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第十三章 八月の仕事


八月二十日



 支柱の結び目へ、細い砂が入り込んでいた。


 俺が紐を緩め、七緒が板を持った。港で何度も風を受けた紐は、結んだときより固くなっていた。端を少しずつ引くと、板が支柱から外れた。俺は片方の端を受け取った。


 映画会場まで、あと百メートル。


 七緒の描いた波は、角だけ少し擦れていた。


「終わると、何の役にも立たないね」


「あと百メートルって、どこでも言えるだろ」


「どこへ連れてくの」


 七緒は笑い、板を裏返した。


 学校でもらった板だった。裏側はまだ白かったが、紐を通した二つの穴は残っていた。


「ここ、絵の中に入れるかな」


「穴を?」


「塗っても埋まらないし。空けとけば、また掛けられる」


 彼女は指を穴へ入れ、持ち上げる向きを変えた。港で下になっていた側が、今度は上へ来た。


 俺は鞄を壁際へ寄せ、その前に板を立てた。風で倒れない位置を七緒と確かめてから、返す土台を台車へ載せた。


 奥村さんが帳面を持ってきた。


「番号、見せてもらえます?」


 俺が片方を傾け、七緒が裏を覗いた。


「二十七。もう一つは、二十八」


「はい。二基、戻り」


 奥村さんが表へ丸をつけた。


 俺はその手元を見た。番号の横に場所と日付があり、小さく時刻も入っていた。


 港入口 三十日 十七時 六基。


 駅前 三十一日 二十時二十分 二基。柏木。済。


 センター 一日 八時 四基。


 その下へ、映画会用の貸し出しが書き加えられていた。紙の上のほうは七月、下のほうは八月だった。


 奥村さんが返却の欄をこちらへ向けた。


「受け取りの印はこちらで。番号と、今日の日付をお願いします」


 俺が読み上げると、七緒は台車に残った番号をもう一度確かめた。


 七緒がペンを取った。


「この土台、ずっと同じ場所にあるわけじゃないんですね」


「足りないからね。行事が終わったら、次へ回します。布もそう」


 奥村さんは机の下から、畳まれたのぼりを出した。


 白地に青い波。裾に継ぎのあるものが、何枚か混じっていた。


「月末までに、これを数え直したくて。支柱の輪が切れているのもあるから」


 七緒は一枚広げた。


「このくらいなら、縫えるかも」


「無理はしなくていい。直す分を分けるだけで助かる」


 七緒は布を持ち上げ、光に透かした。


 俺は台車を倉庫のほうへ向けた。


 支柱と土台を返すだけの用事が、また少し増えた。七緒も、自分から引き受けた用事だった。


「何時までやる?」


 訊くと、彼女はこちらを見た。


「お昼まで」


「じゃあ、十一時半になったら片づける」


 七緒は、うん、と答えた。



 資材の置き場は、センターの敷地の端にある小さな倉庫だった。


 奥村さんが鍵を開けると、紙と土埃の匂いがした。折り畳み机、椅子、電源コード、古い横断幕が、通路を空けて積まれている。


 千尋さんと美玖も来た。志保さんは事務所へ、見てもらった冊子を受け取りに行っていた。


 美玖が入口の脇の札を見た。


「ここ、番号がある」


 棚の端に、三、四、五と書いてあった。


「場所の番号ですか」


 俺が訊くと、奥村さんは首を振った。


「以前の置き場。移してから書き換えてないの。三が学校、四が旧海浜学習館、五がここ」


 千尋さんが、まだ使ってるんですか、あそこ、と訊いた。


「建物のほうは使ってない。裏の保守庫だけ、大きいものを一時的に置くことがあります」


 奥村さんは古い横断幕を棚へ押し込んだ。


「今年は春から、そちらを減らしてるの。入口の舗装も傷んでるし。小さいものはここへ」


 美玖は札の四という数字を見ていた。


「何か、あった?」


 七緒が訊く。


「この書き方、どこかで見た気がする。数字の下に、横棒」


 奥村さんは別の札を見せた。


「上下が分からなくなるので、こうしてます。六と九を間違えるから」


 美玖は頷いた。


 それ以上は言わなかった。


