↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/21

第十四章 帰り道をつなぐ


八月二十二日



 十時のチャイムは、夏休みでも鳴った。


 俺はその音を、美術室の前で聞いた。開いた扉の内側から扇風機の風が来て、廊下の壁に貼られた紙を揺らしていた。


「いる?」


「いる」


 七緒は奥の机で、筆の柄についた絵の具を爪で剥がしていた。俺を見ると、壁の時計を見た。


「ぴったりすぎて怖い」


「下の昇降口で、二分待った」


「そこは普通に上がってくればよかったじゃん」


 俺は鞄を椅子へ置いた。


 七緒は昨日まで布を掛けていた板を、窓に対して少し斜めに立てた。横長で、俺の両腕を広げたくらいある。島の展望台から見た海だった。


 絵葉書より、ずっと緑が多かった。


 手前の木の枝が、空を横切っていた。海の上は同じ青ではなく、港に近いところだけ灰色が混じっている。遠くに町が小さく見えた。


 白い柵のところに、五人いた。


 顔は細かく描かれていなかった。それでも、誰が誰かは分かった。千尋さんは腕を上げ、美玖は少し屈んでいた。志保さんは帽子のつばを押さえている。


「志保さん、帽子持ってたっけ」


「千尋さんの。借りたとき」


「そうだったか」


 俺は絵へ近づいた。


 美玖は電話を構えていなかった。足元を見ている。猫が柵の下にいたところだった。


 俺と七緒は、少し離れていた。


「お前、そこにいた?」


「いない。そのへんから写真撮ってたから」


 七緒は俺の横へ来た。


「私が撮った写真をそのまま描くと、私がいなくなるでしょ」


 絵の中の七緒は、髪を押さえて海を見ていた。


 俺は自分の手元を見た。電話でも鞄でもない、細長いものを持っている。


「これ、何?」


「地図」


「あそこでも?」


「見てたよ。帰り道を」


 自分では覚えていなかった。


 柵の向こうの海は明るく、地図の紙だけが白かった。その白のせいで、俺が下を向いているのが分かった。


「嫌味?」


「違う。ほんとにそうしてたから」


 七緒は言ってから、絵を見直した。


「嫌なら、変えるけど」


「いい。そのままで」


 もう一度、端から端まで見た。


 手前の枝が少し邪魔だった。枝の隙間を探して、その奥を覗きたくなる。海だけを広く描くより、あそこに立ったときの感じがした。


 それを言うと、七緒は初めて俺から絵へ視線を移した。


「邪魔?」


「隠れてるところも見たくなるっていうか」


「うん」


「あと、志保さんがあんなに小さいのに、日陰に入りたそうなのが分かる」


 七緒はそこで笑った。


「そこ、私も思った」


 俺は絵の下のほうを指した。


「ここは、まだ描くの?」


「たぶん。草を入れすぎたら変になるから、迷ってる」


 すでに描いた細い線を、指で隠して見せた。隠すと柵が近くなり、指をどけると足元が広くなった。


 俺にはどちらがいいか、すぐに決められなかった。


「ちょっと離れて見ていい?」


 七緒は道を空けた。


 壁際まで下がって、また近づいた。正解を言う試験ではないはずなのに、言う前に考えてしまった。七緒は急かさず、剥がした絵の具の欠片を掌に集めていた。


「俺は、今のくらいが好き」


「分かった」


「採用される?」


「考える」


 七緒は屑入れへ行った。


 机の隅には、秋の作品相談でもらった紙が広げられていた。提出する絵の大きさ、写真の撮り方、相談できる日時。七緒はそこへ小さな字で印をつけていた。


「これ、持っていくのか」


「持っていけたら。もっと大きいのを描くかも」


「電車、どうやって乗るんだ」


「写真で見てもらえる。最初は」


 七緒は紙を裏返し、俺に見せた。


「何も知らないじゃん」


「知らないから訊いてる」


「そうだけど」


 彼女は椅子を引き、座った。俺も隣へ座る。


 廊下では誰かが走り、別の教室の窓が勢いよく閉まった。休みの学校にも、来る人はいた。


「映画、悪かった」


 俺は言った。


 七緒は紙を畳まず、端だけ折った。


「うん」


「遅れたのもだけど。着いてからも、調べたことの話ばっかりして」


「うん」


「映画の最初、どうだった?」


 七緒が顔を上げた。


 俺は、変な訊き方をした、と言い直した。


「お前が見てたところ、俺が知らないから。あらすじじゃなくて」


 七緒は少し考えたあと、映画の冒頭を話した。


 主人公の少年が父親の靴を借り、ぶかぶかのまま走るところ。家を出る前には立派な旅の計画を語るくせに、角を曲がったところで転ぶ。俺が着いたときには、靴を脱いで手に持っていた。


