第十七章 二ページ
八月二十七日
七緒が来る前に、俺は手帳を開いた。
線を引きすぎて、日付が読みにくくなっていた。
二十七日、二十八日、二十九日、三十日、三十一日。
五つの欄しかなかった。
七緒は九時過ぎにセンターへ来た。父親の運転する車から降り、窓へ何か言っていた。車が動き出すまで手を振ってから、こちらへ来た。
「早いね」
「八時半に来た」
「九時って言ったのに」
俺は手帳を少し閉じた。
七緒はそれを見た。
「予定?」
「行けそうなところ、調べた」
見せると、彼女は上から読んだ。
島の船。水族館。夏の展示。映画。夜の花火。
行く先の右側に、電車やバスの時間を書いていた。移動できるか分からないところには丸をつけた。
七緒は指で一つ押さえた。
「これ、もう終わってる」
海辺の映画会だった。
「会場じゃなくて、映画のほう。借りられるか、調べて」
「ああ」
七緒は次へ目を移した。
「こっちの展示も、二十日までだったよ」
俺は電話を出した。
保存したページには、去年の会期が出ていた。開催中と書かれた文字だけを見て、下の日付を見ていなかった。
横線を引いた。
線の下で、予定が一つ消えた。
「水族館、なんで?」
「行きたいって、前に言ってただろ」
「いつ?」
「春くらいに」
七緒は考えた。
「ああ。ペンギンの雛がいたとき」
「もう、雛じゃないかもしれないけど」
「たぶん、そうだね」
彼女は手帳を俺へ返した。
「よく覚えてたね」
嬉しくなるところなのに、胸が詰まった。
覚えていた。
覚えていて、一度も予定を決めていなかった。
七緒は机の上の紙を脇へ寄せた。以前志保さんが使っていた部屋の図面ではなく、会場の配置図だった。
「これ、全部行くの?」
「行けるだけ」
「お母さんとお父さんは」
俺は手帳の下の余白を見た。
そこへ、家族、と書いてあった。
書いたときは、ちゃんと考えたつもりだった。帰宅の時刻を早めればいいと思っていた。
「夜は、家で」
「夜だけじゃないよ」
七緒は椅子を引いた。
「お父さん、仕事休んで帰ってきてるんだよ。お母さんも。私、二人と買い物とか、行きたい」
俺は頷いた。
「それは、もちろん」
「もちろんって、書いてないじゃん」
手帳を閉じた。
七緒は俺を見た。
俺は、できるだけ入れたかった、と言った。
「何を?」
「夏の、やってないこと」
七緒は少し黙った。
「私、今日の朝、パンを半分残した」
顔を上げた。
「お母さんが、食べなくていいよって言うから、余計食べなきゃと思って。ちょっと気持ち悪くなって」
鞄から小さい水の瓶を出した。
「たぶん、そんなにできない」
俺は自分の手帳を見た。
九時から二十一時まで、隙間なく予定があった。
「分かった」
消しゴムを出した。
七緒が、待って、と言った。
「全部消さなくていい。今、全部決めないだけ」
俺の手が止まった。
「水族館は、行きたい」
「うん」
「あと、映画も。今日は、近くにいたい」
彼女は水を一口飲んだ。
「午前中、絵の続きを描く。お昼は、千尋さんたちと食べたい。午後、疲れてなければ本屋」
俺は余白へ書こうとして、やめた。
「学校、行くか」
七緒は立ち上がった。
美術室の扉を開けると、顧問の先生がいた。
学校には、家族から連絡が行っていた。先生は七緒を見て、持っていた紙を机へ伏せた。
「来たんだね」
「はい。描いてもいいですか」
「もちろん」
先生は鍵の場所を示した。それから、いつまで学校にいるかを尋ねた。
七緒は昼までと答えた。
先生は頷き、一度廊下へ出た。
俺が絵を窓のそばへ運ぶと、七緒は筆を並べた。
「今日、何かする?」
俺が訊く。
「絵のこと?」
「俺が」
「そこにいて。飽きたら、本でも読んでて」
俺は机へ座った。
鞄には、課題の本の代わりに観光の紙が入っていた。出さずに閉じた。
七緒は絵の手前の草を、少しだけ消すように塗った。
その上から別の緑を重ねた。
俺が見たときより、柵の足元が明るくなった。
「草、減らすんだ」
「やっぱり、減らす」
言って、筆を洗った。
「航は今のくらいが好きって言ったけど」