 入口の脇へ、コードの束が三つ重なっていた。俺は一つずつ持ち上げ、端の形と長さを確かめた。千尋さんが紐を揃えていく。


 結び目の下から赤いテープが出た。


「これ、印ですか」


 ちょうど裏から来た長岡さんへ見せると、彼は束の端を取った。


「使わないやつ。ここの覆いが裂けてる」


 曲がったところに細い割れ目があった。長岡さんは赤いテープを引き出したが、束を戻すとまた隠れた。


「これじゃ、次にも同じことになるな」


 俺は余っていた厚紙を取った。


「外から見える札にしませんか。片づける人、毎回違うし」


 長岡さんが大きく、断線、と書いた。俺はそれを結び目の外へつけ、横に置いた。


 千尋さんが空の箱を持ってきた。使える二つと離して入れると、どれが残るのかが分かった。


 七緒が、そっちも書いて、と自分の分けた布を持ってきた。輪の切れたものと、裾のほつれたものだった。


 俺は札を二枚切った。七緒は直すところを指しながら書き、布の端へ留めた。


 長岡さんが台車を引くと、札が三枚、同じ向きへ揺れた。


 奥村さんが一枚の書類を渡した。


「ここの日付、確認してください。前に持ってきた分、七月十七日で合ってます?」


「持ってきたのは十八日。作業したのが十七日」


「じゃあ、両方書いて」


 長岡さんは腕時計を見てから、ペンを取った。


 俺はその言葉で、図書館の紙を思い出した。


「工事が終わった日と、片づけた日も、違うことがあるんですか」


 長岡さんはペンを動かしたまま答えた。


「ある。車を入れられる日も、人が通っていい日も違う。何の話?」


「川沿いの、七月の工事です。古い案内図に日付が二つあって」


 彼は顔を上げた。


「俺に訊くより、役場に確認したほうがいい。あそこ、何班も入ってるから」


 奥村さんが頷いた。


「その図なら、道路の担当へ回します。必要ならコピーを預かりますよ」


 俺は鞄から紙を出した。


 個々の車がいつ通ったかではなく、道が開いていたかを確かめたいと伝える。奥村さんは受け取って、担当へ付箋をつけた。


 七緒は布を畳んでいた。


 俺は時計を見た。十一時二十五分だった。


 台車を元の場所へ戻した。



 柏木さんが来たのは、俺たちが片づけ始めたところだった。


 車の後ろに、折り畳んだ椅子が載っていた。月末の送りの会場へ持っていく前に、数を確かめたいという。


「今は、ここで下ろします?」


 彼が奥村さんへ訊く。


「いったん下ろして。台数の表と合わせたいので」


 俺は近くへ行き、椅子を二脚受け取った。


 七緒が、航、と呼んだ。


「十一時半」


「これ、下ろしたら終わる」


 椅子を置き、そのまま戻った。


 柏木さんが、ありがとう、と声を掛けた。


 千尋さんは自分の鞄を持ち、美玖は入口の写真を一枚撮った。撮る前に奥村さんへ断っていた。


「昔の置き場の札、写していいですか」


「いいけど、何に使うの?」


「前の写真と、比べたくて」


 柏木さんが車の扉を閉めた。


「施設の写真なら、町でも撮っていますよ。何か探してるんですか」


 美玖は電話を下ろした。


「自分で撮ったものです。まだ、分からないので」


「そうですか」


 柏木さんは椅子を持ち上げ、奥村さんの指したところへ運んだ。


 俺たちは昼休みに入った。



 美玖が見比べていたのは、車の写真ではなかった。


 春、写真店で展示の準備をしていたときのものだった。照明を直すため、脚立が入口に置かれている。その脚に、四、と書いた小さな板がついていた。


 俺は電話を覗いた。


「この脚立、旧学習館のものだったのか」


「そうかもしれない。でも、今もあそこにあるとは限らない」


 美玖は今日撮った札へ戻した。


 七緒が頷く。


「棚は移しても、札は前のままだったもんね」


 志保さんが戻ってきた。鞄には薄い冊子が入っていたが、それを出す前に、美玖の画面を見た。


「旧学習館、うちの事務所も仕事したよ。去年、図面を確かめるので」


「中、どうなってるんですか」


