第十八章 水槽の前で
八月二十八日
九時より三分前に外へ出ると、七緒の父親が車を拭いていた。
昨夜のうちに雨が降ったらしい。窓の端へ小さな水滴が残っていた。
「おはようございます」
「おはよう」
おじさんは後ろのドアを開け、座席の上の袋を足元へ下ろした。
「荷物はそこへ。隣、空けといて」
俺は鞄を置いた。
相沢家の玄関から、七緒と母親が出てきた。
「お父さん、鍵」
「持ってるよ」
「家の」
おじさんは両方のポケットを叩いた。
七緒は母親から鍵を受け取り、扉を閉めた。
車へ来る途中で俺を見た。
「乗ってていいのに」
「待ってた」
「日陰ないよ、そこ」
俺は後ろへ乗った。
七緒が隣に座った。鞄を膝へ載せ、シートベルトを締めた。
出発して最初の角で、おじさんは右へ曲がりかけた。
「左だよ」と七緒。
「あ、仕事行くところだった」
車を止め、安全を確かめてから左へ曲がる。
おばさんが、休み慣れてないね、と言った。
七緒は窓の外を見て笑った。
水族館は、思ったより人が多かった。
入口の前に、背の高さを測る魚の絵が立っていた。小さい子が順番に並んでいる。その横を通ると、おばさんが七緒を呼び止めた。
「ここ、写真あるよ。小さいときの」
「また撮るの?」
「見つかったら、比べられるかなと思って」
七緒は周りを見て、列が途切れたところで絵の横へ立った。
おばさんが電話を構える。
「もう少し、右」
「魚に食べられる」
「そのくらいでいい」
七緒はわざと大きな口の前へ頭を入れた。
おばさんは笑いながら撮った。
「普通のも」
七緒は絵の横へ戻った。
俺は二人の鞄を受け取った。おじさんが俺を見て、一緒に入ったら、と言った。
「あとで、大きい水槽のところで」
七緒が答えた。
おじさんは頷いた。
四人で中へ入る。
外の光から急に暗くなり、目が慣れるまで床の青い誘導灯を見た。七緒の手が、俺の袖を軽く引いた。
「段差」
俺は足元を見た。
段差を越えると、手は離れた。
大水槽の前で、おじさんが説明板を読み上げ始めた。
魚の種類と、水槽の深さ。
七緒は水槽を見ていた。
「お父さん、私も読める」
「そうか」
おじさんは途中でやめた。
少しするとまた、あれは、と言いかけた。
七緒が先に指した。
「あの、下で動かないの、何?」
おじさんは説明板を探した。
おばさんは二人の少し後ろで笑った。
俺はその隣にいた。
「小さいころも、同じことやってた」
おばさんが言った。
「七緒が訊くと、何でも答えようとするの。分からなかったら、係の人を探して」
俺は頷いた。
七緒が父親の袖を引き、もう一つ訊いた。今度は説明板にも見つからなかったようで、二人とも首を傾げていた。
係の人が来ると、おじさんが声を掛けた。
おばさんは、ほら、と小さく言った。
俺も笑った。
水槽の青い光が、四人の靴へ落ちていた。
ペンギンは、七緒が春に見た写真よりずっと大きかった。
けれど、成鳥と同じ模様になる途中の一羽が、少し離れた岩の上にいた。
「あれかな」
七緒が背伸びした。
個体の説明と、足についた輪の色を比べた。
当たっていた。
「でかい」
最初の感想がそれだった。
俺も覗いた。
その一羽は水に入らず、周りを見ていた。泳いで戻ってきた別の一羽が前を通ると、嘴を少し伸ばした。
七緒は柵へ肘を載せた。
誰も、次へ行こうとは言わなかった。
長い間、同じ岩を見た。
ようやく動いたと思ったら、ペンギンは向きを変え、座った。
「入らないんだ」
七緒が言った。
「俺たちがいる間には、無理かもな」
「もうちょっと」
また待った。