「お前の絵だし」
「うん」
水入れの水が、だんだん濁った。
俺は取り替えてくると言った。七緒は、まだいい、と止めた。
何もしないで座っていると、一分が長かった。
あと何回、この椅子へ座れるのか数えそうになった。数え始めると、七緒の筆の動きが見えなくなった。
俺は絵の中の地図を見た。
下を向いた自分は、相変わらずそこにいた。
先生が戻ってきた。
七緒の隣へ立ち、絵を見た。
「この枝、よく残したね」
七緒が顔を上げた。
「邪魔かなと思ったんですけど」
「手前の距離があるほうが、向こうが遠く見える」
先生は絵の端を手で囲うようにした。
七緒もそちらを見た。
相談したいことを、いくつか続けて訊いた。俺には分からない絵の具の話もあった。先生は普段の授業と同じように答え、七緒は不満そうに、でもそれだと、と言い返した。
五分ほどして、先生は机の紙を持ってきた。
「見学先へ、連絡してもらってもいいか、ご両親に確かめたんだけど」
七緒の手が止まった。
「作品を見たいと言ってくださっている先生がいる。送れるようなら、写真を送ろうか」
七緒は紙を見た。
「今だから、ですか」
先生はすぐには答えなかった。
「今、時間が限られていることは伝えた。だから、急いでくださるのは確かだと思う」
七緒は筆の柄を回した。
「褒めるだけじゃなくて、見てほしいです」
「そう伝える」
先生は約束した。
「それでも、今回の返事だけで、あなたの絵が決まるわけではないからね」
七緒は頷いた。
俺が何も言わずにいると、彼女がこちらを向いた。
「撮るの、手伝って」
絵を動かし、光の映り込みを避けた。
最初の一枚は斜めになった。
七緒に言われる前に撮り直したが、二枚目も少し斜めだった。
「何か、片方の腕が長いんじゃないの」
「そんなわけないだろ」
先生が小さな台を持ってきた。
その上へ電話を置くと、ようやくまっすぐ撮れた。
先生が写真を確かめるあいだ、七緒はスケッチブックを開いた。
いくつかのページには、見学のときにもらった紙が挟んであった。日程、持ち物、事前の相談。秋の日付へ、丸が二つついていた。
七緒はその紙を一枚抜き、裏を向けた。
「これ、さっき撮ったの、見せて」
俺が電話を渡すと、彼女は画面を明るくした。
実物の絵と交互に見て、顔をしかめる。
「緑、違うね」
俺には最初、違いがよく分からなかった。七緒が指しているのは、手前の草ではなく、遠い山の緑だった。電話の中では、そちらまで手前と同じ強さになっていた。
「描き直す?」
「絵は、このまま。写真のほう」
先生が隣へ来た。窓に向いたままでは端だけ明るくなるからと、置く角度を少し変えた。
俺は反対側を持った。七緒は離れ、目を細めた。
「そこ。いまのまま」
それでも光が入るので、俺の鞄で押さえていた白い紙を外した。反射が一つ減り、画面の中にも、枝の影が戻った。
七緒が、よし、と言った。
今度の写真は、俺にも違いが分かった。絵をいったん台へ戻し、七緒の隣へ椅子を寄せた。
先生が送付用の文章を用意し、本人から添えたいことがあれば、と紙を渡した。
七緒は名前を書いた。
その下へ高校二年と書き、しばらく止まった。秋の日程の紙は、そのすぐ隣にあった。
俺は何か言おうとしたが、七緒がもう次を書き始めていたので、口を閉じた。
『見学のときに、作品を見ていただけると聞いたので』
そこまで書いて、線を引いた。
「これ、約束したみたいになるね」
「覚えてたって書けば?」
七緒は首を傾げた。
「覚えてたから送ったんです、って、ちょっと怖くない?」
俺は言葉を頭の中でもう一度並べ、少し笑った。
「確かに」
七緒も笑ったが、すぐに紙へ戻った。
次の行には、七月三十一日に見学しました、と書いた。
日付を見て、一度だけ手が止まった。そのまま続きを書いた。
『壁に描ける部屋を見せてもらったのが、面白かったです。今度は絵を持っていこうと思っていました。』
鉛筆の先が、最後の「た」へ触れた。
先生は別の机で画像の大きさを確かめていた。急いで書かなくていい、と言っていたので、俺たちの机へ戻ってこなかった。
