第十九章 送る支度
八月三十日
千尋さんの父親は、スーパーの通路で袋を二つ持っていた。
玉葱が三個入ったものと、六個入ったものだった。
値札を見比べ、六個のほうを籠へ入れかけたところで止まった。
「三個でいいか」
千尋さんが頷いた。
「来週、また来ればいいから」
俺は少し後ろでカートを押していた。
七緒は午前中、学校で絵を仕上げている。俺が手伝うと言うと、最後は一人で描きたいと言われた。
千尋さんの家へ借りた保冷剤を返しに寄ったら、買い物へ行くところだった。荷物が重くなるからと誘われ、そのまま一緒に来た。
父親は鶏肉の前でも少し迷った。
「冷凍するなら、こっちでも」
大きい包みを指した。
千尋さんは肉を見た。
「袋、分けるの、お父さんがやる?」
「やる」
「じゃあ、そっちでいい」
籠へ入った。
千尋さんは買い物の紙へ線を引いた。
まだ消されていないものに、洗剤があった。
父親が先に歩き、いつも使う袋を棚から取った。千尋さんが、あったっけ、と訊くと、あと一回分くらいだ、と答えた。
紙へ線が増えた。
食品売り場を出る前に、父親は一度戻った。
小さいプリンを二つ持ってきた。
俺を見て、もう一つ取りに行った。
佐伯家の冷蔵庫には、容器の一覧が貼ってあった。
以前見たときより、欄が少なかった。食べ終わったものの上には横線が引いてある。
新しい紙には、父親の字でいくつか料理の名前が書かれていた。
卵焼き。味噌汁。魚を焼く。
肉じゃがの横には、小さく丸が二つ。
「二回できたんですか」
俺が訊くと、父親は、二回やった、と答えた。
千尋さんが肉を出しながら言った。
「一回目は、じゃがいもが半分溶けた」
「味はよかった」
「うん。味はよかった」
父親は包丁とまな板を出した。
買った肉を一回分ずつ袋へ分けた。千尋さんが横から手を出しかけると、父親が、分かる、と言った。
「まだ何も言ってない」
「言いそうだった」
千尋さんは手を引っ込めた。
俺は保冷剤を拭き、冷凍庫の空いているところへ戻した。
扉は、押し込まなくても閉まった。
千尋さんがそれを見て、少し笑った。
父親は袋の一つへ、今日の日付を書いた。
千尋さんは、あとで何の肉か分からなくなるよ、と言った。
父親が、鶏、と足した。
「どの部分?」
「そこまで書くのか」
「お父さん、自分で分かるならいいけど」
父親は袋を見た。
もも、と書いた。
プリンは三人で食べた。
千尋さんは底のカラメルを先に掘り当て、上の部分へ少しずつ混ぜていた。
父親は上から順番に食べた。
「明日、何時に出る」
父親が訊いた。
「夜ご飯、食べてからでいい?」
「いい」
千尋さんはスプーンを止めた。
「港で、お父さんが一人にならないかな」
俺は手元を見た。
父親はプリンを食べた。
「ほかにもいるだろう。高瀬くんも、家族の人も」
「そうだけど」
「帰りの車も決まってる。酒は飲まない」
千尋さんは頷いた。
父親が、母さんのときもな、と言った。
千尋さんは顔を上げた。
「終わったあと、どうやって帰るのか、そればっかり考えた」
俺は二人を見た。
千尋さんの母親が亡くなっていたことは知っていた。三年前の八月、二人で送ったのだとは、そのとき初めて聞いた。
「帰れたね」と千尋さん。
「帰った」
父親は空の容器を置いた。
「お前が、冷蔵庫にご飯があるって言った」
「お母さんが作ってたから」
「そうだった」
千尋さんは残ったカラメルを見た。
父親も同じところを見ていた。
彼女があれほど沢山の容器を用意していた理由を、俺はすべて聞いたつもりでいた。
家には、俺の知らない八月があった。
「今度は、自分でやるから」
父親が言った。
