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喰情千界  作者: 遥斗
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第2話



朝の六時。

遮光カーテンのわずかな隙間から、ナイフのように鋭い朝光が差し込み、俺の瞼を内側から赤く焼いた。

「……ん、っ……」

重い頭を振って、まだ色濃く残る睡魔から逃げるように布団を頭まで被り直す。その温もりに再び沈み込もうとした、まさにその瞬間だった。


ガラガラッ!! と、立て付けの悪い木の扉が、けたたましい音を立てて跳ね上がった。


「おっしゃあ朝だぞ起きろォォォーー!! 暁人、生存確認ーー!!」

「うおっ!? ……てめ、快……っ!」


容赦なく、むき出しの肌から布団が引き剥がされる。容赦のない寝起き直撃の冷気に、俺は思わず身を縮めた。仁王立ちしている快は、すでに寝癖も直さず施設のジャージに袖を通している。


「ほら見ろ、外はこんなに輝かしい朝だぞ! 素晴らしいな!」

「まだ、六時だぞ……。お前頭沸いてんのか……」

「朝だから起きる。これ以上の純粋な理由がこの世にあるか? ほら、シャキッとせえ!」

「意味分かんねぇよ……。変なこと言ってんじゃねぇ……」


寝起きのパサついた髪をガシガシと掻き毄りながら、渋々ベッドの上に上半身を起こす。

本当に、同室なのがこいつじゃなかったら、俺の朝はあと一時間は静かで平和だったはずだ。


快はベッドの柵に肘をかけ、ニカッと歯を見せて笑った。

「まぁまぁ。今日は月に一度の『定期検診』の日だからさ。ほら、あの白衣の先生たち、一分でも遅れるとネチネチうるさいだろ? 早く食堂行って飯食おうぜ」

「あー……、あれか」


毎月決まって行われる健康診断。

物心ついた頃からずっと、この施設にいる全員が義務づけられている。採血の注射器や、冷たい機械を当てられる身体測定。面倒ではあるけれど、子供の頃から当たり前の行事だったから、特に疑問を持ったこともなかった。


「ほら、さっさと着替えろ。あと五分で出るぞ」

「……あと五分寝かせろ」

「じゃあ三分したら出る」

「なんで減ってんだよ」






一階の食堂へ降りると、そこはすでに小さな子供たちの熱気と、にぎやかな雑音で満ちていた。

香ばしい焼き魚の匂い。小気味よく上がる、味噌汁の白い湯気。

朝からエンジン全開で廊下を走り回る幼児と、それを「こら! ちゃんと座って食べなさい!」とエプロン姿で追いかける職員のおばちゃん。毎朝、嫌というほど見ている、この施設のいつもの光景だ。


「あ、暁人、快。おはよう。二人とも、今朝は早かったね」


ご飯と味噌汁の載ったトレーを両手で持った紬が、こちらに気づいて小さく破顔した。

「おう、おはよう」

自然な流れで、俺たちはいつもの四人掛けの長机に向かい合わせで座る。


気づけば、いつもこの三人だった。

俺と、快と、紬。

血の繋がりなんて一滴もない。戸籍の上ではただの赤の他人だ。けれど、この古びた施設で、同じ飯を食い、同じ毛布にくるまって育ってきた時間だけは、世間一般のどんな本当の兄妹よりも長い自信があった。


「あーあ。また私のパン、一個なくなってる……」


紬が自分のトレーを見つめながら、不満げに形のいい眉をひそめた。少しだけ頬を膨らませて、じーっと視線を横へスライドさせる。

その視線の先では、快が何食わぬ顔で、もぐもぐと口を動かしてロールパンを咀嚼していた。


「……おい、快」

「ん? なあに? 俺、今すっごい集中して自分のスープ飲んでるから話しかけないで」

口の端に、真っ赤なイチゴジャムをべっとりと付けたまま、快はわざとらしく目を泳がせる。


「証拠が思いっきり口元に残留してるぞ、犯人」

「バカ言え。これはあれだ、今朝の俺のパッションが口から溢れ出たやつだ。濡れ衣だ」

「ジャムだよ。めちゃくちゃ甘い匂いしてるわ」


快はあわてて袖口で口元をゴシゴシと拭った。その無様な様子に、紬が堪えきれずにぷっと吹き出す。


「ふふ、いいよもう。まだ私のご飯、半分残ってるし。快、これ一個あげるから半分こしよ?」

「おっ、マジで!? さすが紬、持つべきものは話のわかる妹分だな!」

「はいはい、口のまわり拭いてから食べてね」


昔からそうだった。

紬は誰かが困っていたり、お腹を空かせていたりすると、自分の分を減らしてでも手を差し伸べてしまう。そのせいで、「自分の健康も考えなさい」と施設の先生からよく怒られていた。


「つむぎおねえちゃーーん!」


その時、パタパタとせわしない足音を立てて、ツインテールの小さな女の子が駆け寄ってきた。

「あ、ミカちゃん。どうしたの?」

「あのね、髪の毛片方ほどけちゃったの。やって!」

「いいよ、こっちおいで」


まだ朝食の途中だというのに、紬は少しも嫌な顔をせず、笑顔でトーストを置いて席を立った。

快が呆れたように、けれどどこか温かい目をしながら、パンの残りを口に放り込む。


「また始まった。あいつ、本当にノーと言えないよな」

「まぁ、紬のそういうところに、この施設のやつらは全員救われてるからな」


俺たちが暮らすこの場所――少し街から離れた場所にある古びた児童養護施設には、幼児から俺たちのような高校生まで、幅広い年齢の子供たちがひしめき合って暮らしている。

親の顔を知らない奴もいれば、複雑な事情を抱えてここに預けられた奴もいる。俺たちに血の繋がりなんて一切ない。けれど、毎日こうして同じ釜の飯を食い、古びた屋根の下で一緒に歳を重ねるうちに、いつの間にか世間のどんな家族よりも強固な絆で結ばれた「腐れ縁」になっていた。


