第7話
新しくやってきた霧島凪という少女は、驚くほどすぐに二年B組の教室に馴染んでいった。
お高くとまったところなど一切なく、授業で分からないところがあれば「ここ、さっき先生がなんて言ってたか教えてもらえる?」と素直に暁人のノートを覗き込んできて頼ってくれるし、快のくだらない冗談にも「一ノ瀬くん、本当におもしろいね」と声を立てて楽しそうに笑ってくれる。
昼休みになれば、お弁当の包みを持って「ここ、混ざってもいい?」と自然に輪に入ってきた。彼女の持つ柔らかく穏やかな空気は、暁人たちが無意識にまとっていた、あの夜から続く張り詰めた緊張感を、静かに、優しく解きほぐしていくようだった。彼女が普通でいてくれるからこそ、自分たちも「普通の高校生」でいられる――暁人は彼女の存在に、どこか救われるような心地よさを感じ始めていた。
放課後。
家へと続く坂道の途中にある、地元の大きなスーパーへと、暁人と快は足を運んでいた。
夕方の店内は、主婦たちの話し声やタイムセールの呼び込み、楽しげなBGMが響き渡り、生活の匂いで満ち溢れている。
「おー、肉肉! 暁人、今日は奮発して国産のちょっと良い肉にしようぜ! 紬も喜ぶって、絶対に!」
「バカ言え、予算は決まってんだよ。そんなことしたら今週の後半、全部もやし生活になるぞ」
カゴを引いた暁人は、特売のシールが貼られた豚小間肉を迷わずカゴに放り込みながら苦笑した。
「ちぇー、ケチ暁人だな」などと文句を言いながらも、快は大きな身体を揺らして楽しそうに野菜コーナーへと向かう。ジャガイモやタマネギを一つずつ手に取り、「これ、傷んでないな」と真剣な目つきで品定めをする姿は、施設にいた頃の、ただ年下の子たちの面倒を見ていたお兄ちゃんそのものだった。
「あ、神城くん。一ノ瀬くん」
不意に、パプリカの棚の横から、鈴の鳴るような澄んだ声が響いた。
振り返ると、そこには学校の制服の上から薄手のカーディガンを羽織り、小さな買い出し袋を腕に下げた霧島凪が立っていた。
「あ、霧島さん。買い物?」
「うん、今日の夕飯の材料を少しね。二人は……わあ、すごい量。もしかして、今夜はカレーでも作るの?」
クスクスと楽しそうに笑いながら、快が抱えるカゴの中身を覗き込んでくる凪。その仕草や距離感は、本当にどこにでもいる普通の、人懐っこくて可愛らしい同級生の女の子そのものだった。
「そうなんだよ! 今日は紬が世界一のカレーを作ってくれる予定でさ!」
快がまるで自分の手柄のように鼻高々に答えると、凪は「いいな、楽しそう。手作りのカレーって一番美味しいよね」と、親しみやすい笑顔を浮かべた。
「じゃあ、私はこっちだから。また明日、学校でね」
ひらひらと小さく手を振り、夕暮れ時のレジへと並んでいく彼女の背中を見送りながら、快がしみじみと呟いた。
「霧島さん、本当にいい子だな。急な転校で心配だったけど、すぐに馴染めそうでよかったわ」
「そうだな」
暁人も深く頷いた。彼女のあの温かさが、自分たちが今、間違いなく「普通の日常」という温かい地平に立っているのだと、改めて実感させてくれるようだった。
「ただいまー」
「お帰りなさい! 早かったね」
重い鉄の扉を開けると、玄関まで紬がパタパタと足音を立てて出迎えてくれた。
すでに水玉模様のエプロンを身につけた紬が、二人の手から重い買い物袋を「ありがと!」と嬉しそうに受け取る。その小さな背中を追いかけるようにして、暁人と快もリビングへと入った。
その日の夜、約束通りのカレーが食卓に並んだ。
退魔庁が用意してくれた、まだ新築の匂いが残る一軒家。その中心にある、3人で囲むには少し小ぶりな四角いテーブル。
「いっただっきまーす!」
快がスプーンを片手に、待ちきれないとばかりに勢いよくカレーを口に運ぶ。
「あつっ! ……でも、うまっ!! やっぱ紬のカレーが世界一だわ!」
「もう、急いで食べると火傷するよって言ったのに。暁人は? 口に合う……?」
不安げに、上目遣いで覗き込んでくる紬。
暁人はスプーンを持ち上げ、湯気の立つカレーを口に運んだ。タマネギの甘みと、じっくり煮込まれた肉の旨味が口いっぱいに広がる。それをゆっくりと飲み込んでから、暁人は紬の目をまっすぐ見つめ、深く、優しく頷いた。
「美味しい。本当に、すごく美味しいよ、紬」
「よかった……! 二人とも、お代わりはいっぱいあるからね。お鍋に山ほど作ったんだから」
ほっと胸をなでおろす紬の、心底嬉しそうな笑顔。
その笑顔を見て、暁人は胸の奥がじわりと熱くなり、視界が少しだけ滲むのを感じていた。
施設を失った。先生たちを失った。一緒に笑い合っていたたくさんの弟や妹たちを、あの最悪な夜にすべて失った。世界から引き剥がされ、暗闇に放り出されたような絶望の中にいた。
けれど今、こうして生き残った3人で1つの食卓を囲み、同じご飯を食べて、「美味しい」と言い合えている。
血の繋がりなんて、最初から一滴もない。けれど、あの消えない地獄の炎を共に生き延びた3人は、今、間違いなく新しい「家族」としての絆を、この小さな家で一歩ずつ、大切に育み直していた。この平穏のためなら、俺はなんだってできる。暁人は心の中で、静かにそう誓った。
「なぁ、明日もカレーでいい? 朝も昼も夜もカレーでいこうぜ!」
「ダメに決まってるでしょ、快。栄養が偏っちゃう」
「えー! 暁人もそう思うだろ!? カレーは毎日でも飽きないよな!?」
二人の賑やかな小競り合いを聞きながら、暁人は声を上げて笑っていた。




