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第十六章 同じ道を歩く


八月二十六日



 朝、相沢家へ行くと、おじさんが玄関で靴を履いていた。


 俺を見ると、少し待っていて、と言った。


 七緒が奥から出てきた。


 白いシャツを着て、鞄を肩へ掛けていた。髪はまだ結んでいなかった。片手へ輪ゴムを持っている。


「輪ゴムで結ぶのか」


 俺が訊くと、七緒は手の中を見た。


「違う。これ、お弁当の」


 台所へ戻り、すぐにまた出てきた。


 おばさんが小さい袋を渡した。


「お腹が空いたら、途中で食べて」


「うん」


 七緒は受け取り、鞄に入れた。


 四人で車に乗った。


 駅へ行くためだった。



 宮内さんは、駅の待合所の前で待っていた。


 ほかの捜査員が何人か、川沿いと駅裏へ分かれていた。俺たちの来る前にも、確認をしていたようだった。


 七緒の両親は待合所の中にいた。七緒がそう頼んだ。


 俺と七緒は、それぞれ歩いた場所を示した。


 七緒はホームから階段を下り、待合所を抜けた。


「このへんで、電話をかけました」


 ベンチの少し手前だった。


「ケースを引いてきて、ここへ置いて。紙袋が重かったから、先に座ったと思います」


 鞄の位置、電話を置いたところ、七緒は手で示した。


 今のベンチには誰も座っていなかった。


「電話のあと、誰かとお話はしましたか」


 宮内さんが訊いた。


 七緒はしばらく考えた。


「覚えてないです。した記憶はないです」


「何か飲んだり、食べたりは」


「してないと思います。航がラムネを持ってきて、それは飲みました。家に着いてから」


 目を閉じ、また開いた。


「暑いなと思って、袋を持つところを直してた。それから、返事をして」


 半開きの目の犬。


「眠かったのは、覚えています。前の晩も、あまり寝てなかったから」


「その先は」


「航に呼ばれたところです」


 俺は七緒を見た。


 何か思い出してほしいと、一瞬思った。


 見ていないものを思い出せるはずはなかった。美玖に何度も同じ道を歩かせたとき、自分が何をしていたのか、今は嫌というほど分かった。


 七緒はベンチに座らなかった。


「私、ここで寝ちゃったんですか」


 宮内さんは、今あるお話と記録では、その可能性が高いと答えた。


 意識がない間に場所を移されても、戻る先は最後に意識のあった場所になる。


 それは俺たちが三人の道順を調べる、最初の条件だった。


 七緒も、同じ条件の中にいた。


「帰ったことにも、気づかなかったんだ」


 七緒が言った。


 俺の手が、鞄の紐を握り締めた。



 俺は湊屋まで戻って、もう一度歩いた。


 八重さんは店の外へ出ていた。息子さんが店の中にいた。


 八重さんは俺を見ると、エプロンを握った。


「航くん」


 俺が頭を下げるより先に、八重さんが頭を下げた。


「私が、あんなこと頼んだから」


 俺は声が出なかった。


 頼まれたわけではなかった。空き瓶を見て、自分で止まった。


 でも、そのことを言っても、八重さんの顔は変わらないと思った。


「瓶、拾わないと危なかったから」


 ようやくそれだけ言った。


 八重さんは顔を上げなかった。


 宮内さんが、今は覚えていらっしゃることを、と声を掛けた。


 店の時計は、今も同じ壁についていた。


 時計の表示が実際の時刻と大きくずれていないことは、捜査員が確かめていた。俺と八重さんは別々に、零時の音を聞いたあとで俺が出発したと話していた。


 川の歩道橋は、店から見えた。


 あの夜、俺は何度か店内へ入っている。橋の全体を、ずっと見ていたわけではない。八重さんも冷蔵庫へ飲み物を取りに行っていた。


 宮内さんは、その空白も記録した。


「俺を追い越して、こっちから駅へ行った人は、見てません」


 言ってから、俺は付け足した。


「でも、俺が見てないところを通れなかったとは、言えないです」


 宮内さんは頷いた。


 その先に、駅裏へ回る細い道路があった。


 俺は倉庫の陰を指した。


「あそこに、明かりが動いたのは見ました」


「車だと確認できましたか」


「窓みたいだった、というだけです」


 自分の記憶から、余計な形を一つずつ外した。


 車の色も、運転手の顔も、そこにはなかった。


 宮内さんが通話の記録を確かめる間、俺は店の時計を見ていた。


「亡くなった時刻は、そんなに細かく分かるんですか」


 訊くと、宮内さんは首を振った。


「ご遺体の検査だけで、何時何分と決められるものではありません」


「でも、七月のうちに」


「相沢さんがこの八月に帰還されていたことから、八月一日になる前だったと考えられます。二十三時五十三分にはご本人が返信していた。その二つを合わせて、調べる時間を絞っています」