おじさんは飲み物を買いに行き、おばさんは隣のベンチへ座った。
俺と七緒は並んで、岩を見ていた。
「これ、手帳に何分って書いてた?」
七緒が訊いた。
「水族館、二時間半」
「全部で?」
「うん」
「このままだと、ペンギンで一時間」
俺は腕時計を見なかった。
「いいよ」
七緒は肘の位置を少し変えた。
肩が触れた。
どちらも離れなかった。
十分ほどして、その一羽は急に水へ入った。
あまりにあっさり入ったので、俺は最初の瞬間を見逃した。七緒が、今、と俺の腕を叩いた。
水の中では速かった。
目で追う間に一周し、仲間の間へ潜った。
七緒は母親へ手を振った。
「入ったよ!」
おばさんが立ち上がった。
おじさんは飲み物を持って、小走りで戻ってきた。
四人で柵へ並んだ。
昼食のテーブルで、俺は初めて七緒の父親とゆっくり話した。
いつもは、学校へ行くところか、七緒を呼びに来た玄関で挨拶するくらいだった。何を話せばいいのか迷っていると、おじさんは俺の父親の仕事を訊いた。
そこから、俺の進路の話になった。
「まだ決めてないです。大学には行きたいですけど」
「そうか。これからだな」
おじさんは言ってから、箸を止めた。
七緒は揚げ物へソースをかけていた。
「航、決めるまでが長いんだよ。決めたあと急ぐけど」
「お前は先に走りすぎるんだろ」
「走ってから考えたほうが早いときもある」
「戻ることになるじゃん」
「そこ、見てないふりして」
おじさんが短く笑った。
おばさんも食事を再開した。
七緒は俺の皿を見た。
「それ、食べないの?」
小さいトマトを指していた。
俺は皿を少し寄せた。
七緒は一つ取った。
おばさんが、ちゃんと断りなさい、と言いかけた。
「訊いた」
「そうね」
七緒は残りの一つも見た。
俺が頷くと、それも取った。
帰りの売店で、おじさんは大きなぬいぐるみを持ち上げた。
七緒は、でかい、と言った。
「部屋、置けない」
「そうか」
おじさんは棚へ戻した。
その手が、少し遅れた。
七緒は別の棚を見た。小さなペンギンがいくつも並んでいた。
「こっちは?」
おじさんが隣へ来た。
七緒は一つ持って、顔を比べた。
「この子、ちょっと傾いてる」
「別のにするか」
「この子がいい」
七緒は父親へ渡した。
「買って」
おじさんは、ああ、と言って受け取った。
おばさんは、大水槽の前で撮ってもらった四人の写真を見ていた。俺が覗くと、おじさんだけ少し違う方向を向いていた。
「小さい子が、横で転んだから」
おばさんが説明した。
七緒が戻ってきて、それを見た。
「お父さんらしい」
その写真は撮り直さなかった。
車の中で、七緒は眠った。
最初は窓へ頭をつけていたが、車が曲がるとこちらへ傾いた。
俺は動けなくなった。
規則的な呼吸が聞こえた。
前の席で、おばさんが振り向いた。
俺と目が合った。
おばさんは何か言いかけ、言わずに前へ戻った。おじさんが鏡を見た。
誰も、七緒を起こさなかった。
彼女が深く息をするたび、俺の肩に重さがかかった。
眠っているだけだと分かっていた。
それでも一度、名前を呼びたくなった。
俺は自分の膝へ手を置き、家に着くまで待った。
夕飯も、相沢家で食べた。
おじさんが野菜を切り、七緒が皿を出した。俺は箸とコップを並べた。おばさんは鍋の前にいた。
父親が家で料理をしない人だと思っていたわけではなかったが、七緒の家で四人分を準備するところを見るのは初めてだった。
薄く切ったつもりの玉葱が厚い、と七緒が文句を言った。
おじさんは、自分では薄い、と答えた。
おばさんがその間へ手を出し、鍋へ入れた。
