19.もうひとりの才女
その頃、バティーユ男爵家。
「オフェリー様、おかえりなさいませ」
屋敷に戻ったオフェリー・バティーユは出迎えの執事の言葉にいつも通り無邪気で愛らしい笑みを浮かべた。
「ただいま戻りましたわ。この後アカデミーの課題に取り組みますの。しばらく一人にしていただけますか?」
「いつも熱心でいらっしゃる。何か軽食をお持ちしましょう」
「ありがとうございます。では、私はいいので弟に――ユーリに何かお願いできますか?」
「……承知しました。すぐに準備します」
少しの間の後、執事は変わらない笑みを浮かべた。それを見て内心ほっとする。
「ありがとうございます」
努めて健気な笑顔でお礼を言ってから、階段を登り自室へと向かう。
オフェリーがバティーユ男爵家にやってきて、二年。初めて訪れたとき、この屋敷は夢のような場所だと思った。古いもののきれいに保たれた屋敷は、歴史を感じさせ清潔で暖かかった。
自分がなぜこの家の養子になれたのかはよく理解している。男爵はこの家に頭脳を欲しているのだ。この家には子供が三人いる。オフェリーより年上の男子が二人と年下の少女が一人だ。
兄にあたる二人は、本来ならこのアカデミーを卒業しているはずだった。しかし彼らは試験に落ちて入学が叶わなかったらしい。男爵が高額な費用を払い、優秀な家庭教師をつけたのにもかかわらず、補欠にかすりさえもせずに落ちたのだという。
しかしそれは周囲にしてみれば、さもありなんという惨状だったらしい。普段の振る舞いからも、この家の子供たちがアカデミーへ行き領地を経営するなど、想像できない有り様だったのだ。
男爵はこの家の未来を悲観した。そして、行きつけの商会で優秀だと評判だったオフェリーの身寄りがないことに目をつけ、養子に迎えた。
どうやらオフェリーはこの家に一生を捧げるために買われたらしい。そうすれば衣食住は保証されるし、一生生活に困ることもない。けれど、その代わりに自分は一生外に出ることができない。
野心があり、何かに成り代わりここまで成り上がってきたオフェリーにとっては、受け入れ難い未来だ。だから、アカデミーにいる間に能力を認められ就職先を見つけるか、事業を起こす算段をつけるしかないと思っている。
(あのドレスショップは、箔をつけるのにぴったりね。貴族令嬢がお忍びで経営しているという噂。ちょっとそれっぽく振る舞うだけで私の実績になる)
別に、本当の実績など必要ない。皆がそうだと思えば本当のことになる。これまでのハードな人生で、オフェリーは自分が生き抜くための術としてそれをよくわかっていた。
そんなことを考えつつ、二階に上がってすぐのところにある自室の扉を開けると、正面のベッドに寝ている少年がいる。カーテンは閉まったままだ。
オフェリーは部屋の中央に置かれた丸テーブルの上にカバンを置くと、カーテンを開けて声をかける。
「ティム。今日は天気が良かったのよ。少しだけ窓を開けてもいい?」
「お姉ちゃん、おかえり」
ベッドの中からゆっくりと起き上がったのは、オフェリーの弟ティムだった。五歳年下の弟は、十二歳。本当なら友人達と勉強したり遊んだり楽しい盛りのはずだが、彼は病気がちで体が弱く、ずっとこの屋敷の中で過ごしている。
コンコンと咳をする弟が体を起こすのを手伝ってやり、ベッドサイドの水差しからコップに水を注いで手渡す。
「体調はどう?」
「悪くないよ。本当は起き上がれそうだったんだけど、あまり音を立てたくなかったんだ」
「そうだったの。気を遣わせてるね」
ティムは赤い顔でニコニコと首を振った。
「全然。それどころか、お姉ちゃんのおかげでこんないい暮らしができて、うれしい」
弟の笑顔を見て、脳裏に貧しかったころの記憶が蘇る。
――天井や壁に開いた穴を板で埋め、隙間風だらけの家。底をついた食料。水だけで過ごす数日間。やっと待ち侘びて、食事をもらうために訪れた修道院の庭。お姫様のブローチを拾って踏まれた手、蔑みの目、赤くなった手の甲。自分を掬い上げる、同じ年齢とは思えないほどに堂々として落ち着いた少女の声。長く生きられないと思っていた弟を救ったあの人――
「お姉ちゃん、どうしたの?」
ティムの声で我に返る。
「ううん、何でもない」
笑って、オフェリーはカバンの中からアカデミーの課題を取り出す。
アカデミーではいろいろとズルをしている自覚はある。先生に取り入って試験の範囲を教えてもらったり、レポートの評価に色をつけてもらったり、偶然を装い先輩グループに顔を覚えてもらって著名な先生に紹介してもらったり。
でもそのどれもが処世術にすぎない。アカデミーでは自分から動かないと何もかも享受できない。もともとの賢さがあるからこそ、こんな芸当ができるのだ、とオフェリーは割り切り自分に誇りを持っていた。
けれどさすが、王国内の聡明な若者が集まるアカデミー。多少のズルをしたぐらいでは、成績優秀者になるのはそう簡単に叶いそうにない。
ふと、才媛と名高いアレクサンドラ・リンドバーグの姿が思い浮かんだ。彼女は、オフェリーが彼女の婚約者を取り巻きに引き入れ、懇意にしていることに何の反発もないようだ。それどころか、そんなことは自分には関係ないとでもいうように、淑女然として優秀な成績を取り続けている。
自分とは違い生まれつき恵まれていた彼女は、いつも淑やかで優しく、他人の悪意にも全くへこたれることなく傷つかない、模範的なお姫様だ。それを思い浮かべながら、オフェリーは唇を噛む。
(私のもう一つの目的。それは彼女の評判を下げること。これ以上ないくらいに名誉を傷つけて、価値がないと思わせること)
「お姉ちゃん? なんか怖い顔してない?」
ティムからの問いかけに、オフェリーはパッと顔を上げ、完璧な笑みを浮かべた。
「ちょっと疲れちゃったかな。今日はアカデミーの後でお仕事の練習もしてきたから」
「そうなの? 無理しないでね」
「大丈夫。ティムこそ、具合が悪くなったら遠慮せずに言ってね?」
「はい」
素直に頷く弟の頭を撫でながら思うのだ。
(貧しい生活は絶対に嫌。大事な人を守れない生活に、もう絶対戻りたくない)




