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三浦義村①

三浦氏は古くから源氏に仕える一族であった。源頼朝が伊豆で挙兵した際も始めから彼に従っていた。だが石橋山の戦いでは洪水のために軍勢を進めることができずに頼朝は大敗し、その後三浦も衣笠城にて敵の攻撃を受ける。その時に89歳であった当主の三浦義明は討死した。


義明の跡を継いで三浦家の当主となったのはその子である三浦義澄だ。彼は正治2年(1200年)、頼朝が亡くなった翌年に世を去っているのだが、彼により三浦一族は頼朝の信頼を得て有力な御家人として周囲から認知されることとなる。


ちなみに義明の長男の子に、後に北条義時相手に反乱を起こした和田義盛がいる。義盛は頼朝が鎌倉に入った際に侍所別当に任じられており、それも三浦一族への頼朝の信頼の厚さが表れているといえる。


さて義澄の子でありその跡を継いだ三浦義村についてである。彼の息子である泰村の代に北条氏により三浦一族は滅ぼされることになるが、その際に泰村は

「父義村が一族や多氏を多く滅ぼした罪科の結果であろうか」

と嘆いたといわれる。


たしかに頼朝死後の抗争の中で義村は御家人の排斥に動いたが、これは北条氏の意図に沿ってのことであった。当時の情け容赦なく御家人が陥れられ殺される鎌倉の政治的状況の中で、義村だけがそのようにいわれるのは不当な評価だと思えなくもない。


また藤原定家が義村のことを「八難六奇之謀略、不可思議者歟」と評している。常に謀略を巡らし何を考えているか分からないということだが、義村の方針は意外と一貫している。彼はどのような状況であっても北条氏、中でも北条義時の味方であった。


義村は北条一族に取って代わろうとしたという言説がとられることがある。たしかに彼の代に三浦は北条に次ぐかあるいは並ぶほどの実力を有していた。だからこそそういう疑惑を持たれるのかもしれないが、実際には義村が北条義時やその子泰時に取って代わろうとしたという事実は見受けられない。


頼朝死後の抗争の中での義村の動きを見ると、まず有力御家人の梶原景時が追放された際は、友である結城朝光が景時の讒言により罪を受けることを防ぐために和田義盛とともに66人の御家人の署名から成る弾劾状を提出した。それにより景時は鎌倉を追放されて討ち取られることになる。この事件に関しては不明な部分が多いが、景時追放を狙った北条氏が裏で糸を引いていて義村がそれに協力したと考えても不自然ではない。


建仁3年(1203年)に北条時政、義時親子は自分たちに並ぶ有力御家人であった比企能員を自宅に招いて殺害し、軍勢を派遣して比企一族を滅亡させた。その軍勢の中には義村も含まれている。


その頃頼朝の跡を継いで将軍となった源頼家は専横な振る舞いが目立ったことで修善寺に追放、幽閉されていた。義村は幕府側の意向を伝える使者として頼家のもとへ向かい、頼家の近況をその母である北条政子に報告している。政子はその報告を聞いて激しく悲しんだといわれる。その後頼家は北条氏によって暗殺された。


建仁2年(1202年)には義村の娘が義時の子で後に執権となる北条泰時に嫁ぎ、義村は北条氏と婚姻関係を結んだ。これにより三浦、北条の関係はより強固なものとなった。


元久2年(1205年)、北条時政は御家人畠山重忠、重保親子に謀反の疑いありとして討伐を命じた。この時最初に動いたのは義村であり、彼は由比ヶ浜にて重保を殺害している。それを発端として畠山と北条は戦となり、重忠も討ち取られている。


この事件の後に時政の息子である義時は重忠に謀反の疑いがあったのか疑問に持ち、重忠を讒言したとして稲毛重成を殺害した。重成の弟である榛谷重朝親子は義村により殺されている。


この一連の流れを見ても義村が律儀なまでに北条の意向を汲んで動いていることが分かる。


やがて実権を強めた政子、義時の姉弟と父時政は対立を深め、時政と妻である牧の方は婿である平賀朝雅を将軍にしようと目論んだ。時政はときの将軍源実朝を自邸にて殺害しようと謀り、それを知った政子は義村を呼んで相談している。それを受けて義村は時政邸に向かい実朝を義時邸に移して、時政を追放、隠居させるために伊豆まで送り届けた。


稲毛重成をはじめ畠山重忠討伐において時政側として動いた者は義時によって処罰されているのだが、畠山重保を殺害した義村だけは許されて活躍を続けている。


義村は北条への反対勢力を引き込めばその実権を奪える可能性もあったにも関わらず、一貫して義時に従っている。逆にいえば彼が義時に逆らわなかったからこそ北条の権力は盤石となり、鎌倉の政権は安定したとまでいえるかもしれない。


なぜ彼は北条に従い続けたのだろうか。それは北条のもとで武家政権発足に伴う混乱が収斂しているという冷静な時勢への見極めがあったのかもしれない。彼については私欲よりも時代の必要性を重視したという評価がされてもいいと思っている。

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