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第二十一章 九月の朝


九月一日



 電話が鳴っていると思って、目を覚ました。


 鳴っていなかった。


 枕元の画面は暗く、充電の線だけが白く見えた。


 部屋は明るかった。


 窓の向こうの空が青い。隣の家のカーテンは閉まっていた。


 俺は電話を取った。


 九時十二分。


 集合の時間を過ぎていると思った。


 今日は、集合する約束がなかった。


 画面を消した。


 もう一度つけた。


 五人席の最後の会話は、昨日の夕方だった。


 千尋さんが、卵持っていく、と書いていた。七緒が、食べる、と返していた。志保さんの返事があり、美玖の短い返事があり、俺のものもあった。


 その下は、空いていた。


 俺はそこを指で押した。


 文字を入れる場所が開いた。


 何も打たずに閉じた。



 階段を下りると、母親が洗濯物を畳んでいた。


 父親は仕事へ行っていた。今日は遅くならないようにすると、言っていたらしい。


 俺は椅子へ座った。


 母親が、水を飲む、と訊いた。


 頷くと、コップが出てきた。


 昨日と同じコップだった。


 冷たい水を飲んだ。


 母親は洗濯物の一枚を畳み終え、膝に載せた。


「学校、今日は休むって連絡しておいた。明日からのことは、あとで決めればいいから」


 俺は頷いた。


「相沢さんは」


「お二人とも、家にいる。お父さんも、しばらくはこっちに」


 母親はそこで言葉を止めた。


 俺はコップの水を見た。


「何か、持っていこうか」


「お昼を、一緒に用意しようと思ってる」


 母親はそう言った。


「航は、何か食べられる?」


 空腹かどうか、分からなかった。


 でも、ないまま待っていたら、昼も過ぎてしまいそうだった。


「おにぎりなら」


 母親は頷いて、台所へ行った。



 相沢家の扉を開ける前に、いつものように名前を呼びそうになった。


 飲み込んで、呼び鈴を押した。


 おじさんが出てきた。


 昨日と同じ服を着ていた。


「ありがとう」


 母親の持った袋を受け取り、俺にも、中へ、と言った。


 居間の絵が、少し低くなっていた。


 前の日に掛けた跡が、上の壁に小さく残っていた。


 おじさんは俺の視線に気づいた。


「下げた」


 俺は頷いた。


「このくらいで、いいと思います」


 おじさんは絵を見た。


「そうか」


 それから、もう一度見た。


 七緒に訊けないことを、二人で確かめていた。


 おばさんは台所にいた。


 俺の母親が隣へ行った。二人で袋から容器を出し、皿へ移した。


 四人で食卓へ座ると、一つだけ椅子が余った。


 昨日、俺が座った場所に俺がいた。


 七緒の椅子は、動かさなかった。


 おにぎりと、温めた汁を食べた。


 食べている途中でおばさんが泣いた。


 俺の母親も箸を置いた。


 おじさんは二人を見て、自分の顔を片手で覆った。


 俺はおにぎりを皿へ戻した。


 泣いたあと、少し冷めたものをまた食べた。


