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第二十章 八月三十一日



 朝、父親が食卓で新聞を読んでいた。


 俺が降りてくると、半分に畳んで端へ寄せた。


「朝飯、食べるか」


「食べる」


 椅子へ座った。


 母親が皿を出した。卵と、焼いたパンと、切った梨だった。


 俺は梨を一つ取った。


 歯を立てると、水が出た。


 テレビはついていなかった。窓の外で、隣の家の車のドアが閉まった。通りを自転車が走る音がした。


 母親が今日の俺の予定を訊いた。


「一時に七緒の家。そのあと、いったん帰って、夜は港」


「ご飯は」


「家で食べる。七緒も、家族で食べるって」


 母親は頷いた。


 父親が、帰りは迎えに行く、と言った。


「俺、一人でも」


「俺たちも行くから」


 父親は遮らず、でも言い切った。


「相沢さんとも話してある。向こうで一緒になる」


 俺はパンをちぎった。


「分かった」


 母親は流しへ向かい、水を出した。


 いつもの朝と同じように、食器が触れ合う音がした。


 俺は、パンを一枚食べ切った。



 午前中、鞄を何度も確かめた。


 シート。水。タオル。充電器。


 何か忘れている気がしたが、紙に書いてあった物は全部入っていた。


 机の上から、絵葉書を取った。


 島で七緒が描いたものだった。五人の顔は小さく、線が少ない。自分の絵と交換するとき、ずいぶん得をしたと思ったことを覚えていた。


 葉書を本の間へ戻した。


 今日持っていく理由はなかった。


 枕元の電話が鳴った。


 七緒からだった。


「何してる?」


「鞄、見てる」


「忘れ物?」


「何か、ないかなと思って」


「だいたい、あっちにもあるよ」


 向こうで水の音がした。


「お前は?」


「洗い物。お母さんが、今日はいいって言うから、余計やりたくなった」


「喧嘩すんなよ」


「してない。お父さんと三人でやってる。狭い」


 電話の向こうで、父親の声がした。


 七緒が、分かった、と答えた。


「濡れた手で電話触るなって」


「そのとおりだろ」


「じゃあ、あとで」


 通話が切れた。


 俺は鞄を閉めた。


 十二時になるまで、課題の本を読んだ。


 同じ段落へ何度も戻った。二ページしか進まなかった。それでも、本を閉じると、どこまで読んだかは分かった。



 一時、相沢家の玄関を開けた。


 七緒が居間から顔を出した。


「今日は待ってなかった?」


「待ってない。家を出て、そのまま来た」


「よかった」


 壁に絵が掛かっていた。


 島の五人。


 前にあったカレンダーは冷蔵庫の横へ移されていた。絵の下には、小さいペンギンが座っていた。


 俺は靴を揃え、居間へ入った。


 おばさんが飲み物を出した。おじさんは映画を映すための機器と格闘していた。


「音、出ないんだよ」


「今、まだ始まってないから」と七緒。


「そうか」


 少し待つと、音が出た。


 大きすぎて、四人とも肩を跳ねさせた。


 七緒が笑い、おじさんが慌てて音を下げた。


 俺は七緒の隣へ座った。


 父親は椅子、母親はその横。七緒と俺は床に座り、低いテーブルへコップを置いた。


「途中、喋らないでね」


 七緒が言った。


 おじさんと俺が、同時に返事をした。


 七緒は母親と顔を見合わせ、笑った。



 映画の少年は、本当に大きすぎる靴を履いていた。


 父親へ、旅の計画を説明していた。


 用意した紙を広げるところで、七緒が俺の膝を指で叩いた。


「似てる」


「喋らないんじゃなかったのか」


「一言だけ」


 少年は家を出て、角で転んだ。


 七緒が笑った。


 もう一度見た場面なのに、初めて見るように笑っていた。


 俺は、裸足になるところまでをちゃんと見た。


 あの日の港では、途中から音を聞き、隣の七緒の顔を気にしていた。筋は追えていたつもりだったが、覚えていない場面がいくつもあった。


 今は、四人で同じ画面を見ていた。


 途中でおじさんが席を立ち、冷蔵庫を開けた。七緒は振り向かず、自分も、と手を上げた。


