第十五章 ここにいる
八月二十五日
紙の端を揃えると、昨日の墨が指へついた。
乾いていると思っていたが、厚く塗ったところだけがまだ湿っていた。俺は指を浮かせ、もう片方の手で紙を持ち直した。
「触る前に見てよ」
七緒が雑巾を寄越した。
「乾いたって言っただろ」
「表面はね」
「それ、俺には分からない」
七緒は紙を一枚ずつ机へ並べた。案内板へ貼る前に、もう少し乾かすことにした。
窓から風が入っていた。
俺が電話を見ると、九時四十七分だった。昼までには貼り終わる。そのあと、本屋へ行きたかった。感想文の本は家にあるが、別の課題で借りた資料の本は図書館へ返してしまった。書き写したメモだけでは分からないところがあり、店で見つかれば、もう一度中を確かめたかった。
七緒に言うと、一緒に行く、と答えた。
「欲しいのがある?」
「あるけど、高い。見るだけ」
机の下で、彼女の電話が鳴った。
母親からだった。
「うん。センター。さっき言ったじゃん」
七緒は椅子へ座り、紙を押さえていた缶をずらした。
「いるよ。航も」
俺は顔を上げた。
七緒は電話を耳へ押しつけた。
「何? 聞こえない」
外から草刈り機の音がしていた。
七緒は窓を閉めた。
「うん。待ってるけど」
通話が切れた。
「おばさん、来るのか」
「来るって」
「忘れ物?」
「分かんない。何か、変だった」
七緒は画面を見たまま、首を傾げた。
俺は指の墨を拭いた。
薄く残ったところを、爪で擦った。
浦瀬さんが来て、別の部屋へ移ってほしいと言った。
いつもの面談室より広い部屋だった。テーブルの周りに椅子が六脚あり、窓には薄いカーテンが掛かっていた。
七緒の母親が座っていた。
こちらを見ると立ち上がったが、何も言わなかった。
「お母さん?」
七緒が呼ぶ。
おばさんは二歩近づき、七緒の肩に触った。両方の手で、肩から腕を確かめるように撫でた。
「何」
七緒は笑いかけた。
おばさんは笑わなかった。
宮内さんが、廊下から入ってきた。
もう一人、女性の警察官がいた。浦瀬さんが静かに扉を閉める。
「高瀬さんは、外でお待ちになりますか」
俺が答える前に、七緒が訊いた。
「私の話ですか」
「はい」
「だったら、いてほしいです」
宮内さんは母親を見た。おばさんは七緒の腕から手を離さず、小さく頷いた。
俺たちは座った。
誰もテーブルに物を置かなかった。
「旧海浜学習館の保守庫で、今朝、人のご遺体が見つかりました」
宮内さんは言った。
俺は七緒を見た。
七緒も、俺を見た。
「千尋さんたちとは、別の人ですか」
俺が訊くと、宮内さんは、はい、と答えた。
「身元を確認しています。その過程で、相沢さんのご家族へ、お話を伺う必要が出てきました」
おばさんが口を開いた。
「違うって、言ったんです」
その声は、電話のときより低かった。
「娘はいますって。きのうも、うちでご飯を食べて。今朝も」
俺は宮内さんの次の言葉を待った。
違う人かもしれない、という言葉だったら分かった。服を借りた人がいたとか、名前を間違えたとか、何かの事情があるのだと思った。
「所持されていた物や衣服、身体の特徴から、相沢七緒さんである可能性が出ています。歯科の記録などによる確認を進めるため、ご協力をお願いしています」
七緒は両手を膝に置いた。
「私ですか」
「現時点では、そう断定してお伝えする段階ではありません。ただ、別の方だとも申し上げられません」
俺は机の縁を握った。
「ここにいるじゃないですか」
宮内さんは俺を見た。
俺の隣には、七緒がいた。
右手の人差し指に墨がついていた。白い絵の具が鞄に入っていて、昼には本屋へ行くつもりで、朝から俺に文句を言っていた。
ここにいる。
それで済むはずだった。
扉の向こうで誰かが笑った。昼食の数を確かめる声がした。