「煮えれば同じ」
「違うでしょ」と七緒。
俺は笑いながら水を注いだ。
食卓には、煮込みとパンと、買ってきたサラダが並んだ。
七緒は昼よりよく食べた。
食べ終わるころ、おばさんが昔の写真を探してきた。
入口の魚の前に立つ、小さな七緒がいた。
頬に何かついていた。アイスだったらしい。今よりずっと短い腕を広げ、魚と同じくらい大きくなろうとしていた。
「顔、全然変わってないな」
俺が言うと、七緒は写真を取り上げた。
「変わってるよ」
「怒った顔が」
「これは怒ってない。眩しいの」
母親が別の写真を出した。
七緒が泣き、俺が横で立ち尽くしていた。
小学校へ入る前の、町の催しだった。
「これは?」
「七緒が自分で転んで、航くんのせいにしたとき」
「お母さん、それ出さなくていい」
「ひどいな、お前」
「覚えてない」
七緒は俺から写真を遠ざけた。
おじさんが隣で笑った。
次の写真へ手を伸ばしたところで、その手が止まった。
何かに耐えるように顔を下げた。
七緒は写真を膝へ置いた。
「お父さん」
おじさんは首を振った。
「ごめん。大丈夫」
大丈夫ではなかった。
七緒は椅子を寄せ、父親の腕へ自分の腕を絡めた。
おばさんが目を拭いた。
俺は、帰る、と言った。
七緒は一度こちらを見て、頷いた。
「また、あとで」
家族の写真を机へ残し、俺は玄関へ出た。
風呂から上がると、七緒から連絡が来ていた。
『外、ちょっと出られる?』
今度は駅ではなかった。
家の前、と書いてあった。
俺は母親に声を掛け、玄関を出た。
七緒は塀のところにいた。両親には伝えてきたという。遠くへは行かず、二人で角の街灯まで歩いた。
「今日、来てくれてありがとう」
七緒が言った。
「俺のほうこそ。ご飯まで」
「お母さんが、いつでもどうぞって」
彼女はそこで口を閉じた。
俺も何も言わなかった。
家の間を風が通った。
七緒の髪が頬へ掛かり、彼女は耳へ戻した。
「私、今日、楽しかった」
「うん」
「お父さんが泣いてても、楽しかったの、なくならないよね」
俺は頷いた。
「なくならない」
七緒は街灯を見上げた。
「泣かせたくないなって、思うんだけど」
「うん」
「思うだけじゃ、どうにもならないね」
俺は彼女の手を見た。
握ったら、泣かせてしまうかもしれなかった。握らない理由を、また探している自分がいた。
「七緒」
呼ぶと、彼女はこちらを向いた。
「好きだ」
声が思ったより大きくなった。
七緒は動かなかった。
「幼なじみだから、とかじゃなくて。俺、お前と付き合いたい」
言い終えると、急に手の置き場がなくなった。
七緒は目を伏せた。
「今だから?」
俺は首を振った。
「前から。でも、言わなかったのは俺だから、今になった」
七緒は唇を噛んだ。
何か言おうとして、息を吸った。
「航って、ずるいよね」
俺は頷きかけた。
「いつも、私が先に呼ぶんだから」
七緒が俺の手を取った。
指先だけではなく、掌を合わせて握った。
「私も、好き」
俺は手を握り返した。
ずっと知っていたような気がした。
初めて知ったことだった。
「返事、遅くない?」
七緒が言った。
「いま、お前が返事したんだろ」
「それに対して、何かあるでしょ」
「嬉しい」
七緒は笑った。
泣いていた。
俺も、何がどうなっているか分からなくなった。
彼女の肩へ手を伸ばし、抱き寄せた。七緒は顔を俺の胸へ押しつけた。
少しして、苦しい、と言われた。
慌てて腕を緩める。
「ごめん」
「離れろとは言ってない」
俺はもう一度、今度はゆっくり腕を回した。
七緒は俺の背中のシャツを掴んだ。
