第十四章 帰り道をつなぐ
八月二十二日
十時のチャイムは、夏休みでも鳴った。
俺はその音を、美術室の前で聞いた。開いた扉の内側から扇風機の風が来て、廊下の壁に貼られた紙を揺らしていた。
「いる?」
「いる」
七緒は奥の机で、筆の柄についた絵の具を爪で剥がしていた。俺を見ると、壁の時計を見た。
「ぴったりすぎて怖い」
「下の昇降口で、二分待った」
「そこは普通に上がってくればよかったじゃん」
俺は鞄を椅子へ置いた。
七緒は昨日まで布を掛けていた板を、窓に対して少し斜めに立てた。横長で、俺の両腕を広げたくらいある。島の展望台から見た海だった。
絵葉書より、ずっと緑が多かった。
手前の木の枝が、空を横切っていた。海の上は同じ青ではなく、港に近いところだけ灰色が混じっている。遠くに町が小さく見えた。
白い柵のところに、五人いた。
顔は細かく描かれていなかった。それでも、誰が誰かは分かった。千尋さんは腕を上げ、美玖は少し屈んでいた。志保さんは帽子のつばを押さえている。
「志保さん、帽子持ってたっけ」
「千尋さんの。借りたとき」
「そうだったか」
俺は絵へ近づいた。
美玖は電話を構えていなかった。足元を見ている。猫が柵の下にいたところだった。
俺と七緒は、少し離れていた。
「お前、そこにいた?」
「いない。そのへんから写真撮ってたから」
七緒は俺の横へ来た。
「私が撮った写真をそのまま描くと、私がいなくなるでしょ」
絵の中の七緒は、髪を押さえて海を見ていた。
俺は自分の手元を見た。電話でも鞄でもない、細長いものを持っている。
「これ、何?」
「地図」
「あそこでも?」
「見てたよ。帰り道を」
自分では覚えていなかった。
柵の向こうの海は明るく、地図の紙だけが白かった。その白のせいで、俺が下を向いているのが分かった。
「嫌味?」
「違う。ほんとにそうしてたから」
七緒は言ってから、絵を見直した。
「嫌なら、変えるけど」
「いい。そのままで」
もう一度、端から端まで見た。
手前の枝が少し邪魔だった。枝の隙間を探して、その奥を覗きたくなる。海だけを広く描くより、あそこに立ったときの感じがした。
それを言うと、七緒は初めて俺から絵へ視線を移した。
「邪魔?」
「隠れてるところも見たくなるっていうか」
「うん」
「あと、志保さんがあんなに小さいのに、日陰に入りたそうなのが分かる」
七緒はそこで笑った。
「そこ、私も思った」
俺は絵の下のほうを指した。
「ここは、まだ描くの?」
「たぶん。草を入れすぎたら変になるから、迷ってる」
すでに描いた細い線を、指で隠して見せた。隠すと柵が近くなり、指をどけると足元が広くなった。
俺にはどちらがいいか、すぐに決められなかった。
「ちょっと離れて見ていい?」
七緒は道を空けた。
壁際まで下がって、また近づいた。正解を言う試験ではないはずなのに、言う前に考えてしまった。七緒は急かさず、剥がした絵の具の欠片を掌に集めていた。
「俺は、今のくらいが好き」
「分かった」
「採用される?」
「考える」
七緒は屑入れへ行った。
机の隅には、秋の作品相談でもらった紙が広げられていた。提出する絵の大きさ、写真の撮り方、相談できる日時。七緒はそこへ小さな字で印をつけていた。
「これ、持っていくのか」
「持っていけたら。もっと大きいのを描くかも」
「電車、どうやって乗るんだ」
「写真で見てもらえる。最初は」
七緒は紙を裏返し、俺に見せた。
「何も知らないじゃん」
「知らないから訊いてる」
「そうだけど」
彼女は椅子を引き、座った。俺も隣へ座る。
廊下では誰かが走り、別の教室の窓が勢いよく閉まった。休みの学校にも、来る人はいた。
「映画、悪かった」
俺は言った。
七緒は紙を畳まず、端だけ折った。
「うん」
「遅れたのもだけど。着いてからも、調べたことの話ばっかりして」
「うん」
「映画の最初、どうだった?」
七緒が顔を上げた。
俺は、変な訊き方をした、と言い直した。
