6.子犬に手綱を握られる婚約者
ローレンスの執務室と化した学長室を出たアレクサンドラは、怒りを堪えながら図書館へと向かう。レポートの作成に必要な資料を探すためだ。
(落ち着くのよ。こんなことで怒っていては三年間のアカデミー生活を乗り切れないわ。平常心、平常心……!)
かつてはリンドバーグの大災厄と呼ばれた己を心の中に閉じ込め、息を吐いて淑女の仮面を身につける。そうして図書館の扉を押し開けると、その先には莫大な空間が広がっていた。
アカデミーの敷地内、南端に位置するこの図書館はブランヴィル王国でも有数の場所だ。八階建ての閲覧室はエントランス部分が吹き抜けになっていて、図書館全体を見回せるようになっている。
(ここを毎日利用するため、アカデミーを志す人も多いほどだもの)
勉学の場を前に、やっと気持ちが落ち着く。そうだ。自分はここで勉強するのが憧れだったのだ。誰にも妨げられず、文句を言われることなく、女だからと沈黙を求められることもない。
ここ数日で自分を見舞ったさまざまな災難が心の中から消えていく。学長が王太子の靴磨きをする光景を脳裏から消し去るまであと少しというところで、数人の集団とすれ違った。
「……アレクサンドラ様?」
鈴を転がすような声は、女子学生が少ないアカデミーでは特に新鮮な響きだ。視線を向けて声の主を確認すると、ピンク色のリボンが揺れた。
「わあ! またお会いできるなんて!」
「……オフェリー・バティーユ様」
それは、さっきローレンスとの話題に上がったばかりの男爵令嬢だった。入学式の直後にアレクサンドラに声をかけてきた彼女は、通路の中央に足を止めて、無邪気に話しかけてくる。
「アレクサンドラ様もレポートの準備を? もしよろしければご一緒させていただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ」
急な誘いに驚きはしたものの、アレクサンドラは首肯した。実は、アレクサンドラには同世代の令嬢の友人がいない。誰のことも寄せつけないなどと言われているが、とんだ誤解である。近寄りがたいと言って向こうが寄ってこないのだ。めずらしい機会に、思わず好奇心の方が勝る。
(それに加えて、初日にローレンス殿下が声をかけてきたことで遠巻きにされてしまっているのよね。いまいましいわ)
腹の中のどす黒さを隠して応じるアレクサンドラだったが、一方のオフェリーは意外な行動に出た。ピンクのリボンが揺れる銀髪を跳ねさせ、ニコリと微笑んで、後ろを振り向く。
「マルセル様、アレクサンドラ様がいらっしゃいますわ」
「……"マルセル"?」
なぜか自分の婚約者である男の名前が呼ばれて、アレクサンドラは眉間に皺を寄せた。直後、ざっと見て両の手の指の数ほどいるオフェリーの取り巻きの中から、当人が顔を見せる。
「アレクサンドラ。こんなところで会うなんて奇遇だなぁ」
赤毛のくるくるの髪に青い瞳。見た目はそれなりに整っているものの、この状況のせいでとんでもなく馬鹿っぽく見えるこの男は、アレクサンドラの婚約者マルセル・ロワリエその人だった。
(本当にオフェリー様と一緒に過ごされているのね)
「ええ、本当ですわね」
心の中では呆れつつ微笑んで応じれば、マルセルはふてぶてしく歪んだ笑みを浮かべる。
「アカデミーなどやめておけと言ったのに」
「……そのようなことを言われる筋合いはございませんわ」
「お前に求められるのは、社交と家のことだけだ。最高学府での研鑽なんてこの先の人生に不要だろう」
無意識のうちに、ぽきぽきと指が鳴る。
(マルセル様の頭がりんごに見えてきたわ。……いけない、お父様が悲しむわね)
アレクサンドラは上品な微笑みを湛えたまま、りんごを潰す想像を自重した。
ロワリエ侯爵家の次男である彼だが、実際のところロワリエ家の家計は火の車だ。アレクサンドラと婚約したことでリンドバーグ伯爵家から無期限・無利子の融資を受けることになったが、普段の言動を見るとマルセルはその意味をよく理解していないらしい。
自分は侯爵令息、アレクサンドラは伯爵令嬢、という家格がそのまま反映される縁談だと信じ切って疑うことをしない。
(まぁ、そんなところが私にとっては得だったのだけれど。だめね、いろいろ操りやすいからという理由で婚約者に彼を選んだ私が馬鹿にしてはいけないわ)
彼には当面の間、婚約者としてスケープゴートになってもらう。もしそのまま結婚することになっても、彼は次男だ。継ぐ家はなく、後継も必要ないだろう。
アレクサンドラはこれまで通り豪商リンドバーグ伯爵家の事業に携わり生きていくのだ。
(完璧な人生計画……!)
