45.オフェリーの焦り
その日。オフェリーはくたくたに疲れ切った状態でバティーユ男爵家へと戻った。
使用人の出迎えを形ばかりの笑顔でかわし早足で自室へと戻ると、乱暴に扉を閉めた。すぐに、部屋で帰りを待っていたらしい弟が声をかけてくる。
「お姉ちゃん? おかえり。どうしたの? そんなに慌てて」
「ティム」
オフェリーは弟を勢いよく抱きしめた。
「どうしたの? 顔色が悪いみたいだけど、疲れたの?」
「ねぇ。誰か今日家を訪ねてこなかった?」
「ううん。誰も来ていなかったみたいだけど」
「そう」
オフェリーは小声で応じると、ため息をついてベッドへと腰を下ろした。
弟に言われた通り、自分の顔色が悪いのはわかっている。今日起きた事件のせいだ。今だって、手が震え、足も震えて、平常心を保つのがやっとの状態だ。
この状態でアレクサンドラから決定的な追及を受けず、帰ってこられたことが奇跡のようだ。
オフェリーの様子を見ていた弟は眉間にしわを寄せた。そしてひどく心配そうな表情で問いかけてくる。
「お姉ちゃん、もしかしてあの不審な紳士の訪問を怖がってるの?」
「ティムはそんなことを考えなくていいのよ」
「だっておかしいよ。あの変な人が訪ねてくるようになってから、お姉ちゃんの様子はおかしいじゃないか。今日みたいに慌てて帰ってきたり、上の空だったり、もしかして僕のために何か悪いことをしてない?」
「そんなことするわけがないでしょう? 気にしないで。今日は本当に疲れちゃっただけなの」
オフェリーはそう伝えると、ベッドから立ち上がりクローゼットを開ける。クローゼットの中には、アルバイト先で購入したドレスがたくさん掛かっている。どれも孤児だった頃には絶対に手に入らなかった、高級品だ。
後ろからティムが心配そうに覗き込んでくる。
「お姉ちゃん。僕、別にバティーユ男爵家にいたいわけじゃないよ。無理しなくてもいいんだよ? また二人でどこかで暮らそうよ。この家の人たちにはもしかして迷惑をかけちゃうかもしれないけど、でもそっちの方が幸せだよ。ねえ」
気遣わしげな表情を浮かべる弟を、オフェリーはもう一度抱きしめ直した。そうして、決意を固める。
(やっぱりだめ。絶対にティムは私が守るんだから)
今日のアレクサンドラとの予定は、もともと仕組まれていたものだった。アカデミーを卒業目前に控え、オフェリーに情報の提供を依頼している男たちが、どうにかしてアレクサンドラを劇場に連れてきてほしいと言い出したのだ。
それを聞いて、オフェリーは直感した。彼らは国立劇場の貴賓室へアレクサンドラを案内し、観劇中場内が暗くなっている最中に、彼女を攫う手はずを整えているのだ、と。
けれど、ここで自分が止めても、彼らの計画に影響を及ぼすことなんてできるはずがない。自分だって、彼らの駒の一つでしかないのだ。しかも切り捨てて消される末端のほうである。
恐らく計画が予定通りうまく行ったとしても、表向きアレクサンドラはオフェリーに誘われて出かけたことになっている。そこで自分がトカゲのしっぽ切りに遭っておしまいのはずだ。
(もともと、恩人を差し出すつもりもなかったけれど。とにかく私は予定を変更することにした。アカデミーの中には、きっと私の他にも複数の間諜がいる。だから予定通り観劇には誘った。待ち合わせ場所だって言われた通りにした)
命令に背いたのはその先だ。もともと、時間になれば劇場内に入り、貴賓室に向かって開場開演を待つだけのはずだった。
けれど、オフェリーは目立たない馬車を一つ用意した。馬車には御者に見せかけた護衛をつけ、もし万一があっても対応できるようにした。
その馬車にアレクサンドラと二人で乗り、劇場とは反対方向へと繰り出した。街で過ごす一日はすごく楽しくて――もし、自分が普通の貴族令嬢として生まれて、彼女の友人になれていたら、こんな毎日が待っていたのだろうかと夢見てしまうほどだった。