 俺は、自分が瓶を拾っていた場所を見た。


「それから、あの建物まで、全部、零時までに?」


「移動までに同じ期限があるわけではありません。亡くなられたあと、何時にどこへ運ばれたかは、車の記録などから別に確かめます」


 ベンチで俺を待つ七緒と、別の場所にある七緒。


 両方が同じ夜に存在したのだと、言葉では理解できた。


 俺は時計から目を離した。



 駅へ戻ると、七緒がのぼりを見ていた。


 白地に青い波。


 掲示板の横と、ベンチの脇に二本立っていた。月の間に一度、風で傾いて直されたものだという。


「これ、私が来たときにはあった」


 七緒が言った。


 俺も見た。


 月末の作業の表が、頭に浮かんだ。


 港入口、三十日、十七時。


 駅前、三十一日、二十時二十分。


「設置したの、二十時二十分って書いてありました」


 宮内さんが俺を見た。


「センターで、支柱を返したときに。奥村さんの表です」


「その記録はこちらでも確認しています」


「俺が帰るときは、なかったと思うんです。七緒の一本前の電車で」


 言いながら、俺は初めてその差を数えた。


 二十時二十分なら、俺が駅を通るより三時間以上前だった。


 宮内さんは昨日の俺の話を、もう一度確かめた。


「どこを通って、何を見ましたか」


 俺は待合所の横を歩いた。


 ベンチの前を抜け、掲示板を見た。


 のぼりのある今は、その二つの場所で布が視界を横切った。


「ここを通って、空いてるベンチを見て。明日から人が来るんだなとは思ってました。でも、これが揺れた記憶はないです」


 確実だと言い切るのが怖かった。


 宮内さんは、無理に言い切らなくて構いません、と言った。


 俺は七緒の電話の内容を説明した。


 駅に飾りがついていると言われ、急にやったんだなと答えた。あとからそう思い込んだのではなく、その夜、その話をした。


 七緒も別の聞き取りで、同じ会話を話していた。


「私が来たときには、もう立ってました」


 七緒はベンチの隣の布を見た。


「着いたあと、これを持ってきた人は見てない。作業してた人も、見たとは言えない」


 つまり、二本を立てるなら、俺が通ってから七緒が来るまでの短い間だった。


 俺の前を追い越して駅へ向かった人を、探すだけでは足りなかった。


 俺が家にいる間に、駅にいた人がいる。


 七緒が来る前から、そこへ物を運び込める人が。


 俺はのぼりの裾を見た。


 四角い継ぎがあった。


 広場で手伝ったときにも、七緒は継ぎを見ていた。あちらは裏返した布で、波の向きが反対だった。


「あの布が同じだから、という話ではないです」


 俺は宮内さんに言った。


「同じように直したものは、何枚もあるから。でも、駅で作業した人の報告が、時間まで合ってるとは限らない」


 宮内さんは頷いた。


「その点を、ほかの記録とも照らし合わせています」


 俺は、表の最後の名前を口にした。


「柏木さんですか」


 七緒がこちらを見た。


 四脚の椅子を持ってきた人だった。俺に乾いた布をくれ、一緒に窓を直した。


 宮内さんは答えを急がず、俺の話を記録した。



 センターへ戻る途中、七緒は車の窓を開けた。


 前の席のおばさんが、暑くない、と訊いた。


「少し、開けてたい」


「うん」


 おじさんは何も言わず、窓のロックを確かめた。


