第4話
「……が、あ、はっ……っ! げほっ、ごふっ……!」
押し潰されていた肺が、ひゅ、と引き裂かれるような悲鳴を上げて、無理やり呼吸を再開した。
それと同時に、強烈な拒絶反応が喉の奥を突き上げてくる。口からごぼりと這い出てきたのは、肺や気管にへばりついていた、どす黒く凝固しかけた血の塊だった。それを床に吐き出し、激しく咳き込むたびに、内臓がすべて裏返るような劇痛が爪の先まで駆け巡る。
けれど、おかしい。致命的に奇妙だった。
あの化け物の剛腕によって何度も何度も床に叩きつけられ、骨という骨をバラバラに砕かれたはずの肉体なのだ。それなのに、内側から焼け付くような熱い痛みを伴いながらも、指先が、足首が、自分の意志でしっかりと動いてしまう。
重い瞼にまとわりつく、凝固した血の膜をこじ開けるようにして、暁人は辛うじて目を覚ました。
「――っ、あ……、ぁ、……」
掠れた声が、喉の奥で消える。
視界に飛び込んできたのは、世界のすべてを赤黒いペンキで塗り潰したかのような、おぞましい地獄絵図だった。
天井、壁、床、そして剥き出しの蛍光灯にいたるまで、視界のあらゆる隙間が、飛び散った鮮血と、原形を留めない肉片によって汚染されている。全域に鳴り響いていたはずの耳を裂くサイレンは、いつの間にか完全に途切れていた。ただ、頭上で半分叩き潰された警告灯が、ジジ……パチパチと不快な火花を散らしながら、死寂の廊下を不規則な赤で明滅させているだけだ。
全滅だ。その事実が、冷たいセメントのように暁人の胸に重くのしかかる。
ついさっきまで一緒に笑い、ご飯を食べ、手を繋いでいた子供たちの姿はどこにもない。いや、床に散らばる「それ」のサイズを見れば、彼らがどうなったかなど、想像したくなくても脳が理解を強制してくる。俺たちが本当の家族だと思っていた場所は、文字通り、一瞬で消滅したのだ。
その凄惨な血の海の中心に、そいつは転がっていた。
圧倒的な暴力で俺たちを追い詰めた、あの二メートルを超える黒い異形。
だが、化け物はすでに完全に息絶えていた。それどころか、まるで内側から爆発でも起こしたかのように上半身をズタズタにねじ切られ、壁に肉塊となってぶちまけられている。
……一体誰が、これを。
暁人は必死に、引き裂かれた記憶の糸を手繰り寄せようとした。
あの化け物に急襲され、快がゴミのように吹き飛ばされ、紬が子供たちを庇って追い詰められて――。
だが、そこから先の記憶が、まるで真っ黒なインクを強引にぶちまけられたかのように、完全に抜け落ちて何も思い出せない。
恐る恐る自分の身体を見下ろすが、衣服は煤と血で酷く汚れてはいた 全身に痛みがあり片足に力は入らない、だが大きな命に係わるような傷はなかった。身体は比較的健康な状態だった。
「……快! 紬……っ! おい、嘘だろ……っ」
はっと我に返り、膝を引きずるようにして血の海を這う。
すぐ近く、折り重なるようにして倒れていた二人の身体を、暁人は必死に抱き起こした。
「快! 目を開けろ! 紬っ!!」
二人はピクリとも動かない。快の顔面は血にまみれ、紬の背中の制服は大きく裂けていた。だが、胸元に耳を当てると、かすかに、けれど確かに上下している。肌にはまだ、生々しい人間の体温が残っていた。
二人とも、生きている。その事実に、暁人は涙が溢れるのも忘れて、ただ二人の身体を強く、強くかき抱いた。
その時だった。
べっとりと肉片の張り付いた廊下の向こうから、複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。
ペタ、ペタ、という血を吸った靴底の音。それと交互に響く、コツ、コツ、というコンクリートを叩く、冷徹なまでに統率された確かな足音。
壁の影から現れたのは、見たこともない漆黒の防護服に身を包んだ、異様な大人の集団だった。彼らは手にした特殊な形状の銃や、钝い光を放つ刀を構えながら、この世の終わりような死臭の立ち込める廊下を、眉ひとつ動かさずに進んでくる。その様子は、血の海に臆するどころか、まるでただの「作業」をこなしているかのように淡々としていた。