「何で裸足なのか、分かってなかったでしょ」


「分かってなかった」


「横にいて訊けばよかったのに」


 俺は床を見た。


 七緒は続けた。


「でも、私も、訊かれても答えなかったかも」


「怒ってたから?」


「怒ってたから」


 彼女は折った紙の端を戻した。


「最初にさ、たこ焼き冷めちゃったって言えばよかった。普通に。それから、腹立ってるって言えばよかった」


 俺は七緒を見た。


「いや、分かったと思う。それくらいは」


「分かったうえで調べ物の話してたなら、そっちのほうが腹立つ」


「ごめん」


 七緒は息を吐いた。


「映画は、また見られるから」


「探しておく」


「私も、探してた」


 七緒が電話を出した。映画の写真があるページだった。父親の靴を履いた少年が、片足を大きく前へ出していた。


「予告、見ちゃった。転ぶところ、ちょっとだけ入ってて」


「笑った?」


「笑った。あんなに怒って帰ったのに」


 俺も画面を見た。靴は想像していたより大きかった。


「これで走るのか」


「だから、最初から見てって」


 七緒の指が画面の端へ触れた。動画は再生せず、写真のまま止まっていた。


 彼女が保存したページの印を押すところを見て、俺も同じものを自分の電話に入れた。


「見つかったら、教えて」


「うん」


 七緒は電話を鞄へ戻した。


 七緒は窓の外を見た。


「今日は、もうちょっとここにいて」


 俺は椅子へ座り直した。



 昼前、三人が絵を見に来た。


 千尋さんは自分を見つけ、何を指しているんだろう、と言った。


「船」と美玖。


「そっか。船、指したね」


 自分の指で同じ方向を指して確かめたので、七緒がその横顔を見て笑った。


 志保さんは絵から離れたり近づいたりした。


「私、もう少し背が高くない?」


「奥にいるので」


「分かってる。ちょっと言ってみた」


 美玖は許可を取って写真を撮った。窓の光が絵の表面へ映り込むので、七緒と二人で角度を変えていた。


 俺は千尋さんと机を元へ戻した。


「お昼、どうする?」


 千尋さんが訊く。


「何でもいいです」


「私、お蕎麦がいい」


「じゃあ、蕎麦で」


 彼女は大きく頷いた。


「今日は、私の食べたいので決まった」


 志保さんが振り向いた。


「昨日も、あなたが冷やし中華って言ったよ」


「そうだった」


 千尋さんは笑った。昨日の冷やし中華には、俺たちは一緒に行っていなかった。三人だけで昼を食べる日も、少しずつ増えていた。



 昼食を済ませると、三人はそれぞれの用事へ向かった。


 俺は七緒と、家まで歩いた。


 家の角で別れようとすると、七緒が袖を引いた。


「ちょっと来て」


「何?」


「見せたいものがある」


 絵は、もう見た。


 何だろうと思って相沢家へ入ると、七緒は居間の棚から古いゲーム機を出した。小学校のとき、何度も一緒に使ったものだった。


「片づけてたら、出てきた」


 線を繋ぎ、テレビをつける。


 画面に、丸い生き物が二匹出た。


「懐かしい」


「動くんだよ。まだ」


 七緒は俺へ片方のコントローラーを渡した。


 小さいころには両手で余るほどだったものが、今は掌へ収まった。何に使うのか忘れたボタンが、上にもついていた。


「どれで跳ぶんだっけ」


「そこ」


 教わったところを押すと、自分のキャラクターが落ちた。


 七緒が笑った。


「ごめん、隣」


「今、わざとだろ」


「違うって。私も忘れた」


 二人で同じ山を上がっていくゲームだった。片方が先へ行きすぎると、もう片方が画面の外へ置いていかれた。


 七緒は先へ進んだ。


 俺は足場を確かめていた。


「待てって」


「下から来るから、早く」


「何が?」


 聞いている間に、画面の下から大きな魚が来た。


 俺のキャラクターが食べられた。


 七緒は笑い、笑っているうちに自分も落ちた。


 最初からになった。


「だから、待てって言ったんだよ」


「待ったら食べられるんだよ」


「じゃあ、先に言えよ」


 七緒はもう一度始めた。


 今度は俺が先へ行った。


 七緒が後ろから追いかけ、俺のキャラクターを頭で押した。足場から落ちた。


「お前」


「違う。押すつもりじゃなかった」


 俺は七緒のコントローラーを見た。


 彼女は画面を見たまま、口の端を上げていた。


 七回目くらいで、ようやく二人とも頂上まで行けた。


 俺たちは同時に息を吐いた。


「こんなに難しかったか」と俺。


「昔、もっと先まで行ったよね」


 次の画面が出た。


 七緒はすぐに進みかけ、止まった。


「水、飲む?」


「飲む」


 台所へ行き、二つのコップを持って戻ってきた。


 俺は画面を止めていた。


 七緒は床へ座り、コップの水を半分ほど飲んだ。


「これ、航の家にもあったよね」


「あった。引き出しに入ってると思う」


「今度、持ってきて。こっちの、ボタンが一個、戻らなくなる」


 七緒は指で押して見せた。


 本当に戻りが遅かった。


「さっきの、全部それのせいにするなよ」


「してない。航が落ちたのは、航のせい」


 俺はコップをテーブルへ置いた。


 七緒が先に進んだので、慌ててコントローラーを持ち直した。


 家に戻ると、母親がどこへ行っていたのか訊いた。


 七緒の家でゲームをしていたと答えると、何だ、小学生みたい、と笑われた。


 俺は棚の引き出しを開けた。


 奥に、同じ形のコントローラーが入っていた。


 線を解き、埃を拭いて、鞄の横へ置いた。



八月二十三日



 家を出る前に、拭いておいたコントローラーを袋へ入れた。


 センターで七緒へ渡すと、彼女は線の先を確かめ、そのまま自分の鞄へしまった。


「今度はこれ、使ってみる」


 俺は頷き、机へ地図を広げた。


 三日のあとに分かったことを足せるよう、同じ地図を三枚用意していた。


 俺が用意した色鉛筆を見て、美玖が、自分で引いていい、と訊いた。


 俺は箱ごと渡した。


 センターの小部屋に、宮内さんと五人が集まっていた。道路の担当から届いた図には、七月に柵が動いた位置と、車両を通せる時間帯が書き込まれていた。元の案内図は、予定が変わる前のものだった。


