第11話
快が部屋から出てきてから、我が家は少しずつ、本当に少しずつ元の日常へと戻り始めていた。
相変わらず快の食事の量は以前より少なかったし、ふとした瞬間に自分の手のひらをじっと見つめる癖は治っていなかったけれど、それでも紬の前に座って「美味い」と言って笑う回数は確実に増えていった。学校でも、まだ本調子ではないものの、クラスメイトの輪に少しずつ戻りつつある。
そんなある日の夜のことだった。
「――そうか、その手があったじゃんか!」
リビングで突然、快がポンと手を叩いて大声を上げた。ソファで熱心にテレビを見ていたかと思えば、何かにひらめいたような、驚くほど晴れ晴れとした顔で暁人と紬を振り返る。ここ一ヶ月の暗い影が嘘のように、突発的に元の、いや、それ以上に明るい快に戻っていた。
「な、なんだよ急に。びっくりするだろ」
ノートを開いていた暁人がペンを止める。紬もキッチンから「どうしたの?」と首を傾げた。
快はソファから飛び起きると、鼻息を荒くして熱弁し始めた。
「俺さ、ずっと考えてたんだよ。このおかしな力、どうして俺のところにきちゃったんだろうって。抑え込もうとすればするほど怖くなるし、部屋に引きこもってても何も変わんねえ。……だったらさ、使い道を自分で決めちゃえばいいんだよ!」
「使い道って……」
「悪い奴らと戦うんだよ!」
快は胸を張って、大真面目にそう言い放った。
「ほら、この街にだってさ、テレビのニュースでやってるような悪い奴らがたくさんいるだろ? こないだの不良どもみたいに、弱い者いじめする奴とかさ。そういう奴らをぶっ飛ばすためにこの力を使えば、力の制御の訓練にもなるし、何より、俺が自分を保っていられる気がするんだ。誰かを守るために力を使ってる間は、俺は俺でいられるっていうかさ!」
「悪い奴ら」
快がその言葉を口にした瞬間――暁人の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
(――あ、が、あ……っ!!!)
脳の奥に直接、あの夜の「音」が突き刺さる。
鼻腔を突くのは、新築の一軒家の匂いではなく、焼け焦げた肉と鉄錆の混ざった、あの凄惨な血の臭いだ。
目の前のリビングの景色が、一瞬にして炎に包まれる施設の廊下へと切り替わる。
暗闇の奥から聞こえる、ベチャベチャとした不快な足音。先生たちの絶叫。引き裂かれる肉の音。そして、ゆっくりとこちらを振り向いた、あのおぞましい異形のバケモノの顔、ぎちぎちと鳴る無数の牙、暗闇で不気味に発光する粘着質な瞳――。
「はっ……、っ……!」
暁人は短く息を吐き、猛烈な吐き気に襲われて自分の胸元をきつく掴んだ。心臓が痛いほど脈打ち、冷や汗が背中を伝う。
一瞬のフラッシュバック。我に返ったとき、視界は元のリビングに戻っていたが、握りしめたシャープペンシルを持つ手が小刻みに震えていた。
快は「悪い奴ら」と大雑把な言葉で濁した。だが、今、この場の全員の脳裏に焼き付いているのは、間違いなくあの『バケモノ』だった。
もうこの街にはいないかもしれない。だが、自分たちのすべてを奪い、快に謎の力を植え付けた現凶。もし、万が一にでも、あいつらがまた目の前に現れたなら――その時は、この力で今度こそ叩き潰して、二人を守る。
快の言葉の裏にある、狂おしいほどの決意を、暁人は嫌というほど理解した。
「……まぁ、お前らしいな。ただ引きこもってるよりは、よっぽどいい」
暁人は震える手を隠すようにポケットに突っ込み、小さく苦笑した。
口に出して認めてしまえば、あの最悪な地獄が本当に引き寄せられてしまう気がして、暁人もその存在を言葉にはしなかった。けれど、「もしまたあの日が来たら、その時は俺もお前を支える」という暗黙の了解を込めて、暁人は快の提案に賛成した。
「俺は賛成だよ。ただ、無茶はするなよ」
「よっしゃ! 暁人が味方なら百人力だぜ!」
快がガハハと笑う。だが、その二人のやり取りを、キッチンから静かに見つめていた紬は、硬い表情のままゆっくりと歩み寄ってきた。
「私は……反対」
紬の声は、小さかったが、とても冷たく、重かった。
「紬……?」
「危ないことは、絶対にやめて。お願いだから……」
紬はきつくエプロンの端を握りしめ、今にも泣き出しそうな目で快を見つめた。
紬の頭の中にもまた、あの日の地獄が鮮明に蘇っていた。言葉にすれば、あの恐怖が現実になって戻ってくるような気がして、彼女も必死にそれを飲み込んだ。けれど、だからこそ、絶対に嫌だった。あの日の再来だけは、何があっても拒絶したかった。
「もう誰かがいなくなるのは嫌なの……。3人で、ここで普通に暮らせれば、私はそれだけでいいんだよ……っ」
ぽろぽろと涙を流す紬の言葉に、リビングはしんと静まり返った。
家族を想うがゆえの、決定的な意見のすれ違い。誰も「それ」を口にしないまま、重苦しい空気が3人の間に横たわる。
「……ごめん、紬」
快が静かに、けれど揺るぎない目で紬を見た。
「でもさ、俺、普通に暮らすためにも、この力とちゃんと向き合わなきゃいけないんだ。じゃないと、本当にいつかお前たちを傷つけちまう。……約束する。絶対に危ない真似はしない。紬を泣かせるようなことはしないから」
快はそう言って、紬の頭を大きな手でぽんぽんと叩いた。
紬は涙を拭いながらも、納得のいかない様子でぷいと顔を背けてしまう。
その翌日の放課後。
暁人は、夕暮れの教室で一人、窓の外を眺めていた。快は「ちょっと身体を動かしてくる」と言って、すでに教室を出ていっている。
「神城くん、一ノ瀬くんは?」
声をかけてきたのは、いつの間にか隣に立っていた凪だった。彼女は快の空席を見つめ、少しだけ不思議そうな顔をしている。
「あ、霧島さん。あいつなら、ちょっと用事だってさ。……元気になって動き回りたくなったみたい」
「そっか。一ノ瀬くんが元気になって、本当によかった」
凪は心から安心したように、ふわりと微笑んだ。
その変わらない純粋な優しさに触れながらも、暁人は胸の中の、言葉にできない重い不安を消し去ることができないでいた。