 冷たいお茶が届いた。


 俺にも届いた。


 七緒は礼を言い、画面へ戻った。


 映画が終わると、部屋の明るさが急に増えた気がした。


 窓の外では、まだ日が高かった。


「最初から見て、どうだった?」


 七緒が訊いた。


「最後の靴の意味、分かった」


「でしょ」


「あと、思ってたより笑うところ多かった」


「うん」


 おばさんが、もう一本何か見る、と訊いた。


 七緒は首を振った。


「今日は、これでいい」


 借りたものを片づけ、お茶を飲んだ。


 七緒は壁の絵を見た。


「ちょっと、上すぎない?」


 おじさんが振り向いた。


「高いか」


「座ると、見上げるから」


「下げるか」


 立ち上がりかける父親を、七緒は止めた。


「今じゃなくていい。明日とかに」


 言ってから、七緒はコップを見た。


 おじさんの手が椅子の背で止まった。


 部屋の中に、機器の小さな作動音だけが残った。


 七緒が顔を上げた。


「明日、下げて」


 今度は、はっきり言った。


 おじさんは頷いた。


「分かった」


 おばさんが、お茶を注ぎ足した。


 七緒は両手でコップを持った。



 三時過ぎ、俺はいったん家へ戻った。


 七緒は玄関まで来た。


 居間では両親が夕食の相談をしていた。七緒が好きなものを、と言っている声が聞こえた。


「何食べるんだ?」


「唐揚げ。あと、普通の味噌汁」


「普通じゃないのもあるのか」


「お母さん、何か特別なの作ろうとするから。いつものがいい」


 俺は靴を履いた。


 七緒は俺の背中を見ていた。


「航」


 振り返ると、彼女は一歩近づいた。


 俺も立った。


 七緒は俺の胸へ額をつけ、少しだけ寄りかかった。


 俺は両手を背中へ回した。


 家の中から、油の鍋を出す音がした。


「夜、ちゃんと来てね」


「行く」


「うん」


 七緒は自分から離れた。


 俺のシャツの胸元を指で直した。


「ここ、しわになった」


「いい」


 彼女は頷き、扉を開けた。



 夕食で母親が出したのは、冷やした麺と、少しの揚げ物だった。


 たくさん食べられないかと思った、と言った。


 俺は全部食べた。


 父親は先に車へ荷物を積んだ。


 家を出る前に、母親が俺の肩へ手を置いた。


「向こうで、無理にしっかりしなくていいからね」


 俺は頷いた。


 頷くと、しっかりしているみたいになってしまった。


 母親はそれ以上言わず、俺の鞄の持ち手を一度握ってから離した。



 港へ着いたとき、空にはまだ少し青さが残っていた。


 海辺の映画会と同じ広場だった。スクリーンはなく、机と椅子がゆるく並んでいた。遠くから来た家族の荷物を預かる場所と、飲み物を出す場所があった。


 七緒の字で、入口、と書いてあった。


 矢印の向きは合っていた。


 浦瀬さんが俺を見て、手を上げた。


「シート、こちらでよかった?」


 俺は頷いた。


 海から少し離れた場所へ敷いた。足の悪い人のための椅子も近くにあった。俺は余った椅子を運びかけ、父親に止められた。


「それは俺がやる」


「でも」


「できる」


 父親は二脚を持ち、浦瀬さんの示すところへ運んだ。


 俺は鞄を置いた。


 千尋さんと父親が、最初に来た。


 千尋さんは小さい包みを持っていた。


「食べてきた?」


 俺が頷くと、じゃああとで、と言った。


 包みの中は、父親の焼いた卵だった。


「多かったの。今日、最後だからって、卵五個も使って」


 父親が後ろから言った。


「皆さんの分も、と思って」


 俺は包みを見た。


「いただきます」


 母親が皿を取りに行った。


 志保さんは母親と来た。家を出る前に、何を持っていくかで少し揉めたという。


「母が、鞄に何でも入れるから」


「だって、寒くなったら」


「八月だよ」


「夜は分からないでしょう」


 志保さんは肩掛けを見せた。


「結局、持ってきた」


 美玖は母親と、少しあとから来た。


 写真の入った封筒を持っていた。展示を終えた額のほうは、先に家へ置いてきたらしい。