七緒は行の下へ小さく書いた。
『今、描いている絵です。』
「ここは、そのままでいいと思う」
俺が言うと、七緒はどこ、と訊いた。
俺は最後の行を指した。
彼女はそこを消さなかった。
絵へ戻り、先端の草を指で隠して見せた。
「質問、あったほうがいいかな」
「聞きたいところは?」
「いっぱいある。全部書くと、何も考えてないみたいになる」
七緒は小さい紙へ三つ書き出した。距離の見せ方。枝の色。人物をこの大きさにしたこと。
俺は絵を見た。
五人は小さかった。海と木と空が、ほとんどを占めている。それでも、五人のいない絵を同じように見たいかと言われたら、違った。
「人の大きさがいいんじゃないか。お前、そこ、何度も見直してたし」
七緒は三つ目の横へ丸をつけた。
「ちっちゃすぎるって、言われるかな」
「分かんない」
「そうだよね」
絵の写真へ、指を当てた。
「でも、ちゃんと見てほしい」
七緒は文章の続きを書いた。最後に、まだ制作途中です、と付け加える。
先生が戻り、一緒に読み直した。七緒はその紙を横へ置き、借りたパソコンへ、一行ずつ打ち込んだ。
宛名の前には、何も特別な言葉をつけなかった。事情は先生から伝えることになっていた。七緒が書いたのは、行った学校のことと、今の絵のことだった。
送信する前に、先生がこれでいいかと訊いた。
七緒は小さく頷いたあと、待って、と言った。
俺は水入れを取りかけて、手を止めた。
「最後、名前、もう一回入れます」
本文の一番下へ、相沢七緒、と打ち込んだ。
送信済みになった画面を見てから、彼女はようやく筆をまとめ始めた。俺も絵を元の机へ戻した。運んだ指に絵の具が少しついていたので、爪の先で擦った。
「俺の手のやつも、送ればよかった?」
七緒が顔を上げた。
「あれは、あげたやつ」
「写真でも、いいなら」
「いい。航が持ってて」
水入れを持って流しへ行く。俺が何か返そうとする前に、蛇口が開いた。
その音の中で、七緒が振り向いた。
「まだ持ってるんだね」
「本に挟んでる」
「何の本?」
「課題の」
「ちゃんと進んでる?」
俺は答えるのが遅れた。
七緒は、だと思った、と笑い、もう一度蛇口のほうへ向いた。
机に置いてあった秋の日程の紙は、彼女が鞄へしまった。丸は消していなかった。
昼は、五人でうどんを食べた。
七緒は小さいものを選んだ。誰も、もっと食べたほうがいいとは言わなかった。
千尋さんが自分のかき揚げを半分に割り、七緒の皿を見た。
「ちょっといる?」
七緒は迷って、小さいほうを指した。
千尋さんはそちらを置いた。
「残したら、私が食べる」
「ありがとう」
志保さんは、明日の予定を訊いた。
七緒は両親と水族館へ行くつもりだと答えた。
俺はまだ、そのことを聞いていなかった。
七緒がこちらを見る。
「さっき、連絡した。航も来ていいって」
「いいのか」
「お父さんが言ったんだよ」
俺は返事をしてから、明日は家族の時間だと言いかけた。
七緒の顔を見てやめた。
「行く」
七緒は頷き、うどんを一本すくった。
千尋さんは、明日は父親と買い物に行くと言った。月末までに全部の食材を揃えようとした父親へ、店は九月も開いていると教えたらしい。
「調味料をね、買いだめしようとしたの。醤油を三本」
「練習で使うと思ったのかな」と志保さん。
「そこまで失敗しないよって言った」
美玖が、醤油だけあっても困る、と呟いた。
七緒が少し笑った。
「ご飯がすごくしょっぱくなる」
俺はその笑い声を聞いて、肩から力が抜けた。
千尋さんは七緒の顔を見て、箸を動かした。
「二十九日、みんなで海へ行かない?」
美玖が顔を上げた。
「泳ぐ?」
「泳がなくてもいい。私、ちゃんと砂浜に行ってない。港と船ばっかりで」
志保さんは自分の腕を見た。
「日焼けするな」
「帽子かぶれば」
「かぶっても、する」
「じゃあ、日陰も借りる」
千尋さんは七緒を見た。
「どう?」
七緒はかき揚げを一口食べた。
「行きたい」
俺が時間を調べようとすると、志保さんが電話を出した。