千尋さんはスプーンを置いた。
「毎日、ちゃんとじゃなくてもいいよ」
「分かった」
「買ってきたのでもいいし。パンでも」
「分かった」
「何も食べないのだけ、やめて」
父親は頷いた。
「食べる」
千尋さんは目を拭いた。
父親は、自分のスプーンを容器へ伏せた。
「明日の晩、卵、焼く」
「おかず、それだけ?」
「ほかも」
千尋さんは笑いながら、もう一度目を拭いた。
俺は空になった三つの容器を集め、流しへ持っていった。
午後、七緒から絵ができたと連絡があった。
美術室へ行くと、志保さんと美玖もいた。絵を運ぶのを手伝うため、七緒が呼んだらしい。
大きな絵の中で、俺はまだ地図を持っていた。
紙の白だけが、少し抑えられていた。海の向こうに町があり、手前には五人と、邪魔なくらいに伸びた枝があった。
七緒は椅子に座っていた。
「終わり」
言って、長く息を吐いた。
先生が表面の乾き具合を見て、今日なら運ぶ際にここへ触れないように、と教えた。
七緒の父親が車で来た。
後ろの席を倒すと、ぎりぎり入った。布で包み、角へ柔らかいものを挟んだ。七緒は何度も触る位置を指示した。
「分かった、分かった」とおじさん。
「分かってるなら、そこ持たないで」
志保さんが反対側を支えた。
俺はドアを押さえた。
積み終えると、七緒は教室へ戻り、自分の道具を集めた。
乾いた筆。絵の具の箱。色のついた雑巾。
先生が、残しておいてもいいよ、と言った。
七緒は考えてから、使いかけの大きい白だけを机へ置いた。
「部活で、誰か使ってください」
「いいの?」
「家にも一本あります。これは、蓋がちゃんと閉まるので」
先生は受け取った。
七緒は自分の棚を見た。
名前の札を剥がそうとして、手を止めた。
「これは、まだいいですか」
先生は頷いた。
「そのままにしておこう」
七緒は鞄を肩へ掛けた。
廊下へ出ると、美玖が窓の写真を撮っていた。
「私も入る?」
七緒が訊く。
「入って」
七緒は窓の前へ立った。
いつもの、少し斜めの立ち方だった。
美玖は構えた電話を下ろし、先生も、と呼んだ。
七緒が扉のほうへ手を伸ばした。
先生は二人の真ん中へ入っていいものか迷ったあと、七緒の隣へ立った。
志保さんの冊子は、午後に完成した。
図面を作った仕事と、自分が担当した部分が、別の欄になっていた。以前より短いのに、何をしていたのかがよく分かった。
センターの机で、七緒がそれをめくった。
「ここ、字が小さい」
「そこまで直すと、全部ずれる」
「でも、小さい」
志保さんはページを見た。
「じゃあ、そこだけ一行減らす」
俺が作業用の椅子を寄せると、美玖も反対側へ来た。
千尋さんは少し遅れて来て、机の上へパンを置いた。
今日は試作ではなく、買ってきたチーズパンだった。
志保さんは一行を削り、もう一度印刷した。
それで終わりにした。
「返しに行ってくる」
以前の同僚に、できたものを一部渡したいという。
五人で駅のほうへ歩き、事務所の入口まで行った。
志保さんは一人で中へ入った。
十五分ほどして出てくると、目の周りが赤かった。
「見てもらえた?」
七緒が訊いた。
「うん。今までの私の仕事のこと、ちゃんと読んでもらえた」
志保さんは鞄の紐を握り直した。
「あと、犬の口、そのままでいいって」
千尋さんが笑った。
「直すつもりだったんですか」
「帰る前に、接着剤がどこにあるか訊いたの」
「何て?」
「新しいのより、紙が滑らないから、このまま使うって」
志保さんは目を拭きながら笑った。
そのあと母親が迎えに来て、家の用事をするため別れた。
白いカップと本と冬の上着は、もう実家へ戻っているという。