千尋さんも志保さんも、美玖も、ここへ来れば同じように座る。
俺は椅子から立とうとして、座り直した。
七緒が自分の指を見た。
「いつの人ですか」
宮内さんは、七月末ごろに亡くなられた可能性がある、と答えた。
「七月の末」
七緒は繰り返した。
おばさんが手を伸ばした。七緒の手を取ろうとして、どちらの手にすればいいか迷うように止まり、両方を包んだ。
「私、家に帰ってます」
七緒は母親ではなく、宮内さんを見て言った。
「三十一日、学校を見に行って。帰って、航と駅から歩いて」
「はい。そのことも、改めて伺わせてください」
「帰ったの、八月になってからだけど」
声が止まった。
俺は、あの夜の橋を思い出した。
引っ掛かったケースを七緒が持ち上げた。俺は紙袋を底から抱えて待った。その前に、のぼりの布を押し戻していた。その前は、ベンチだった。
店の時計が鳴った。
それから俺は、駅へ行った。
今まで一続きだった帰り道が、駅のベンチのところで途切れた。
「違うと思います」
俺は言った。
七緒は俺を見た。
「何が」
「だって、そんな」
その先が出なかった。
七緒は母親の手を握り返した。
おじさんには、おばさんが電話をかけた。
最初、声が出なかった。
七緒が電話を受け取り、自分で話した。
「お父さん。私」
向こうの声は聞こえなかった。
「いる。今、ここにいる」
七緒はテーブルの上を見た。
「帰ってきてほしい」
しばらく聞いたあと、うん、気をつけて、と言った。
電話を返すと、母親はそれを落としそうになった。俺が手を出す前に、七緒が底を支えた。
女性の警察官が、おばさんと連絡先や通っていた歯科医院を確かめた。七緒は自分で病院の名前を言った。前歯を直した時期は母親のほうが覚えていて、奥歯の治療は七緒が補った。
人が間違いなく自分かどうかを調べるために、自分がここで、自分の説明をしていた。
俺は一度もその作業へ加われなかった。
七緒のことを、何でも知っている気でいた。歯医者へ何度通ったかも、どちら側を治したかも、俺は知らなかった。
分からないことを聞かれるたび、彼女は思い出そうとした。
「その写真、見られますか」
宮内さんへ訊いた。
おばさんが顔を上げた。
「七緒」
「服の写真です。私かどうか、分かるかもしれないから」
宮内さんは確認してから、衣服の一部だけが写った画像を見せた。七緒の位置から見えるように、画面を傾けた。
俺には袖の端が見えた。
七緒の母親が息を吸った。
「それ」
七緒が、自分の腕を押さえた。
「同じの、家にあります」
俺は画面から目を離した。
服は戻る。
電話や財布は戻らないから、千尋さんは父親の財布を持ってきた。美玖は母親の古い電話を借りた。
知っていたことだった。
七緒は、家にある服と、今見せられた服のことを話した。裾を引っ掛けて直した場所。母親が、縫ったのは私、と言った。
同じところへ、糸があった。
それでも、宮内さんは服だけでは決めないと言った。
俺は、その言葉につかまった。
昼になって、俺の母親が来た。
浦瀬さんから連絡を受けたのだという。母は詳しいことを廊下で聞き、俺の鞄を持って部屋へ入った。
「ご飯、少し食べよう」
いつもと変わらない声で言った。
紙袋には小さなおにぎりと、お茶が入っていた。母は一人分ずつ机へ置き、包装の端を剥がした。
七緒はおにぎりを一つ取った。
半分ほど食べて、袋へ戻した。
「食べられるんだよね」
小さく言った。
おばさんが泣き始めた。
音は出なかった。俯いて、両手で顔を覆っていた。
俺の母は隣へ座り、背中に触れた。何も言わなかった。
七緒は袋の口を折った。
俺は自分のおにぎりを開けられなかった。母親に包装の端を指されて、ようやく手を動かした。海苔が途中で破れ、米粒が机へ落ちた。
拾おうとすると、七緒が自分の袋を寄せた。