 最後に七緒が来た。


 白い薄手の上着を、腕へ掛けていた。


 母親と父親が両脇にいたが、俺を見つけると少し先に歩いた。


「早い」


「今回は、待ってた」


 七緒は俺の隣へ来た。


「うん」


 手を握った。



 千尋さんの父親の卵は、甘さが少し控えめだった。


 最初に食べたときより、形も揃っていた。端の二つだけ小さかった。


 七緒が食べ、目を上げた。


「おいしい」


 父親は、どうも、と短く言った。


 千尋さんが、何でそっちに言うの、と笑った。


「今日は、全部お父さんがやったからね」


「じゃあ、お父さんにで合ってる」と美玖。


「そうだけど」


 千尋さんは自分も一つ食べた。


 父親が彼女を見た。


 千尋さんは頷いた。


「いいと思う」


「そうか」


 父親は肩から少し力を抜いた。


 志保さんの母親が作り方を訊いた。


 父親は鞄から紙を出しかけ、千尋さんを見た。


「覚えてるんじゃない?」


 彼女が言うと、父親は手を戻した。


 卵の数から、順番に説明した。


 醤油のところで、最初は多すぎた、と自分で言った。


 志保さんが笑った。


 千尋さんは笑いながら、父親の横顔を見ていた。



 日が沈み、海の色が分からなくなった。


 会場の灯りは明るすぎなかった。家族同士で話す声が重なり、時々、小さい子が走っていた。


 八重さんと息子さんも来ていた。


 店の前から持ってきたような小さな椅子に、並んで座っていた。八重さんは俺を見て、立ち上がりかけた。


 七緒が先に近づいた。


「ラムネ、おいしかったです」


 八重さんは両手を膝へ置いた。


「そう」


「あの夜、荷物の紙袋は切れちゃったけど」


 七緒は少し笑った。


 八重さんが何か言おうとすると、七緒は首を振った。


「今日は、それを言いに来ました」


 八重さんは唇を結び、それから、ありがとう、と言った。


 息子さんが俺たちを見た。


「島のアイス、行けたよ」


 俺は顔を上げた。


「何にしました?」


「母さんと同じの。違うのを頼めば、二つ食べられたんだけどな」


 八重さんが、同じのがよかったんだよ、と言った。


 七緒は頷いた。


「それなら、よかった」


 俺たちは二人に手を振り、戻った。


 七緒は戻る途中で、一度だけ立ち止まった。


「上手く言えたかな」


「うん」


「八重さんが、ずっとあの夜のところにいたら嫌だ」


 俺は彼女の手を握った。


 七緒も握り返した。



 九時を過ぎると、千尋さんは父親と少し歩いた。


 美玖は母親と写真を見た。


 志保さんは肩掛けを広げ、母親と半分ずつ使っていた。さっきまで必要ないと言っていたことを、母親が笑っていた。


 七緒は両親と、堤防の手前の椅子へ行った。


 俺は自分の母親の隣に座った。


 父親は飲み物の容器を捨てに行っていた。


「七緒ちゃん、ちゃんと食べてた?」


「唐揚げ、食べたって」


「そう」


 母親は両手を膝へ置いた。


「私、あの子に、ありがとうって言いたいことがいっぱいあるんだけど、言うと何か、終わりにするみたいで」


 俺は母親を見た。


 母親は七緒のほうを見ていた。


「何て言えばいいか、分からないね」


「うん」


 俺は同じ返事しかできなかった。


 七緒がこちらへ振り向いた。


 母親は手を振った。


 七緒も振った。


 それから、俺の母親を指で呼んだ。


 母親が、私、と自分を指す。


 七緒が頷いた。


 母親は立って、相沢家の三人のほうへ歩いた。


 何を話したかは、聞こえなかった。


 七緒が笑い、母親は顔を覆った。おばさんが母親の背へ手を置いた。


 俺は離れたところから、それを見ていた。



 十時半を過ぎたころ、五人でシートへ座った。


 家族はすぐ近くにいた。


 千尋さんが、最初の日の昼、何食べたっけ、と言った。


 俺は思い出そうとした。


 美玖が先に答えた。


「パン」


「ああ、そうだ。私が持ってきたの」


「紙にチーズがつくやつ」と七緒。