 それでも、図の道路が開いていたことと、そこを車が通ったことは別だった。


 宮内さんは、実際の出入りの記録も合わせて確認している、と言った。


 俺たちが手伝うのは、三人の線を引くところまでだった。


 美玖は青を選んだ。


 川の角から写真店へ。それから、同じ角へ戻る。


 行きと帰りを少しずらして引くと、細長い輪になった。


「このとき、店の人に言った?」


 志保さんが訊いた。


「もう一回、同じところへ行くって」


 美玖は首を振った。


「出てから、気になったから。帰るほうと途中まで同じで、寄っていこうと思った」


 千尋さんは赤を選んだ。


 パン屋から家へ向かう途中で、東へ曲がる。


「お店に寄ろうとしたかどうかは、まだ思い出してないんだよね」


 七緒が確かめる。


「うん。お弁当箱のことを聞いたから、そうしたのかもって」


 線の最後に、千尋さんは小さく丸をつけた。


 家庭用品店までは引かなかった。


 志保さんは緑を取った。


 駅から北へ上がり、休憩所のところで止まる。


「ここで待っていたとき、来る予定の人は、松原さんだけですか」


 宮内さんが訊く。


「はい。ほかの人には場所を伝えていません」


「以前から誰かと、部屋の前で会う約束をしていたということもありませんね」


「ありません。二十六日に寄れるかという話は、その日の夕方でした」


 俺は三日の地図を鞄から出した。


 三人の名前が右上にあり、千尋さんの揚げ物屋と、美玖の選ぶ日陰が残っていた。志保さんの線は休憩所の先へ少しだけ出かかっている。


 その上へ、今日の三枚を重ねた。


 増えたところだけを、指で押さえる。


「最初、俺、三つの場所に共通するものを探してました」


 宮内さんが紙へ目を落とした。


「駅から近いとか、屋根があるとか。車が停まれるとか。でも、志保さんのところは、屋根がない」


「だから、雨だったら、あそこで待たなかったと思う」と志保さんが言った。


 千尋さんは洋品店のところを見た。


「私は、雨が止んでたら、出てたと思う」


 同じ天気に対して、二人の言葉は逆を向いていた。


 俺は三枚を一度離した。紙が重なっていたときには三角形のように見えた点が、それぞれ一人の道の端に戻った。


「あの場所を選ばせたわけじゃないんですよね」


 誰もすぐには答えなかった。


 俺は美玖の青い線を引き寄せた。


「写真店を出て、同じ角へ戻るのは、前もって誰かに言ってた?」


「言ってない。出てから、行こうって思った」


「呼ばれた?」


「誰にも。自分で戻った」


 美玖はもう一度、細い輪を指で辿った。


 七緒が、千尋さんの赤い線を隣へ置いた。


「こっちも、買い物に行くつもりだったかどうか、本人が分からないんだもんね」


「お父さんには、帰るって言った。東へ行くって、言ってない」


 千尋さんは自分の電話を机へ置いた。六月十七日の通話の時刻を書いた、小さな紙がケースに挟まっていた。


「待ち合わせじゃなくて、出てくるところを待ってたのかもしれません」


 俺は言った。


「店とか、仕事の場所とか。何時に終わるか、何度も訊いていたなら。その先は、本人がどっちへ行っても」


 そこで一度、声が止まった。


 美玖の顔を見た。彼女は線を指したまま、俺の続きを待っていた。


「ついていった」


 口にすると、机の上の道が急に長く見えた。


 美玖が手を引いた。青い鉛筆が転がり、七緒の手へ当たって止まった。


 宮内さんは三人へ、いつもの帰宅経路を知る人と、当日の行き先を知らせた人を、あらためて確かめた。名前がいくつか出た。家族、店の人、管理会社。三人が挙げた人たちは、揃わなかった。


「その可能性は調べています。行き先を最初から全部知らなくても、あとから行動を知れた人がいたかどうか」


 宮内さんは俺に言い、道路の担当から届いた図を広げた。


「ただ、車でついていくとしても、どこを通れたかは日によって違います」


「四月のを、先に見てもいいですか」


 俺は図書館の紙を並べた。


 細い歩道を、車の道から離して描いていた。志保さんの北の休憩所へ最も近い線は、途中から階段になる。以前の俺は、その線をそのまま駅裏へ結んでいた。


「ここは、違いました」


 俺が階段を指すと、志保さんが頷いた。


「上からだと、回れる。その建物の横を抜ける道があるから」


 彼女は指の爪で、図の角を押さえた。そこから車両用の道を辿ると、保守庫へ向かう線へ出た。


 宮内さんは新しい確認図と見比べ、手帳へ一つ書いた。


「この出入口は、その時期、業務車両が使っていたと確認できています」


 七緒が六月の紙を横へ置いた。


 千尋さんの赤は信号から東へ曲がる。車の線は駅裏を回り、一本向こうの道から洋品店の通りへ戻れる。七月は柵の位置が変わっていたが、美玖の写真に写っていた隙間は、新しい確認図でも出入口だった。