「お前が見てたところ、俺が知らないから。あらすじじゃなくて」
七緒は少し考えたあと、映画の冒頭を話した。
主人公の少年が父親の靴を借り、ぶかぶかのまま走るところ。家を出る前には立派な旅の計画を語るくせに、角を曲がったところで転ぶ。俺が着いたときには、靴を脱いで手に持っていた。
「何で裸足なのか、分かってなかったでしょ」
「分かってなかった」
「横にいて訊けばよかったのに」
俺は床を見た。
七緒は続けた。
「でも、私も、訊かれても答えなかったかも」
「怒ってたから?」
「怒ってたから」
彼女は折った紙の端を戻した。
「最初にさ、たこ焼き冷めちゃったって言えばよかった。普通に。それから、腹立ってるって言えばよかった」
俺は七緒を見た。
「いや、分かったと思う。それくらいは」
「分かったうえで調べ物の話してたなら、そっちのほうが腹立つ」
「ごめん」
七緒は息を吐いた。
「映画は、また見られるから」
「探しておく」
「私も、探してた」
七緒が電話を出した。映画の写真があるページだった。父親の靴を履いた少年が、片足を大きく前へ出していた。
「予告、見ちゃった。転ぶところ、ちょっとだけ入ってて」
「笑った?」
「笑った。あんなに怒って帰ったのに」
俺も画面を見た。靴は想像していたより大きかった。
「これで走るのか」
「だから、最初から見てって」
七緒の指が画面の端へ触れた。動画は再生せず、写真のまま止まっていた。
彼女が保存したページの印を押すところを見て、俺も同じものを自分の電話に入れた。
「見つかったら、教えて」
「うん」
七緒は電話を鞄へ戻した。
七緒は窓の外を見た。
「今日は、もうちょっとここにいて」
俺は椅子へ座り直した。
昼前、三人が絵を見に来た。
千尋さんは自分を見つけ、何を指しているんだろう、と言った。
「船」と美玖。
「そっか。船、指したね」
自分の指で同じ方向を指して確かめたので、七緒がその横顔を見て笑った。
志保さんは絵から離れたり近づいたりした。
「私、もう少し背が高くない?」
「奥にいるので」
「分かってる。ちょっと言ってみた」
美玖は許可を取って写真を撮った。窓の光が絵の表面へ映り込むので、七緒と二人で角度を変えていた。
俺は千尋さんと机を元へ戻した。
「お昼、どうする?」
千尋さんが訊く。
「何でもいいです」
「私、お蕎麦がいい」
「じゃあ、蕎麦で」
彼女は大きく頷いた。
「今日は、私の食べたいので決まった」
志保さんが振り向いた。
「昨日も、あなたが冷やし中華って言ったよ」
「そうだった」
千尋さんは笑った。昨日の冷やし中華には、俺たちは一緒に行っていなかった。三人だけで昼を食べる日も、少しずつ増えていた。
昼食を済ませると、三人はそれぞれの用事へ向かった。
俺は七緒と、家まで歩いた。
家の角で別れようとすると、七緒が袖を引いた。
「ちょっと来て」
「何?」
「見せたいものがある」
絵は、もう見た。
何だろうと思って相沢家へ入ると、七緒は居間の棚から古いゲーム機を出した。小学校のとき、何度も一緒に使ったものだった。
「片づけてたら、出てきた」
線を繋ぎ、テレビをつける。
画面に、丸い生き物が二匹出た。
「懐かしい」
「動くんだよ。まだ」
七緒は俺へ片方のコントローラーを渡した。
小さいころには両手で余るほどだったものが、今は掌へ収まった。何に使うのか忘れたボタンが、上にもついていた。
「どれで跳ぶんだっけ」
「そこ」
教わったところを押すと、自分のキャラクターが落ちた。
七緒が笑った。
「ごめん、隣」
「今、わざとだろ」
「違うって。私も忘れた」
二人で同じ山を上がっていくゲームだった。片方が先へ行きすぎると、もう片方が画面の外へ置いていかれた。
七緒は先へ進んだ。
俺は足場を確かめていた。
「待てって」
「下から来るから、早く」
「何が?」
聞いている間に、画面の下から大きな魚が来た。
俺のキャラクターが食べられた。
七緒は笑い、笑っているうちに自分も落ちた。
