5.絶対の男
「失礼いたします!」
「ああ、来たか」
「え?」
学長室にやってきたはずのアレクサンドラの視界には、なぜか煌びやかな執務室が広がっていた。
この学長室は、首席入学を告げられた時にも来たことがあるはずだ。だが、インテリアが完全に様変わりしていた。王宮にある調度品をそのまま運び入れたらしいこの部屋は、どこからどう見ても『王太子の執務室』と化している。
「何なのよ……ここ」
思わず本音を漏らすと、部屋の中央のソファに座っていたローレンスが片手を上げる。
「そろそろ君が来る頃だと思っていたんだ。でも思ったより遅かったかな」
「あの! いろいろ言いたいことはありますが……まずこの部屋は何なのでしょうか⁉︎」
「私の執務室だ。講義がある日はなかなか王宮に戻れないし、ここで執務を済ませられるように整えたんだ」
「なんですって⁉︎ そんな横暴を、学長が許すはずが……」
拳を握ったアレクサンドラの下の方から声がした。
「悪いねぇ」
「学長⁉︎」
この部屋の異常さにばかり目が行っていて気づかなかったのだが、なぜか学長がローレンスの足元に蹲っている。アレクサンドラは狼狽した。
「学長は何を……? 学長室をこんなふうに改造されてご意見はないのですか!」
問いかけると、学長は手に持っていた真っ黒い布とブラシを笑顔で見せてくる。それは端的に靴磨きセットだった。
「彼には在学中、研究で多大な成果を上げてもらっていてねえ。そのおかげで多額の補助金が下りたし、今でも配慮してもらっているんだ。彼には頭が上がらないよ、ははは」
そんなほくほく顔の学長に向け、ローレンスは呆れたように笑う。
「だからって、靴磨きまでする必要はないんじゃないか?」
まさかの礼儀を欠いた言葉遣い。
「いいえ。これくらいはさせてもらわないとね、ローレンス殿下」
まさかの学長側がごまをすっている。
アレクサンドラは、このアカデミーで一番偉いはずの学長がローレンスの靴を磨いている光景に衝撃を受け、礼儀を欠いた言葉遣いをしていることに耳を疑い、学長側が謙っていることに口をぱくぱくとさせるばかり。
これは無理だ。何をしても無駄だ。頼みの綱の学長はローレンスに顎で使われている。一方、靴を磨き終えた学長は立ち上がると穏やかに微笑むのだった。
「私の学長室は玄関横の守衛所を改装して作り直したから」
「玄関横? 格が低すぎませんこと⁉︎」
「用があるならそちらに来てもらえるかな? 首席入学のアレクサンドラ・リンドバーグ殿。申し訳ないけど、頼むねぇ、それじゃ」
「お、お待ちくださいませ⁉︎」
学長はニコニコとアレクサンドラの叫びを華麗に聞き流し、ローレンスに頭を下げて部屋を出て行ってしまった。
(何、今の……!)
もう何もかも意味がわからない。混乱するアレクサンドラをおいて、学長を笑顔で見送ったローレンスは、「そういうことだ」と言って笑う。
「十七歳で入ったアカデミーは退屈だったが、二十二歳で講師として来たアカデミーはなかなか楽しくなりそうだよ」
「……私は全く楽しくなくなりそうですわ?」
アレクサンドラは顔を引き攣らせるしかない。憧れだったアカデミーは、この男に乗っ取られてしまったようなものだ。
アカデミーは十七歳を迎えたものが入学できるようになっているが、逆に言うと十七歳を超えて試験を突破すればいつでも入学が可能だ。たとえば、アレクサンドラの婚約者マルセルなどは異国への留学を終えた後、二十二歳でアカデミーに入学している。
一方のローレンスは十七歳でアカデミーに入り、二十歳になる年に卒業した。
(だから在学期間が被ることがないと心から安心していたのに……!)