 七緒の髪が揺れていた。手に持っていた輪ゴムを台所へ返したまま、髪を結ぶものを忘れてきていた。


 俺は自分の手首を見た。もちろん、何もなかった。


「あの人の仕事、手伝ったんだよね」


 七緒が言った。


 俺は前の席を見た。


「まだ、分からない」


「分かってる」


 彼女は窓の外へ顔を向けた。


「分かってるけど」


 言葉の先は、風の音へ混じった。



 センターの玄関に、柏木さんがいた。


 浦瀬さんへ畳んだ作業票を渡しているところだった。俺たちを見て、手を上げた。


「こんにちは」


 俺は立ち止まった。


 七緒も隣で止まった。おじさんがその肩へ触れた。


 廊下から来た宮内さんが、柏木さんを呼んだ。


「柏木さん、お待たせしました」


「はい。これだけ渡したら」


 柏木さんは作業票の一か所を、短い鉛筆で指した。


 俺はその鉛筆を見ていた。


「駅も、二十時二十分だったんですか」


 声が出た。


 柏木さんの手が止まった。


「何の話ですか」


「七月三十一日の、のぼり。俺が駅から帰るときには、まだなくて」


 柏木さんは俺の顔を見た。聞き間違いを確かめるような目だった。


「暗かったでしょう。見落とすことはありますよ」


「七緒が電話で言ったんです。飾りがついてるって。だから俺、急にやったんだなって」


 七緒が俺の横で口を開いた。


「私、そう言いました。着いたときに」


 柏木さんは七緒を見てから、俺へ視線を戻した。


「あとで二人で話すと、前からそう覚えていた気になることもあるんじゃないですか」


 俺は何か言おうとした。


 どの言葉から出せばいいのか、分からなくなった。


 七緒の指が俺の袖を掴んだ。


「あの夜、話したんです」


 宮内さんが間へ入った。


「高瀬さん、相沢さん。お二人の話は、別々に伺っています。この先はこちらで確認します」


 そのまま柏木さんへ向いた。


「どうぞ。お話は奥の部屋で」


 柏木さんは鉛筆をしまった。返事をし、宮内さんと廊下の奥へ歩いた。


 俺は追おうとして、一歩も動けなかった。


 おじさんが七緒の肩から手を離し、俺たち二人を中へ入れた。


 支援室には、あの四脚の椅子があった。


 七緒は座らず、窓のそばへ行った。


 網戸は滑らかに開いた。


 奥村さんの表については、昼過ぎに説明があった。


 七緒と両親が、捜査員から聞いた。俺も、七緒の希望で同席した。


 二十時二十分は、柏木さんが自分で報告した完了時刻だった。


 奥村さんが、その時間に駅で設置を見たわけではなかった。記入を受け、次の業務のために必要な土台の数を確認した。提出は翌朝だった。


 その夜の車両の使用報告にも、早い時刻が書かれていた。


 けれど、駅裏の道路とつながる町の作業用敷地には、車の出入りの記録が残っていた。三人の事件で照合を進めていたものと、同じ種類の記録だった。


 柏木さんに割り当てられていた車は、書類上の帰庫時刻よりずっとあとにも、敷地から出ていた。


 駅前でのぼりを立てた時刻を確かめ直すことが、車の移動と本人の説明の食い違いを、同じ夜の中につなげたのだという。


 七緒は話を聞いていた。


 何度も、指で髪を耳へ掛けていた。


「でも、それは駅にいたということですよね」


 おじさんが言った。


「娘に何をしたかは、別でしょう」


「はい」


 捜査員は答えた。