最初からになった。
「だから、待てって言ったんだよ」
「待ったら食べられるんだよ」
「じゃあ、先に言えよ」
七緒はもう一度始めた。
今度は俺が先へ行った。
七緒が後ろから追いかけ、俺のキャラクターを頭で押した。足場から落ちた。
「お前」
「違う。押すつもりじゃなかった」
俺は七緒のコントローラーを見た。
彼女は画面を見たまま、口の端を上げていた。
七回目くらいで、ようやく二人とも頂上まで行けた。
俺たちは同時に息を吐いた。
「こんなに難しかったか」と俺。
「昔、もっと先まで行ったよね」
次の画面が出た。
七緒はすぐに進みかけ、止まった。
「水、飲む?」
「飲む」
台所へ行き、二つのコップを持って戻ってきた。
俺は画面を止めていた。
七緒は床へ座り、コップの水を半分ほど飲んだ。
「これ、航の家にもあったよね」
「あった。引き出しに入ってると思う」
「今度、持ってきて。こっちの、ボタンが一個、戻らなくなる」
七緒は指で押して見せた。
本当に戻りが遅かった。
「さっきの、全部それのせいにするなよ」
「してない。航が落ちたのは、航のせい」
俺はコップをテーブルへ置いた。
七緒が先に進んだので、慌ててコントローラーを持ち直した。
家に戻ると、母親がどこへ行っていたのか訊いた。
七緒の家でゲームをしていたと答えると、何だ、小学生みたい、と笑われた。
俺は棚の引き出しを開けた。
奥に、同じ形のコントローラーが入っていた。
線を解き、埃を拭いて、鞄の横へ置いた。
八月二十三日
家を出る前に、拭いておいたコントローラーを袋へ入れた。
センターで七緒へ渡すと、彼女は線の先を確かめ、そのまま自分の鞄へしまった。
「今度はこれ、使ってみる」
俺は頷き、机へ地図を広げた。
三日のあとに分かったことを足せるよう、同じ地図を三枚用意していた。
俺が用意した色鉛筆を見て、美玖が、自分で引いていい、と訊いた。
俺は箱ごと渡した。
センターの小部屋に、宮内さんと五人が集まっていた。道路の担当から届いた図には、七月に柵が動いた位置と、車両を通せる時間帯が書き込まれていた。元の案内図は、予定が変わる前のものだった。
それでも、図の道路が開いていたことと、そこを車が通ったことは別だった。
宮内さんは、実際の出入りの記録も合わせて確認している、と言った。
俺たちが手伝うのは、三人の線を引くところまでだった。
美玖は青を選んだ。
川の角から写真店へ。それから、同じ角へ戻る。
行きと帰りを少しずらして引くと、細長い輪になった。
「このとき、店の人に言った?」
志保さんが訊いた。
「もう一回、同じところへ行くって」
美玖は首を振った。
「出てから、気になったから。帰るほうと途中まで同じで、寄っていこうと思った」
千尋さんは赤を選んだ。
パン屋から家へ向かう途中で、東へ曲がる。
「お店に寄ろうとしたかどうかは、まだ思い出してないんだよね」
七緒が確かめる。
「うん。お弁当箱のことを聞いたから、そうしたのかもって」
線の最後に、千尋さんは小さく丸をつけた。
家庭用品店までは引かなかった。
志保さんは緑を取った。
駅から北へ上がり、休憩所のところで止まる。
「ここで待っていたとき、来る予定の人は、松原さんだけですか」
宮内さんが訊く。
「はい。ほかの人には場所を伝えていません」
「以前から誰かと、部屋の前で会う約束をしていたということもありませんね」
「ありません。二十六日に寄れるかという話は、その日の夕方でした」
俺は三日の地図を鞄から出した。
三人の名前が右上にあり、千尋さんの揚げ物屋と、美玖の選ぶ日陰が残っていた。志保さんの線は休憩所の先へ少しだけ出かかっている。
その上へ、今日の三枚を重ねた。
増えたところだけを、指で押さえる。
「最初、俺、三つの場所に共通するものを探してました」
宮内さんが紙へ目を落とした。
「駅から近いとか、屋根があるとか。車が停まれるとか。でも、志保さんのところは、屋根がない」
