第5話
あの一夜から、どれだけの時間が流れたのだろうか。
施設を襲ったあの凄惨な怪物たちの姿も、燃え盛る建物の熱も、すべてが遠い幻だったかのように、世界は静まり返っていた。
だが、あの地獄の跡地では、冷徹な現実が静かに動き始めていた。
山奥にひっそりと佇んでいた養護施設は、いまや高い防護壁と「立ち入り禁止」の看板で完全に隔離されていた。周囲には警察ではなく、漆黒の防護服に身を包んだ退魔庁の調査員たちが数十人も動員され、夜を徹して現場の検証を行っている。
「――やはり、ただの養護施設ではないな」
建物の奥深くだ。
血痕の飛び散る廊下の突き当たり、本来ならリネン室で行き止まりのはずの壁が、不自然に剥ぎ取られていた。隠されていたのは、重厚な鋼鉄製の電子ロック式の扉。化け物の爪によって強引にこじ開けられたその先には、下へと続く長い階段が存在していた。
防護服の男たちがライトを照らしながら階段を降りると、そこにはおよそ地上からは想像もつかない、白濁としたガラスと精密機械に囲まれた「地下研究所」が広がっていた。
大型の水槽がいくつも並び、その中には、緑色の培養液に浸かった「化け物の一部」と思われる肉塊や、無数のコードに繋がれた奇妙な実験器具が遺されている。
「……上層部の噂は本当だったか。ここは孤児を育てる施設などではない。奴ら、鬼の細胞を人間に定着させるための……実験場だったんだ」
調査員の一人が、割れた培養ガラスの破片を拾い上げ、忌々しげに吐き捨てた。
あの夜、施設を襲った化け物は、外からやってきたのではない。この地下で造られ、そして何かのきっかけで暴走したのだ。
「生存者の子供が三人いたな。……あいつら、本当に何も知らないただの被害者なのか?」
「さあな。だが、上が生かして監視しろと命令を下した以上、俺たちが口を挟むことじゃない。……おい、さっさと報告にいくぞ」
男たちはそれ以上の追究を遮断するように、冷淡に調査資料をまとめ、地下の闇を後にした。
「……っ!」
暁人は、強烈な落下感とともに目を覚ました。
飛び起きた身体が、清潔なシーツを乱す。
「あ、……ここは……」
見上げた天井は、赤黒い血に染まったあの地獄のものではなかった。目に痛いほどに真っ白な、見慣れない病院の天井。鼻を突くのは鉄サビの臭いではなく、ツンとした消毒液の匂いだ。
「暁人……! よかった、目が覚めたんだね……っ」
隣から上がった泣き出しそうな声に視線を向けると、そこにはパイプ椅子に座って暁人の手を握りしめている紬の姿があった。額に包帯を巻いているものの、その表情にはいつもの優しい彼女の面影がある。
さらにその奥のベッドでは、頭と腕に厳重なギプスをはめられた快が、退屈そうに天井を眺めていた。
「よお、暁人。お前、三日も眠りっぱなしだったんだぞ。死んじまったかと思ったわ」
「快……、紬……。無事、なのか……?」
二人の姿を確認し、暁人は泥のような安堵感に胸をなでおろした。生きている。本当に、あの地獄から生きて戻れたのだ。
だが、その安堵を破るように、病室のドアが静かに開いた。
コツ、コツ、と場違いなほど高級な革靴の音が響く。
入ってきたのは、仕立ての良いスーツの上に、あの日と同じ黒いロングコートを羽織った、片目に眼帯の男――退魔庁の高官だった。
「気分はどうかね、少年たち」
男はベッドの足元に立つと、眼帯のない鋭い目で三人を見つめ、それから事務的に一枚の封筒と、黒いシックな名刺をサイドテーブルに置いた。
「あの夜の事件は、世間には『過激派の武装テロ組織による無差別襲撃』として処理された。君たちがいた養護施設は、不運にもその巻き添えを食った……ということになっている」
男の淡々とした口調に、暁人は奥歯を噛み締めた。テロ。そんなありきたりな言葉で、あのバケモノたちの存在を、先生たちの死を揉み消すつもりなのだ。
「君たちには、これからの新しい生活を用意した。国からの莫大な見舞金、そしてここから遠く離れた地方都市にある一軒家だ。三人の共同生活という形になるが、生活に困ることはないように手配してある。転校先の手続きもすべて済ませておいた」
「どうして……そこまでしてくれるんですか」
暁人の掠れた問いに、男は感情の読めない薄い笑みを浮かべた。
「国家の最高機密に触れた生存者への、ささやかな口止め料だよ。……それに、身寄りのない君たちを路頭に迷わせるほど、我が国も冷酷ではない」
男はそう言うと、踵を返してドアへと向かう。そして、ドアノブに手をかけたまま、顔だけをこちらに振り返らせた。
「そこに置いた名刺には、私の直通番号が書いてある。……もし、君たちの身の回りで、これから『あり得ないようなこと』が起きるようなことがあれば、いつでも連絡しなさい。我々はいつでも、君たちを見守っているからね」
カチャリ、と静かにドアが閉まる。
残されたのは、不自然なほどの「新しい人生」への切符と、退魔庁という組織の不気味な影だけだった。
それから数ヶ月後。
退魔庁の言葉通り、暁人たちは見知らぬ地方都市の静かな住宅街にある、小さな一軒家での生活を始めていた。
地元の高校への転校手続きもスムーズに行われ、制服に身を包んで学校へ通うその姿は、どこからどう見ても「普通の高校生」そのものだった。
あの地獄は終わった。誰もがそう思っていた。
しかし、暁人の心だけは、あの夜から一歩も前に進めていなかった。
毎晩のように、彼は同じ悪夢を見ていた。
自分が、見たこともない漆黒の、悍ましい化け物の腕で、何かを生々しく貪り食っている、最悪の悪夢を。




