29.婚約破棄を迫る理由
「これから課題を出す。二年生の上半期の山場にあたるレポートだ」
特別講師であるローレンスの言葉に、教室の中は一瞬で緊張に包まれ、その後ざわついた。
「噂で聞いてるアレだよな。一年生の時に身に付けた知識をフル活用して論文形式で発表するっていう」
「アカデミック・ソワレでも似たようなことをしたけど、一人でやった人間なんてほとんどいない。あれを一人でやるとなるとかなりハードだ」
そんな声があちこちから聞こえてくる。ローレンスは、それすら予想していた反応だったらしく、いつも通り、アレクサンドラからすると、非常に性格の悪そうな笑みを浮かべていた。
「テーマには制限を設ける。資料や研究材料はこのアカデミーの中にあるものにすること。それぞれの環境によって左右される資料やデータについては使用を禁止する」
なるほど、アカデミック・ソワレとは違い独自の研究は求めておらず、本当にアカデミーで学んだ知識のみを活用して、論文を書けということなのだろう。
一年生の時に身に付けた知識の確認という意味でも、このレポート課題はテーマに矛盾しない。面白そうな課題だと思えた。
(どんなテーマにしようかしら)
そんなことを考えていると、いつもの鈴の音のような声が教室に響く。
「ローレンス先生。このような制限が設けられたのは、これまでの試験内容やレポートの内容に不正が認められたからでしょうか?」
甘ったるい声でとんでもないことを言っている。彼女のかわいらしさにかき消されて皆が気づいていないが、これは明らかにアレクサンドラを念頭に置いた発言だ。
後ろ暗いところなど一つもないので好きに言わせておけばいいが、正直呆れはする。すっかり脱力するアレクサンドラだったが、ローレンスはきっぱりと言うのだった。
「いやそれはない。これは伝統的なレポートだ。十年前も百年前も、二年の最初のレポートはアカデミーで学んだことのみを使用することになっている」
「そうなんですかぁ」
オフェリーは不満そうだ。しかし、続くローレンスの言葉に顔色が変わることになった。
「だが、アカデミーで得た知識には、講師陣も入るぞ。存分に質問をしに来なさい」
教室が、さっきまでとは違った意味で浮き足だった気がした。
「……今日の報告は無理ね。仕方がないわ、こういう日もある、帰りましょう」
学長室の前。銅像に隠れ、学長室から出てくる学生たちの姿を見ていたアレクサンドラはうんうんと頷いた。顔が自然と緩んでいると言われれば、否定はできない。けれど、これは降って湧いた幸運に違いないのだった。
ローレンスが存分に質問しに来いと言ったのは、今日の午前中のこと。
それ以来、この学長室兼王太子の執務室を、大勢の学生がひっきりなしに訪れていた。こうなってしまっては日課の報告ができない。仕方がない。どんなときだってこういう日はある。
しかし一つだけ言うなら、今日はなんていい日なのだろう。アカデミー名物のレポート課題に心から感謝をしつつ、アレクサンドラは学長室を離れた。
馬車留めへ向かうため学園のロビーを通ると、オフェリーとアレクサンドラの婚約者であるマルセルがいることに気がつく。二人は立ち話をしているようだった。
(あの男……!)
アカデミックソワレの夜会でエスコートしてくれなかった恨みはまだ消えていない。しかし、普段は話す機会もないし、そもそも向こうはアカデミーでめったに見かけないため不満を伝える機会がないのだった。
素行が悪いという噂はよく聞いているから、遊び歩いている結果なのだろう。いつもは無視するところなのが、今日は一言遠回しの文句でも言ってやろうかと思い、一歩踏み出したところで。
「早く婚約破棄をなさってくださいね。そしたらもう少し考えて差し上げなくもないです」
「本当ですか? オフェリー嬢」
あろうことか、オフェリーはマルセルに婚約破棄を迫っているのが伝わってきた。しかし、この会話になった経緯を推測すると、おそらくマルセルはオフェリーに交際を迫り、オフェリーは婚約者がいる男性には応じられないと返答したのだろう。となると、悪いのは圧倒的にマルセルのほうなのだった。
(彼。リンドバーグ伯爵家との婚約を解消したら、侯爵家がどんなことになるのかわかっていないみたいね……)
婚約者が想像以上に馬鹿だったことに脱力しつつ馬車に乗る。ふと、マルセルと一緒にいたオフェリーの顔が思い浮かんだ。
皆の前で、自分を不正入学だと匂わせ、かと思えば、その策に乗って援護射撃をした取り巻きの子爵令息を冷たい目で見る。それでいて、『アレクサンドラよりも賢い令嬢』になりすまそうとする。そしてさっきは、自分の婚約者に婚約破棄を迫っていた。
(一体、リーちゃんは何をしたいのかしら?)
ただ単にアレクサンドラ・リンドバーグが気に入らず貶めたいのだ、と片付けてしまえばそうなのかもしれない。けれど、間違いなく彼女は馬鹿ではない。
だとすると、この一貫性のない行動は何なのだろうか。
しかし、レポートと今進行中の事業のことを考えれば、オフェリーと婚約者のことなどすぐに頭の中から消えたのだった。




