9.日課の報告といつもの求婚
約束通り、アレクサンドラがローレンスと特別に親しいらしいという噂はあっという間に消え去った。
一体どんな手を使ったのかわからないが、廊下ですれ違いざまに口笛を吹かれるようなことはなくなった。
もっと詳しくいうと、かつてそのような言動をとっていた学生たちは、アレクサンドラと目を合わせることすらなくなった。アレクサンドラの姿を見つけると、揶揄うどころか目を泳がせて物陰に隠れてしまうのだ。
(……あの男は一体どんな手を使ったことやら)
呆れつつ、アレクサンドラはローレンスの私的な部屋と化した学長室の扉をノックする。程なくして返事があり、アレクサンドラは部屋の中へ足を踏み入れた。
一礼し、淑女らしく微笑んで見せる。
「今日の報告にまいりました」
「ああ、待っていたよ」
部屋の奥にある執務机についていたローレンスは鷹揚に立ち上がった。佇まいは美しく、シンプルに顔がいい。もしここが社交の場なら婦人方から黄色い歓声が上がるのだろう。
そしてきっとこの男はそれを当然のものとして受け入れるのだ。うっかり想像してしまったせいで、特に意識はしていないのに、少し無愛想な態度になった。
「妙な噂を立てられたり冷やかしの視線を向けられることはなくなりましたわ。ありがとうございます」
「だろうな」
鼻で笑うローレンスの横顔は、笑っているはずなのに若干の狂気を感じさせる気がする。彼が何をしたのか聞くのはやめておこうと思った。
一方のローレンスは、形式的な報告の場のはずなのに、律儀に近況を聞いてくる。
「最近、変わったことはないか?」
「特に。……あ、そういえばシリル・ブランドナー様と学友になりました」
アレクサンドラの言葉に、ローレンスはなぜか嬉しそうな反応を見せた。
「シリル殿か」
「殿下もご交流が?」
「当然。さすが君だ。出会うべき人間と出会っているようだな」
「……」
シリルの存在を彼が知っているのは想定内だったが、自分との出会いまで見透かされているとはやっぱり腹立たしい気がする。
(子供っぽい反抗心だと指摘されればそれまでなのだけれど、どうしても受け入れ難いわね)
アレクサンドラが不快さを感じていることまで見透かしていそうなローレンスは、意味深に笑う。
「あとはマルセルと婚約を解消してくれればいいんだけどな? そして私と結婚しようか」
「息をするように結婚を迫るのはやめていただけます?」
つんと拒絶すれば、ローレンスは動じない視線を向けてくる。
「私から逃げるために適当な相手と婚約しつつ、婚約相手に事業拡大や自身の自由を確約させて一石何鳥も手にする君は、本当に……痺れるよな」
「わかっているのなら、追い回すのはやめていただけません?」
「追い回す? いや、ただその気になるのを待っているだけなんだけどな」
澄まして応じていたはずなのに、思わず目が泳ぐ。次から次へと出てくる口説き言葉に眩暈がしそうだ。
しかし、王太子ともなれば権力を利用してアレクサンドラを婚約者に据えることは可能なはずだ。けれど、それはしてこないのが陰険さの中に潜む彼の良心であることは確か。
悔しいが、こんなところだけは紳士なのだ。そのせいでたまに絆されそうになってしまう。
(この人は外堀を埋めることはするけれど、逃げ道を残してくれていることだけはわかるのよね)
もちろん、貴族に生まれたからにはアレクサンドラだって、恋愛結婚など望んではいない。マルセルを婚約者に選んでいることからも明白だ。けれど。
(私以外にも聡明な令嬢は大勢いるわ。将来、この人と結婚するのは国母になる方。私でないといけない理由はないのに、重責ある立場をそうやすやすと引き受けることはできない)
一瞬目を閉じて気持ちの整理をし、なんとか心の中に平穏を取り戻したアレクサンドラは淑女の笑みを浮かべるのだった。
「その気になる、の意味がわかりませんわね。失礼いたします」
「次はもっとわからせられるように努力しよう」
「……し、失礼いたします!」
(……どうしてそうなるかしら⁉︎)
内心悲鳴をあげたくなったものの、なんどかそれを表情に出さないようにして踵を返す。学長室を退出する時、ちょうど外で待っていた貴族令息とすれ違った。
(あら、この方は)
それは、ローレンスが特にかわいがっている弟分の令息だった。
アカデミーで彼を見たのは初めてだし、社交界でも滅多に会うことはない。けれど、彼は整いすぎた外見に加え独特の空気を持っており、とにかく目を惹く。
自他共に認める美形であるローレンスに見慣れているアレクサンドラでも、一瞬戸惑ってしまうほどの容貌の持ち主だ。彼はローレンスの私室のような場所から一人で出てきたアレクサンドラを見ても顔色を変えず、進路を開け会釈をしてみせた。
銀色の髪の隙間から覗く、南の海のような碧い瞳からは何の感情も読めない。ただ低くクールな声が端的に響く。
「どうぞ」
「……ありがとう存じます。ランチェスター公爵令息」




