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大江広元③

実朝の死を受け幕府は朝廷に皇子下向を要求するが、それに対して後鳥羽上皇は幕府に長江・倉橋の地頭職の停止を要求した。お互いが要求を拒否したことで溝は深まり、承久3年(1221年)に後鳥羽上皇は義時追討の命令を発して挙兵した。上皇の挙兵という前代未聞の危機に鎌倉は騒然とするが、北条政子の演説により御家人たちは一致団結してこれにあたることを決意する。


群議の場では足柄、箱根の関で敵を迎え撃つ案が出されたが広元は

「関を守って日が経てばそれだけ不利となる。運を天に任せて京に兵を出すべきである」

と主張した。政子がこの案に賛成したことで義時の子である泰時が軍を率いて京に進撃することが決定した。


しかし軍勢を動員している間にまたもや迎撃論が強まった。それを受けて広元は

「日時をかけては東国の武士たちも心変わりするかもしれない。今夜にでも泰時が単騎ででも出撃すれば武士たちもことごとく従うだろう」

と発言し、義時はすぐさま軍勢を京に向けた。そして見事に勝利を収める。


この状況で最も積極的に強硬策を主張していたのが、文官である広元だったのは面白い点ではないだろうか。御家人たちにとって朝廷とは畏れ多いこの世の最高権力であった。それに逆らって戦うということには恐怖しかなかっただろう。いくら政子の演説があったとはいえ、その心理に大きな変化はなかったと思われる。


そしてそれは幕府側の指導者であり、後鳥羽上皇により追討の対象とされている義時とて同じであった。朝廷軍との戦いが始まってから義時邸に落雷があって一人の死者が出たことがあった。義時はそれを朝廷に逆らった報いだと弱気になり広元に相談している。広元はそれに対し、

「奥州合戦の際にも幕府の陣に落雷があったから、むしろこれは幕府側にとってめでたいことだ」

といって義時を励ました。


なぜ広元はこれだけ強気になれたのだろうか。思うに彼は若い頃は朝廷に仕えており、鎌倉に来てからも何度も上洛して朝廷と交渉を重ねてきた。だからこそ朝廷とて普通の人間たちの集まりであると理解しており、他の御家人たちのようにそこに神性を見出すことがなかったのではないだろうか。


さらに彼は軍事については素人であったにせよ、頼朝挙兵以来の多くの局面を見てきたからこそ、素早い先制攻撃が勝敗を決するという道理も肌感で理解していたのかもしれない。


いずれにせよ広元の助言がなければ義時がここまで果断に動くことはなかったであろうし、幕府軍が負けていたことも考えられる。


戦が終わると義時は仲恭天皇を廃位させ、後鳥羽上皇を流罪として敵方の武士たちも厳しく処罰した。また朝廷の監視のために六波羅探題を京に設置した。


その義時が元仁元年(1224年)に亡くなると、翌年には広元も役目を終えたかのように世を去った。広元からすれば義時こそ自分が心血を注いできた鎌倉の政権を守って強めるに値する人物であり、晩年は彼を支えることに執心した。


義時の跡を継いで執権となった北条泰時は相次ぐ訴訟等を裁くために御成敗式目を定めることになるが、それと同じ年に広元が所有する文書群の収集、整理を行っている。それは文官として広元が成してきた裁定や交渉の全てであり、泰時が御成敗式目を定めるにあたって参考にしたと考えられる。


広元の四男は毛利季光と名乗り、彼の末裔に戦国時代に中国地方に覇を唱えた毛利元就がいる。毛利氏はやがて関ヶ原の戦いに敗れて勢力を弱めるが、幕末には毛利家の家臣である長州藩下たちが倒幕運動の旗頭となって明治維新を成し遂げる。大江広元の血脈は日本史の中に太く刻まれているのである。

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