「そこ、入れなよ」
俺は言われたとおりにした。
千尋さんたちへは、七緒が知らせたいと言った。
俺は少し待ったほうがいいと思った。身元が分かってからでも遅くない。間違いだと言われるかもしれない。そのときに、三人まで同じ思いをする必要はなかった。
七緒は俺の説明を聞いて、電話を持ち直した。
「来てほしいの」
俺は黙った。
「もし違ったら、違ったって言う。今は、いてほしい」
五人席へ文章を打った。
短い文章を、何度も直していた。
俺の電話にも届いた。
それを読むと、今まで部屋の中にだけあった話が、外へ出た気がした。
最初に志保さんが来た。
次に美玖が母親と来て、最後に千尋さんが来た。髪が少し濡れていた。洗濯の途中だったとだけ言った。
三人は部屋の入口で止まった。
七緒は顔を上げた。
「ごめん。急に」
千尋さんが近づいた。
言おうとしたことがあったようだったが、口を閉じた。七緒の前へしゃがみ、膝の上の手を見た。
「墨、ついてる」
「うん」
「落ちなかった?」
「まだ、ちゃんと洗ってない」
千尋さんは鞄から濡れた小さい布を出した。冷たい水を含ませたものだった。いつも弁当の袋へ入れている。
七緒へ渡した。
七緒は指を一本ずつ拭いた。
親指を拭くところで手を止め、千尋さんの肩へ額をつけた。
千尋さんは、七緒の背中に腕を回した。
志保さんが椅子を寄せ、美玖はその隣に座った。
俺だけが立っていた。
午後、七緒の父親が来た。
シャツの襟が折れ、上着を片手へ丸めていた。七緒の顔を見ると、足を止めた。
それから近づいて、両肩を抱いた。
「七緒」
「うん」
「帰ってきた」
「うん」
おじさんは同じ名前をもう一度呼んだ。
七緒は返事をした。
家族だけで話すため、俺たちは部屋を出た。
廊下の長椅子へ座ると、千尋さんが両手を膝に置いた。美玖は母親に寄りかかっていた。志保さんは窓のない壁を見ていた。
「俺、遅れたんです」
声が、自分のものに聞こえなかった。
志保さんがこちらを向いた。
「駅に、迎えに行くの。七月の最後の日」
説明を始めたら止まらなくなった。
家へ帰ったこと。電話を受けたこと。八重さんを手伝ったこと。零時を過ぎたこと。
何分だったか、俺は電話を探した。
見つからなかった。手に持っていた。
「今、調べるの?」
美玖が言った。
俺は画面をつけた。
「調べれば、分かるから」
「何が?」
答えられなかった。
七緒がそこにいたこと。俺が遅れなければ、ということ。俺の知っている夏が、どこから違っていたのか。
志保さんは、調べるなとは言わなかった。
「警察の人に、話そう」
「はい」
「一人で答えを出さないで」
俺は電話を膝へ置いた。
廊下の向こうから、昼の食器を片づける音がした。
夕方、宮内さんが戻ってきた。
七緒の両親と七緒が先に話を聞いた。少しして、俺たちも呼ばれた。七緒の希望だった。
彼女は父親と母親の間に座っていた。
「私だって」
俺の顔を見て、七緒は言った。
歯の治療の記録と、ほかの身体の特徴が合っていた。本人の身元を確かめるために必要な調べを重ね、七緒として確認したと説明された。検体の鑑定など、まだ続くものもあるという。
宮内さんは言葉を区切っていた。
俺には、七緒の言った四文字のほうが長く聞こえた。
「でも」
口から出た。
続きを待つ人はいなかった。
七緒は俺のほうを見ていた。眉を寄せ、泣くのを堪えているようでも、怒っているようでもあった。
「八月が終わったら、私もですか」
宮内さんへ訊いた。
すぐには返事がなかった。
浦瀬さんが椅子を近づけた。
「今、分かっている帰還の仕組みでは、そうなります」
「あと、六日?」
七緒は指を折らなかった。
「今日もあるから、七日?」
誰も数を直さなかった。
七緒は両親を見た。
「学校、どうしよう」
おばさんが口を押さえた。