この先に待ち受ける勝利に、心の中で拳を握りしめたアレクサンドラだったが、意外な展開が待っていた。何も知らないオフェリーが二人のやり取りを見て、申し訳なさそうに首を傾げたのだ。
「マルセル様、もしかして私に対してもそのようなことをお考えなのですか」
「いっ……いや⁉︎ オフェリー嬢は彼女とは何もかも違うだろう⁉︎」
急に慌て出したマルセルを見て、オフェリーはぐっと唇を噛んだ。そして、アレクサンドラに真っ直ぐ向き直ると、ぎこちない仕草で膝を折る。
「アレクサンドラ様、申し訳ございません」
オフェリーが謝罪した瞬間、取り巻きの令息たちが息を呑むのがわかる。けれど、オフェリーは悲しそうな表情のまま続けた。
「私の友人がご不快な思いをさせてしまったと思いますので、今日はこれで失礼いたします」
「オフェリー嬢、こっ、これはその」
自分のせいでオフェリーがアレクサンドラに謝罪する事態となってしまったのだと理解したマルセルは真っ青になって言い訳を始める。
けれど、オフェリーは表情を変えなかった。それどころか、マルセルを睨むようにして声を震わせる。
「マルセル様は、私たちがどんな努力をしてここにいるのかわかった上でそうおっしゃっているのですよね。だとしたら、女性を軽んじていらっしゃるわ」
「ぼ、僕は別にその」
「アレクサンドラ様。不用意に声をおかけし、勉強の邪魔をして申し訳ございませんでした。皆、行きましょう」
オフェリーの一声で集団が歩き出す。その後ろをマルセルはおろおろしながらついていく。
思わず感心しつつ、アレクサンドラは微笑んで集団を見送ったのだった。
(上位貴族の令息に恥をかかせ、それでもなお厳しい態度を取り続けるオフェリー様はなかなか骨のある方ではないかしら)
アレクサンドラの婚約者を『私の友人』と呼んだことも含め、どうやら彼女はただの子犬――愛らしいプードルではないようだ。
一方で、オフェリーのことは見直したものの、大人しく彼女の友人に収まったマルセルに対しては腹が立つ。嵐をやり過ごしたアレクサンドラは、落ち着いた足取りでスッと書架の陰に入る。
そして、周囲に誰もいないのを確認し、小声で怒りをあらわにした。
「あの男があそこまで馬鹿だとは思わなかったわ……!」
バキッ。怒りに任せて拳を握ると、何かが折れた音がする。
「あっ⁉︎ せっかく修理していただいたばかりなのに」
手の中では万年筆が真っ二つに折れていた。
一人で生きていくために自分を鍛え上げた結果、握力ばかりがほんの少し強くなりすぎたのは自認している。そのため、こうしてたまに万年筆を折ってしまうのは日常茶飯事だった。
都度修理して使っているものの、その度に万年筆に対しては申し訳なく思っている。
「私は、マルセル様に文句を言うよりもまず自分の破壊癖を何とかしないといけないわね。人のことをとやかく言っている場合じゃないわ」
折れた万年筆を撫でつつ、制服の胸ポケットにしまったところで、誰かが吹き出すのが聞こえた。
「プッ」
「! どなたかしら?」




