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大江広元②

建久10年(1199年)、源頼朝が急死して長男の頼家が跡を継いだ。頼朝という存在を失ったことで鎌倉は秩序を失い、激しい権力闘争が巻き起こっていく。


最初にその犠牲となったのは頼朝のもとで権威を振るっていた梶原景時である。景時が結城朝光を頼家に讒言したことで、有力御家人たちが景時を糾弾し、その書状が広元に渡された。


だが広元は景時を断罪することに乗り気ではなく、当初その書状を頼家に取り次ぐことを躊躇していた。景時は周囲との接触を気にしない性格で御家人たちから恨みをかっていたが、広元からすれば自分と同じで頼朝が望むことを淡々とこなしてきた功臣であるという頭があったのかもしれない。


そんな広元の態度に業を煮やした和田義盛が広元を恫喝したことで、広元も仕方なく書状を頼家に取り次いだ。結果として景時は鎌倉を追われて討ち取られることとなる。


景時亡き後の鎌倉で権力を握っていたのは北条時政と比企能員であり、時政は比企が謀反を企てているとしてその討伐を決意して広元にも相談している。広元はそれに対して曖昧な態度をとっているが、本心では御家人どうしが武力で潰しあうことに賛成はしていなかったようだ。


彼は比企討伐の話し合いのために北条政子邸に向かう際に、供の者に

「不測の事態が起きたらお前が私を殺せ」

と述べている。自分の身にも危険が及ぶかもしれないと考えていたようで、権力欲の強い時政に対して警戒心があったようである。


比企能員を討って比企氏を滅ぼした時政はその後同じく御家人である畠山重忠を倒し、将軍頼家をも追放、暗殺するなどして権勢をほしいままにしたが、子の義時、政子らによって権力の座を追われた。広元はその後権力を握った義時とは馬があったようで、彼と二人三脚で政治を進めていった。


義時も父時政と同じく謀略の限りを尽くして権力を手にした人物である。しかし彼は頼朝が生きていた頃はそれほど目立つ存在ではなく、むしろ無欲で控えめにしている方だった。その頼朝亡き後の権力闘争の中で必要にかられて自らを変貌させたような節のある人物である。いわばリアリストであり、その点広元と共通している。広元としても、鎌倉の政権が安定するには強いリーダーに権力が集まる必要があると考えていたかもしれない。


健保元年(1213年)に和田義盛が義時打倒のために挙兵した。義盛は幕府の軍事権を掌握しており、それを奪おうと考えた義時が彼を挑発して仕組んだことであった。この時広元邸では酒宴が開かれていたが、異変を知った広元は将軍源実朝のもとへ報告に向かった。


将軍御所と義時邸を襲撃した義盛が次に襲ったのが広元邸であり、義盛は義時の次に広元を攻撃対象としていた。広元は頼朝の意向を理由として上総介任官という義盛の要求を拒んだこともあり、義盛の恨みをかっていた。御家人と将軍や北条氏の間に立って取次をする役割は恨みをかうことも多かったのである。


広元は将軍実朝とともに御所から逃れたが、行政上の文書を守る必要から一度政所に戻っている。そのような命の危うい状況であったが、義盛の反乱は鎮められて彼は討ち取られた。これで実質的に北条義時が鎌倉の最高権力者として君臨することとなる。


幕府の実権を北条氏に奪われ始めた3代将軍の実朝は朝廷にできるだけ歩み寄る姿勢を見せるようになり、その点で義時、広元と意見が食い違うことがあった。朝廷からの西国の関東御領に臨時公事を賦課するという伝達に対しては、幕府財政の維持のために広元は反対の立場をとったが、実朝を説得するには至らなかった。


また実朝が近衛大将の任官を朝廷に望もうとした際は、義時が広元に対して実朝を諌めるように依頼している。頼朝が子孫のために朝廷からの任官を拒んでいたにも関わらず、まだ若い実朝がそんなものを望むべきではないと考えたのである。しかし実朝を説得するには至らず、広元は反対に実朝の大将任官のために朝廷を説得してこれを実現させている。


承久元年(1219年)、実朝は甥である公暁により鶴岡八幡宮の儀式の最中に暗殺された。冒頭で述べたようにこの事件の当日に広元が凶事を予言して涙を流したと吾妻鏡には書かれている。真実かどうかは不明であるにしても、広元が何らかの異変を察知したことは考えられる。


義時が自分では意見できないから実朝の説得を広元に頼んだり、実朝暗殺の当日に涙を流したりと、広元が義時のパートナーであるだけでなく実朝にとっても信頼できる家臣であったことが読み取れる。


実朝には子どもがいなかったため、源氏の嫡流は途絶えて以後将軍を朝廷から迎えることになった。さらに朝廷と関係の深かった実朝がこの世を去ったことで、朝廷と幕府の関係に不和が生じ始めた。ときの朝廷の最高権力者は後鳥羽上皇である。

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