第12話
ーーーー白峰紬ーーーー
朝、目覚めると、いちばん最初に鼻をくすぐるのは、まだ真新しい木と畳の匂いだ。
お役所が用意してくれたこの一軒家は、どこを触ってもつるつると白くて、私たちがかつて暮らしていた、あの古くて少し埃っぽかった施設の匂いは、どこにも残っていない。
それがたまらなく、寂しくて、恐ろしかった。
あの地獄の夜、すべてが燃えて消えた。優しかった先生たちも、一緒に笑っていた小さな子どもたちも、みんな、みんな。
私に残されたのは、暁人くんと、快くんの、二人の背中だけ。
だから、私は誓ったのだ。この二人のためなら、私は何にだってなる。お母さんにも、お姉ちゃんにも、妹にだってなる。二人の帰る場所を、私がこの手で守り続けるんだ、と。
だけど、私の知らないところで、二人の背中は少しずつ、私の手の届かない遠いところへ行こうとしている。
「……白峰さん、これ、助けになればと思って」
放課後の教室。夕日が差し込む窓際で、霧島凪さんは小さなノートを私に差し出してくれた。ページを開くと、丁寧な文字で、体調が悪い時に食べやすいお粥やスープのレシピがいくつも書き写されている。
「この前一ノ瀬くんのために一緒に作ったお粥、お家でも作ってみて。お出汁をね、少し多めにするのがコツなの」
「あ……ありがとう、霧島さん」
凪さんはふわりと、春の陽だまりのような笑顔を浮かべた。
彼女がこうして学校で声をかけてくれるようになってから、私の中の凍りついていた何かが、少しずつ溶けていくような気がしていた。
凪さんは不思議な人だ。
同じ家に暮らしているわけでもないのに、私の心の一番柔らかくて、触られたら泣いてしまうような傷口に、決して土足で踏み込んでこない。学校の休み時間、そっと隣の席に座って、私の他愛のないおしゃべりを「うん、うん」と包み込むように聞いてくれる。
二人の男の子しかいないあの家で、誰にも言えない不安を抱えて息が詰まりそうになっていた私にとって、学校で凪さんと過ごす時間だけは、自分がただの普通の女子高生に戻れたような気がして、私はひそかに救われていた。
「私ね、白峰さんの笑った顔、すごく可愛いと思う。だから、一ノ瀬くんが元気になって、白峰さんがまたたくさん笑えるようになって、本当によかった」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
快くんが部屋から出てきてくれて、学校に行けば凪さんがこうして笑ってくれて、私たちの日常は、一見すると、水面に映る綺麗な青空そのものに見える。
だけど、水底に沈んだ泥は、消えてなくなったわけじゃない。
「行ってきます!」
放課後、快くんはそう言って、弾かれたように教室を飛び出していった。
最近の快くんは、驚くほど明るい。ひらめいたように「悪と戦う」と言い出してからの彼は、まるで何かの憑き物が落ちたように、前を向いて笑っている。
だけど、私には分かる。
快くんが笑えば笑うほど、その瞳の奥にある、必死に何かを堪えるような、ちりちりとした焦燥感が。
そして、そんな快くんの背中を、誰よりも深く、暗い眼差しで見つめている暁人くんの横顔が。
二人は、私に何も言わない。
「悪い奴ら」と、言葉を濁して笑う。
だけど、本当はみんな分かっているのだ。私たちの心を今も縛り付けている、あの、名前を呼ぶことすら恐ろしい存在を。
口に出してしまえば、あの夜の炎が、またこの日常を焼き尽くしに来てしまう気がして。
だから誰も言わない。言わないけれど、二人の男の子は、すでに私を置いて、あの日の地獄と戦うための武器を、その手に握りしめようとしている。
(どうして……?)
私は、胸の真ん中がきゅうと締め付けられるような痛みを覚えて、机の上で指をきつく絡ませた。二人が教室からいなくなった後の静寂が、冷たく肌にまとわりつく。
私は、世界を救うヒーローなんていらない。
快くんがどれだけ強い力を手に入れようと、暁人くんがどれだけ強い覚悟を決めようと、そんなの、私にはどうだっていい。
ただ、3人で。あの小さな一軒家のテーブルを囲んで、少し冷めてしまったカレーを「美味しいね」って笑いながら食べる、そんな、退屈で、不格好で、当たり前の毎日が欲しいだけなのに。
「……白峰さん?」
ふいに、冷たくなっていた私の手を、温かい体温が包み込んだ。
驚いて顔を上げると、まだ教室に残っていた凪さんが、すぐ近くで心配そうに私を見つめていた。その瞳は、まるで私の心の痛みをすべて知っているかのように、深く、優しく揺れている。
「霧島さん……」
「大丈夫。抱え込まないで、白峰さん。私は、いつでも白峰さんの味方だからね」
凪さんの細い指が、私の手にしっかりと絡まる。
放課後が終われば、私はまた、あの静かすぎる家に帰らなければいけない。けれど、この温もりがあまりにも温かくて、私は危うく、彼女の胸に飛び込んで声を上げて泣きそうになってしまう。
窓の外では、夕焼けが街を赤く、まるで、あの夜の炎のように妖しく染め上げていた。
二人の男の子が向かおうとしている、戦いの荒野。
その足元で、私はただ、外から差し込んだ凪さんの温かい手にすがりつきながら、祈るように目を閉じることしかできなかった。