 片づけは、四人でやった。


 七緒が昨日、狭いと言っていた流しの前に、三人が並んだ。俺は少し離れたところで皿を拭いた。


 受け取ったコップの縁に、水滴が一つ残っていた。


 拭いて、棚へ戻した。



 七緒の部屋へ入ってもいいか、訊いた。


 おばさんは一緒に上がった。


 扉が開くと、机が見えた。


 画集と、絵の具と、未提出の課題。ベッドの上には畳んだ服があり、椅子の背には鞄が掛かっていた。


 昨日の鞄だった。


 棚には、俺が貸したコントローラーもあった。


 二十三日に渡したものだった。線はほどいてあり、別のコントローラーと並んでいた。七緒は一人で続きをしたのかもしれない。


 おばさんが、航くんの、と訊いた。


 俺は頷いた。


「今日は、まだ置いておいてもいいですか」


「いいよ」


 俺は手を伸ばさず、机のほうへ向き直った。


 おばさんは引き出しの前で足を止めた。


「あの夜の服が、なくなってた」


 俺は振り向いた。


 七月三十一日に七緒が着て、八月一日にそのまま家へ持ち帰ったと思っていた服。


 洗って畳んで、ここへしまってあったという。


 なくなる物と、残る物があった。


 分かっていても、引き出しの隙間は、もう一度失った跡に見えた。


 おばさんは引き出しを閉めた。


 机の上の画集を取った。


 間から、海で撮った五人の写真が出てきた。


 写真はあった。


 おばさんはその一枚を両手で持った。


「あなたたち、楽しそう」


「楽しかったです」


 俺は答えた。


「砂、焼きそばに入って。それで、ずっと笑ってて」


 おばさんは七緒の顔を見た。


「聞いた。おいしかったけど、じゃりじゃりしたって」


 少し笑った。


 俺も笑おうとして、泣いた。


 おばさんは写真を机へ置き、俺の背中へ手を回した。


 俺はその腕の中で泣いた。


 七緒がいない、と声に出た。


 何度も言った。


 おばさんは、うん、と答えた。


 自分も泣きながら、俺の背中を撫でていた。


 階下から、おじさんの足音がした。


 部屋の入口まで来て、そこに立った。


 誰も、すぐに泣きやもうとはしなかった。



 家へ戻ると、机の上に課題の本があった。


 明日の鞄へ入れようと持ち上げて、紙が一枚落ちた。拾う前に、自分の手だと分かった。


 八月七日、バスを待つ間に七緒が描いたものだった。


 片方はアイスの棒を持ち、もう片方は何も持っていない。小指の線が途中で切れ、人差し指の付け根には、古い傷の形だけ、白いところが残っていた。


 机へ置き、その横に右手を置いた。


 同じ形にしようとした。指の曲がり方が、うまく合わなかった。紙では親指の根元が少し隠れている。手首を回してみると近くなったが、今度は小指が違った。


 七緒が向こう側から見ていた手だった。


 俺の側からは、同じように見えなかった。


 しばらく動かしてから、諦めた。


 紙の上の手には、鉛筆の線が何本もあった。薄い線の上から、違う角度で濃く引き直したものもある。あのときは傷の形ばかり見ていたが、指の角度を何度も探した跡が残っていた。


