうの、面白かった」


 紙袋の中で、スケッチブックの角が腕に当たった。


「そこに行くのか」

「まだ分かんない。専門学校も見たいし、普通の大学も考えてる。でも、今日のところ、よかった」


 七緒の声は眠そうだったけれど、説明するときだけ、少し速くなった。


「先生がさ、描いたもの持ってきたら見ますよって言ってくれた。全員に言ってるんだろうけど。だから、次行くときは持っていこうかなって」

「いつ」

「秋。また見学できる日あるらしい」

「持っていくなら、今から描かないと」


 七緒が、俺の腕の中の袋を叩いた。


「だから買ったの」


 川の先の街灯が、彼女の横顔を照らした。


 小学生のころも、七緒は紙を買っていた。安い自由帳を選んで、最初の一枚だけ丁寧に描き、次から急に雑になった。最後の方には俺の名前や、怒った顔が描かれていることがあった。


 それを今でも、同じように描いていると思っていた。


 俺の知っている自由帳と、この袋に入っているものは、たぶん違う。


「見せてくれよ。描けたら」


 七緒は俺を見た。


「航、感想言える?」

「言えるだろ、そのくらい」

「前、ちょっと斜めだねって言った」

「斜めだったから」

「そういうのじゃなくて」


 七緒は息を吐いた。怒っているというより、笑うのを半分諦めたような息だった。


「まあ、見せる。感想は練習しといて」


 家並みが戻ってきた。


 相沢家の玄関は、うちの一本向こうの通りに面している。子供のころは庭の塀を越えれば近かった。中学に入ったころ、両方の親に叱られて、ちゃんと道を回るようになった。


 七緒が玄関の鍵を出す。


「明日、八時にここ?」

「センター集合でいいだろ」

「これ、明日持ってきて」


 タオルの端が、俺の肘から垂れていた。


「洗ってから返す」

「いいよ。今日ちょっと巻いただけだし」

「そういうわけには」

「じゃあ洗って、八時にここ」


 俺は諦めて頷いた。


 紙袋を玄関へ置く。畳に近い匂いと、留守の家の温かい空気が出てきた。


 七緒はキャリーケースを壁に寄せ、その場で靴を脱いだ。


「お父さんに連絡しとけよ」

「いま送る」


 彼女は電話を操作してから、顔を上げた。


「ありがと」


 荷物の礼だろうと思って、俺は片手を上げた。


「今度は買う前に考えろよ」

「今度は、航も来ればいいじゃん」

「何で俺が画材屋に」

「荷物持ち」


 戸が閉まった。


 俺はしばらく、その戸を見ていた。最後にもう一言、言い返せた気がしたけれど、うまく出てこなかった。


 ポケットには、ラムネが一本残っていた。



八月一日



 翌朝、約束の八時より五分早く相沢家へ行くと、七緒はまだ朝ご飯を食べていた。


 玄関から声をかけると、奥から、入って、という返事が来た。


 台所のテーブルには、七緒とおばさんが向かい合って座っている。仕事帰りのおばさんは、髪を一本にまとめたまま、湯気の立つ味噌汁を飲んでいた。


「昨日はありがとうね。遅い時間に」

「いえ。近いですから」

「こっち、使って」


 おばさんが隣の椅子を引いた。


 座ると、七緒がトーストを半分こちらへ押した。


「食べる?」

「食べてきた」

「じゃあ待ってて」

「おまえが誘ったんだろ」


 七緒は返事の代わりに、口いっぱいのパンを指した。


「見学、楽しかった?」


 おばさんが訊く。


 七緒はパンを飲み込み、昨夜の壁の話をもう一度した。俺に話したときより、設備や入試の話が多かった。おばさんは眠そうに頷きながら、ところどころ質問をした。


「家賃は、まだ先でいいからね。まず、自分がどこへ行きたいか」

「分かってる」

「何でも一人で決めないで、一緒に調べよう」


 七緒はコップの牛乳を飲み切った。


「分かってるって」


 さっきの返事より、少し強かった。


 おばさんはそれ以上言わず、皿を流しへ運んだ。


 七緒は、その背中を見ていた。椅子から立ち上がり、自分の皿も重ねる。