「もっと早く、こうしてたらよかった」
彼女が言った。
俺は、それを否定できなかった。
「うん」
「帰り道とか、普通に手を繋いでみたかった」
「明日、繋ごう」
七緒は少し笑った。
「明日は、みんないるよ」
「いても」
返すと、彼女は顔を上げた。
少し背伸びをして、俺の頬へ唇を触れさせた。
離れてから、自分のしたことへ驚いたような顔をした。
「今の、変だった?」
「全然」
俺は彼女の頬に手を添えた。
七緒が目を閉じた。
短く口づけた。
離れると、彼女は俺の手をもう一度強く握った。
角から家の前まで、歩いて一分もかからなかった。
急いで歩く理由はなかった。
八月二十九日
集合場所で、千尋さんは俺たちの手を見た。
何も言わずに、二人の顔を見た。
それから、美玖の肩を叩いた。
美玖は振り向き、同じ順番で見た。
「やっと」
小さく言った。
七緒が、うるさい、と返した。
志保さんは電話を見ながら、バス、来るよ、と言った。
口元だけ笑っていた。
俺は手を離すタイミングが分からなくなった。七緒が自分から離し、乗車口へ歩いた。
バスに乗ると、彼女は窓側へ座り、隣を空けた。
俺はそこに座った。
千尋さんが前から振り向いた。
「おめでとう」
七緒は窓の外へ顔を向けた。
「ありがとう」
返事は、ちゃんと聞こえた。
砂浜には、まだ人がいた。
海の家も一軒開いていた。畳んだ浮き輪がいくつか店先に積まれ、焼きそばの匂いがした。
俺はシートを広げた。
風に持ち上げられ、美玖が端を足で押さえた。志保さんは反対側へ鞄を置いた。
千尋さんは父親から借りた帽子を被っていた。
「飛びそう」
七緒が言うと、顎紐を締めて見せた。
「完璧」
志保さんが日傘を開いた。
五人がその下へ入ろうとすると狭かった。結局、海の家で大きい傘を借りた。
千尋さんは最初に靴を脱いだ。
足を砂へ埋め、冷たい、と言った。表面は熱くても、少し掘ると温度が違った。
七緒も靴を脱いだ。
「航、行こう」
俺は裾を折った。
波打ち際へ行くと、最初の波が足首まで来た。
七緒は、冷た、と声を上げた。
千尋さんは先へ進み、すぐ戻ってきた。思ったより深くなるという。
「足だけにする」
その足へ、次の波がかかった。
美玖は少し離れて写真を撮っていた。志保さんは傘の下から手を振った。
「志保さんも来れば」と千尋さんが呼ぶ。
「あとで」
「それ、来ない人のあとで」
「今、日焼け止め塗ってる」
志保さんは腕を上げて見せた。
俺と七緒は笑った。
手を繋いでいると、波が来るたびどちらかが引っ張られた。砂が足の下から抜ける。
七緒は俺を見た。
「これ、逆に転びそう」
「一回、離すか」
「嫌」
次の波で二人ともよろけた。
千尋さんが笑い、俺のほうへ手を出した。三人で支え合う形になった。
美玖がそこで写真を撮った。
昼食の焼きそばには、砂が入った。
誰の分に入ったかで少し揉めた。俺のだけだと思っていたら、志保さんも箸を止めた。
「私も」
「交換しても意味なかったですね」と俺。
七緒が笑いすぎて咳き込んだ。
千尋さんが自分の水を渡した。七緒は受け取り、礼を言って返した。
五人で傘の下に座った。
話すことが途切れると、海の音だけになった。
七緒が、あと二日だね、と言った。
千尋さんは頷いた。
「うん」
「三人は、最初から、分かってたんだよね」
美玖が電話を伏せた。
「分かってたけど、ちゃんと分かってたかは、分かんない」
七緒は砂を指で掻いた。
「私は、全然分かってなかった」
千尋さんは自分の帽子を膝へ置いた。
「分かってたら、私の弁当箱の話、聞けなかった?」