「私、バスを見る。あなたは食べて」
そう言って、時刻表を開いた。
美玖は天気を見た。千尋さんは父親へ、海の家がまだ開いているか訊いてみると言った。
七緒は自分の皿を見ていた。
「何か、変」
「何が?」と美玖。
「私、いつもそっちで、予定を決めてた気がする」
美玖は画面を回した。
「雨だったら、やめる?」
七緒は覗き込んだ。
「小雨なら、行く」
「じゃあ、決めて」
七緒は画面を見たまま笑った。
俺は冷め始めたうどんを食べた。
午後の本屋には、三人もついてきた。
七緒は大きい画集を棚から抜いた。値段を見て、顔をしかめた。
「やっぱり高い」
七緒は値札から目次へ戻った。
「一枚だけでも、持って帰れたらいいんだけど」
「どの絵?」
彼女はページを開いた。建物の中へ光が斜めに落ち、壁のほとんどが暗くなっている絵だった。
「窓、ちっちゃいのに、広い部屋に見える」
俺は絵を見た。窓そのものより、床へ落ちた四角い光が明るかった。
「こっちの小さい本に、同じのが載ってるか見て」
指定された本を棚から取った。二人で目次を開き、題名を一つずつ比べた。俺のほうに先に同じものが見つかった。
「あった。百二ページ」
七緒は自分の本を片腕へ載せ、俺の開いたところを覗いた。
絵は同じだったが、隣のページが違った。大きい本には描きかけの図と、線だけの下描きが載っていた。小さい本では次の完成した絵になっていた。
「途中のほうも見たいんじゃないか」
「見たい。大きいのは学校にあるって、先生に訊いた」
彼女は二冊を見比べた。俺は小さいほうのページが閉じないよう、下の角を押さえていた。
「こっちは、鞄に入る」
七緒は薄いほうを受け取った。俺は大きい本を閉じ、棚の背の並びへ戻した。
会計を待つあいだ、俺は課題の本が並ぶところへ行った。家の机にあるものと同じ表紙があった。
手に取って開くと、まだ読んでいないところだった。
七緒が袋を持って戻ってきた。
「それ、まだ終わってないの」
「途中」
「どのへん?」
俺は読んだところを探した。思っていたより前のほうで、七緒は本の厚さを横から見た。
「私、一ページも読んでない」
「表紙は?」
「見た」
「同じくらいか」
「さすがに違うと思う」
七緒は肩が触れるくらいまで寄り、俺の開いているページを読んだ。
俺も最初の行へ戻った。彼女の指が本文の下の余白へ置かれていた。行を追う速さが違い、俺がめくろうとしたとき、まだ、と小さい声がした。
その段落を、もう一度読んだ。
七緒が顔を上げた。
「この人、ずっと誰かを待ってる?」
「ここでは、まだ」
「来るの?」
「俺も知らない」
二人で次のページを見た。人のいる気配はあったが、まだ会話が始まらなかった。
「まだ来ない」と七緒が言った。
俺は笑い、七緒も声を抑えて笑った。
「帰ったら、自分の読もうかな」
「俺も」
笑った拍子に、喉の奥が痛くなった。
俺は本を閉じ、棚へ戻した。七緒が持つ袋には、買ったばかりの薄い画集が入っていた。
店の出口へ歩く途中で、彼女が一度、本の棚を振り返った。
「一ページは読んだ」
「二ページ」
「じゃあ、二ページ」
その数を言って、俺の隣へ戻ってきた。
本屋を出ると、七緒は疲れたと言った。
駅のほうへは行かず、公園のベンチへ座った。千尋さんが自販機で水を買い、美玖が日陰の位置を確かめた。
志保さんは七緒の両親へ、今から帰るという連絡を手伝った。
俺は七緒の横に座っていた。
千尋さんの電話が鳴った。
彼女は画面を見て、少し顔を近づけた。
「お父さんから。冷凍庫、空いたって」
横へ座っていた美玖が、見せて、と言った。俺も七緒の向こうから覗いた。
引き出しを開けた写真だった。蓋へ日付を書いた容器が並んでいる。手前の角に、底の白いところが見えた。
「まだ、いっぱいある」と美玖。
「これでも、減ったの」
千尋さんが写真を大きくした。奥にあった小さい袋の文字が、読める大きさになった。
「あ、氷が戻ってる」
「どこかへ行ってたの?」と七緒が訊いた。
「一回、扉が閉まらなくなったの。私が作ったものを入れすぎて。押せば閉まったけど」