 俺は三枚の同じ角を揃えた。


 紙の端がずれて、美玖の線だけ川へはみ出した。七緒が戻してくれた。三人の道と、月ごとに違う車の道が、ようやくそれぞれの位置に重なった。


「北と東は、歩けば離れてます。でも、こっち側からなら、三人とも近くまで行けます。その途中に、資材を置くところがある」


 俺は保守庫を指した。


「そこで何かあったと、これだけで決まるわけじゃないです。でも、同じ人が三人に近づけるかは、俺たちが歩いた道だけじゃ分からなかった」


 宮内さんは図の向きを変え、自分の側から確かめた。


 薄い紙が風で浮く。美玖が窓を閉め、志保さんが端を押さえた。千尋さんは、紙の下敷きになっていた箱を抜いた。


 誰も急かさなかった。


「この書き込みも、写しをいただいていいですか」


 宮内さんが言った。


「元の図と、確認できた出入りを重ねます。保管場所の鍵を扱う人の記録も、こちらで調べています」


 俺は三枚を揃えた。志保さんの線は、まだ休憩所で止まっていた。下の地図と重ねれば、その先に、空き部屋のある通りが見えた。


 窓の寸法を測りに行くつもりだった道を、宮内さんへ渡した。


 宮内さんが紙へ番号を振るあいだ、三人は机を見ていた。俺は役に立ったのか、顔を見て確かめたくなった。けれど、誰も笑ってはいなかった。


 千尋さんが色鉛筆を箱へ戻した。赤の先が欠けていた。


「仕事を終わる時間、訊かれてたって聞いたんですけど」


「お店の方から、お話を伺っています」


「何回もですか」


 宮内さんは、確認できた範囲を話した。


 パンの取り置きの話として、千尋さんが何時までいるかを尋ねた客がいた。配達を頼める曜日や、店を出るとき一人かどうかまで話が及んだ日もある。店長は、同じ客か確かでないものを分けて、覚えていることを伝えていた。


「その人に、私が配達したことは?」


「そこも確認しています」


 千尋さんは箱の蓋を閉めた。


「お客さんの顔、覚えるの、得意だったんですけど」


 誰も、覚えているはずだとは言わなかった。


 宮内さんは彼女へ体を向けた。


「心当たりが出てきたら教えてください。出てこなくても、千尋さんに分からない部分をこちらで調べます」


 彼女は蓋の角を指で押さえたまま、はい、と答えた。


 志保さんは、川瀬さんに疑いが向いたことを気にしていた。


 宮内さんは誰かをここで無関係だと宣言することはせず、本人の所在について、独立した記録を確認していると話した。嘘があったことと、犯行に関わったことは同じではない。志保さんは、その答えを最後まで聞いた。