「カップ、一個だけでよかった?」と七緒。
「うん。一個がよかった」
志保さんはそう答えた。
美玖の写真を受け取りに、四人で店へ寄った。
展示は翌日の夕方までだった。母親が受け取りに来る約束をしていたが、美玖は今日、自分でもう一度見ておきたかったという。
枝の写真が、壁にあった。
その下に、倉田美玖、と名前が書かれている。
年齢はなかった。
美玖は少し離れて見た。
「やっぱり、ここ、もう少し入れたかった」
端の光を指した。
店の人が、次は、と言いかけて止まった。
美玖は振り向いた。
「別の写真、持ってきました。昨日の」
電話の画面を見せた。
波打ち際で俺が撮った四人と、美玖の撮った海だった。
「展示じゃなくて、プリントしたいです。この二枚と、それから」
美玖は画面を戻し、五人で写ったものを探した。自分が走って入った写真で、端に俺の持つ空の容器が見えた。
「これを、五枚お願いします。さっきの二枚は、一枚ずつで」
「五人のほうを、皆さんへ?」
「はい。こっちは、航先輩もいるので」
店の人は枚数を確かめた。
美玖はほかの写真も選んだ。
注文が終わると、母親が来た。待ち合わせていたのだという。
二人で店の隅へ行き、写真を確認していた。
俺たちは外で待った。
店のガラス越しに、美玖が母親へ何か説明していた。母親が頷き、それから指で別の写真を示す。美玖は首を振った。
母親は笑った。
美玖も、少し笑った。
出てきたとき、彼女は薄い封筒を持っていた。
「何にした?」
千尋さんが訊く。
「お母さんと、二人の写真」
見せなくてもいいのだと思った。
美玖は封筒を開け、俺たちへ向けた。
自分で電話を持って撮ったため、二人の顔が少し近すぎた。母親はレンズの位置が分からず、美玖の指を見ていた。
「これ、好き」
七緒が言った。
美玖は頷いた。
「私も」
母親は横で、もっとちゃんと撮れたのもあるんだけど、と言った。
「これがいい」と美玖。
母親はもう、それ以上言わなかった。
夕方、警察からの連絡を受ける時間があった。
五人だけでなく、それぞれの家族も一緒だった。
四人の事件のつながりについて、捜査が進んでいた。柏木が持っていた私的な記録には、店や施設へ行った仕事の日程に混じって、四人の行動や連絡先が書かれていたという。
志保さんの部屋の採寸は、その日の予定の変更だった。千尋さんの東口への寄り道も、美玖が写真を撮り直しに戻ったことも、決まった日課ではなかった。
車の動きと周辺の記録は、そうした変更のあとにも近くへ来ていたことを示していた。
誰かが同じ場所へ呼び集めたのではなかった。
それぞれが、自分の用事で歩いていた。
その生活を追っていた人がいた。
川瀬さんの所在も、勤務先などの記録で確認が取れ、事件へ関与したことを示す材料はなかったという。長岡さんの作業と搬入の日付が違ったことも、ほかの作業員の話や書類と合っていた。
志保さんはその話を黙って聞いた。
「私が、あの人と別れたことは、それで変わらないですよね」
宮内さんは、はい、と答えた。
志保さんは肩の力を抜き、母親のほうを一度見た。
母親も頷いた。
七緒については、支援活動の準備で得た情報が、本来の業務の範囲を越えて使われていた形跡があった。あの晩の詳しい経緯は、本人の供述だけに頼らず確認を続けるという。
七緒の母親が、何か話しているのか、と訊いた。
宮内さんは、説明できる範囲を限って答えた。
柏木は、八月に帰ってくれば話をし直せると思った、という趣旨のことを口にしている。
俺は手を握った。
七緒も、俺の隣で姿勢を変えた。
「何を?」
千尋さんが言った。
誰へ向けた言葉か、分からなかった。