七緒は水の瓶を口から離した。
「お父さんが氷まで外へ出そうとするから、そこまでして入れなくていいって、私が怒った」
「自分で作ったんでしょ」
「そうなの」
千尋さんが笑い、七緒も笑った。水を飲み直そうとして、また瓶を下ろした。
俺は写真の隅を指した。
「これ、まだありますね」
蓋のテープに、ハンバーグ、と千尋さんの字で書いてあった。
「あと二つ。それがなくなったら、今度はお父さんが作るって。うまく焼けたら写真送るって言われてる」
「そのとき、俺にも回してください」
千尋さんは、うん、と答えた。
志保さんが、もう少し引いたのも見たい、と言った。千尋さんが指を戻すと、引き出しを支えている父親の足が写っていた。片方だけ、つま先が内側を向いている。
「重いのかな」と美玖。
「開けたままで撮ったんだね。そこ、勝手に戻るから」
千尋さんは写真を元の大きさへ戻した。空いた角へ、親指が重なっていた。
「増やすところばっかり見てたから。減るの、ちょっと変な感じ」
彼女はそう言って、指を離した。
「今日は、作るんだよね」と七緒。
「うん。お父さんが」
千尋さんは返事を打った。できたら見せて、と書き、少し考えて、ハンバーグも、と足した。
送ると、すぐに返事が来た。
『今日は芋』
七緒がまた笑った。
千尋さんは、分かってるよ、と電話へ言い、鞄にしまった。
七緒を迎えに来た車へ送ると、三人と俺が残った。
七緒は窓から、また明日、と俺へ言った。三人には、二十九日、と言った。
車が見えなくなるまで、俺は手を下ろせなかった。
千尋さんが鞄の持ち手を直した。
「私も帰る。お父さん、煮物をやるって」
「今日は何作るんですか」と志保さん。
「肉じゃが。昨日、じゃがいもの皮むきだけ練習した」
「それで、一品にならなかったんだ」
「ポテトサラダになった」
美玖が笑った。
俺は三人を見た。
言いたいことがあった。
この三人のために時間を使っていたから、と考えた瞬間が、一度もなかったと言えなかった。昨日、帰り道で、弁当や部屋や写真の用事が頭を流れた。そんな自分を思い出すと、喉が塞がった。
千尋さんが、航くん、と呼んだ。
「何?」
答えが変な声になった。
彼女は俺を見た。
俺は、三人に言ってはいけないことがあると思った。それを言って慰めてもらったら、三人が過ごした夏まで、俺を許すためのものになってしまう。
「明後日、俺、何持っていけばいいですか」
訊くと、千尋さんは少し考えた。
「大きいシート。家にあれば」
「あります」
「じゃあ、それ。あと、自分の飲み物」
美玖が付け足した。
「忘れ物があっても、取りに戻らなくていいやつにして」
俺は頷いた。
志保さんは、日傘を持ってくると約束した。
三人と別れてから、俺は一人で公園へ戻った。
さっきのベンチは、もう別の人が使っていた。
立ったまま、電話の写真を開いた。
父親の弁当を持つ千尋さん。何もない部屋で窓を測る志保さん。写真の札を書き直した美玖の手。
七緒はその中で、何度も笑っていた。
俺の映り込んだ写真もあった。
どれかを消せば、別の一日が戻るわけではなかった。
俺は、島で撮った五人の写真を七緒へ送った。
『これ、画面暗かったから明るさだけ直してみた』
すぐには返事がなかった。
歩いて家へ帰った。
靴を脱いだところで、電話が鳴った。
『私、変な顔』
写真を見ると、七緒は目を細め、口を少し開けていた。海の風へ何か叫んでいる顔だった。
『声かけたの、お前だろ』
『そうだった』
少しして、もう一つ届いた。
『これでいい』
俺はその写真を、五人席にも送った。
夜、七緒の父親から、明日の出発時間が来た。
七緒を通さず俺へ連絡が来るのは、珍しかった。
九時に家の前。
返信したあと、少ししてもう一つ来た。
『いつもどおりで頼む』
俺はその一文を何度か読んだ。
いつもどおりが分からなくなっているのは、自分だけではなかった。
『はい』
それから、遅れません、と打った。
その部分は消した。
最初の二文字だけを送った。




