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喰情千界  作者: 遥斗
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第8話



あの悪夢は相変わらず毎晩のように俺の眠りを削っていたが、朝になれば、紬の作る朝食の匂いと快のくだらない冗談がそれをかき消してくれる。血の繋がらない俺たちは、この小さな一軒家で、確かに新しい『家族』としての形を築き上げていた。


――だが、そんな奇妙な平穏が始まってから、ひと月ほどが経った頃。

その『家族』の歯車が、静かに、けれど確実に狂い始めた。




「……あれ、今日も遅いのかな」


夜の八時。

リビングの時計を見上げながら、紬がぽつりと呟いた。

テーブルの上に並んだ料理からは、すでに湯気が消えかけている。

快の帰りが遅くなり始めたのは、ここ一週間ほどのことだった。これまでは放課後になると部活もしていないのに真っ直ぐ帰ってきて、お腹を空かせて騒いでいた快が、最近は毎日のように夜遅くに帰ってくるようになったのだ。


「部活の助っ人にでも引っ張りだされてるんじゃないか? あいつ、運動神経だけは無駄に良いからさ」

暁人は努めて明るくそう言ったが、胸の奥には冷たい違和感が居座っていた。


たまに帰ってきたときの快の様子が、どこかおかしいのだ。

「ただいまー!」と入ってくる声のトーンはいつも通りだし、紬の前ではガハハと大声で笑ってみせる。けれど、ふとした瞬間に見せる横顔が、ひどく暗い。まるで、何か大きな恐怖や、言葉にできない重圧に押し潰されそうになっているかのような、そんな暗い目を一瞬だけ見せるのだ。

だが、暁人や紬が「どうした?」と尋ねようとすると、快はすぐにいつものお調子者の顔に戻り、「なんでもねえよ!」と話を逸らしてしまう。


さらにその二日後の放課後。

その日も快は、ホームルームが終わるや否や、鞄をひったくるようにして一人で教室を飛び出していった。


「一ノ瀬くん、最近忙しそうだね。何か用事でもあるのかな」

隣の席で鞄を片付けながら、凪が不思議そうに首を傾げる。

「さあな……。ちょっと気になるから、様子見てくるわ」

暁人は凪に軽く手を振ると、胸騒ぎに突き動かされるようにして、快の後を追った。


「……あ、暁人! 待ってよ、私も行く!」

校門のところで追いついてきたのは紬だった。快の異変には、もちろん一緒に暮らす紬も気づいていたのだ。


「快のやつ、もしかして彼女でもできたのかな?」

紬は心配を隠すように、わざと面白半分といった風な口調で言った。

「まさか。あいつに限ってそれはないだろ」

「ひどいなー。でも、もし本当に可愛い彼女だったら、お祝いにご馳走作ってあげなきゃね」


そんな、どこにでもある普通のきょうだいの会話を交わしながら、二人は快が向かったであろう通学路のルートを外れ、少し離れた商業地区の方へと足を向けた。快のスマートフォンの位置情報は、そのあたりを示していた。


しかし、辿り着いたのは、華やかなデートスポットなどでは断じてなかった。

人気のない、薄暗い高架下の資材置き場。錆びついたトタン壁に囲まれた、昼間でも光の届かないような陰気な場所。


「……おい、今日もちゃんと持ってただろうな?」


コンクリートの壁に反響する、粗暴な男の声。

暁人と紬は息を呑み、山積みにされたパレットの影に身を潜めて、その奥を覗き込んだ。


心臓が、冷たく凍りつく。


そこにいたのは、この界隈で有名らしき他校の不良グループの男たち、数人。

同じロゴの入ったジャージを着た男たちの中心で、地面に膝をつき、泥だらけになって平手打ちを食らっているのは



快だった。




「す、すまん……。今日は、これが限界で……っ」


快の手から財布をひったくり、数枚の紙幣が抜き取られる。

ドカッ、と鈍い音が響いた。リーダー格の男が、快の腹を容赦なく蹴り飛ばしたのだ。快の身体が地面をごろごろと転がり、苦悶に顔を歪める。


暁人は、その光景が信じられなかった。

快は、そんなタマじゃない。あの地獄の夜、正体不明の悍ましいバケモノが目の前に現れたときでさえ、快は怯むことなく、紬の前に身を挺して立ちはだかった男だ。自分の命が危ない瀬戸際でも、大切な人を守るために迷わず身体を動かせる、誰よりも勇敢で真っ直ぐな奴なのだ。


それなのに、なぜ。

ただのタチの悪い不良たちくらいなら、快は抵抗するだろうし、金を渡したりなんて絶対にしないのに。


快は拳を握りしめ抵抗する素振りすらない、それどころか、地面に這いつくばったまま、ガタガタと全身を哀れなほどに震わせ、必死に頭を抱えていた。


「やめてくれ……っ、頼む、もうやめてくれ……っ!!」



「快……っ!?」

隣で、紬が短い悲鳴を上げて口元を押さえた。その瞬間、不良たちの視線が一斉にこちらへと向いた。


「あぁん? 誰だお前ら」


パレットの影から漏れた紬の悲鳴を、不良たちの耳は逃さなかった。

リーダー格の男が、地面の快から視線を外し、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべた男たちの視線が、制服姿の紬に注がれた。