「私が、ちゃんと別れようとしたことを話したら、あの人が犯人になると思われたくなかったんです」


「お話しいただいたことを、そのまま調べる材料にします」


 彼女は椅子の背から体を離した。


「分かりました」


 机の端で、七緒が鉛筆削りを探していた。俺は鞄から出した。


 欠けた赤を削る音が、小さく続いた。



 面談が終わると、廊下で千尋さんが足を止めた。


「お店、行ってもいい?」


 今日の案内の仕事は、もうなかった。俺たちは頷いた。


 パン屋の扉には、秋の新商品の試作の案内が貼られていた。小さい紙へ、栗の形が描いてある。


 店長は千尋さんを見て、奥から出てきた。


「ごめんね。あの話、先にちゃんと」


「聞きました」


 千尋さんは店長の声へ重ねるように言い、それから、強すぎたと思ったのか声を下げた。


「警察の人に、全部話してくれたんですよね」


「うん。思い出したことは」


「じゃあ、今日は、こっちの話がしたい」


 秋の紙を指した。


「試作、もうあります?」


 店長は紙を見た。


「あるけど、まだ失敗ばっかり」


「食べたいです」


 俺たちは店の脇の小さな机へ座った。


 出てきたパンは、栗が真ん中から少し外れていた。千尋さんが割ると、片方に餡が全部寄っていた。


「これ、先にそっちから食べたら、後半さびしいですね」


「やっぱり?」


 店長は紙へ何か書き込んだ。


 千尋さんは、もう片方も食べた。いつものチーズパンとは違う甘い匂いがした。


「生地は好きです」


「秋に、置こうと思ってるの」


 店長は言ってから、口を閉じた。


 千尋さんは皿の欠片を指で集めた。


「じゃあ、いま試せてよかった」


 明るく言おうとしているのは分かった。それでも、食べたかったのも本当だと思った。


 七緒が半分を口へ入れ、熱い、と言った。


「焼きたてだからね」


 千尋さんは自分の紙皿を少し押し出した。


「お父さんにも一個、買って帰っていいですか」


「売り物にはできないから、持っていって。感想だけ聞かせて」


 店長が袋を用意する間に、千尋さんはカウンターの下から古いクリップを拾った。


 そこに物が落ちると、店の外からは見えなかった。


 彼女は迷わず手を伸ばして取った。知っている仕事場での、慣れた動きだった。



八月二十四日



 センターの受付の横へ、月末の予定表が出た。


 会場は港の広場。参加は自由で、家で過ごす人のために送迎や物品の返却についても案内があった。夜に困ったときの電話番号を、浦瀬さんが太い字で書き直していた。


 五人でその紙を見た。


 誰からも、どうする、とは出なかった。


 先に口を開いたのは美玖だった。


「お母さんが、ここに来ようかって」


 千尋さんは首を傾げた。


「私は、まだ決めてない。ご飯は家で食べたいけど」


「途中からでも来られるって書いてあるよ」と七緒。


 志保さんは紙の下のほうを見た。


「私も、母と話してから」


 俺は記入用紙を取らなかった。


 浦瀬さんが来て、決まってから教えてくれればいい、と言った。


「荷物を返すだけの人もいますし、途中で帰っても構いません。ご家族と別々に行き来するなら、それぞれの足だけ決めておいてください」


 それは、今までにも何度も案内してきた声だった。


 俺は港までの送りの人数を数える紙を受け取った。三人の名前を書きかけ、まだ、と自分で止まった。


 その隣で、七緒は役割の希望欄を見ていた。


「会場の文字、まだ要るのかな」