 保守庫の使われていない区画に、人の遺体を隠した形跡があった。その中で七緒が見つかった。ほかにも、先に見つかった三人の所持品と結びつく物が残っていた。


 七緒の服のポケットからは、学校見学のときの名札が出てきていた。彼女が家へ持って帰ったつもりでいた小さな紙は、家の鞄からは出なかった。


 それが、身元の確認を七緒へ向けた一つの理由だった。


 七緒は、自分のポケットを押さえた。


「私、鞄とか電話を、全部持ってたから」


 声が細くなった。


「なくなったものがあるって、思わなかった」


 鞄と電話は、駅に残っていた。


 それを持って帰った七緒に、帰還したと知らせるものはなかった。


 身につけた服も、直した糸まで同じだった。


 俺は机の下で、自分の指を握った。


 捜査員は、遺体の検査と、車内や保管場所から採られたものの照合を進めていると話した。衣服に残った資材由来の付着物は、建物の捜索に至る手掛かりになった。ただし、それだけで人を逮捕するという話ではなかった。


 車の使用者、鍵の管理、見つかった物の状態、説明と合わない出入り。それぞれを確かめている。


 俺は、聞いた説明をきれいな図にすることができなかった。


 四人の道順は、一本の線になってほしくなかった。


 七緒は隣で、まだ髪を耳へ掛けていた。



 午後、三人が来た。


 美玖は鞄から髪を結ぶゴムを出した。


 七緒が受け取ると、千尋さんが後ろへ回った。


「結ぶ?」


「自分でできる」


「そっか」


 千尋さんは、すぐに隣へ戻った。


 七緒は自分で髪を束ねた。一度、結び目の途中で指が引っ掛かった。美玖が鏡を持ち、七緒はそこを見て直した。


 志保さんは、母親に頼んで持ってきてもらった紙袋をテーブルへ置いた。


 五つのパンが入っていた。


「どれでも。食べられそうなのを」


 七緒は一番小さいものを取った。


 俺も一つ取った。


 千尋さんが袋を畳みながら、店へ警察が来たと話した。


 パンを取り置いた客の連絡先について、記録が残っていた。いつも同じ人ではなかったが、本人の勤務する場所が分かる注文もあったという。


 美玖の写真店でも、設備の仕事で来た長岡さんと、展示が始まったあとに美玖の予定を尋ねた人物について、別々に確認が進んでいた。


「名前、聞いた?」


 七緒が訊いた。


 三人はまだ、正式には聞いていないと答えた。


 俺は勝手に口にしなかった。


 志保さんは、包みを膝へ置いた。


「自分が知ってる人かどうか、考えるのをやめたいのに、やめられないね」


 千尋さんが頷いた。


「会ったとき、笑ったことあるのかなとか」


「あると思う」と美玖。


 はっきりした声だった。


「だって、普通に、お客さんだったら」


 千尋さんはしばらく考えた。


「そうだね」


 七緒はパンの端を折った。食べずに、また元の形へ戻そうとしていた。


 俺は彼女の手から目を離した。



 柏木さんが逮捕されたと知らされたのは、夕方だった。


 七緒の件についての逮捕だった。三人の事件との関連も調べを進めている、と宮内さんは言った。


 車の荷室に残っていた血痕の型が、身元確認のために七緒から採った検体と一致していた。彼女はその車へ乗ったことがなかった。衣服と荷室から相互に移ったとみられる繊維もあり、保守庫で見つかった物、車を使っていた時間帯の確認と合わせて、逮捕に至ったという。