 俺が訊くと、彼女は少し考えた。


「私が見たのは本館。裏は別の建物だった。担当じゃなかったから、詳しくは知らない」


 千尋さんが言った。


「パン屋も、前にそこへ配達してた。イベントがあるとき。いまは、ないけど」


 俺は旧学習館を地図で探した。歩く道とは別に、裏の保守庫へ伸びる細い道があった。


 そこから川へ下りれば、駅裏の整備路へつながる。


 美玖の隣へ、図書館で写した図を出した。


「この道の、出入り口も送ろう。こっちからなら、裏へ回れる」


 七緒が端を押さえた。道路の担当に確かめてもらっている箇所へ、奥村さんが付箋を貼っていた。


「昔は、町の人、結構行ってた場所なんだね」と七緒。


 志保さんが頷いた。


「だから、行ったことがあるだけでは、誰にも絞れないと思う」


 俺は出入口の横へ、確認待ち、と書いた。図書館の紙も並べ、美玖が写せるように端を押さえた。


 美玖は宮内さんへ、写真を送ってもいいかと連絡した。すでに渡した画像の中の、脚立の札について気づいたことがある、と書いていた。俺の図についても添えていた。


 志保さんはそこでようやく、冊子を出した。


「いっぱい、直された」


 赤い付箋が何枚もついていた。


 七緒が椅子を寄せる。


「見ていい?」


 志保さんはページを開いた。


 余白の取り方、説明の順番、図の見せ方。細かな字が並んでいた。


「これ、私が何をしたか、分からないって。チームの仕事の説明と、自分の担当を分けてって」


 七緒が最初のページを見た。


「言われると、ほんとだ」


「うん。いま直す」


 志保さんは鉛筆を持った。


 千尋さんが、昼ご飯は、と訊いた。


「そのあと」


 俺は時計を見た。


「先に食べませんか」


 志保さんは鉛筆を置き、少し笑った。


「そうする」


 七緒は黙って、冊子に挟んでいた付箋を元へ戻した。


 食べ終えたころ、宮内さんから返事が来ていた。美玖は脚立の写真と俺の図を送り、同じものを五人席にも入れた。


 俺は送った三枚を順に開き、写した図と表紙の番号が読めることを確かめた。元の紙を鞄へしまってから、五人で使った机を拭いた。



八月二十一日



 宮内さんからの返事には、資料を受け取りました、だけではないことが書かれていた。


 旧海浜学習館の資材と車両の出入りについて、調べを進めている。本人たちの知っていることを、もう一度確かめたい。


 面談は午後だった。


 午前中、俺は七緒と一緒に、映画会の看板を学校へ運んだ。七緒は裏側を別の絵に使うつもりだった。


 美術室の隅には、何枚かの板が立て掛けてあった。七緒はそのうち一枚に、布を被せていた。


 俺がそちらを見ると、まだ、と言った。


「明日なら、見せられると思う」


「何時?」


「午前。十時くらい」


「十時に来る」


 七緒は雑巾を洗い、蛇口を閉めた。


「九時半じゃなくていいよ」


「分かった」


 俺はそれを手帳には書かなかった。忘れそうな約束ではなかった。



 午後、宮内さんは三人へ、二つの話をした。


 一つは、写真店での設備の作業と、美玖について尋ねた客の来店は、別の日だったということ。


 長岡さんが照明を直したのは、展示を始める前だった。美玖が持っていた写真も、その日のものだった。


 問い合わせがあったのは、展示を始めたあと。


 同じ人かもしれないし、違う人かもしれない。少なくとも、脚立に乗った人を見たという記憶だけで、問い合わせた人物を決めることはできなかった。


「私、修理に来た人が、写真も見てたんだと思ってた」


 美玖が言った。


「それは、覚えていらっしゃることですか」


「ううん。そうだったのかなって、あとから」


 宮内さんは頷いた。


 もう一つは、三人の衣服などに残っていた付着物の話だった。


 俺たちへも話してよいか、三人に確認してから、彼は続けた。


「建物の塗装や、古い資材に由来する可能性のあるものが含まれています。それだけで、どこにあったものかは決まりません。ただ、町が保管している資材に、照合したいものがありました」