まさか彼が学生ではなく特別講師としてやってくるとは。完全に盲点である。アレクサンドラはわかりやすくうんざりとした視線を目の前の男に向ける。
「いい加減にしません? どうして殿下は私を執拗に追いかけるのですか?」
「うーん。面白いからだな」
「もう少し捻った答えをお願いできませんこと? そんなことでアカデミーの講師を務めることにしたなんて」
「それに、言っただろう。以前から誘いはあったと。これは私の判断だ」
「……」
その言葉には妙な重みと説得力があった。
となれば、これ以上「追いかけ回すのはやめてください」と言うのはお門違いなのだろう。彼はアレクサンドラにとっては陰湿な変態だが、多くの人々にとっては完璧な王太子だ。その彼が、何の理由もなくこんな行動を取るはずがないのはわかる。
(そもそも、婚約者がいる私に執着しなくても、彼にはいくらでも婚約者候補がいるはずだわ。その中には彼に相応しい令嬢もいるはずなのに)
彼が自分の頭脳を王太子妃候補として買ってくれているのはわかるが、ここまで追いかけてくる意味がわからない。
(正直、個人的な感情をまったく入れず、国を支えるためだけの結婚をしようとするこの男の考えは嫌いじゃない。むしろ好感度が高いし、一国民として感服するけれど)
そんなことを考えていると、ローレンスは徐に切り出す。
「君の婚約者。ロワリエ侯爵家のマルセル殿だったか」
「はい」
「あれは、本当にきちんと身辺調査をしたうえで婚約者にしたのか? 君らしくないな」
「……!」
その指摘は正直痛いところだったが、アレクサンドラは落ち着いて応じる。
「――ロワリエ侯爵家の次男。家柄はうちより格上ですし、何より、私が結婚後に事業を続けることを許可してくださるそうです。私には充分なお相手ですわ」
「それなら、オフェリー・バティーユという学生を知っているか? 君と同じ女子学生の」
「はい。入学式の後にご挨拶をしましたけれど」
入学式後、無邪気に話しかけて来た子犬のような令嬢を思い出す。吠え方が少し変わっていたが、このアカデミーに通い続ければ自然となじむことだろう。
「マルセルは彼女と一緒に行動しているようだ」
「……専攻が同じなのでしたらそういうこともあるのでは?」
「数度見かけたが、ただの学友とは思えない距離だったぞ」
「何も知らず婚約したわけではありませんから」
オフェリーと親しいのは初耳だったが、マルセルの女性関係が派手なことは知っていた。留学先でいろいろあったことも聞いている。
それでも彼を選ばなければいけなかったのは、自分の性格と、最終的には目の前のローレンスのせいだと言っていいのではないか。不満を飲み込んで表情を変えないアレクサンドラの耳元で、ローレンスが囁く。
「君をあんな男に渡すつもりはなかったんだが?」
「――!」
不覚にも心臓が跳ねる。それを何とか押し隠したアレクサンドラは、皮肉めいた笑みを浮かべるのだった。
「ご忠告、感謝いたしますわ。ですが私には私のやり方があります。何より、私はアカデミーへは学ぶために来ているのです。お忘れなきように」
「わかった。君へは一講師として接することにしよう」
意外にもローレンスはあっさり折れてくれた。しかし、急に声音を変える。
「だが君も約束してほしい」
見上げれば、真剣な表情をしたローレンスがいた。
「毎日変わったことがないか報告に来てほしい。そうしてくれれば、必要以上に話しかけたりしない。学生の間に私たちに関する噂が回らないよう配慮もしよう」
「なんですって?」
思わぬ交換条件に、アレクサンドラは難色を示す。そもそも、毎日ここで会っていたら少なからず噂になってしまうのではないだろうか。けれど、ローレンスの面持ちに押されて、思わず頷いてしまうのだった。
「……わかりましたわ。そんなことでこの噂を消してくださるのでしたら」
「いい子だ。とにかく、何か変わったことがあったらすぐに私のところへ来ること」
間髪をいれず念を押した彼の表情は、自分を揶揄うときのものではなく、王太子としてのものだった。




