第3話
耳を圧するような爆音の警報が、古い施設のコンクリート壁を震わせながら鳴り響いた。
ぐるぐると回転する赤い光が、視界のすべてを不気味な雰囲気に染め上げていく。
『――警告。緊急事態発生。全職員は直ちに所定の避難手順を開始し、警戒区域から――』
スピーカーから流れるのは、今まで一度も聞いたことのない、酷く冷徹な女性の機械音声だった。
さっきまで中庭に満ちていた子供たちの無邪気な笑い声は、一瞬ののち、引き裂かれたような悲鳴へと変貌する。
「な、なにこれ!? きんきゅう……? ねぇ、せんせい!」
「お姉ちゃん怖い! どこに行けばいいの!?」
いつもなら頼りになる大人の職員たちも、見たこともない赤い光の渦の中で、完全にパニックに陥っていた。
「みんな落ち着いて! 先生の周りに集まって! 避難するから、大丈夫だから!」
叫ぶ声が裏返っている。この施設では、避難訓練なんて一度もやったことがないのだ。当然、大人たちだってどこへ逃げれば安全なのか知りもしない。それでも彼らは必死に、パニックになった幼児たちを両腕にかき集めようとしていた。
俺と快は、言葉を失ったまま顔を見合わせた。
「おい、これ……ヤバイやつかな」
「分かんねぇ……! でも、突っ立ってる場合じゃない。俺たちで小さいやつらを誘導しよう!」
快の言葉に弾かれるように視線を巡らせると、紬はすでに腰が抜けて泣き出した小さな女の子を必死に抱き上げていた。
「大丈夫、大丈夫だからね。お姉ちゃんがちゃんと一緒にいるから。ね?」
子供を安心させるために必死に笑顔を作ろうとしている。紬の強がりを見て、俺の頭の芯がほんの少しだけ冷徹さを取り戻した。
「快、俺たちも手伝うぞ! ……よし、みんな、お兄ちゃんたちの後ろについてきて!」
「うん、はぐれるなよ! 絶対に手を離すな!」
年長組である俺たちの声に、数人の子供たちが縋るように集まってくる。十人ほどの小さな命を引き連れて、薄暗い廊下へと飛び出した。
その、瞬間だった。
――ズン。
足の裏から、内臓を揺さぶるような重い振動が突き上げてきた。
天井からパラパラと白いコンクリートの粉が落ちてくる。何か、とてつもなく巨大で重い肉塊が、上の階から叩きつけられたような衝撃。
その直後だった。
「いやああああああっ!!! 誰か、誰か助け――っ!!」
鼓膜を直に引き裂くような、狂気じみた悲鳴。
施設の奥――それも、俺たちが今向かおうとしている避難経路の先からだった。悲鳴は一つでは終わらない。二つ、三つと重なり合い、そして、まるでバチンとスイッチを切られたように、唐突に、途中で途切れる。
肉を、あるいは骨を、一瞬で叩き潰して口を塞いだかのような不自然な断絶。
「……なぁ、今の、何の音だ?」
じっとりと、嫌な脂汗が額からこおって首筋を流れ落ちる。
快もさっきまでの余裕を完全に失い、奥歯をガチガチと鳴らしながら表情を硬直させていた。
「……行くしかない。ここにいたら袋小路だ。急ぐぞ、みんな!」
快の声を合図に、小さな子供たちの背中を押し、半ば走らせるようにして薄暗い避難口へと向かう。
けれど、最初の角を曲がった瞬間、全員の足が、凍りついたようにピタリと止まった。
床だった。
白い床一面に、どす黒い、どろどろとした液体が広がっている。強烈な鉄サビの臭いが鼻腔を突き刺す。
その赤黒い水溜まりの先に、一人の女性職員が倒れていた。
「……せんせい……?」
子供の一人が、掠れた声で呟く。
動かない。胸の骨が完全に陥没し、右腕があり得ない方向へと捻じ曲がって転がっている。彼女のすぐ隣では、壁に泥人形のようにもたれ掛かった男性職員が、焦点の全く合わない虚ろな目で、ただじっと天井を見つめていた。
生きているのか、それとも死んでいるのか。
「あ、あ、あ、あ……」
彼の裂けた唇だけが、狂った時計の針のように小さく痙攣している。その、生への執着だけが残ったような姿が、死体よりも遥かに恐ろしかった。
「見るな!! 前だけ見ろ!!」
咄嗟に近くにいた子供の目を両手で塞ぎ、怒鳴るように叫ぶ。
こみ上げてくる胃液を必死に飲み下した。何が起きている。こんなの事故なんかじゃない。人間が、人間にできる所業では断じてない。
「暁人、急げ! 止まってたらやばそうだ!!」
快の悲痛な叫びで、辛うじて我に返る。
全員の手を引っ張り、血の海を避けて走る。子供たちはもう言葉にならない絶叫を上げ、恐怖で足がもつれて転び、その度に俺と快で泥泥になりながら抱き起こして前へ進んだ。
だが、地獄はそこだけではなかった。
逃げる先、曲がる角、そのすべての場所に「かつて人だったもの」が転がっていた。
血まみれの手すり。原形を留めない壁。引き裂かれてボロ雑巾のようになった制服。
中には、まだ息がある者もいた。けれど、誰一人として「助けてくれ」とは言わない。ただ虚ろな目で、自分の流した血の床を見つめたまま、壊れたおもちゃのように何かをブツブツと呟いているだけ。
まるで、肉体が壊れる前に、心だけがどこか遠くへ消えてしまったみたいに。
「いやぁぁ! おうち帰る! 怖いよぉ!!」
子供たちが限界を迎えて泣き叫ぶ。
「大丈夫、大丈夫だから! もうすぐ出口だから!」
