第6話
「……はぁ、はぁ、……っ!」
また、あの悪夢だ。
暁人は跳ね起きると同時に、自分の右手を凝視した。ベッドの横の窓から差し込む朝焼けの光。そこにあるのは、五本の指が揃った、ただの頼りない人間の手だ。
けれど、夢の中で何かを貪り食っていたあの生々しい感触と、喉を焼くような渇きだけが、シーツに染み込んだ冷や汗となって現実の身体に残っている。
「暁人、起きてるー? 朝ご飯できてるよ!」
階下から響く紬の明るい声に、暁人は小さく息を吐き、濡れた前髪をかき上げた。
制服に着替え、リビングへ降りると、トーストと目玉焼きの香ばしい匂いが満ちていた。エプロン姿の紬が、いつもと変わらない穏やかな笑顔で皿を並べている。
「おはよう、暁人。またうなされてたでしょ。まだ体調悪いのかな……」
「いや、大丈夫。ただの寝不足だよ」
心配そうに覗き込んでくる紬に、暁人は無理に笑ってみせた。あの地獄を経験したというのに、紬は驚くほど「普通」のままだった。怪我の治りも一般人と変わらなかったし、何よりあのバケモノたちの気配をこれっぽっちも引きずっていない。
暁人にとって、その紬の「普通さ」こそが、この崩壊した世界で唯一の救いだった。
「おっ、美味そう。いただきまーす」
ドサリと品のない音を立てて椅子に座ったのは、快だ。
頭の包帯はすでに取れ、ギプスをはめていたはずの右腕も、今では何事もなかったかのように動いている。
「なぁ快、お前……もう右腕、なんともないのか? 医者は全治数ヶ月って言ってただろ」
暁人が何気なく尋ねると、快はトーストを咥えたまま、自身の右腕をぶんぶんと振り回して見せた。
「それがさ、なんか一週間くらい前につるっと痛みが消えちゃって。昨日も体育の授業でさ、うっかり片手でバスケのゴールリングにぶら下がったら、ボードにヒビ入れちゃって先生にめちゃくちゃ怒られたわ。あはは!」
「……え?」
「火事場の馬鹿力ってやつ? 俺、実は格闘技の才能あるかもな」
ガハハと笑う快の横顔を、暁人は血の気が引く思いで見つめた。
(バスケのバックボードに、片手でヒビを……?)
普通の高校生に、そんな芸当ができるはずがない。快は笑っているが、その瞳の奥、網膜のさらに深い場所に、あの夜に見た怪物の澱んだ影が一瞬だけ混ざったような気がして、暁人は背筋に冷たいものを感じた。
快の身体の中で、確実に何かが始まりつつある。
それを紬にだけは気づかせてはならない。
暁人はテーブルの下で、無意識に自分の右拳を強く握り締めた。
朝の澄んだ空気のなかを、三人並んで登校する。
快は相変わらず他愛のないテレビの話をしては一人で笑い、紬はそれに呆れながらも楽しそうに相槌を打っている。すれ違う他校の生徒たちや、通り過ぎる自転車のベルの音。どこにでもある地方都市の、退屈で、けれど愛おしい朝の風景。
暁人はその光景を網膜に焼き付けるように見つめながら、同時に、自分の内側に潜む違和感を必死に押し殺していた。
学校へ着き、昇降口で紬と別れて二年B組の教室へと向かう。
ガラガラと扉を開けると、そこにはすでに見慣れた、けれどまだどこか馴染みきれないクラスメイトたちの喧騒があった。いくつかのグループに分かれて昨夜のゲームの話に興じる男子たち、鏡を取り出して前髪を気にする女子たち。
暁人は深く息を吐いて机に突っ伏した。
(俺たちは、ただの高校生だ。そう思っていれば、いつかあの悪夢を忘れられる)
自分に言い聞かせるように瞼を閉じる。前の席では、快が早くも隣の席の奴から漫画を借りて読みふけっていた。
やがて予鈴のチャイムが響き、バタバタと生徒たちがそれぞれの席につく。
その日の1時間目。
暁人たちの通うクラスのホームルームは、担任の気の抜けた声と共に始まった。
出席簿で教卓をパンパンと叩き、クラスの注意を引いた担任が、どこか面倒くさそうに口を開く。
「あー、よし。静かに。今日から我がクラスに転入生が入ることになった。お前ら仲良くしてやるように」
担任の言葉に、教室内がわずかにざわついた。
「女子? 男子?」「可愛かったらいいな」
色めき立つ男子たちの声や、興味深そうに顔を見合わせる女子たちの視線が、一斉に教室の入り口へと集まる。
暁人は窓の外、グラウンドをぼんやりと眺めながら、上の空でその会話を聞いていた。
日常という名のモザイク画の中に身を潜め、ただ息を潜めて生きていく。それだけが、今の暁人の目的だったからだ。誰が来ようが、自分たちには関係のないことだと思っていた。
「よし、入ってこい」
担任が呼びかけると、ガラガラと古びた引き戸が開いた。
その瞬間、それまでガヤガヤとしていた教室内が、水を打ったように静まり返り、一瞬で華やかな空気に包まれた。
入ってきたのは、黒髪を後ろで綺麗にまとめた、どこか清楚な雰囲気を纏う女子生徒だった。
歩き方、背筋の伸び方、そのすべてが洗練されていながらも、周囲を威圧するような派手さはない。少し緊張しているのか、頬を微かに硬くしながら、控えめに微笑んで教壇の前に立つ。その姿は、どこにでもいるごく普通の、少し大人しそうな可愛い女の子そのものだった。
彼女は細い指でチョークを手に取ると、黒板に向かい、丁寧できれいな筆跡で名前を書き記した。
『霧島 凪』
コツ、とチョークを置き、彼女はもう一度クラスの面々へと向き直る。その仕草一つひとつが、あまりにも可憐で、クラス全員が息をのんだ。
「霧島凪です。前の学校からは急な転校になってしまって、まだ少し緊張していますが……早くみんなと仲良くなりたいです。よろしくお願いします」
ぺこりと上品に頭を下げる彼女に、一瞬の静寂の後、クラスの男子たちから「おおーっ!」と地鳴りのような歓声が上がった。「めっちゃ可愛いじゃん」「当たりだな!」という男子たちの下世話な囁きに混ざって、女子たちからも好意的な歓迎の拍手が送られる。
クラスの誰もが瞬時に好感を抱いていた。
「よし、霧島。席は……あそこの窓際、神城の隣が空いてるな。神城、手ぇ挙げろ」
「あ、はい」
担任に呼ばれ、軽く手を挙げる。
霧島凪は「よろしくお願いします」と暁人に向かって小さくお辞儀をすると、軽い足取りで席へと歩いてきた。
すれ違いざま、彼女の制服から、微かに洗いたての柔軟剤のような、生活感のある優しい香りが漂う。
席に着いた彼女は、隣の暁人、そしてその前に座る快に向けて、実になじみやすそうな、人当たりのいい笑顔を浮かべて小さく声をかけてきた。
「神城くんだよね? 隣、よろしくね。あと、前の席の君も」
「お、おう! 俺は一ノ瀬快! よろしくな、霧島さん!」
快がいつも通り気さくに手を振る。暁人も「あ、よろしく……」と、少し気圧されながらも言葉を返した。
(綺麗な子だな……。)
暁人は彼女の屈屈のない笑顔に、少しだけ肩の力を抜いていた。