七緒が顔を上げた。
俺も千尋さんを見た。
「そんなことないと思うけど」
「そっか」
千尋さんは帽子の縁を押した。
「私も、七緒ちゃんが最初から分かってたら、お母さんとお料理すればって言ってたかもしれない。あれ、私がしたかったことなのに」
七緒は少し考えた。
「お母さんとは、昨日、玉葱で揉めた」
「何で?」
「お父さんが分厚く切ったの、全部一緒に煮たから」
「それは、煮えるならいいと思う」
「千尋さんもそっちなんだ」
美玖が笑った。
志保さんは砂の上で足の指を動かしていた。
「私、鍵、もっと早く返せばよかったって思ったり、あの四人が廊下にいたから返せたんだと思ったりする」
七緒は志保さんを見た。
「部屋の絵、まだある?」
「あるよ。机の上」
「よかった」
七緒は膝を抱えた。
「私、楽しかったよ。あの部屋の家具、勝手に置いたの」
「最初の椅子は、大きすぎたけど」
「あれは直したでしょ」
志保さんが笑った。
俺は手の中の空の容器を重ねた。
「俺も、楽しかったです」
四人が俺を見た。
「卵、うまく巻けなかったけど。空っぽの部屋でパンを食べたのも、船に乗ったのも」
言葉を探した。
「今でも、その日は、あれをしてよかったと思ってます」
千尋さんは帽子を被り直した。
「私も」
返事は短かった。
美玖は伏せていた電話を上げた。
「海、撮ろう」
五人が揃って、振り向いた。
美玖は海だけを一枚撮ってから、海の家で借りた低い椅子へ電話を置いた。
「そのまま、そこにいて」
タイマーを入れ、砂を蹴って戻ってくる。俺は空の容器を片づけかけていたが、肩を叩かれて振り向いた。七緒が俺のそばへ寄ったところで、小さい音がした。
「入った?」と千尋さん。
「たぶん」
美玖は確かめに行き、画面を見て頷いた。
午後、志保さんも海へ入った。
足首までだった。それでも、波が予想より高く来ると、千尋さんの肩を掴んだ。
美玖は写真を撮るのをやめ、電話を俺へ預けた。
「私も行く」
七緒が手を伸ばした。
四人が波打ち際へ並んだ。
俺は電話を構えた。
画面の中で、千尋さんがこちらへ手を振り、志保さんが帽子を押さえた。美玖は下を見ていた。七緒だけが俺を見ていた。
そのまま撮った。
次に、七緒が手招きした。
「航も」
俺は、誰が撮るんだ、と言いかけた。
電話をしまって、海へ行った。
帰りのバスを待つ間、七緒の電話へ先生から連絡が来た。
作品を見てくれた人からの返事だった。
七緒は一人で、少し離れたベンチへ座った。
俺たちは売店で水を買い、彼女が読み終えるのを待った。
十分ほどして、七緒が戻ってきた。
「いっぱい言われた」
笑っていた。
海と町の距離の作り方。人物の形。白い紙のところへ目が行きすぎること。本人が何を見せたいかによって、残すものを決めるようにと書かれていたという。
「航の地図、目立つって」
「俺のせいじゃないだろ」
「そう。私のせい」
七緒はもう一度、画面を見た。
「でも、手前の枝、好きだって」
千尋さんが覗き込んだ。
「よかったね」
「うん」
七緒は電話を握った。
「明日、少し直す」
バスが来た。
俺は鞄を持ち上げた。
七緒は乗る前にもう一度、海を見た。
帰りの座席で、彼女は俺の肩へ頭をつけた。
「絵、完成させたら、うちに置いてほしい」
小さく言った。
「お母さんと、お父さんに」
「うん」
「航には、葉書があるから」
「ある」
七緒は目を閉じた。
俺はその手を握った。
前の席で、千尋さんと志保さんが明日の買い物の話をしていた。美玖の電話から、小さく通知の音がした。
家へ帰る時間だった。