 俺はそのとき、何を話していただろう。


 アイスを食べていいか訊いた。モデル料はもう払ったと言われ、それは飲み物のお返しだろと言った。七緒は、一回で両方払ったことにしといて、と言った。


 もっとじっとしていればよかったと思い、それから、違う、と声に出た。


 あのときは、あれでよかった。


 俺は二本のアイスを持って困っていて、七緒はそれを見て笑っていた。きちんと座って、何も話さずに描いてもらった手ではなかった。


 端が少しだけ折れていた。伸ばそうとして、指を離した。


 本を開き、前と同じページへ挟んだ。


 読んだ場所には、短い鉛筆の線が引いてあった。自分がつけたものだった。前後の文章を読めば、なぜそこへ線を引いたのか、思い出せるかもしれなかった。


 机の上で、電話が一度震えた。


 千尋さんの父親からだった。


 料理の写真だった。


 卵と、焼いた魚と、汁。


 文章はなかった。


 俺は画面を見た。


 父親が、食べる、と約束したことを思い出した。


『おいしそうです』


 打って、少し考えた。


『俺も食べます』


 その一文を足した。


 送ると、少しして返事が来た。


『そうして』


 俺は台所へ下りた。


 夕飯の支度を手伝うと言うと、母親は米を研んで、と頼んだ。


 水の中で米を回した。


 力を入れすぎて、母親に少し弱くと言われた。


 言われたとおりにした。


 夜、七緒の窓は暗かった。


 俺は自分のカーテンを閉めた。



九月二日



 学校へ行くことにした。


 休んでいてもよかった。母親も先生も、そう言った。


 家にいれば楽になるわけでもなかったので、制服を着た。


 靴を履いて外へ出ると、体が勝手に隣の玄関へ向いた。


 いつも七緒を待っていた場所で、足が止まった。


 扉は開かなかった。


 俺は自分の時計を見た。


 歩き出した。


 駅ののぼりは片づけられていた。


 掲示板の脇に、土台を置いていた四角い跡があった。ベンチの横にも同じものがあった。


 そこを通ると、七緒の電話の声が頭に戻った。


 足が止まりそうになった。


 俺は通り過ぎた。


 通り過ぎてから、振り向いた。


 ベンチには、通勤らしい人が座っていた。


 誰も俺を見ていなかった。



 教室では、何人かが俺の顔を見た。


 目を逸らす人もいた。小さく挨拶する人もいた。


 俺は自分の席へ座った。


 隣の席の奴が、昨日のプリントを机へ置いた。


「先生が、渡しといてって」


「ありがとう」


 それで会話は終わった。


 どうして休んだのか訊かれないことが、ありがたくて、少し寂しかった。


 始業前に先生が来て、廊下へ呼んだ。


 今日、難しくなったら別の部屋へ行っていいと言われた。俺は、分かりました、と答えた。


 教室へ戻るとき、七緒の机を見た。


 まだ、そこにあった。


 誰も座っていなかった。


 授業が始まり、ノートを開いた。


 黒板の字を書き写した。


 先生の言葉を聞いている途中で、別の音が聞こえた気がした。七緒が鉛筆を机へ落とす音だった。


 顔を上げたが、違う人だった。


 ノートへ戻った。


 同じ行を二度書いていた。


 片方を消した。



 昼休み、持ってきた弁当を開けた。


 母親の作った卵焼きが入っていた。


 俺は一つ食べた。


 甘かった。


 箸を持ったまま、涙が落ちた。


 向かいに座った同級生が気づき、手を止めた。


「ごめん」


 俺は言った。


 同級生は首を振り、自分の鞄からティッシュを出した。


 何も訊かずに置いた。


 俺は受け取って、顔を拭いた。


 少しすると、向かいの奴はまた食べ始めた。


 俺も、残りを食べた。



 放課後、美術室へ寄った。


 七緒の棚の札は、そのままだった。


 先生は俺を見ると、机の上の封筒を示した。


 七緒が作品を見てもらった学校から、もう一度返事が届いていた。完成した絵の写真を、顧問が送ったのだという。


「ご家族へ渡す前に、君にも知らせておこうと思って」


 俺は封筒を見た。


 作品の話と、見せてもらったことへの礼だった。


 七緒が生きていると思われていた頃に決めた、秋の相談の案内も入っていた。家族が望むなら、彼女が見た場所を案内したいと書かれていた。


 俺は先生を見た。


「七緒、まだ直すところあるって、言いそうですね」


 先生は、そうだね、と答えた。


「完成したと思っても、あとから変えたくなるものだから」


 俺は棚の札を見た。


 あの絵には、もう七緒が塗り直す日が来ない。


 分かりきったことが、ここへ来て初めて分かった。


 先生は封筒を俺へ預けた。


 俺は鞄の中の、本とノートの間へ入れた。


 帰り道、誰かに話したいことがあった。


 電話を出してから、画面を消した。


 相沢家の呼び鈴を押し、おじさんとおばさんに、先生から聞いたことを話した。