 浦瀬さんは頷いた。


「大きい案内を二枚、お願いできる?」


「今日と明日でなら」


 七緒は俺へ紙を傾けた。


「航、切るの手伝って」


「分かった」



 昼過ぎ、宮内さんから連絡があった。


 旧海浜学習館と関連する保管場所について、確認を進めることになった。三人の最後の行動について追加で尋ねる場合があるので、連絡を取れるようにしていてほしい。


 千尋さんが読み、美玖と志保さんへ画面を見せた。


 それだけの連絡だった。


 誰が疑われているのか、何が見つかったのかは書かれていなかった。


「明日、ずっとここにいたほうがいいですか」


 俺が訊くと、浦瀬さんは連絡文を確認した。


「そういうお願いではないですよ。予定があるなら、その場所を伝えておけば」


 千尋さんは明日、家で洗濯をすると言った。カーテンを外すので、父が出勤前に手伝う約束になっていた。


 志保さんは冊子の修正。美玖は母と写真を受け取りに行く。


 俺と七緒は、今日の続きをここでする。


 それぞれの予定を伝えた。


 七緒は受け取った紙を机へ押さえた。俺が線に沿って切る。途中で刃が引っ掛かり、紙の端が少し毛羽立った。


「そこは裏に回すから、大丈夫」


 七緒は切った紙を窓へ透かした。


 入口、受付、飲み物。


 文字の下に矢印をつけた。


 美玖が、飲み物の場所、昨日の配置図と違うよ、と言った。


 七緒は図を見て、あ、と言った。


 右へ向けた矢印が、もう乾きかけていた。


「上から、左も描いたら?」と千尋さん。


「それ、両方に行けちゃう」と美玖。


 俺は紙をもう一枚切った。


 七緒は失敗したほうをひっくり返して、試し書きにした。今度は向きを確かめてから、墨のついた筆を置いた。


 机の下で電話が鳴った。


 七緒の母からだった。


「うん、あと一時間くらい。何買えばいい?」


 七緒は紙の乾いていないところを避け、端へ小さく書いた。


 卵、牛乳、しらたき。


「牛肉は? あるんだ。分かった」


 電話を切ると、千尋さんが、すき焼き、と言った。


「肉じゃがかもしれない」


「そっか」


「うち、すき焼きでも豚のときあるし」


 七緒は買い物のところを切り取った。


 文字が少し繋がり、しらたきの「ら」が、分かりにくくなった。俺がそれを言うと、家までに忘れない、と返された。


 夕方、五人でセンターを出た。


 志保さんと美玖が駅のほうへ折れ、千尋さんはパン屋へ寄った。俺と七緒はスーパーへ向かった。


 七緒は籠へ牛乳を入れてから、しらたきと糸こんにゃくの前で止まった。


「どっちだと思う」


「書いてあるほう」


「量が違うんだよ」


 袋を一つずつ持って比べ、安いほうを選んだ。


 会計を済ませると、七緒が俺へ牛乳を寄越した。今度は、持ってくれる、と訊いてからだった。


 俺は鞄へ縦に入れた。


 家の前でそれを返すと、相沢家の窓から煮物の匂いがしていた。七緒が台所の母へ何か言った。


 すぐ、ええ、と大きな声がした。


 窓から七緒が顔を出す。


「牛乳、もうあった」


「頼まれたんじゃないのか」


「お母さん、私に電話したあと、自分で買ってた」


 向こうで母親が笑っていた。


 七緒も呆れた顔をして笑った。俺は塀のそばから、また明日、と言った。


「うん。紙、忘れないで」


 俺は自分の鞄を叩き、玄関へ回った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。