 千尋さんは、自分の手を見て笑った。


「あれ、いつもつくんだよね」


 志保さんは足を横へ流して座っていた。


「私、あの日、皆と話すつもりなかった」


「私も」と美玖。


「俺も、こんなに一緒になるとは思ってなかったです」


 俺が言うと、七緒がこちらを見た。


「航、最初、予定表ばっかり見てた」


「初めての仕事だったから」


「私、九時に来るって言って、遅れた」と美玖。


 俺は首を振った。


「来たじゃん」


「うん」


 美玖は笑った。


 千尋さんが、じゃあ、今日の最後は何食べる、と言った。


 誰も食べ物を持っていなかった。


 俺が買いに行こうとすると、千尋さんが鞄を開けた。


「ある。飴」


 紙の包みを五つ出した。


 何種類か味があった。


 七緒は黄色を取り、美玖は緑、志保さんは赤を取った。千尋さんと俺は残ったものを分けた。


 口へ入れると、甘かった。


 誰もすぐには話せなくなった。


「最後の食事、これでいいのかな」


 千尋さんが飴を頬へ寄せて言った。


 志保さんが答えた。


「さっき、ちゃんと食べたからいいんじゃない」


「そっか」


 美玖が包み紙を小さく畳んだ。


 俺も畳んだ。


 七緒は途中で形が変になり、丸めた。



 十一時を回ると、立って歩く人が少し増えた。


 海を見る人。家族を呼ぶ人。帰りの車の場所を確かめる人。


 帰る人が帰れるように、道は広く空けてあった。


 浦瀬さんが近くへ来て、毛布を数枚置いた。体に掛けたり、あとで残る荷物を包んだりするためのものだった。


 俺は一枚受け取った。


 七緒が端へ触れた。


「暑くない?」


「まだ掛けない」


「うん」


 畳んで、膝へ置いた。


 千尋さんが立ち上がった。


「お父さん、呼んでくる」


 父親はすぐ後ろにいた。千尋さんは一歩だけ歩き、そこで止まって笑った。


「いた」


「いる」


 父親は自分の椅子を近づけた。


 志保さんと美玖の母親も、輪の近くへ来た。


 七緒の両親が俺たちの隣へ座った。


 五人でいた場所が、少し大きくなった。


 俺の父親と母親は、もう少し後ろにいた。



 千尋さんの父親は、深緑の弁当箱を鞄へしまっていた。


 食べ終えた卵の容器を重ね、小さい果物箱の蓋も閉める。


 千尋さんがその手元を見た。


「明日、何入れる?」


 父親は手を止めた。


「明日は休みだ」


「じゃあ、明後日」


 父親は考えた。


「卵と、冷凍のやつと」


「全部、私のじゃなくていいよ」


「分かってる。買ったのもある」


 千尋さんは頷いた。


「果物、なくてもいいから。あの小さいの、無理して使わなくても」


「使う」


「使いたければ」


 父親は箱の蓋を押さえた。


「りんご、切れるようになった」


「知ってる」


 千尋さんが笑った。


 父親も笑いかけたが、途中で顔が歪んだ。


「千尋」


「うん」


「うまかった。ずっと」


 千尋さんは唇を結んだ。


「言うの、遅い」


「ああ」


「でも、知ってた」


 彼女は父親の肩へ額を寄せた。


 父親の大きな手が、娘の背中へ回った。


 俺は目を伏せた。


 膝の毛布を、指で押さえた。



 志保さんは、母親の肩掛けを直していた。


 半分ずつでは端が足りず、結局、浦瀬さんが持ってきたもう一枚を使った。


「黄色いの、買ってもいいかな」


 母親が言った。


 志保さんは顔を向けた。


「何を?」


「カーテン。私の部屋にも」


 志保さんは少し笑った。


「好きにしたら」


「あなたが選んだ色が、思ったより好きだったから」


 志保さんは母親の手へ、自分の手を重ねた。


「同じじゃなくてもいいよ」


「見てから決める」


「そうして」


 母親は頷いた。


 志保さんは、帰ったら白いカップを洗って、と言った。


「朝、置いたままだから」


「分かってる」


「あれ、しまわないで。使って」


 母親は答えようとして、声が出なくなった。


 志保さんが少し身を寄せた。


「割ったら、怒るけど」


 母親が笑いながら泣いた。


