梶原景時③
正治元年(1199年)に頼朝が亡くなると、子の頼家が跡を継いだ。18歳という若さだった頼家には鎌倉を治める力はなく、むしろ愚行が目立った。領地争いの訴えがあれば中央に筆で線を描いてそれを境目と言い張ったり、御家人の妻を我がものとするためにその御家人の首をはねようとするなどして、人々の心は離れていった。
御家人結城朝光は頼朝追善のための念仏を唱える席で「忠君は二君に仕えず」と発言したが、そのくらい頼朝の治世は懐かしく思われていたのだ。そしてその朝光の発言が思わぬ方向へと展開していく。
北条政子の妹である阿波局は朝光に対して
「梶原景時があなたを頼家に対して讒訴したため、あなたの身が危ない」
と忠告した。
朝光の発言が頼朝にしか仕える気がないという意図を含んでいるという讒訴であるらしい。そのため朝光は同じく御家人で実力者であった三浦義村にそれを訴えて、義村がそれを和田義盛ら他の御家人にも話を広げた。
これにより御家人66人の連署から成る景時への弾劾状が作られて大江広元に提出された。広元は頼家にそれを見せるのを渋ったものの、和田義盛の脅しにあってやむなく頼家に渡すこととなった。
景時による讒訴の流れはどこか不自然な点が多く、彼が本当に朝光のことを頼家に告げたのかは疑わしいところがある。当時御家人の中で最も権力を握っていた景時を陥れるための北条氏の罠であったという説もあるようだ。
いずれにせよ景時がそれだけ御家人たちの恨みをかっていたことは事実であり、頼家としてもそれを無視することはできなかった。頼家がその弾劾状を景時に見せると、景時は弁明することなく一族を率いて相模の一宮に蟄居している。
景時にはどこかこういう無欲で無理に栄光を望まないところがあり、そこを当時の御家人たちに理解してもらえなかったきらいがある。彼は頼朝の治世下でも自身の任官の話があってもそれを息子に譲っている。自身の出世のためにでなく、頼朝の理想の世のために尽くしていたといえる。
その後景時が一族を率いて一宮を脱出して京に向かったために、謀反の疑いありとして頼家は追討使を派遣した。そして正治2年(1200年)正月に駿河の清見が関あたりで地元の武士たちによって景時らは討ち取られた。
敵に囲まれて刀を振るいながら景時の頭に浮かんだのは、石橋山の山中で見た旧主頼朝の顔であったかもしれない。何を考えているか容易に想像はつかないが、それにしても新たな時代を築くにふさわしい器を持った人物であった。景時にとって本当に仕えるに値したのは頼朝のみであったかもしれず、皮肉にも「忠君は二君に仕えず」とは彼の心境に一番近かったかもしれない。
この時景時に本当に謀反のつもりがあったかどうかについては疑いの余地がある。これも北条氏かあるいは彼に恨みを持つ者の罠であったかもしれない。
梶原景時を理解できたのは源頼朝一人であったのかもしれず、頼朝が世を去った時点で彼の役割は終わっていたのかもしれない。




