32.完璧な令嬢との出会い
(えっ……?)
自分の身に何が起きたのかわからない。背中が痛くて、息が苦しい。どうしてこんなことになっているのだろう。困惑するオフェリーの背後から、少年の声がした。
「この泥棒! 修道院で施しを受けているのにまだ足りないのか? これに目をつけるなんて、卑しい存在のくせになかなか見る目を持っているじゃないか」
「違う、私は……痛い!」
慌てて、さっきそこで拾ったのだと弁解しようとする。けれど鋭い痛みが右手に走った。ピンク色のドレスの少女が、ヒールを履いた靴でオフェリーの手を踏みつけたのだと理解するまでに数秒かかった。気がついたときにはもう逃れられない。
「早く返しなさいよ。それはあなたが触れて良いものではないわ。触れただけで価値が下がる。もう、お母様になんて言ったらいいの?」
「痛い! お願いやめて!」
オフェリーの悲鳴が修道院の庭に響き渡る。
庭にはボランティアに来ている貴族令嬢や、食事をもらいに来ている人々が大勢いるが、誰もこちらに視線を向けようとしない。
恐らく貴族令嬢たちはこのトラブルに関わりたくないし、一方、施しを受ける側はオフェリーを助けて彼らの反感を買いたくないのだろう。
「お姉ちゃん! お姉ちゃんを放せ!」
五歳の弟ティムが、馬乗りになっている少年に掴みかかる。けれど力の差は明白で、ティムはいとも簡単に投げ飛ばされ、地面に転がされてしまった。
「うっ!」
辛そうな悲鳴の後、ティムが咳き込むのが聞こえてくる。
「……っ、ゴホン、ゴホン、ううっ……」
「ティム!? 弟に何をするの!? 早く放して! 私は盗みなんてしてない! ただこのブローチを拾っただけよ!」
叫んでも無駄だった。背中にのしかかっている少年は全く退いてくれないし、手を踏んでいるピンク色のドレスの少女は、オフェリーの手から靴を離してくれない。
手の甲が赤黒く腫れていく。確かに痛いが、それ以上に弟の方が心配だった。けれど、事態はオフェリーが望まない方向へと進んでいく。
「施しを受ける分際で盗みをするなんて、警察に届け出ないとダメね」
「あぁ。この女はすぐに牢屋行きだ。そこのボロ雑巾みたいな子供はどうするかな?」
「修道院に保護してもらえばいいと思ったけど、ここにボランティアに来るたびに盗みをした女の弟の顔を見るのは嫌だわ。その辺に出しておけばいいんじゃない? 誰か連れてってくれるわよ」
(そんな!)
お姫様のような少女が平然と言い放った言葉に、オフェリーは青くなった。
このままでは弟を守れない。弟は体が弱いのだ。得体の知れない人間に拾われ、奴隷としてこき使われたら、間違いなく死んでしまう。
「お願い、やめ――」
涙交じりの悲鳴が二人の罵声にかき消されそうになったところで。
「――何をしていらっしゃるのかしら?」
それは、これまでに聞いたことがないほど凛として、美しい声だった。
まだ子供の声だ。けれど、聞いているだけで背筋が伸びるほど、気高く澄み渡っている。
「いや、これはその……こいつが悪いんです。姉のブローチを盗ったりするから」
救世主の登場で、オフェリーの背中に乗っていた少年が慌てて退いた。背中が軽くなって、体の自由が戻ってくる。恐怖で涙が流れていたが、背中と右手が痛むのをこらえて、そばで倒れている弟の元へと駆け寄る。
「ティム、大丈夫?」
「……っ」
ティムは倒れたときに砂埃をたくさん吸ったらしく、苦しそうに肩で息をしている。
(どうしよう。具合が悪いみたい。どうしよう!)
「これを」
凛然とした迷いのない声に、オフェリーは思わず顔を上げた。
美しく整えられたブルネットの髪。整った顔立ちににじむ、意志の強そうな眼差し。黒と真紅を基調としたドレスは、宝石箱のような貴族令嬢たちの中にあっても、最も洗練されていて目を引く。
オフェリーが思わず見惚れてしまったことに気がついていない彼女は、もう一度言った。
「早くこれを飲ませてあげなさい。苦しさが和らぐわ」
「は、はい!」
二度目の言葉で、やっと声が出た。と同時に、どうやら彼女は薬をくれたらしいと認識する。自分の薄汚れた手のひらに置かれた丸い薬。この薬は、母が生きていた頃、たまにどこからか入手していたものと同じだった。
(よかった……!)
これでティムの苦しさは収まるだろう。
弟に薬を飲ませてやれば、彼女の背後で控えていたお付きの人間がガラス製の水筒を差し出してくれた。中には水が入っている。
(これは水筒? 見たことがない)
使い方がわからずぽかんとしたオフェリーに、彼女は気がついたようにして膝をつき、ガラス製のグラスに水を注いで差し出してくれた。ひとつひとつの動作が完璧に美しく、息をするのも忘れてしまいそうだ。
そして、ドレスの膝が汚れているのに全く気に留めていない。そうして手渡されたグラスを、弟ティムは目を丸くして見つめた。それをごくごくと飲む。
「もう苦しくないよ」
「よかったぁ」
心底ほっとすると、涙がこぼれる。よかった。弟を守れないかもしれないと思った。
「お姉ちゃん」
「ティム」
「僕よりもお姉ちゃんの方が痛そうだよ。大丈夫?」
二人で抱き合っていると、彼女が背後でスッと立ち上がる気配がした。そして、オフェリーたちを酷い目に遭わせた二人に声をかける。
「あなた方は、ポメロイ子爵家のお二人かしら?」
「はっ……はい……その」
「奉仕活動のために修道院を訪れたはずなのに、この様は何なのかしら?」
「ち、違うのですわ」
ピンク色のドレスを着た少女は、さっきまでとは明らかに顔色が違っている。目を泳がせてしどろもどろな様子だ。しかし、オフェリーたちを助けた令嬢は淡々と続ける。
「そのブローチ。私がここに遅れて到着してあなたから挨拶を受けたとき、もうすでに身に付けていなかったけれど?」
「えっ……そんなはずは」
ポメロイ家の令嬢は蒼い顔をして目を泳がせている。一方の弟は姉のピンチに何か物言いたげだ。しかし、凛とした令嬢の勢いは弱まらない。




