第10話
快が部屋に引きこもってから、四日が経とうとしていた。
ドアの前に置いた食事は、初日こそ少し手が付けられていたものの、ここ二日は完全に手つかずのまま下げられている。扉の向こうからは、物音ひとつ聞こえない。ただ、重苦しい沈黙だけが、二階の廊下に漂っていた。
「……クソっ」
夜、自分の部屋のベッドで、暁人は天井を見上げて拳を握りしめた。
胸の奥を焼くのは、己の無力さに対する焦燥感。
快は自分の力が怖くて、俺たちを傷つけたくなくて閉じこもっている。その優しさが痛いほど分かるからこそ、無理にドアを破壊して踏み込むこともできない。だが、このまま快が精神的に参って自滅していくのを、ただ見ているしかできないのか?
あの日を生き残り毎晩同じ悪夢を見ている俺だって、いつそうなるか分からないのだ。
(何もできない……。俺には、アイツを救う言葉ひとつ見つけられない……っ)
ぐるぐると回る思考は、いつも出口のない暗闇に行き着く。
快という一番の武力を失いかけ、紬を支えるだけで精一杯の自分。その不甲斐なさに、暁人は歯を食いしばるしかなかった。
翌日の放課後。
約束通り、霧島凪が俺たちの家にやってきた。
「一ノ瀬さん、これ。お出汁の香りを強めにすると、食欲がなくても食べやすくなるんだよ」
「わあ……すごい、本当に良い匂い……」
台所で、凪は紬の隣に立ち、まるでお姉さんのように優しくお粥の作り方を教えていた。
快の一件以来、ずっとお化け屋敷のように暗かった我が家に、凪が持ってきた優しさと温かい湯気が、少しずつ日常の輪郭を取り戻させてくれる。凪はただ親身になって料理を作り、紬の話を「つらかったね」「大丈夫だよ」と、包み込むように聞いてくれた。その純粋な善意に、どれほど救われたか分からない。
「……よし。これを、みんなで持っていこう」
出来上がったお粥をお盆に載せ、凪が柔らかく、けれど強い目で暁人と紬を見つめた。
「一ノ瀬くんが閉じこもってるのは、二人が大切だからだよね。だったら、二人の声をちゃんと届けなきゃ。私も、一緒に行くから」
凪のまっすぐな言葉に背中を押され、暁人と紬、そして凪の3人は、二階の快の部屋の前へと向かった。
「快くん……」
紬がドアにそっと手を触れ、震える声で呼びかける。
「お粥作ったよ……。クラスの霧島さんも、快くんのこと心配して、一緒に作ってくれたの……。お願い、顔を見せて……?」
静寂。
しかし、粘り強く呼びかけ続けると、中から、驚くほど掠れた、生気のない快の声が返ってきた。
「……あっち行ってくれよ……。言っただろ、俺に構うなって……。俺はもう、ダメなんだよ……」
その声には、以前のような怯えすらなく、完全に精神が磨り潰され、無気力に沈みきった人間の響きがあった。
「自分の身体が、どんどん俺のもんじゃなくなっていくんだ……。頭の奥で、ずっと誰かが叫んでる……。俺は、化け物になる。だから、もう放っておいてくれ……。これ以上、お前らの近くにいちゃいけないんだ……」
「そんなの、嫌だよ……!」
紬が涙を溢れさせながら、ドアを叩いた。
「化け物になったっていいよ! 快くんは快くんだもん! 私は、一人になる方がずっと嫌だよ……っ!」
快の無気力な突き放し。紬の悲痛な叫び。
その間で、じっと快の部屋のドアを見つめていた暁人の脳裏に、ある一つの、冷徹で、けれど揺るぎない「覚悟」が決まった。
(そうだ。何を悩んでいたんだ、俺は。アイツが化け物になるって言うなら――)
「快、開けろ」
暁人は一歩前へ出ると、紬の肩を優しく引き、ドアノブを掴んで強く声を張った。
「お前が化け物になるのが怖いなら、俺が、お前が化け物にならないように四六時中見張っててやる。もしお前が理性を失って暴れ出したら、お前が『痛ぇよバカヤロー』って文句を言って正気に戻るまで、俺が何度だってぶんなぐってやるよ!」
暁人は、自分の右手を強く、白くなるまで握りしめた。
毎晩見る悪夢。自分の内側にも、確かに疼き始めている不穏な気配。もしこれが同じ呪いなのだとしたら、アイツを止められるのも、アイツの痛みを分かってやれるのも、同じ地獄を見てきた俺しかいない。
「俺たちは、あの地獄を3人で生き延びたんだぞ。今更お前一人だけ置いてけぼりにするわけねえだろ! どんな姿になろうが、お前は俺たちの家族だ。化け物になるならなってみろ。その上で、3人で一緒に生き抜くんだよ! だから……一人で勝手に諦めてんじゃねえ!!」
部屋の向こうで、息を呑む気配がした。
「……暁人……。お前、本気で言ってんのか……? 俺、本当に、自分じゃねえみたいに強くなってて……」
「本気に決まってんだろ! お前がどれだけ強くなろうが、その倍ぶんなぐってやる。だから――さっさとそのドアを開けて、紬の作った粥を食え!!」
吐き出された暁人の魂の声が、静まり返った廊下に響く。
……カチャリ。
重苦しい沈黙を破って、静かに鍵が回る音がした。
ゆっくりと開いたドアの隙間から、ひどく痩せ細った、しかし優しい目をしたいつもの快が顔をのぞかせた。
「……ひどいな。正気に戻るまでぶんなぐるなんてさ……」
快は力なく苦笑しながら、けれどその瞳は、心底救われたように潤んでいた。
「快くん……!」と紬がその胸に飛び込み、快は驚きながらも、その小さな身体をそっと抱きしめ返した。
「神城くん、一ノ瀬さん……本当によかったね」
後ろで見守っていた凪が、目元を拭いながら、自分のことのように嬉しそうに微笑んでいる。その光景を眺めながら、暁人はようやく、胸に溜まっていた重い息を吐き出した。
握りしめた右手の震えは、いつの間にか止まっていた。