「だから、雨だったら、あそこで待たなかったと思う」と志保さんが言った。
千尋さんは洋品店のところを見た。
「私は、雨が止んでたら、出てたと思う」
同じ天気に対して、二人の言葉は逆を向いていた。
俺は三枚を一度離した。紙が重なっていたときには三角形のように見えた点が、それぞれ一人の道の端に戻った。
「あの場所を選ばせたわけじゃないんですよね」
誰もすぐには答えなかった。
俺は美玖の青い線を引き寄せた。
「写真店を出て、同じ角へ戻るのは、前もって誰かに言ってた?」
「言ってない。出てから、行こうって思った」
「呼ばれた?」
「誰にも。自分で戻った」
美玖はもう一度、細い輪を指で辿った。
七緒が、千尋さんの赤い線を隣へ置いた。
「こっちも、買い物に行くつもりだったかどうか、本人が分からないんだもんね」
「お父さんには、帰るって言った。東へ行くって、言ってない」
千尋さんは自分の電話を机へ置いた。六月十七日の通話の時刻を書いた、小さな紙がケースに挟まっていた。
「待ち合わせじゃなくて、出てくるところを待ってたのかもしれません」
俺は言った。
「店とか、仕事の場所とか。何時に終わるか、何度も訊いていたなら。その先は、本人がどっちへ行っても」
そこで一度、声が止まった。
美玖の顔を見た。彼女は線を指したまま、俺の続きを待っていた。
「ついていった」
口にすると、机の上の道が急に長く見えた。
美玖が手を引いた。青い鉛筆が転がり、七緒の手へ当たって止まった。
宮内さんは三人へ、いつもの帰宅経路を知る人と、当日の行き先を知らせた人を、あらためて確かめた。名前がいくつか出た。家族、店の人、管理会社。三人が挙げた人たちは、揃わなかった。
「その可能性は調べています。行き先を最初から全部知らなくても、あとから行動を知れた人がいたかどうか」
宮内さんは俺に言い、道路の担当から届いた図を広げた。
「ただ、車でついていくとしても、どこを通れたかは日によって違います」
「四月のを、先に見てもいいですか」
俺は図書館の紙を並べた。
細い歩道を、車の道から離して描いていた。志保さんの北の休憩所へ最も近い線は、途中から階段になる。以前の俺は、その線をそのまま駅裏へ結んでいた。
「ここは、違いました」
俺が階段を指すと、志保さんが頷いた。
「上からだと、回れる。その建物の横を抜ける道があるから」
彼女は指の爪で、図の角を押さえた。そこから車両用の道を辿ると、保守庫へ向かう線へ出た。
宮内さんは新しい確認図と見比べ、手帳へ一つ書いた。
「この出入口は、その時期、業務車両が使っていたと確認できています」
七緒が六月の紙を横へ置いた。
千尋さんの赤は信号から東へ曲がる。車の線は駅裏を回り、一本向こうの道から洋品店の通りへ戻れる。七月は柵の位置が変わっていたが、美玖の写真に写っていた隙間は、新しい確認図でも出入口だった。
俺は三枚の同じ角を揃えた。
紙の端がずれて、美玖の線だけ川へはみ出した。七緒が戻してくれた。三人の道と、月ごとに違う車の道が、ようやくそれぞれの位置に重なった。
「北と東は、歩けば離れてます。でも、こっち側からなら、三人とも近くまで行けます。その途中に、資材を置くところがある」
俺は保守庫を指した。
「そこで何かあったと、これだけで決まるわけじゃないです。でも、同じ人が三人に近づけるかは、俺たちが歩いた道だけじゃ分からなかった」
宮内さんは図の向きを変え、自分の側から確かめた。
薄い紙が風で浮く。美玖が窓を閉め、志保さんが端を押さえた。千尋さんは、紙の下敷きになっていた箱を抜いた。
誰も急かさなかった。
「この書き込みも、写しをいただいていいですか」
宮内さんが言った。
「元の図と、確認できた出入りを重ねます。保管場所の鍵を扱う人の記録も、こちらで調べています」
俺は三枚を揃えた。志保さんの線は、まだ休憩所で止まっていた。下の地図と重ねれば、その先に、空き部屋のある通りが見えた。