「なんだ、一ノ瀬の連れか? 可愛いじゃん。おい、お前も一ノ瀬の代わりに俺たちを楽しませてくれるわけ?」

「……っ!」


紬が恐怖で一歩後退りする。その前に、暁人は滑り込むようにして立ちはだかった。背中で紬を庇いながら、不良たちを鋭く睨みつける。


「おい、やめろ。……快から奪った金を返せ。それから二度とあいつに近づくな」

「あぁ? ナメたこと言ってんじゃねえぞ、ガキが!」


男の一人が暁人の胸ぐらを掴み、強引に壁へと叩きつけた。背中にコンクリートの硬い衝撃が走り、肺の空気が強制的に押し出される。

「暁人……!」と紬が叫び、男の手を振り払おうとした。だが、別の男が紬の細い腕を強引に掴み上げる。


「離して……っ! 離してください!」

「おいおい、暴れるなって。ちょっと面貸せよ」


その時だった。


「……離せよ」


地を走るような、低く、押し殺した声が高架下に響いた。

誰もがその声の主を振り返る。そこには、ゆっくりと立ち上がる快の姿があった。


「あぁ? 一ノ瀬、お前まだ生意気な口が――」


「紬から、その汚ぇ手を離せって言ってんだよぉ!!」


次の瞬間、快の身体が、とんでもない速度で地を蹴った。残像すら残るような踏み込み。不良たちが反応するよりも早く、快の右拳が、紬の腕を掴んでいた男の顔面に叩き込まれた。


――バキィッ!!!


高架下に響き渡ったのは、人間の拳が放つ音ではなかった。

金属の塊が衝突したかのような、鈍く、凄惨な破壊音。

殴られた男の身体は、まるで大型トラックに跳ね飛ばされたかのように、真横へ数メートルも吹き飛んだ。そのまま資材の山に激突し、崩れ落ちた鉄パイプの下敷きになる。


「が、あ、……あがっ……!?」


男は悲鳴すら上げられなかった。

その顔面は不自然に陥没し、何より、地面に投げ出された右腕が――到底人間にはあり得ない、曲がってはいけない方向へと、ぐにゃりと直角に折れ曲がっていた。


「ひ……っ!?」


あまりの光景に、残りの不良たちが悲鳴を上げて凍りつく。

だが、快の暴走は止まらない。

目の前のリーダー格の男の胸ぐらを掴むと、片手でその巨体を軽々と持ち上げた。


「あ、加……ひっ、やめ、めろ……!」

「うおおおおおおおおっ!!!」


獣のような咆哮とともに、快はその男をコンクリートの地面へと叩きつけた。


――ドゴォッ!!!


凄まじい衝撃音とともに叩きつけられ、男は白目を剥き、口から血混じりの泡を吐き出して、そのままピクリとも動かなくなった。


「化け物……! 化け物だァッ!!」


生き残った最後のひとりが、腰を抜かしながら這うようにして逃げ出していく。

静まり返った高架下。

荒い息を吐きながら立ち尽くす快の背中は、夕闇の中で、あの日見た怪物のように巨大で不気味だった。


「快…………?」


紬の、震える声。

その声に、快の身体がビクリと跳ねた。

ゆっくりと振り返った快の顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃに濡れていた。その瞳は――網膜の奥が、あり得ないほどの赤黒い輝きを放ち、鈍く発光している。


「あ、違う……違うんだ、暁人、紬……。俺は、俺はただ……っ!」


快は自分の右手を恐怖に満ちた目で見つめた。

その拳には、殴った反動の傷一つない。それどころか、皮膚の裏側で、何かが蠢くようにドクドクと不自然な脈動を繰り返している。


「ここのところ……おかしいんだよ……!」


快はその場にドサリと膝をつき、自分の頭をむしり取るように抱え込んだ。その身体は、いじめられていた時よりも、何十倍も激しく震えていた。


「抑えられないんだ……! 自分が、自分の身体が、どんどん俺の言うことを聞かなくなっていくんだよ! ちょっと力を入れただけで、何でも壊しちまう! 殴り合ったら、相手を殺しちまうのが分かってたから……だから、あいつらの暴力も、ずっと耐えるしかなくて……っ!」


快の口から漏れる、血を吐くような悲痛な告白。

暁人は息を呑み、言葉を失った。快があのいじめに立ち向かわなかったのは、ビビっていたからではない。自分の内なる「化物」を解放してしまうことを、誰よりも恐れていたからなのだ。


「怖いんだよ……暁人……。俺、このままだと……あの夜の、先生たちを殺した、あの化け物になっちまう……! 助けてくれよ、なぁ……っ!!」


血の繋がらない、けれど誰よりも勇敢だった『家族』の、あまりにも無力な涙。



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