 千尋さんが深く息を吐いた。


 美玖は電話を持ったまま、動かなかった。


 志保さんは、分かりました、と返した。


 七緒は何も言わなかった。


 俺は、何かが大きく変わる気でいたことに気づいた。


 誰がやったか分かれば。捕まれば。あの夜の空白を埋めれば。


 壁の時計は、そのまま動いていた。


 四人は帰れるようになったわけではなく、すでにここにいた。


 ここから先の時間は、一分も増えていなかった。


 七緒の父親が訊いた。


「娘は、苦しんだんでしょうか」


 七緒が顔を上げた。


 おじさんは娘の視線に気づき、言葉を失った。


「私も、知りたい」


 七緒は言った。


 宮内さんは、分かっていることと、検査が続いていることを分けて話した。意識を取り戻したと示す材料は、今のところ確認されていない。本人が覚えていないことを、周囲が想像で埋めて伝えないようにする。


 残酷な様子を、誰も説明しなかった。


 七緒は最後まで聞き、もう一つ訊いた。


「どうして私だったんですか」


 宮内さんは、まだ説明できるだけの確認ができていないと答えた。


 ただ、業務上知る必要のない個人の行動について、調べたり記録したりしていた形跡はあった。七緒の学校や帰宅の予定も、調べる対象に含まれていた。


「私、何か言ったんですか。怒らせるような」


 おばさんが首を振った。


 宮内さんは、彼女を見て答えた。


「あなたの言動を、被害の理由として引き受ける必要はありません。何をしようとしたのかは、相手について調べることです」


 七緒は目を伏せた。


 納得した顔ではなかった。


 俺にも、納得できる理由など出てこない気がした。



 帰る前に、昨日の作業部屋へ寄った。


 案内の紙は、別の机へ移されていた。浦瀬さんが、ほかの人に続きを頼んだと説明した。


 入口、受付、飲み物。


 昨日は紙だったものが、板になって立っていた。


 七緒は近づき、飲み物の矢印を見た。


「合ってる」


 俺は頷いた。


「左」


 七緒は板に触らなかった。


 机の端に、自分の筆を見つけて取った。洗って乾かしてあった。誰が洗ったのか、浦瀬さんもすぐには分からないと言った。


 七緒は筆を鞄へ入れた。


「お礼、言っといてもらえますか」


「伝えておくね」


 七緒は、もう少しだけ、と両親へ言った。


 俺と二人で、広場へ出た。


 八月一日に手伝ったのぼりは、まだ並んでいた。どれがそのときの一本か、俺にはもう分からなかった。


 七緒はそれを見ないで、木の下へ行った。


「俺が、もっと早く」


 俺が言うと、彼女は足を止めた。


 止められなかった。


「電話をもらって、すぐ行ってれば。途中で止まらなければ」


「うん」


 七緒は否定しなかった。


「私も、考えた」


 俺の胸が痛くなった。


「もっと早い電車で帰ればよかった。ケースなんか持っていかなければ。寝ないで、ずっと起きてれば」


 七緒は自分の靴の先を見た。


「お母さんも、仕事代わってもらえばよかったって。お父さんは、車で迎えに行けばよかったって」


 俺は木の幹へ手をついた。


「その中で、俺は行くって言ってたのに」


 七緒が顔を上げた。


「うん。遅いとは思った」


 涙が出た。


 こんなところで泣くつもりはなかった。七緒の前では、もっと違うことをしなければいけない気がしていた。


 彼女は俺を見ていた。


「でも、航を待ってたんだよ」


 七緒の声も揺れた。


「来てくれたら、荷物持たせて、学校のこと話そうと思って。それしか考えてなかった」


 俺は顔を拭いた。


「あの帰り道の話、全部、嘘になったみたいにしないで」


 首を振った。


「しない」


「絵の相談のことも、壁に描ける部屋のことも、言いたかったから言ったんだよ。何か、死ぬ前に言い残そうとかじゃない」


「分かってる」


「分かってない顔してる」