「帰ったら、お父さんにも電話する」

「うん。話してあげて」


 俺は洗って乾かしたタオルを、テーブルの端に置いた。


 七緒が、それを見つけて持ち上げる。


「ほんとに洗ったんだ」

「洗うって言っただろ」

「知ってる」


 そのまま鞄に入れようとするので、俺は少し手を伸ばした。


「まだ、ちょっと湿ってるかも」

「じゃあ、干しておく」


 七緒は台所の椅子の背に、タオルを広げた。


「今日、何時に帰る?」


 おばさんが訊いた。


「五時までには。初日だし、分かんないけど」

「お昼は?」

「センターで出るって」


 俺が答えると、おばさんは頷いた。


「じゃあ、いってらっしゃい。無理しないでね」


 七緒は玄関で靴の踵を起こしながら、振り返らずに手を振った。



 商店街は、昨日の朝より少しだけ人が多かった。


 閉じていた店の戸が開いている。花屋の前には、白い花だけではない鉢が並び、惣菜屋には、予約の名前を書いた紙袋が積まれていた。


 年に一度しか売らない菓子もあるけれど、ほとんどは普段と同じものだった。好きだったおかずや、いつも買っていたパンを、いつもより多く用意している。


 七緒は花屋の前で立ち止まりかけ、腕時計を見て諦めた。


「帰り、寄っていい?」

「何買うんだ」

「見るだけ」


 昨日、画材屋でもそう言ったのではないかと思ったが、黙っておいた。


 商店街を抜けた広場で、のぼりを立てている人がいた。


 灰色の作業ズボンと、役場の名前が入った薄いベスト。車の荷台から支柱を下ろし、土台に差し込んでいる。


「おはようございます」


 俺が声をかけると、その人は振り向いた。


「おはよう。ボランティアの二人?」


 首から下げた参加証を見たらしい。


「はい」

「町民センターなら、この道をまっすぐ。もう皆さん集まってますよ」


 七緒が、彼の足元を指した。


「それ、踏んでます」


 青い布の端が、作業靴の下に入っていた。


「あ、本当だ」


 彼は足を退け、裾を払った。地面に触れたところだけ、色が少し濃くなっていた。


「持ちますよ」


 俺が近づくと、七緒も支柱の反対側を持った。


「こっちを通すんですか」

「そう。上から、その輪に。土台、まだ軽いから倒さないように」


 三人で持つと、作業はすぐに終わった。


 彼は車から、次の一本を取り出す。


「助かるよ。布が風に持っていかれて、一人だと面倒で」


 荷台には同じ色ののぼりが何本もあった。新しいものも、端を縫い直したものもある。土台の隅には、白い塗料で番号が書かれていた。


 七緒は差し出された布を広げ、首を傾げた。


「これ、波、途中で逆になってる」


 相手は、つられて首を傾げる。


「そう?」

「ここだけ。印刷が」


 指した場所を見た彼は、しばらく考え、笑った。


「ああ、それ、裏側から継いでるんだ。生地が足りなくて」


 七緒も笑った。


「直した人、思い切りましたね」

「今年の予算、全部新しくできるほどじゃないからね。遠くから見れば分からないでしょう」


 七緒は二歩下がって眺め、戻ってきた。


「分かんないです」

「よかった」


 彼は首から下げた名札を、ベストの外に出した。


 柏木直人。施設管理。


「センターの荷物も僕が運ぶから、また会うと思う。何か重いものがあったら、遠慮なく言って」

「じゃあ、椅子。支援室の、たぶん足りないです」


 俺が言うと、七緒がこちらを見た。


「まだ行ってないでしょ」

「先週の研修のとき、数えた」


 柏木さんは、胸ポケットから短い鉛筆を出した。


「何脚くらい?」


「四脚あれば。研修で机だけ増えてたので」


「じゃあ四脚。覚えておきます」


 小さな作業票の空いているところへ書いた。


「運べない物から声をかけてください。軽いのは、あとで自分でもできますから」


 七緒が自分の荷物を見た。俺も見た。