窓の寸法を測りに行くつもりだった道を、宮内さんへ渡した。
宮内さんが紙へ番号を振るあいだ、三人は机を見ていた。俺は役に立ったのか、顔を見て確かめたくなった。けれど、誰も笑ってはいなかった。
千尋さんが色鉛筆を箱へ戻した。赤の先が欠けていた。
「仕事を終わる時間、訊かれてたって聞いたんですけど」
「お店の方から、お話を伺っています」
「何回もですか」
宮内さんは、確認できた範囲を話した。
パンの取り置きの話として、千尋さんが何時までいるかを尋ねた客がいた。配達を頼める曜日や、店を出るとき一人かどうかまで話が及んだ日もある。店長は、同じ客か確かでないものを分けて、覚えていることを伝えていた。
「その人に、私が配達したことは?」
「そこも確認しています」
千尋さんは箱の蓋を閉めた。
「お客さんの顔、覚えるの、得意だったんですけど」
誰も、覚えているはずだとは言わなかった。
宮内さんは彼女へ体を向けた。
「心当たりが出てきたら教えてください。出てこなくても、千尋さんに分からない部分をこちらで調べます」
彼女は蓋の角を指で押さえたまま、はい、と答えた。
志保さんは、川瀬さんに疑いが向いたことを気にしていた。
宮内さんは誰かをここで無関係だと宣言することはせず、本人の所在について、独立した記録を確認していると話した。嘘があったことと、犯行に関わったことは同じではない。志保さんは、その答えを最後まで聞いた。
「私が、ちゃんと別れようとしたことを話したら、あの人が犯人になると思われたくなかったんです」
「お話しいただいたことを、そのまま調べる材料にします」
彼女は椅子の背から体を離した。
「分かりました」
机の端で、七緒が鉛筆削りを探していた。俺は鞄から出した。
欠けた赤を削る音が、小さく続いた。
面談が終わると、廊下で千尋さんが足を止めた。
「お店、行ってもいい?」
今日の案内の仕事は、もうなかった。俺たちは頷いた。
パン屋の扉には、秋の新商品の試作の案内が貼られていた。小さい紙へ、栗の形が描いてある。
店長は千尋さんを見て、奥から出てきた。
「ごめんね。あの話、先にちゃんと」
「聞きました」
千尋さんは店長の声へ重ねるように言い、それから、強すぎたと思ったのか声を下げた。
「警察の人に、全部話してくれたんですよね」
「うん。思い出したことは」
「じゃあ、今日は、こっちの話がしたい」
秋の紙を指した。
「試作、もうあります?」
店長は紙を見た。
「あるけど、まだ失敗ばっかり」
「食べたいです」
俺たちは店の脇の小さな机へ座った。
出てきたパンは、栗が真ん中から少し外れていた。千尋さんが割ると、片方に餡が全部寄っていた。
「これ、先にそっちから食べたら、後半さびしいですね」
「やっぱり?」
店長は紙へ何か書き込んだ。
千尋さんは、もう片方も食べた。いつものチーズパンとは違う甘い匂いがした。
「生地は好きです」
「秋に、置こうと思ってるの」
店長は言ってから、口を閉じた。
千尋さんは皿の欠片を指で集めた。
「じゃあ、いま試せてよかった」
明るく言おうとしているのは分かった。それでも、食べたかったのも本当だと思った。
七緒が半分を口へ入れ、熱い、と言った。
「焼きたてだからね」
千尋さんは自分の紙皿を少し押し出した。
「お父さんにも一個、買って帰っていいですか」
「売り物にはできないから、持っていって。感想だけ聞かせて」
店長が袋を用意する間に、千尋さんはカウンターの下から古いクリップを拾った。
そこに物が落ちると、店の外からは見えなかった。
彼女は迷わず手を伸ばして取った。知っている仕事場での、慣れた動きだった。
八月二十四日
センターの受付の横へ、月末の予定表が出た。
会場は港の広場。参加は自由で、家で過ごす人のために送迎や物品の返却についても案内があった。夜に困ったときの電話番号を、浦瀬さんが太い字で書き直していた。
五人でその紙を見た。
誰からも、どうする、とは出なかった。
先に口を開いたのは美玖だった。
