39.りんごと脅しと
目が覚めた瞬間、慣れた場所にいると直感でわかった。
(ここは――学長室?)
目の前に暖炉の炎がある。パチパチと揺れる炎は、資料庫でひどく待ちわびたものだ。
頭だけを動かして周囲の様子を窺う。どうやら今自分が寝ているのは、普段応接スペースに置かれている大きなソファーらしい。それを暖炉の前に移動し、横たわる自分には毛布がかけられている。
「気がついたか」
低く落ち着いた声がして、心臓が止まるかと思った。けれど、努めて冷静に振る舞う。
「……ローレンス殿下。お手間をおかけして申し訳ございません」
「医師を呼んで診察をさせた。体温が下がりすぎたようだが、異常はないそうだ」
「シリル様は?」
そう言いながら体を起こす。気を失う前、彼が自分を揺り起こして眠らせないように必死だったことは覚えている。
「大丈夫だ。彼の方が体力があったようで、少し温まってから帰った。ここに同席したくないとか何とかで」
「……」
シリル・ブランドナーは本当にぶれがなさすぎる。こんな状況下でも、ローレンスへの気遣いが完璧すぎる彼に内心舌打ちをした。
学長室の扉が開き、ホットミルクを持った侍従が入ってくる。彼の顔は王宮で見たことがあった。
「信頼できる者以外、人払いをしている」
「……なるほど」
ローレンスの言葉で、資料庫に閉じ込められたのはただうっかり鍵を閉められたのではないと察する。自分たちの行動は、帳簿を改ざんし不正を働いていた人間の逆鱗に触れたのだろう。
(一年と少し、私たちはこの話題を全く口にしてこなかったわ。今日はそれ以来、初めて動いたはずだったのに)
ホットミルクを受け取ったアレクサンドラは、ローレンスに問いかける。
「シリル様から何をお聞きになりましたか?」
「アカデミーに関わる不正な会計を卒業前に再調査しておきたいということ。一年前に私から釘を刺されて以来、この話題を口にしたのは今日が初めてだったということ。資料庫に向かうまでに一人の講師に呼び止められたということ、だな」
「つまりそのときにお会いした先生が怪しいと?」
あえて名前を出さずに問いかけると、ローレンスは困ったように首を振った。
「残念だが、彼は君たちに声をかけた後、講師用の談話室で資料庫に残っている学生がいるから鍵をかけないようにと他の講師陣に注意をし、そのままアカデミーを出たらしい。だから彼は違うだろうな。シリルも彼のことは信頼していて、マルク先生に限ってそれはないと庇っていた」
「虫も殺せないような穏やかな先生ですものね……」
寝癖頭の会計学の権威、マルクの顔が思い浮かんだ。一連の事情と、かわいがっているシリルをこんなひどい目に遭わせるはずがないというのも手伝い、彼は容疑者から外れる。
けれど、ローレンスは今回の事故が故意で、重大な事件にあたるものだと思っているらしい。正直、アレクサンドラもその意見には同意する。
きっとその人物は長い間不正を働いて、どこかに巨額の資金を横流ししてきたことだろう。その先がローレンスの想像通りだとしたら、見つかれば間違いなく死刑だ。だとすれば、事故に見せかけて二人を消してしまおうと考えたのも無理はない。
アレクサンドラは恐ろしさで震えることはなかった。しかし、代わりに怒りで体が震えていた。
「人の命を一体何だと思っているのかしら? 信じられないほど寒かったのよ? 無事に資料庫を出られたら、極暖仕様の制服を開発してアカデミーに売りつけようとまで構想してしまったわよ!」
「君は本当にたくましいな」
「シリル様にも資料庫でずっと言われていましてよ。その褒め言葉、今日の分はもう聞き飽きましたわ」
ふんと鼻を鳴らせば、ローレンスは笑った。いつもはここで声をかけて快活に笑うのだが、今日は息を漏らすような、心底ほっとしたような笑みだった。
「リンドバーグ伯爵家の迎えが別室で待機している。目覚めたことを知らせて送ってもらえ」
「ローレンス殿下」
アレクサンドラは声音を変えて、ゆっくりと問いかけた。
「私に何か隠し事をしていらっしゃいませんか?」
「何のことかな?」
穏やかな笑みで応じられると、さらに違和感が募る。これは、この男が距離を作るときの笑いだ。間違いなく本当のことを言っていない。
確信したアレクサンドラは、サイドテーブルに置いてあったりんごを一つ手に取る。甘酸っぱい香りが鼻をくすぐった。
このおいしそうなりんごを、普通の令嬢は皮を剥きフォークを刺してもらってから食べる。けれど、アレクサンドラが食べる場合、ナイフもフォークもいらないことがある。
「どう考えてもおかしくってよ。入学したときからずっと思っていたのですけれど、アカデミーの警備とはこんなに厳重なのでしょうか? もちろんあなたがここへ通っているからというのはわかっております。それに、あなたの手の人間が私に張り付いているのはどういうこと?」
「今回の資料庫にはついていけなかったみたいだな。何しろ長すぎる廊下の一本道だったから」
「ふざけた回答はいい加減にしてくださいます? 私は本当のことが知りたいのですわ」
りんごを掲げて首をかしげると、さすがのローレンスも観念したようだった。
「わかった。病み上がりでそれはやめてくれ。話す。話すから」
「ご理解くださってありがたいですわ」
アレクサンドラはりんごを置いた。本当はこの状態でりんごを一口サイズに握りつぶすことなどできるはずがなかったのだが、普段の振る舞いがよく効いていたらしい。
ローレンスは横に置いてあった一人掛けのソファーに腰を下ろすと、鷹揚に話し始めた。
「――アレクサンドラ・リンドバーグを狙う勢力があると聞いている」