 そのあとも、九月の日付は進んだ。


 七緒の家には人が来た。花や、食べ物や、七緒を写した写真を持ってきた。


 身元の分からなかった遺体が七緒として家族へ戻り、家族が選んだ形で葬儀が行われた。


 八月末に別れたことと、それは別の用事だった。


 俺は両親と参列した。


 彼女の写真があった。


 大水槽の前で撮った写真から、一人のところを選んだものだった。七緒はまっすぐこちらを見ていた。父親がよそを向いていたことを、俺と家族は知っていた。


 知っている顔が、知らない場所へ置かれていた。


 帰るとき、俺はおばさんへ、また来てもいいですか、と訊いた。


 おばさんは俺の顔を見た。


「来て」


 短く答えた。


 俺は頷いた。


 事件についても、まだ話を聞かれることがあった。


 宮内さんは確認のたびに、今日は話せるかを確かめた。俺はできる日には話し、難しい日には別の日にしてもらった。


 犯人の名前を聞くと、手が冷たくなった。


 あの夜を思い出して眠れない日もあった。


 逮捕されれば全部終わるわけではないと、今は知っていた。


 七緒が送った犬の絵を見ることも、まだできなかった。


 消すこともできなかった。



 美玖の母親から連絡が来たのは、その翌週だった。


 写真を印刷したいが、同じようなものが何枚も出てきて、どれを選んだらいいか分からなくなったという。


 俺は休みの日に家へ行った。


 居間には、今の美玖の写真があった。


 笑いかける前の顔だった。指に土がつき、こちらを少し振り向いている。台所で卵焼きを作った日に撮ったものだった。


 母親は電話を俺へ渡した。


「このへん、全部、同じ場所でしょう」


 枝と空が何枚も並んでいた。


 俺は一枚ずつ開いた。


 少しずつ、違っていた。


「美玖が選んだものには、印があると思います」


 お気に入りの欄を開くと、数が減った。


 それでも多かった。


 母親は眼鏡を掛け、画面へ近づいた。


「これ、私はこっちが好き」


 印のついていない写真を指した。


 俺は母親を見た。


「それも、印刷していいと思います」


「そうね」


 母親は自分で選んだ。


 その隣の写真には、ぼやけた指が大きく写っていた。


 母親が笑った。


「これは、上手じゃないね」


 俺も笑った。


 美玖が言っていたことを、母親は覚えていた。


 印刷した写真を並べ、余った紙を片づけた。


 帰る前に母親が、あの子、怖がってたと思う、と言った。


 俺は足を止めた。


「最後に、抱いてって言ったの。小さいころみたいに」


 母親は今の美玖の写真を見た。


「大きくなったのにね」


 俺は何と返せばいいか分からなかった。


 母親は、聞いてくれてありがとう、と言った。


 俺は頷いた。


 それを、誰かへ話したかったのだと思った。



 志保さんの母親とは、センターで会った。


 八月に借りたものを返しに来ていた。鞄の中に、薄い冊子があった。


 志保さんの仕事をまとめたものだった。


「もう一部、印刷してもらったの。見せたい人がいて」


 母親は表紙を撫でた。


「私、あの子がどこで働いているかは知っていたけど、何をしていたのか、ちゃんと知らなかった」


 俺は冊子を見た。


 あの小さすぎた字は、読みやすくなっていた。


「ここ、最後に直したんです」


 俺が言うと、母親はページを開いた。


 俺は七緒に言われて一行減らした話をした。


 母親は笑った。


「志保は、人に言われると、まず一度反対するのよ」


「してました」


「そのあと、ちゃんと直すんだけど」


 母親はページを戻した。


 白いカップは使っているという。


 黄色いカーテンは、まだ選べていないという。


「思ったより、いろんな黄色があるのね」


「あるみたいです」


「あの子、どれを見てたのかなって」


 俺は、店を知っています、と言った。


 母親は顔を上げた。


 それから二人で、あの店へ行った。


 同じ布は少なくなっていたが、まだ残っていた。


 母親はすぐには買わなかった。何枚か見本を見せてもらい、窓に当てた。


「もう少し考える」


 俺は頷いた。


 志保さんも、きっとそう言うだろうと思った。


 それ以上のことは、分からなかった。



 千尋さんの父親とは、弁当を食べた。


 学校が休みの日だった。午前の仕事を終えた父親が、川の近くで休むというので、俺が家から歩いていった。


 父親は軽トラックの荷台へ腰を掛け、深緑の弁当箱を膝へ載せていた。


「乗るか」


 空いているところを叩いた。


 俺は隣へ座った。


 弁当の中には卵と、店で買った揚げ物と、形の揃わない野菜が入っていた。


 小さい果物箱には、りんごが入っていた。


 父親は箸を出した。


「朝、間に合わなくてな。野菜は昨日の」