「お母さんが、ここに来ようかって」
千尋さんは首を傾げた。
「私は、まだ決めてない。ご飯は家で食べたいけど」
「途中からでも来られるって書いてあるよ」と七緒。
志保さんは紙の下のほうを見た。
「私も、母と話してから」
俺は記入用紙を取らなかった。
浦瀬さんが来て、決まってから教えてくれればいい、と言った。
「荷物を返すだけの人もいますし、途中で帰っても構いません。ご家族と別々に行き来するなら、それぞれの足だけ決めておいてください」
それは、今までにも何度も案内してきた声だった。
俺は港までの送りの人数を数える紙を受け取った。三人の名前を書きかけ、まだ、と自分で止まった。
その隣で、七緒は役割の希望欄を見ていた。
「会場の文字、まだ要るのかな」
浦瀬さんは頷いた。
「大きい案内を二枚、お願いできる?」
「今日と明日でなら」
七緒は俺へ紙を傾けた。
「航、切るの手伝って」
「分かった」
昼過ぎ、宮内さんから連絡があった。
旧海浜学習館と関連する保管場所について、確認を進めることになった。三人の最後の行動について追加で尋ねる場合があるので、連絡を取れるようにしていてほしい。
千尋さんが読み、美玖と志保さんへ画面を見せた。
それだけの連絡だった。
誰が疑われているのか、何が見つかったのかは書かれていなかった。
「明日、ずっとここにいたほうがいいですか」
俺が訊くと、浦瀬さんは連絡文を確認した。
「そういうお願いではないですよ。予定があるなら、その場所を伝えておけば」
千尋さんは明日、家で洗濯をすると言った。カーテンを外すので、父が出勤前に手伝う約束になっていた。
志保さんは冊子の修正。美玖は母と写真を受け取りに行く。
俺と七緒は、今日の続きをここでする。
それぞれの予定を伝えた。
七緒は受け取った紙を机へ押さえた。俺が線に沿って切る。途中で刃が引っ掛かり、紙の端が少し毛羽立った。
「そこは裏に回すから、大丈夫」
七緒は切った紙を窓へ透かした。
入口、受付、飲み物。
文字の下に矢印をつけた。
美玖が、飲み物の場所、昨日の配置図と違うよ、と言った。
七緒は図を見て、あ、と言った。
右へ向けた矢印が、もう乾きかけていた。
「上から、左も描いたら?」と千尋さん。
「それ、両方に行けちゃう」と美玖。
俺は紙をもう一枚切った。
七緒は失敗したほうをひっくり返して、試し書きにした。今度は向きを確かめてから、墨のついた筆を置いた。
机の下で電話が鳴った。
七緒の母からだった。
「うん、あと一時間くらい。何買えばいい?」
七緒は紙の乾いていないところを避け、端へ小さく書いた。
卵、牛乳、しらたき。
「牛肉は? あるんだ。分かった」
電話を切ると、千尋さんが、すき焼き、と言った。
「肉じゃがかもしれない」
「そっか」
「うち、すき焼きでも豚のときあるし」
七緒は買い物のところを切り取った。
文字が少し繋がり、しらたきの「ら」が、分かりにくくなった。俺がそれを言うと、家までに忘れない、と返された。
夕方、五人でセンターを出た。
志保さんと美玖が駅のほうへ折れ、千尋さんはパン屋へ寄った。俺と七緒はスーパーへ向かった。
七緒は籠へ牛乳を入れてから、しらたきと糸こんにゃくの前で止まった。
「どっちだと思う」
「書いてあるほう」
「量が違うんだよ」
袋を一つずつ持って比べ、安いほうを選んだ。
会計を済ませると、七緒が俺へ牛乳を寄越した。今度は、持ってくれる、と訊いてからだった。
俺は鞄へ縦に入れた。
家の前でそれを返すと、相沢家の窓から煮物の匂いがしていた。七緒が台所の母へ何か言った。
すぐ、ええ、と大きな声がした。
窓から七緒が顔を出す。
「牛乳、もうあった」
「頼まれたんじゃないのか」
「お母さん、私に電話したあと、自分で買ってた」
向こうで母親が笑っていた。
七緒も呆れた顔をして笑った。俺は塀のそばから、また明日、と言った。
「うん。紙、忘れないで」
俺は自分の鞄を叩き、玄関へ回った。