「――ターゲットの沈黙を確認。死因は胸部および頭部の損壊……外殻の強制破壊と、内部からの過剰なエネルギー放出が認められる。野良の同士討ちか?」
「いや、周辺に他の個体の熱源反応も痕跡もない。不可解だな……。ん? おい、待て。前方に生存者だ」
男たちの一人が、床に這いつくばる暁人たちに気づき、その場でピタリと動きを止めた。
「子供が三人……奇跡的に五体満足だな。外傷は深いようだが、意識がある子もいる」
カチャリ、と銃口を向けられるようなことはなかった。彼らは生存者だと認識した瞬間、流れるような動作で武器を背中へと回し、腰の医療キットを取り出してこちらへ足早に駆け寄ってくる。その一連の手際は、優しさではなく、完全に訓練された「プロの救助隊」としてのものだった。
「くるな……っ、近寄るな……!!」
暁人は血まみれの床に爪を立て、必死に快と紬を背中に隠すようにして二人を庇った。
「それ以上、こっちにくるな……っ!」
怒鳴り散らす暁人の声は、恐怖と、これ以上何かを奪われたくないという絶望で、情けないほど小刻みに震えていた。防護服の男たちはそんな暁人の警戒心を察したのか、刺激しないよう、数歩手前の位置で静かにしゃがみ込む。
「安心しろ、坊主。もう何も怖いものはいない。化け物はすべて、俺たちが片付けた。安心しろ、俺たちは警察の仲間みたいなもんだ」
男たちが左右に分かれ、道を作る。
その背後から、仕立ての良い黒いロングコートを羽織った、片目に眼帯をつけた男がゆっくりと歩み寄ってきた。
男は周囲の凄惨な死体の山を一瞥し、それから暁人の真ん前で静かにしゃがみ込んだ。眼帯のない剥き出しの右目の、鋭い眼光。それは、地獄からたった今生還した哀れな被害者の子供を見るような、深い、酷く深い同情の色に満ちていた。
「……怖かったなぁ、少年。本当に、よく頑張った。この地獄の中で、最後まで生き延びてくれたんだ。その命を繋いだ自分を、誇っていい」
男の声は、耳に心地よいほど穏やかで、優しかった。
「お前たちは、誰だ……? 先生たちは……子供たちは……みんな、どうして、こんな……っ」
涙と血泥にまみれた顔で、世界の崩壊を問い返す暁人に、男はコートのポケットから、静かに一つの手帳を取り出して差し出した。そこには、金色の不気味な紋章が刻まれている。
「国家公安委員会直属、退魔庁だ。世の裏側に潜む、君たちを襲ったような不条理なバケモノの脅威から、人々を守るために作られた組織さ」
たいまちょう。バケモノ。
理解の追いつかない単語が、暁人の酷く疲弊した脳内を滑り落ちていく。
「お前たちに聞きたいことは山ほどあるが……今は何より、治療が最優先だ。安心しろ、我々は人間を保護する組織だ。そこの大事な仲間二人も、すぐにうちの特設病院で最高の処置を受けさせる。絶対に、死なせはしない。だから……お前も、もう休め」
男が静かに手を挙げると、背後から白い救護服を着た一団が、担架を携えて素早く入ってきた。
快の身体が、そして紬の身体が、衣服の擦れる音とともに、丁寧に、けれど有無を言わせぬ手際よさで運び出されていく。
遠ざかっていく二人の姿を、霞む視界で見届けた瞬間だった。
暁人の張り詰めていた最後の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
頭が急激に軽くなり、周囲の風景がぐにゃりと歪む。強烈な眩暈と、これまで経験したことのない肉体の限界が、一時に押し寄せてきた。
「あ……っ、……」
崩れ落ち、血の海へ顔から突っ込みそうになった暁人の身体を、黒いロングコートの男が、その大きな両手でしっかりと受け止め、支えた。
「よく頑張った。あとはもう、大人に任せて眠りなさい」
男の、あまりにも静かで温かい声を最後に、暁人の視界は完全な暗黒へと反転し、今度こそ深い闇の底へと沈んでいった。




