第9話
「大丈夫だ、快……。大丈夫だから、落ち着け……っ」
暁人は震える快の肩を、壊れ物を扱うように強く抱きしめた。
どれだけの時間が経っただろうか。高架下の冷たいコンクリートの上で、快の網膜に宿っていた赤黒い光が、泥のような涙とともにようやく引いていった。
しかし、目の前には快が殴り飛ばし、骨の折れた不良たちが転がっている。息はあるようだが、このまま放置するわけにはいかない。
「……快、紬、行くぞ。ここにいたらまずい」
暁人は血の気が引いた手で、地面に落ちていた不良のスマートフォンを拾い上げた。パスロックがかかっていない画面から、素早く119番だけを押し、発信ボタンを。通話が繋がった瞬間に近くの目印だけを早口で告げると、通話を切り、携帯を地面に戻した。
「……よし、走るぞ」
夜の闇に紛れるようにして、3人は何とか我が家へと帰り着いた。
リビングの明かりをつけた瞬間、快は自分の両手を見つめ、嘔吐するかのように激しく首を振った。
「あの夜から、なんだ……」
ガタガタと歯の根を鳴らしながら、快が掠れた声で呟く。
「あの、先生たちが殺された夜の悪夢を見るたびに……朝起きると、自分の身体が自分じゃないみたいに強くなってる気がするんだ。最初は気のせいだと思ってた。でも、日に日に、蛇口をひねるだけでぶっ壊れそうになったり、ちょっと壁に触っただけで凹んだりして……。俺、さっきあいつらを殴ったとき、本当に、すっきりしちまったんだ……。それが、何より一番怖いんだよ……っ!」
快は頭を抱え、さらに一歩、暁人と紬から距離を置いた。
「お願いだから……俺に近づかないでくれ」
「快くん、何言ってるの……? 私たち、家族だよ?」
紬が涙をためて一歩踏み出そうとするが、快はそれを鋭い声で拒絶した。
「家族だからだよ、紬!!」
快の声がリビングに響き渡る。その瞳には、張り裂けそうなほどの悲痛な優しさが宿っていた。
「俺は自分が信じられねえんだ! もし、もし次にまた俺が理性を失って、この力が暴走したとき……隣にいるのが暁人や紬だったらどうする!? 俺が、お前らをこの手で殺しちまったら……俺は絶対に耐えられねえ……! だから、頼むから、俺に構うな……っ!」
快はそれだけを言い残すと、逃げるようにして二階の自分の部屋へと駆け上がり、内側から激しく鍵をかけた。バタン、と重い音が響き、静寂が訪れる。それが、快なりの、二人を絶対に傷つけないための必死の優しさだった。
それから、3人の「家族」としての平穏は完全に消失した。
快は、部屋から一歩も出てこなくなった。
「快くん、ご飯、ここに置いておくね……。少しでもいいから、食べて……?」
翌日の夜も、紬は二階の快の部屋の前にいた。
ドアの前に丁寧に並べられたお盆。湯気を立てるお味噌汁と、快の好きだった生姜焼き。けれど、扉の向こうからは何の返事もない。ただ、時折ベッドが軋むような鈍い音と、何かに怯えるような、浅く苦しげな呼吸の音だけが微かに漏れてくる。
階段を降りてきた紬の顔は、ここ数日で見る影もなくやつれてしまっていた。
いつも綺麗に結ばれていた髪は少し乱れ、エプロンのポケットを握りしめる細い指が、小さく震えている。
「暁人……どうしよう。快くん、お水もあんまり飲んでないみたい。私のこと、傷つけたくないから閉じこもってるんだよね……? 快くんの優しさが、私、つらいよ……」
紬はダイニングテーブルの椅子に座り込むと、ポロポロと大粒の涙をこぼした。
「あの夜」から、紬にとって暁人と快の二人は、崩壊した世界に残された唯一の光だった。誰よりも勇敢に自分を守ってくれた快が、今、自分の部屋という小さな檻の中で、孤独に化け物への恐怖と戦っている。その力に、自分は何もしてあげられない。その無力感が、紬の心を何よりも痛めつけていた。
「大丈夫だよ、紬。快は強い奴だから、きっと自分で折り合いをつつける。俺がついてるから」
暁人は紬の肩に手を置き、必死に言葉を紡いだが、その言葉がどれほど空虚なものか、自分が一番よく分かっていた。快の言う「悪夢を見るたびに強くなる」という言葉が、毎晩悪夢を見続けている自分の右手に、じわじわと冷たい現実味を帯びて迫ってくるのを感じていたからだ。
翌朝。
結局、快は部屋から出てこなかった。
学校へ行く準備をしながら、紬は何度も二階を見上げては、玄関で立ち尽くしていた。
「紬、いこう。遅刻しちゃう」
「……うん。そうだね……」
覇気のない返事をし、力なく歩く紬の横顔には、かつての輝くような笑顔の面影はなかった。学校への道中も、紬は他愛のない日常の音すべてにビクビクと怯えるように、暁人の制服の袖をぎゅっと掴んだままだった。
二年B組の教室に着いても、その空気は変わらない。
快の席だけが、ぽつんと不自然に空いている。クラスメイトたちは「一ノ瀬、風邪だってよ」「珍しいな、あいつが休むなんて」と無邪気に噂し合っているが、その呑気な声が、今の暁人たちには鋭利な刃物のように刺さる。
「神城くん、おはよう。……一ノ瀬くん、今日も体調悪いの?」
不意に、隣の席から霧島凪が声をかけてきた。
いつものように、清楚で、どこか安心させるような優しい微笑み。
「あ、うん……。ちょっと長引きそうでさ」
暁人が言葉を濁すと、凪はすぐにその視線を、少し離れた席で俯いている紬へと向けた。紬は机に伏せ、小さく肩を震わせている。
凪はそっと席を立つと、紬の席の横へと歩み寄り、その細い背中に優しく手を添えた。
「一ノ瀬さん……大丈夫? 目の下にクマができてる。一ノ瀬くんのこと、すごく心配なんだね」
「あ……霧島さん……」
紬がゆっくりと顔を上げる。凪の濁りのない、ただ純粋に二人を心配しているような温かい瞳を見て、紬の緊張の糸が、ほんの少しだけ解けたようだった。
「うん……。快くん、すごく苦しそうで。私、何もできなくて……」
「そんなことないよ。一ノ瀬さんがそうやって一生懸命心配してること、きっとお兄くんに伝わってるから」
凪は紬の手を優しく握り、包み込むように微笑んだ。
「ねえ、もしよかったら、今日の放課後、私にお手伝いさせて? ほら、看病に良いお粥の作り方とか、私、前の学校で習ったから。一人で抱え込まないで、ね?」
それは、頼れる存在を失い、暗闇の中で途方に暮れていた紬にとって、あまりにも真っ直ぐで、あまりにも温かい救いの手だった。凪の言葉には、トゲも裏も一切ない。ただただ、目の前で傷ついている友人を放っておけないという、純粋な優しさに満ちあふれていた。
「ありがとう……霧島さん……っ」
紬の瞳に、ほんの少しだけ生気が戻る。
その様子を隣の席から見守りながら、暁人もまた、凪の存在に深く救われていた。自分一人では支えきれなかった紬の心を、彼女の圧倒的な優しさが繋ぎ止めてくれたのだ。
快が閉ざした密室のドアの前で、立ち尽くすしかなかった暁人と紬。そんな二人の止まった時間に、霧島凪という少女が、そっと温かい光を灯そうとしていた。




