大江広元①
歴史とは華やかな部分が強調されて語られるが、その裏には地道で目立たぬ活動でもって時代を前進させた人物もいる。そういう人物にも目を向けなければ真実の歴史は見えてこない。
大江広元という人物に注目したのはそのためである。彼は文官として源頼朝を支え、頼朝亡き後も鎌倉幕府を安定させるために尽力した。日本で初めての武家政権の確立に貢献したのは軍事力をもって敵を倒した武士だけでなく、彼のような優れたバランス感覚をもった政治家も不可欠であったのだ。
鎌倉幕府創建を描いた歴史書吾妻鏡によれば、3代将軍の源実朝が暗殺される当日に広元は凶事を察知して、
「成人してから一度も涙を流したことのない私がなぜか感涙を禁じえなかった」
のだという。事実かどうかは疑わしいが、いずれにせよ成人してから一度も涙を流さなかったという描写に彼の冷徹ぶりがうかがえる。彼は武家政権の樹立のために成すべきことを淡々とこなしていったのであり、だからこそどこか非情で人間味がないイメージで語られることが多い。
京で朝廷に仕えていた広元が鎌倉の源頼朝のもとで文官として働くことになったのは、寿永2年(1183年)から元暦元年(1184年)までの間とされる。兄であり頼朝と縁が深かった中原親能の誘いによるものであった。当時関東で勢力を拡大させた頼朝は都へ向けて平家追討軍を差し向けており、政権の拡大に合わせて戦だけでなく行政を担える人材を欲していた。
頼朝政権下で政所別当となった広元は訴訟の裁定や統治に関する取り決め、宗教儀礼などで役割を果たしていく。また頼朝と要人との交渉役でもあり、頼朝の怒りをかって鎌倉に戻れなかった弟の義経や平家が滅んだ際に捕虜となっていた平宗盛といった人物と頼朝の間の取り次ぎも行っている。
中でも広元最大の功績とされるのが守護、地頭を置くことを頼朝に献策したことだ。
「東国で反乱が起きても幕府があるから鎮圧が可能だが、他の地域で反乱が起きた場合に東国から武士を派遣するのは負担が大きい。国衙、荘園ごとに守護地頭を任命すれば恐れることはなく、それを朝廷に申請なさるべきである」
この献策により文治元年(1185年)、在京している北条時政が頼朝と対立して朝敵となっていた源義経追討を名目として守護地頭の設置を朝廷に認めさせた。これにより鎌倉の政権はただの地方の一勢力ではなく、全国に睨みを利かせる統治機構に成長したのである。
守護地頭を全国に設置したことは荘園を巡る武士同士の紛争を急増させることとなった。荘園を押領する武士が各地で問題となり、広元は上洛してその問題について後白河上皇より相談を受け、その解決に努めている。
広元は京において摂関家領の相続を巡っての対立の解決にも貢献している。頼朝の後押しで九条兼実が摂政になると、頼朝は前摂政の兼通の摂関家領を兼実に与えるよう主張したが、それに兼通と後白河法皇が反発して一触即発の事態となった。結局頼朝の主張は通らなかったが、広元の奔走によって対立は解消された。
文治5年(1189年)7月、頼朝は弟の義経を匿っていた奥州藤原氏討伐のために東北へと兵を向けた。頼朝にとっては自分に逆らう勢力を一掃するための総仕上げとなる戦いであった。
だが頼朝が藤原泰衡追討の宣旨を後白河法皇に求めたが、それがすぐに発給されることはなかった。9月に奥州藤原氏を頼朝が滅ぼすと、事後承認の形で宣旨が届けられた。
そのような状況で広元は京に上り、朝廷に頼朝の戦いを正式に追認するように交渉した。文官として頼朝の勝利に尽くした広元に対して、頼朝は奥州で新しく得た領地を一部与えている。
建久元年(1190年)には頼朝が上洛を果たし、広元は先に京に入ってその下準備をした。京に上った頼朝は後白河法皇らと顔を合わし、朝廷との関係を強固なものとする。
武士によって幕府は朝廷から独立して築かれたようなイメージを持たれるが、当時朝廷とは畏れ多い地上の最高権力であった。幕府とてその承認と信頼を得られなければその土台が崩れかねない。頼朝は晩年に娘の大姫の入内を目指しているが、それも朝廷の力を得なければ武家政権は成り立たないという現実があったがゆえなのである。
だからこそ幕府と朝廷の間を取り持った広元の役割は大きかった。それは若い頃を朝廷で過ごし、文官としての才能を持った彼だからこそ成し得たことであった。