「聞いたか」と言うと、彼女はのぼりを俺のほうへ傾けた。


 柏木さんは笑って、その支柱を受け取った。


 最後の土台を置き、俺たちは手を離した。


 歩き出してから、七緒が俺の参加証を引っ張った。


「八時二十八分」

「あと二分ある」

「走らないと二分で着かないんだけど」


 俺は鞄を持ち直した。


 七緒はもう走り出していた。



 町民センターの玄関では、靴箱の前に列ができていた。


 入口の貼り紙には、受付は二階です、と大きく書かれている。その下に、今朝書き足したらしい紙があった。


 階段が難しい方は、ここでお呼びください。


 研修で説明してくれた浦瀬さんが、その横でスリッパを並べていた。


「おはようございます。ちょうどよかった」


 息を整える暇もなく、空の籠を渡された。


「そちらの部屋から、もう一箱持ってきてもらえますか。サイズの大きいものが足りなくて」

「はい」


 七緒が籠を半分持った。


「航、これ終わったら、まず受付ね」

「分かってる」


 受付をするために来た俺たちが、受付へたどり着くまでに、二往復した。


 二階の支援室には、机が三つと、長椅子が二つあった。俺が心配した通り、座る場所が足りていない。窓際で立っている人たちの横を通り、自分の名前を名簿に書いた。


 浦瀬さんが戻ってきて、予定表を差し替える。


「今日は、案内に付き添ってもらう方が何人かいます。ご家族との待ち合わせや、必要なものの買い物。何か困ったことがあったら、一人で判断せず、ここへ連絡してください」


 俺は頷いた。七緒は予定表の端へ、小さく電話番号を書き写した。


「あと、皆さん、朝からいろいろな方に同じことを訊かれています。こちらで伺ったことは記録してあるので、移動中に説明を繰り返してもらわなくて大丈夫です」


 そう言って渡された紙は、俺が思っていたより薄かった。


 氏名。希望する行き先。連絡先。それだけのものもある。


「細かい事情は、本人が話したいときに」


 浦瀬さんは、俺の手元を見ながら言った。


 俺は紙を揃えた。


 最初の一枚に、桐谷志保、とあった。


「あちらの方です。駅前までお願いできますか」


 部屋の隅で、眼鏡をかけた女性が座っていた。大きな鞄を膝に載せ、持ち手の縫い目を指で辿っている。


 顔を上げた彼女に、俺たちは近づいた。


「高瀬です。こちら、相沢。今日、案内を担当します」

「七緒でいいです。相沢って呼ばれると、一瞬、先生かと思うので」


 女性が、少しだけ口元を緩めた。


「桐谷志保です。私も、志保で」


 立ち上がろうとした彼女の鞄へ、俺は手を伸ばした。


「持ちます」


 志保さんは持ち手を握ったまま、俺を見た。


「これ、軽いので」

「あ、はい」


 手を戻す。


 七緒は、志保さんの足元へ回った。


「駅まで、歩いて平気ですか。朝から暑いので、バスでも」

「歩きたい。道、見ながら行っていい?」

「もちろん」


 俺は案内図を出した。駅まで、もっとも短い道に印をつけようとすると、志保さんの指が、別の道を指した。


「こっちを回れますか」


 駅の北側。古い住宅が並ぶところだった。


「少し遠くなりますけど」

「うん。知ってる」


 志保さんは鞄の外ポケットから、小さな封筒を取り出した。出しかけて、そのまま戻す。


「帰りたいところがあるので」


 俺は案内図の線を引き直した。


 彼女の希望する行き先の欄には、ただ、駅前、とだけ書かれていた。


 七緒が窓を閉めようとして、途中で手を止めた。まだ何人か残っているのを見て、開けたままにする。


 階段を下りながら、志保さんが訊いた。


「今日、何日ですか」

「一日です」


 七緒が答えた。


「そう。まだ一日」


 志保さんは、手すりから手を離した。


 階下の玄関では、誰かが、何度も同じ名前を呼んでいた。


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