「秋に行くって、もう言ってある」
おじさんが、こちらで連絡する、と言った。
「そうじゃなくて」
七緒は机へ顔を伏せた。
「行きたいの」
俺は何も言えなかった。
三日前、絵の写真の撮り方を聞いた。大きい絵を電車へどう載せるか訊いて、知らないことを笑われた。
その続きを、七緒はしたかった。
おじさんは娘の肩へ手を置いた。七緒は顔を上げずに、もう片方の手を伸ばし、母親の服を掴んだ。
千尋さんが目を閉じた。
志保さんも、美玖も、何も言わなかった。
宮内さんは、その夜の聞き取りをどこまで進めるか、七緒と両親に確かめた。
俺は、今日はもう、と言った。
「休んだほうがいいんじゃないか」
七緒が顔を上げた。
「話す」
「明日でも」
「私が、話すって言ってる」
強い声だった。
おばさんが驚いて七緒を見た。七緒は母親へ、違う、と小さく言ってから、俺へ向き直った。
「航、私がどこにいたか、知らない時間があるんでしょ」
俺は頷いた。
「そこは、私が話さないと分からない」
七緒は鼻をすすった。
「私のことを、私がいないみたいに決めないで」
俺は椅子の背から手を離した。
「分かった」
宮内さんは休憩を挟むことを伝え、まず別々に話を聞いた。同じ記憶へお互いの説明を混ぜないためだった。
俺は廊下の別の部屋で、七月三十一日のことを話した。
駅を通って帰ったときのこと。七緒の電話。湊屋の前。橋。ベンチ。
いつもと同じだった、と言いかけるたび、宮内さんは、見たことをそのまま、と待ってくれた。
彼女は眠っていた。
俺はそう言って、言い直した。
「俺が着いたときは、目を閉じていました。ずっとそこで寝ていたかは、分かりません」
自分の言葉が、腹の底へ落ちた。
電話の履歴を示す。返信は二十三時五十三分だった。犬の絵も、同じ分に送られていた。
そのあとに俺が送ったものはない。
呼べばよかった。もう一度電話をすればよかった。
そう言いそうになって、画面を伏せた。
帰るときには、外が暗くなっていた。
七緒は両親の車に乗った。俺は自分の母親と歩いた。
千尋さんたちも、それぞれ家へ帰った。連絡はいつでもして、と七緒へ言っていた。次に会う時間を決める余裕が、俺にはなかった。
俺たちが家へ着くと、隣の台所に明かりがついていた。
父親が玄関で待っていた。何か言おうとして、俺の肩へ手を置いた。そのまま少し押し、家の中へ入れた。
夕飯を食べたか訊かれ、分からないと答えた。
昼に食べた米の形だけ覚えていた。
自分の部屋へ行くと、机の上に絵葉書があった。
展望台の五人。
その隣に、提出していない課題の紙。九月二日まで。黒い字でそう書かれていた。
俺は電話を開いた。
七緒とのやり取りを、七月まで戻した。
『湊屋の前。ちょっと待って』
『もう待ってる』
半分閉じた犬の目。
指を動かすと、その下には八月の会話がいくらでもあった。
集合時間。パンの数。忘れたタオル。船。卵。俺に対する文句。
今日の朝にも、紙持った、と訊かれていた。
どこにも、別の人になった境目はなかった。
新しい通知が来た。
『起きてる?』
七緒だった。
『起きてる』
すぐ返した。
『窓』
俺は立ち上がった。
隣の二階で、七緒がカーテンを少し開けていた。窓を開くと、夜の空気が入ってきた。
「寝ろって言われた」
七緒が小声で言った。
「寝られないよね」
俺は頷いた。
「うん」
七緒は窓枠へ肘を置いた。
何を話せばいいか分からなかった。今日の続きを話したくなくて、別のことは何一つ浮かばなかった。
「七緒」
「何」
呼んだだけだった。
俺が黙っていると、七緒も黙った。
少しして、彼女が言った。
「いるよ」
俺は窓枠を握った。
声を出すと泣いてしまいそうだった。
七緒がこちらを見ていた。
「今は、いるよ」
俺は何度も頷いた。