「何を、話し直すんですか」
宮内さんは、相手の説明を正当な理由として伝えているのではないと話した。何が行われたかを確かめ、記録する。その言葉を四人が受け入れたり、返事をしたりする必要はない。
志保さんが首を振った。
「手紙とかも、いりません。もし、そういう話になっても」
宮内さんは希望を記録した。
千尋さんも、美玖も、同じ希望を伝えた。
七緒はしばらく黙っていた。
それから、父親の手を押さえて、自分で言った。
「私が八月にしたかった話、そんなことじゃなかったです」
俺は七緒を見た。
彼女は前を向いていた。
「これから、うちに何か送らないでほしい。私がいなくなってからも」
宮内さんは頷いた。
その希望も、同じように記録された。
支援の道具を返すため、五人で奥の部屋へ行った。
案内用の地図。貸してもらった筆記具。歩く人のために用意した雨具。
浦瀬さんが数を確かめた。
参加証は返さなくてもいいと言われた。
俺と七緒の名前が、同じ形式で印刷されていた。
七緒は紐を指へ巻いた。
「私、こっちのままでいいですか」
浦瀬さんは、もちろん、と答えた。
「七緒さんがしてくれた仕事は、そのままですから」
七緒は参加証を鞄へ入れた。
俺も同じところへしまった。
明日の会場までの行き方を確かめた。
五人とも、夕飯までは家で過ごす。
港へ来る時刻は、それぞれ家族と決める。途中で会場を離れたくなったら、誰かに伝える。
俺はシートを預かった。
七緒はあの大きい案内板を見た。
「あれ、持ってくる人、大丈夫ですか」
「明日の午後に運びます。心配しなくていいですよ」
浦瀬さんが答えた。
七緒は小さく頷いた。
外へ出ると、美玖が俺たちを呼んだ。
写真店で注文したものが、もうできていた。母親が受け取って、センターへ持ってきてくれたという。
五人へ一枚ずつ配った。
昨日の海の写真だった。
俺が撮った四人の写真ではなく、その前に、美玖が海の家で借りた低い椅子へ電話を置いて撮った五人の写真だった。波打ち際から戻ったあと、俺は容器を片づけるところで、肩を叩かれて振り向いていた。
少しばらばらに並んでいた。
七緒が俺のほうへ寄り、千尋さんは帽子を片手で押さえていた。志保さんは膝を立て、美玖は走って入ったせいで片足がまだ砂を蹴っていた。
「これ、ちゃんと撮れてたんだ」
七緒が言う。
「ぎりぎり」
美玖は自分の片足を指した。
俺は写真を持ち直した。
あの日の絵葉書の五人より、少し近くにいた。
五人で同じ写真を持って、しばらく見た。
千尋さんが、折れそう、と言った。
志保さんが冊子の間へ入れ、美玖は封筒を余分に出した。
七緒は鞄の中から本を取り出した。
本屋で買った画集だった。
写真を挟み、そっと閉じた。
家へ帰る道で、七緒は俺の手を握った。
昨日より自然に指が合った。
「あの映画、あった?」
七緒が訊いた。
「あった。借りられる」
「明日、昼に見たい」
「うん」
「うちで。お父さんとお母さんもいていい?」
「もちろん」
七緒は少し笑った。
「今度のもちろんは、書いてなくてもいいや」
俺も笑った。
家の角へ来ると、手を離す必要がなかった。俺たちは並んで相沢家の前まで行った。
玄関から、完成した絵が見えた。
おじさんが居間の壁へ掛ける位置を考えていた。大きすぎて、先に飾ってあったものを移さなければならないらしい。
七緒は家へ入る前に振り向いた。
「明日、お昼食べてからね」
「分かった」
「早く来ても、片づけてるから」
「じゃあ、一時」
「一時」
七緒は確かめ、扉を閉めた。
俺は家へ戻った。
手帳を開き、三十一日の欄へ、一時、映画、と書いた。
あとは、空けたままにした。