声を張り上げて嘘をついた。そう言うしかなかった。
自分でも、その言葉になんの意味もないこと、気休めにすらなっていないことなんて分かっていた。
次の瞬間、数十メートル先の廊下の闇から、それが「現れた」。
大きい。優に二メートルは超えている。
大まかなシルエットは人の形に似ていた。だが、絶対に人間ではない。
全身を覆うのは、泥を捏ね回したような黒ずんだ皮膚。腕は異様に長く、指先はナイフのような爪に変貌している。そして何より異様なのは、顔の半分が耳元まで裂けるようにして、ぽっかりと黒い口が開いていることだ。その奥で、粘つく唾液に濡れた無数の牙がぎらついている。
剥き出しの双眸だけが、赤い警告灯よりも禍々しく、爛々と発光していた。
「…………」
肺からすべての空気が引き抜かれ、呼吸の仕方を忘れた。
あれは、なんだ。
知らない。学校の教科書にも、テレビのニュースでも、見たことも聞いたこともない生き物。
なのに、脳の最も深い場所にある生存本能だけが、鼓膜が破れんばかりの音量で叫んでいた。
――逃げろ。あれに触れられたら、一瞬で肉塊にされる。
「あ、……う、あ……」
子供たちが、蛇に睨まれた蛙のように完全に硬直する。
化け物は、こちらの存在を認めると、骨の軋む音を立ててゆっくりと首を傾げた。
次の瞬間、床を爆音とともに粉砕しながら、目にも留まらぬ速さでこちらへ跳躍してきた。
「逃げろッッ!!! 走れえぇぇぇ!!!っ」
叫ぶより早く、身体が動いていた。子供たちの背中を、ありったけの力で前方へと押し出す。
全員が悲鳴を上げながら、狂ったように走り出した。
背後からは、化け物が壁を削り、床を噛み砕く、凄まじい破壊音が迫ってくる。
速い。人間の走って逃げ切れる速度じゃない。
「みんなこっち! こっちの階段を下りて!!」
紬が喉を枯らしながら子供たちを先導する。快は自ら最後尾へと回り、化け物との距離を少しでも稼ごうと、落ちていた椅子やゴミ箱を後ろへ投げ飛ばしていた。
何度も廊下を曲がり、狂ったように階段を駆け下りる。
それでも、背後から響く重苦しい足音は、確実に、一歩ずつ俺たちの距離を縮めてくる。
逃げ切れない――そう直感した瞬間、最悪の現実が目の前に現れた。
行き止まりだった。
錆びついた非常口の扉。だが、上の階での衝撃のせいか、鉄製の枠が完全に歪み、びくともしない。
「くそっ、開けろ! 開けよ!! 動け、この野郎ッッ!!」
快が狂ったように肩から体当たりをかます。けれど、重い金属音が響くだけで、扉は数ミリの隙間さえ作らない。
背後から、ズシン、ズシンと、重い足音が近づいてくる。
ゆっくりと。獲物を追い詰めたことを確信した、捕食者の足取りで。
紬が、泣きじゃくる子供たちを自分の背中に庇うようにして、両腕を広げて前に出た。
「みんな、お姉ちゃんの後ろに隠れて……!」
化け物が、その長い、鋼のような腕を天井高く振り上げる。爪の先から、誰かの血が滴り落ちた。
「紬、逃げろおぉぉぉ!!!っ」
間に割って入ったのは、快だった。
ドゴォッッ!!!
鈍く、重い、肉と骨が破裂するような衝撃音。
快の身体が、まるで蹴り飛ばされた紙切れのように宙を舞い、コンクリートの壁へと激しく叩きつけられた。
「がっ、……は……っ」
血を吐き出しながら、快の身体が床へ崩れ落ちる。ピクリとも動かない。
「――快ッッ!!!!」
頭が、真っ白を通り越して、完全に弾け飛んだ。
考えるより先に、俺の足は化け物に向かって突き進んでいた。恐怖も、痛みの予感も、すべてが怒りに塗りつぶされる。
「ふざけるな、この化け物がぁぁぁ!!!」
拳を握り締め、ありったけの体重を乗せてそいつの顔面を殴りつけた。
――硬い。まるで、コンクリートの塊を素手で殴ったかのような衝撃。
当然、化け物はよろめきさえしなかった。
逆に、丸太のような腕が俺の胸ぐらを鷲掴みにする。
「が、はっ――」
そのまま、全力で床へと叩きつけられた。
背中から凄まじい衝撃が突き抜け、肺の中の空気がすべて口から飛び出す。息が、吸えない。
化け物は俺をゴミのように掴んだまま、何度も、何度も、容赦なく冷たい床へと叩きつけ続けた。
バキッ、という、自分の内側から聞こえてはいけない音が響く。
痛い。熱い。身体中の骨がバラバラに砕けたようで、指一本動かすことすらできない。視界が急速に、赤く、そして黒く染まっていく。
それでも、霞む視線の先には、まだ紬がいた。
紬は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、小さな子供たちをその細い身体で必死に抱き締めていた。
守らなきゃ。俺が、守らなきゃいけないんだ。
立て。動け。ふざけるな、俺の身体。動いてくれ。
こんな、こんな理不尽な場所で、全部終わらせられてたまるか。
まだ、何もしてないんだ。
快も、紬も、子供たちも、誰も、死なせたくない。
死にたくない。
誰も、失いたくない――!!!
「――死にたく、ない……っっ!!!!」
その瞬間、砕けたはずの胸の奥、心臓のさらに深い場所で。
どす黒く、禍々しい何かが、爆発的な勢いでドクリと脈打った。