「おいしそうです」


「同じこと、いつも言ってくれるな」


 父親は少し笑った。


 俺も自分の弁当を開けた。


 今日は卵を自分で焼いた。巻くところで折れ、切ると中が見えていた。


 父親が覗いた。


「焦らないほうがいいらしい」


「教わりました」


「俺も」


 しばらく黙って食べた。


 工事の車が一台通り、父親が軽く手を上げた。知り合いらしかった。


 父親は果物箱を俺へ寄せた。


「食べるか」


 俺は一つもらった。


「うさぎには、まだできない」


「そのままで大丈夫です」


「そうか」


 父親はりんごを食べた。


 千尋さんの残した料理は、少しずつなくなっていると言った。


「最後の一個が、食べられなくてな」


 俺は弁当箱を見た。


「今、残ってるんですか」


「ああ」


 父親は頷いた。


 俺は、食べたほうがいいとも、取っておけばいいとも言えなかった。


 父親は蓋を閉めた。


「今度、来るか。うちに」


 俺は顔を上げた。


「はい」


「そのとき、出す。自分でも作る」


「手伝います」


 父親は少し考えた。


「食べてくれればいい」


 俺は頷いた。


 昼の休みが終わるころ、荷台から下りた。


 父親が弁当箱を鞄へ入れた。


 俺が持っていた保冷剤を、返さなくていいとまた言った。


「また持ってきます」


 そう答えると、父親は、そうか、と言った。



 九月の終わり、相沢家の二人と、七緒が見学した学校へ行くことになった。


 返事をくれた先生に家族が連絡し、都合の合う日に短く案内してもらう約束をした。


 俺は行っていいのか迷った。


 おばさんは、七緒から壁の話を聞いたんでしょう、と言った。


 俺は頷いた。


 直接描ける、大きな壁のある部屋。


 七緒はその広さを、両腕で示していた。


 俺は彼女の両腕を覚えていたが、実際の広さは知らなかった。


 出発の日、相沢家へ行く前に、机の葉書を見た。


 展望台の五人。


 見ていると、会いたかった。


 会いたいと思うことは、少しも減っていなかった。


 学校の帰りに面白いことがあると、七緒へ送ろうとした。新しい画材の広告を見ると、教えたくなった。食べたものの味を、千尋さんへ話したくなることも、写真の撮り方を美玖へ訊きたくなることもあった。


 そのたびに、いないことを知り直した。


 携帯電話の中の名前は、消さなかった。


 返事が届くとは思っていなかった。


 家を出る前に、課題の本を鞄から出した。


 提出を待ってもらった感想文は、先週、書き終えた。何度も書き直したので、机の上に消し屑が溜まっていた。


 それを手で集め、捨てた。


 母親へ、行ってくる、と言った。


「気をつけて」


 台所から返事があった。


 隣の玄関では、おじさんが鞄へ紙を入れていた。


 七緒の絵を、大きく印刷したものだった。


 原画は家に置いていく。両親がそう決めた。


 おばさんが靴を履いて出てきた。


「お待たせ」


 俺は首を振った。


 おじさんが鍵を掛けた。


 俺は紙の入った大きな袋を受け取った。



 駅までの道を、三人で歩いた。


 湊屋の前で、八重さんが植木鉢へ水をやっていた。


 店の前には椅子が一脚あった。もう一脚は、入口の内側へ置かれていた。


 俺たちを見ると、八重さんは手を止めた。


「お出かけ?」


 おばさんが行き先を伝えた。


 八重さんは、そう、と頷いた。


「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 俺も返した。


 橋を渡った。


 川の水は、夏より少なかった。倉庫の壁へ朝の光が当たり、駅裏の道も明るく見えた。


 駅に着くと、おじさんが切符を買った。


 おばさんは袋の中の紙を気にしていた。


「角、大丈夫?」


「大丈夫です」


 俺は袋の底を支えた。


 ベンチの前を通った。


 誰もいなかった。


 俺は一度立ち止まった。


 七緒はそこで待っていた。


 俺は迎えに来た。


 それから、二人で家へ帰った。


 八月の朝、同じ道を走って、三人に会った。


 思い出すたびに痛かった。それでも、思い出せることがそこから増えていた。台所や、空っぽの部屋や、島の階段や、砂の入った焼きそばまで、あのベンチの先に繋がっていた。


 おじさんとおばさんが、少し先で待っていた。


 俺はそちらへ歩いた。


「重かったら、代わるよ」


 おじさんが袋へ手を出した。


 俺は、次の駅で、と答えた。


 階段の手前で袋を持ち直した。


 中の紙は、折れていなかった。


 遠くから列車の音がした。


 俺たちはホームへ上がった。



                         了


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