 千尋さんが、旧学習館ですか、と訊いた。


「その保守庫も、確認する場所の一つです」


 志保さんは自分の手を見た。


「私たち、あそこへ運ばれたんでしょうか」


「まだ断定できません。物が移動した可能性もあります」


 誰も声を出さなかった。


 外で、物を積む音がした。


 俺は自分が昨日、土埃のついた台車を押していたことを思い出した。三人が最後に立っていた場所と、三人が見つかった場所。その間には、本人たちの記憶にない道がある。


 そのどこかに、建物があったのかもしれない。


「気づいてくれた札は、物の来歴を確認する手掛かりになりました。ほかにも、業務の資料や車の記録を照合しています」


 宮内さんは美玖を見た。


「今、皆さんにお願いしたいのは、直接その施設へ確かめに行かないことです。建物自体が古く、確認が必要な箇所もあります」


 美玖は頷いた。


 俺も頷いた。


 地図を持って行けば、自分で何かを見つけられると思っていた場所が、急に遠くなった。



 面談のあと、千尋さんは調理室へ行った。


 借りていた保存容器を返すためだった。俺たちもついていったが、彼女は棚の前へ立ったまま、しばらく手を動かさなかった。


「ちょっと、怖いね」


 言ってから、容器を一つ棚へ入れた。


「知ってる場所だったら、嫌だな」


 志保さんは流しの縁を見ていた。


「私は、全然知らない場所でも嫌だと思う」


 千尋さんは頷いた。


「そうか。そうだね」


 俺は手伝おうとしていた手を下ろした。


 美玖は窓のそばにいた。


「写真、撮らなきゃよかったのかな」


 七緒が彼女を見た。


「店に出さなければ、来る日とか、一人かとか、訊かれなかったのかもしれない」


 声が小さくなった。


 志保さんが近づき、窓の横へ立った。


「私、あなたの写真を一枚持ってる。あの木と駐車場の」


 美玖が顔を上げる。


「あれを、撮らなければよかったことには、してほしくない」


 美玖は鞄の紐を握った。


「全部の写真の話じゃなくて」


「分かってる。でも、そこで分けられなくなりそうだったから」


 志保さんは言った。


「あなたが写真を出したのは、見てもらいたかったからでしょう」


 美玖は頷いた。


 そのあとは誰も喋らず、容器を返し終えた。


 調理室の鍵を浦瀬さんへ戻す。廊下で、別の家族が笑いながら食器を運んでいた。さっきの話を知らない人たちだった。


 千尋さんがその人に道を譲った。


「どうぞ」


 いつもと同じ声だった。



 帰り、俺たちは布を買った店の前を通った。


 黄色い布は、切った分だけ巻きが細くなっていた。志保さんはそれを見て、足を止めずに歩いた。


「部屋、見てもらった」


 七緒が顔を向ける。


「お母さんに?」


「うん。黄色いの、思ったより悪くないって」


「よかったですね」


「悪くても、あれにするつもりだったけど」


 千尋さんが笑った。


 美玖も少し笑った。


 俺はその二人の顔を見てから、前へ向き直った。


 駅の手前で、町の作業車が一台通った。


 運転している人の顔は、反射で見えなかった。


 誰も車を追わなかった。


 七緒は明日使う絵の具を買うので、画材を置いている店へ寄ると言った。俺もついていこうとして、足を止めた。


 七緒が振り向いた。


「持ってもらうほど、今日は買わないよ」


「分かってる。俺も消しゴムが小さくなったから」


 七緒は少し考え、じゃあ、と扉を開けた。


 俺はそのあとへ入った。


 同じ棚の前で、七緒は白い絵の具を、俺は白い消しゴムを取った。


 会計は別々だった。


 外へ出て、七緒は袋の底を指で押した。


「明日、感想、ちゃんと言ってよ」


「言う」


「斜めだね、だけじゃなくて」


 俺は頷いた。


「分かってる」


 七緒はまだ、笑わなかった。


 でも、家までの道は、俺が角を曲がるのを待ってくれた。


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