36.極秘調査
シリルの担当講師ではあるものの、昨年のアカデミック・ソワレで、アレクサンドラも彼に声をかけられた。
その際に自分の講義を受けてみないかと誘われたものの、すでに知っている分野であることに加えてなぜか不思議と気が進まず、二年生でも彼の講義は受講していなかった。
「この先に何か用かい? この先には資料庫しかないけれど」
「はい、卒論に使用する資料で、いくつか確認しておきたいデータがありまして」
シリルは完璧な笑顔を浮かべ、そつのない回答をする。嘘をついているが、やろうとしていることを考えればこの答えが最良だろう。するとマルクは不思議そうにするのだった。
「卒論に使用する資料? もしよかったら僕の方でも調べようか? 一緒について行くよ」
「いえそれは結構です。この通り今日は手伝いも依頼していますし」
その言葉で、アレクサンドラは淑女の笑みを浮かべたままマルクに向かって会釈をする。それを見たマルクは、なぜかまだ食い下がるのだった。
「資料庫には暖房がついていないから、今日この時間からではひどく寒いと思うよ。それに明日は週末だ。こんな遅い時間に行くのではなく、また週明け、日を改めて行ってもいいんじゃないかな?日中の方がきっと暖かいし」
「ご心配ありがとうございます。ですが、どうしても今日行っておきたくて」
シリルがそう答えると、マルクは学生二人に託すことにしたようだ。
「そこまで言うのなら仕方がないね。資料庫に行くことは誰かに伝えてある?」
「いいえ」
「そう。一応、他の先生に誤って鍵をかけないよう言っておくよ。とにかく寒いから気をつけて」
「感謝いたします」
マルクに見送られてアレクサンドラとシリルは資料庫のある別棟へと足を踏み入れた。そしてすぐにマルクの警告が正しかったことを認識する。
「嫌だわ、確かに寒いわね。普段はなかなかここまで来ないからわからなかったわ」
「大体の資料は、図書館に置かれていますからね。資料庫にあるのはアカデミー絡みのものが多い。いくら成績優秀者が自由に立ち寄りを許されているとはいえ、あの中の資料に興味を示すのは、アカデミーの歴史を研究する学生か私のように内部の不正を暴きたいという人間くらいでしょう」
そんな会話をしながら長い廊下を歩いていく。いつのまにか、外には雪がちらつき始めていた。冬用の制服を着ているものの、はっきりと寒い。
(コートを着てくるべきだったかしら)
そんなことを思いながら、アレクサンドラはシリルに問いかけた。
「マルク先生って不思議な雰囲気を持っていらっしゃるわよね」
「そうですね。マルク先生の講義は少し面白いところがあるんですよ」
「会計の講義でそんなに具体的な違いが?」
思わず驚いてしまう。アレクサンドラにとって会計とは、それぞれの事業の売り上げの数字を管理するものであり、たまに目にする論文も数字から派生したものが多い印象だった。
目を丸くすれば、シリルは楽しそうに教えてくれるのだった。
「一年次の講義で、一種の踏み絵のような内容の講義があるのです。そこに異を唱えると先生に目をかけられる。私もその件について先生と何度か議論を交わし、今の立場を得ることができました」
「へえ。資質に応じて教えの内容を変える先生ですか」
そこでちょうど資料庫にたどり着いた。古びた重い扉には、鍵穴が二つ。
アレクサンドラも、以前ここを利用したときに聞いたのだが、一つは成績優秀者や講師たちに配られる管理用のもの。もう一つはアカデミーでしか使用できない特別な鍵用のものということだった。
後者の鍵は長期休みの時にのみかけられる。その鍵は一部の先生だけが持っているらしいが、アレクサンドラはそれがどこにあるのか誰が持っているのか聞いたこともない。
シリルは鍵を取り出して鍵穴に入れ、ぐるりと回す。すると、がちゃりと音がして、古く重い扉の向こうで鍵が開いた気配がした。
「開きました。入りましょうか」
「ええ」
二人は扉の中に吸い込まれていった。
資料庫に連れてこられたのは、資料を精査し、その中で怪しいものをシリルに見せるためだというのはわかっていた。元々、アカデミーで開講されている複数の分野への造詣が深くなければ、今回のような帳簿のおかしさは一目では見抜けない。
ある程度教養があり、帳簿も読み解け、今回の件に対する怪しさも理解しているアレクサンドラは、シリルにとって格好の片腕になるのだった。
加えて、いくら成績優秀者とはいえ資料庫に頻繁に出入りしているとなると、どこかにいる内通者に行動を怪しまれる可能性がある。仮にそうなった場合が非常に面倒だ。
背後に潜む組織の大きさと得体の知れなさを考えれば、ローレンスが危惧していた通りこの件に勘づいている者たちの身に危険が及ぶ可能性もあるのだから。
そういった側面からも、調査時間を短縮するためシリルがアレクサンドラに助けを求めたのは当然だった。
「今のところ、三年前まで遡って見ているけれど、機密費の行き先がわからないのは変わらないわね。しかも、同時期に行われた全ての研究成果と照らし合わせないといけないから、想像以上に時間がかかるわ」
資料庫にやってきて一時間ほど。冬は日が落ちるのが早い。ここへ来たときに入り口の窓から差し込んでいた西日はもうなくなっている。今、広い書庫を照らしているのはオレンジ色の人工的な明かりだ。
その中で白くなった自分の息を見つめながら、アレクサンドラは新しい資料を手に取った。それを確認したシリルは制止しようとする。
「思ったより暗くなるのが早かったですね。しかも日が落ちるとさらに寒くなる。今日はここまでにしてまた改めましょう」
「せっかく来たのだから、もう少し調査して行ったほうがいいわ。何度も来られるわけではないでしょう」
素直に応じずに居座ろうとすれば、シリルは呆れ顔だ。
「……あなたは本当に頑丈なお人ですね。ローレンス殿下がそこまで肩入れされるのも納得してしまうというか」
「王太子妃になる気はないと未来の上司に言っといて……っくしゅん!」
出世が最優先すぎるシリルに剣呑な視線を向けつつ、アレクサンドラは思わずくしゃみをした。手がすっかり冷え切っている。それを見ていたシリルが立ち上がった。
「やはり今日はここまでですね。リンドバーグ伯爵家のご令嬢にお風邪など引かせてしまっては母に叱られます」
「……」
ブランドナー侯爵家が社交界に大きな影響力を持ち、そして彼の母親が絶大な権力を持っている事は知っている。となれば、アレクサンドラも従わないわけにはいかないのだった。
「わかりましたわ。今度また改めて参りましょう。一回で済むように、私の講義がない日を選んで」
「はい」
二人で資料を書架に戻し終え、入り口の方へと戻る。この資料庫は、わざわざ古い別棟に作られているだけあって、歴史があり広く天井が高い。漂う本の匂いはぴかぴかの図書館とは違うものだ。きれいに改装されている図書館と比べて、歴史を色濃く残すこちらの建物の方が風情がある。
アレクサンドラが研究する分野では、なかなかここに出入りする事はなかった。シリルに連れてきてもらう機会があったことに感謝する。
少し歩いてやっと入り口まで戻ってきた二人は扉に手をかけた。
「……ん?」