 志保さんは自分も泣いて、母親の肩へ頬をつけた。


「部屋、見てくれてありがとう」


 その声は、俺にも聞こえた。



 美玖は母親と一緒に、写真の封筒を鞄へ入れた。


 電話の充電は十分にあった。それでも一度、画面をつけて確かめた。


「お母さん、これも見られる?」


 保存した写真の場所を示していた。


 母親が頷く。


「このところを押すのね」


「うん。分からなくなったら、航先輩にも訊ける」


 俺は頷いた。


「いつでも」


 美玖は電話を母親へ渡した。


「全部、いい写真じゃないから」


 母親は画面を見た。


「暗いのとか、指が入ってるのとかもある」


「うん」


「勝手に、全部、上手だって言わなくていい」


 母親は美玖を見た。


 少しして、笑った。


「ちゃんと見る」


 美玖は頷いた。


 それから、母親の袖を引いた。


 母親が顔を近づけると、美玖は何かを言った。俺には聞こえなかった。


 母親が首を振り、娘を抱いた。


 美玖は一度だけこちらを見た。


 俺と目が合うと、小さく手を上げた。


 俺も上げた。


 彼女はまた、母親の肩へ顔を戻した。



 七緒は父親の手を握っていた。


 おじさんは娘の指を、両手で包んでいた。


「仕事、ちゃんと休んでよ」


 七緒が言った。


「休む」


「今の話じゃなくて。この先」


 おじさんは頷いた。


「分かった」


 七緒は母親を見た。


「お母さんも、夜勤のあと、買い物行かなくていいから。牛乳、二本になるし」


 おばさんは笑って、それから顔を覆った。


 七緒が手を伸ばした。


「ごめん。笑わせようとした」


 おばさんは首を振った。


「笑った。ちゃんと笑ったよ」


 娘の手を取り、自分の頬へ当てた。


 七緒も泣き始めた。


「私、帰りたい」


 声が崩れた。


 俺は動けなかった。


「今日も、みんなと家に帰りたい」


 おじさんは娘を抱き寄せた。


 おばさんも腕を回した。


 七緒は二人の間で、子供のように泣いた。


「分かってるけど、帰りたい」


 父親が、うん、と答えた。


 ほかには言わなかった。


 俺は、膝に置いていた毛布を下ろした。


 握りすぎて、手に跡がついていた。



 時間を見たのは、七緒がこちらを向いたあとだった。


 二十三時五十二分。


 まだ八分あった。


 八分しかなかった。


 七緒が両親へ何か伝えた。


 おじさんとおばさんは椅子を少し動かし、俺が隣へ来られるようにした。離れていったのではなかった。七緒のすぐ後ろと横に、二人ともいた。


 俺は彼女の隣へ座った。


 七緒が左手を母親へ、右手を俺へ伸ばした。


 俺は握った。


 父親の手が、娘の肩にあった。


 少し向こうで、千尋さんが顔を上げた。


「皆」


 五人が、互いを見た。


 千尋さんは声を整えようとして、うまくいかずに笑った。


「船、乗れてよかった」


 俺は頷いた。


 志保さんが、揺れたけどね、と答えた。


 美玖は猫の写真の話をした。


 七緒が、アイスも、と付け足した。


「釣りも」と千尋さん。


「魚より海藻だったじゃん」と七緒。


「魚も釣った」


 千尋さんは少し胸を張った。


 それぞれの母親や父親が、五人の顔を見ていた。


 俺は息を吸った。


「一緒にいてくれて、ありがとうございました」


 言うと、志保さんが首を振った。


「こちらこそ」


 千尋さんは、ほんとに、と言った。


 美玖は頷いた。


 七緒が俺の手を握り直した。


 それで、五人だけの話は途切れた。


 誰かが次の予定を言うことはなかった。



 七緒は俺の手を見ていた。


「指、長いね」


 思いがけないことを言った。


「今?」


「今、思った」


 自分の指を一本ずつ合わせた。


 俺はそれを見た。


 右手の人差し指に残っていた墨は、もう落ちていた。爪の隅に、青い絵の具が少しあった。


「手、痛くない?」


「痛くない」


「強く握ってるから」


「大丈夫」


 七緒は頷いた。


 言うことを考えていたはずなのに、何も出てこなかった。