もちろんそれはただの夢に過ぎないことは十分に実感した。けれど、心から楽しくそしてアレクサンドラは模範的な淑女だった。幼いあの日に自分を救ってくれた高貴な令嬢がそこにいた。
身のこなしも、考え方も、発言も何もかも、オフェリーが憧れて止まないその人のものだった。今日一日、この人を貶めてきた自分を何度腹立たしく思ったことだろう。
しかし、夢のような時間は一瞬で壊された。男たちに裏切ったことを悟られ、馬車が襲われたのだ。すぐに警察が気がついて、制圧に動いてくれたのは助かった。
でなければ、オフェリーは一人であの馬車を降り、アレクサンドラを守るために何でもしていたことだろう。
(もしこの計画が成功して、後日男が家に訪ねてきて問い詰められたら、アレクサンドラ・リンドバーグ嬢が予想を超えたわがままで、観劇など嫌だと言い出したと言い訳するはずだったのだけれど……ちょっと甘かったわね)
警察が男たちを一瞬で制圧してくれたおかげで、オフェリーは今日捕まった男の中に自分に命令を持ってきていた不審な男が入っているのかがわからない。
事前の打ち合わせの口ぶりでは、男は自らアレクサンドラを拉致する側として参加するという話だった。ならば、彼は警察に捕まっているはずだ。
(でも証拠がない。どうにかして確かめられたらいいんだけど、どうやって?)
オフェリーは弟を抱きしめる手を緩めた。
「明日はアカデミーの卒業式なの。もしかしたら、ティムがいう通りこの家を出ることになるかもしれない。それでもいい?」
「うん、もちろん。この家、居づらかったし」
ずっと居心地悪そうにしていた弟の初めての本音。けれど、本音でありながら気遣いも感じる。
「少し予定が早まるだけだから。でもお姉ちゃんこの先のことをちゃんと考えてるから大丈夫だよ」
「わかってるよ? でも無理はしないでね」
頷かずに微笑んだ。元から、男爵家に収まることには強い忌避感があった。本当はアカデミーに在学中、国家機関の採用試験を受けて就職してしまいたかった。しかし、それはバティーユ男爵が手を回したため叶わなかった。
うちにはアカデミーで成績優秀なオフェリー・バティーユがいるから安泰だ、と社交界で広めたため、オフェリーは決定権を持つ最終面接を受けることが叶わなかったのだ。
(だって、男爵の意に背いたら、アカデミーを退学させられる可能性があったんだもの)
それに、アレクサンドラの価値を落とすという計画も関係した。最初はうまくいっていたのだが、講師を務める王太子ローレンスが体調を崩したことがあった。それをきっかけにアレクサンドラとローレンスが親しいことを知り、自分の計画は実現し得ないことに気がつく。
アレクサンドラをひどく貶めた自分を、ローレンスが許すはずがないからだ。その結果、オフェリーの目標は事業を起こすことに決まった。
(明日、アレクサンドラ様を大勢の前で貶めれば、きっとローレンス殿下から男爵にお咎めがあるはず。そうしたら、おしまいだわ)
けれど、悪いことばかりではない。アカデミーを出たら、今のアルバイト先に頼み込んで正式な社員として修行を続けるという方法もある。
あの店のオーナーは若い令嬢という噂だが、相当な切れ者だという話だ。さすがにアレクサンドラ・リンドバーグには及ばないだろうが、処世術を使って自分の実力を認めてもらい、一つ店を任せてもらうのもいいのではないか。
(まぁ。それも、明日を無事に乗り切れたらなのだけれどね)
オフェリーは硬い表情で今日着ていた新作のドレスを脱ぐと、クローゼットの扉を閉めたのだった。
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