 俺はもう一度、顔を拭いた。


 七緒は鞄から布を出した。千尋さんに借りて、洗ってきた小さい布だった。


 俺へ出しかけ、やめた。


「これ、返すやつだった」


 自分のポケットを探し、ティッシュを二枚出した。


 俺は受け取った。


 七緒も一枚使った。


 すぐ横の花壇で、水やりのホースから水が漏れていた。土の上に細い流れができていた。


 俺たちはしばらく、そこに立っていた。



 家へ帰って、机の上へ手帳を投げた。


 壁に当たるほど強くはなかった。角が本にぶつかり、俺が思っていたより小さな音で止まった。それが、また腹立たしかった。


 椅子へ座り、紙を一枚出した。


 柏木、と書いた。


 窓枠の砂を落とす手を、覚えていた。紙をどこへ当てれば受け止められるか、教えてくれた声も覚えていた。俺がビスを押さえたとき、向いているね、と言った。


 その言葉を思い出して、俺は鉛筆を強く握った。


 名前の下に何を書こうとしたのか、分からなかった。罵る言葉はいくつもあった。どれを書いても、本人のところへは届かなかった。


 紙へ力を掛けすぎて、芯が折れた。


 床へ落ちた小さい黒を、拾う気になれなかった。


 扉が二度、鳴った。


 父親だった。コップを二つ持っていた。俺の机の端へ一つ置き、自分はベッドの端へ座った。


「飯、もう少しかかるって」


「うん」


 俺は紙を伏せた。見られたと思ったが、父親はそれについて訊かなかった。


「あの人と、仕事した」


 言ってから、仕事というほどではなかったと思った。窓を直す横で紙を持ち、椅子を少し運んだだけだった。


 父親は頷いた。


「役場の人?」


「捕まった人」


 口にした途端、別の人の話のように聞こえた。


「俺、ありがとうって言ったんだよ。椅子、持ってきてもらって」


 父親の手が、コップの脇へ止まった。


「七緒も手伝った。初日、一緒にのぼり持って。笑ってた」


 俺は紙をもう一度表にした。


「もう、そのときには」


 父親は俺を見ていた。


 頷いてほしいのか、違うと言ってほしいのか、自分でも分からなかった。


「こういう仕事、向いてるって言われた」


 机の木目がぼやけた。目をこすると、鉛筆の粉が頬についた気がした。


「うれしかったんだよ、俺」


 父親は、そうか、と言った。


 それだけだった。


 俺はコップへ手を伸ばしたが、持ち上げずに戻した。指先が濡れ、紙へ丸い跡ができた。


「何で、まだ、こっちが覚えてなきゃいけないんだろ」


 言葉が机の上へ落ちた。


 父親はすぐには答えなかった。俺の代わりに紙を破ることも、伏せることもしなかった。


 階下で鍋の蓋が鳴った。母親が何か呼びかけ、父親は扉のほうへ、もう少し、と返した。


 俺は紙を裏返し、何も書いていない面を見た。


「先、食べてていいよ」


「まだ熱いだろうから」


 父親は座ったまま、自分のコップを膝へ置いた。


 机の下の鉛筆の芯が、足の指へ触れた。俺は屈んで拾い、屑入れへ落とした。父親は自分のコップを机へ戻し、二つとも端から少し離してくれた。


 俺たちは飯の匂いが上がってくるまで、部屋にいた。


 夜、五人席へ千尋さんから写真が来た。


 父親の焼いた魚だった。


 皮の半分が、網へ残っていた。


『裏側は無事』


 続けて送られてきた写真は、裏返した魚だった。


 志保さんが、そっちを上にすればいいと思う、と返した。


 美玖は、一枚目も残しておいて、と書いた。


 七緒から、来た。


『明日、みんな何してる?』


 俺は画面を見つめた。


 来てほしい、でも、調べてほしい、でもなかった。


 明日の予定を訊く言葉だった。


 俺は手帳を開き、二十七日の欄を見た。


 空いていた。


『会える』


 そう送った。


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