 好きだという言葉はもう言った。謝ることも、礼を言うことも、全部足りなかった。


 何かを言い切れば終わってしまう気がして、口が動かなかった。


 七緒が、航、と呼んだ。


「うん」


「私のこと、ずっと好きでいてとか、忘れないでとか、言おうと思ってたんだけど」


 俺は彼女を見た。


 七緒は泣きながら、少し困った顔をした。


「今、言ったら、全部守ろうとしそうだから」


「守るよ」


 すぐ返した。


 七緒は首を振った。


「そういうところ」


 俺は彼女の手へ、もう片方の手も重ねた。


「勝手に、好きでいる」


 七緒が目を閉じた。


 涙が落ちた。


「うん」


 目を開いた。


「それなら、いい」


 母親の手を握ったまま、七緒はこちらへ少し身を寄せた。


 俺は彼女の額へ自分の額を触れさせた。


 熱かった。


 生きている人に触れるときと、何も違わなかった。


 おばさんが娘の髪を撫でていた。


 おじさんは、肩から手を離さなかった。



 どこかで、電話の画面が光った。


 誰も時刻を読み上げなかった。


 七緒が俺の額から少し離れた。


「怖い」


 小さな声だった。


 俺は頷いた。


「俺も、怖い」


「手、離さないで」


「離さない」


 七緒は父親と母親を見た。


「お父さん。お母さん」


 二人が返事をした。


 彼女はそれを聞いてから、また俺を見た。


 笑おうとしたのかどうか、分からなかった。


 唇が震えていた。


「迎えに来てくれて、ありがとう」


 俺は首を振りかけた。


 遅れた、と言いそうになった。


 七緒の手が、俺の指を押した。


 あの夜、彼女は学校の話をした。


 紙袋の底を抱えて、二人で家へ帰った。


 俺は泣いたまま頷いた。


「うん」


 七緒が何か言いかけた。


 俺も、名前を呼ぼうとした。


 掌の重さが、なくなった。



 俺は手を閉じた。


 指の間には、何もなかった。


 白い上着が膝へ落ち、椅子の上で布が小さく沈んだ。


 おばさんの手が、空いたところを掴んだ。


 おじさんが、七緒、と呼んだ。


 同じ名前を、もう一度呼んだ。


 返事はなかった。


 少し向こうで、深緑の弁当箱が鞄の底へ当たる音がした。


 千尋さんの父親が、腕に残った布を抱いていた。志保さんの母親は、肩掛けの片方を胸へ引き寄せていた。美玖の母親の手には、娘の電話があった。


 四人の姿は、なかった。


 港の時計は、零時を示していた。


 俺は七緒のいた場所へ手を伸ばした。


 上着の袖が触れた。


 どれだけ手を伸ばしても、その先に指はなかった。


 母親が俺の後ろへ来た。


 父親も来た。


 誰かが、ゆっくりでいい、と言った。


 俺は七緒の上着を持ち上げようとして、うまく持てなかった。


 おばさんが一緒に持った。


 二人で毛布の上へ置いた。


 ついさっきまでここにいた人の物は、少しも軽くなっていなかった。



 帰るまでに、どれだけ時間がかかったか分からなかった。


 会場の椅子は、すぐには片づけられなかった。残った人が座っていられるように、そのままにしてあった。


 千尋さんの父親が、俺へ頭を下げた。


 俺は下げ返そうとして、泣いた。


 父親は俺の肩を一度掴み、何も言わずに離した。


 志保さんの母親と、美玖の母親も、俺のそばへ来た。


 言葉は、聞こえたところと、聞こえなかったところがあった。


 美玖の母親が、電話、と言った。


 俺は顔を上げた。


「分からなくなったら、訊いてもいいって」


 俺は頷いた。


「はい」


 それだけは、ちゃんと言えた。


 相沢家の車へ荷物を運び、俺は自分の両親の車へ乗った。


 窓の外に、港の灯りがあった。


 入口の案内板の前を通った。


 七緒の字が、光の中に残っていた。


 車が曲がると、見えなくなった。


 俺は隣の空いている座席へ手を置いた。


 家まで、そのままでいた。


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