その腐れ縁の筆頭が、向かいの席で口の周りをジャムだらけにして笑っている同室の男、一ノ瀬 快だ。

毎朝六時に俺を容赦なく叩き起こす鬱陶しいアラーム代わりであり、常にアクセル全開の単細胞。考えるより先に身体が動くタイプで、良くも悪くも、この少し閉鎖的な施設の空気をかき回すムードメーカーだ。


そして、そんな暴走気味の快をいつも隣で呆れながらも優しく見守っているのが、白峰 紬。

誰かの痛みを自分のことのように受け止め、絶対に人を見捨てない。お人好しすぎてこちらが心配になるくらいだが、その聖母のような柔らかい笑顔に、俺も快も幾度となく救われてきた。


最後に、そんな二人の保護者役――というか、もっぱら快の尻拭いとツッコミを押し付けられているのが、俺、神城 暁人だ。

朝が絶望的に弱く、平穏と静寂を愛する俺にとって、この二人に振り回される毎日は正直騒がしくて仕方がない。けれど……本音を言えば、この退屈で温かい、当たり前の日常を誰よりも手放したくないと願っているのは、俺自身なのかもしれない。


そんなことを考えている間にも、紬は朝食を途中で切り上げたまま、小さな子の世話を焼いている。


食堂の隅にある姿見の前で、紬は優しく女の子の髪を解き、櫛で丁寧に整え直している。鏡の向こうで結んでもらっている女の子は、本当に嬉しそうに目を輝かせていた。


「わあ、紬お姉ちゃん上手! 先生がやるより痛くない!」

「ふふ、ありがと。はい、これで今日も可愛いよ。行ってらっしゃい」


優しく微笑む彼女の横顔を見るたびに、この施設にいる全員が、どうしてあんなに紬を慕うのかが、言葉にせずともよく分かった。






午前中は、施設から歩いて十分ほどの場所にある敷地内の高校へ通う。

五限目の数学の授業は酷く退屈で、窓の外から聞こえる鳥の声だけが響いていた。隣の席の快は、案の定、教科書を盾にして完全に夢の世界へ旅立っている。


「……おい」

ノートを丸めて、快の頭をポカッと小突く。

「起きろ。先生こっち見てるぞ」

「……んぁ、あと五分……、今いいところ……」

「学校のデスクで寝るな」

「じゃあ……四分半で手を打とう……」

「なんで刻んできたんだよ」


昼休みになると、快は「購買の焼きそばパンが俺を呼んでいる!」と全力疾走で教室を飛び出していく。それをやれやれと追いかけ、中庭のベンチで紬と合流して三人で弁当を広げる。

これも、何百回と繰り返してきた、俺たちのありふれた日常の1ページだった。


「あ、そうだ。明日って土曜だし、学校休みだよな?」

快が口いっぱいに焼きそばパンを頬張りながら、ソースのついた指を振った。

「飯食ってから喋れ。……あぁ、休みだけど」

「じゃあさ、午後から街行こうぜ。駅前のゲーセンに新しい格ゲー入ったんだよ。勝負しよう、勝負!」

「またかよ。お前、前回の対戦で十連敗して財布空にしてただろ」

「今回は違う! 俺の脳内シミュレーションでは、すでに暁人を百回はKOしてるからな!」


全く根拠のない自信に、快は胸を張る。

その様子を、紬が水筒のお茶を飲みながらクスリと笑った。

「快は相変わらずね。……あ、でも、私も明日は街に行きたいな。ちょっとお買い物に付き合ってくれない?」

「買い物? 何買うんだよ」

「えっと……それは内緒。ちょっとね」


少しだけ頬を染めて、嬉しそうに微笑む。その柔らかい笑顔を見せられてしまうと、最初から断る気なんて、これっぽっちも湧いてこなかった。



学校から戻ると、施設の中庭ではいつも通り、放課後の子供たちが元気な声を上げて遊び回っていた。

玄関をくぐるなり、俺は低学年の男の子たちに服の裾を引っ張られ、半ば強制的に鬼ごっこの「鬼」に任命される。


快はさっさとブレザーを脱ぎ捨て、小学生たちの輪に入ってサッカーボールを追い回している。紬は、裏手で職員の手伝いをしながら、真っ白な洗濯物を一枚ずつ丁寧に取り込んでいた。


「あきとお兄ちゃん、こっちこっちーー!」

「足遅いーー! 捕まえてみなよ!」

「待て待て、ハンデなしだからな!」


泥にまみれ、汗をかきながら芝生を駆ける。

ひとしきり走り回って、息を切らしてゴロンと芝生へ倒れ込むと、視界いっぱいにどこまでも高い、真っ青な夏の空が広がっていた。


本当に、平和だ。

頭を空っぽにして、この心地よい疲労感に浸っている時間が、何よりも好きだった。ずっと、ずっとこんな日が続くのだと、心の底から信じていた。


「はい、お疲れ様。暁人、汗すごいよ」


いつの間にか洗濯物を終えた紬が、隣にトントンと足音を立てて腰掛けた。冷たいスポーツドリンクのペットボトルを、俺の額にペタッと押し当ててくる。

「うお、冷た……。ありがと」

ボトルを受け取り、一気に喉を潤す。


「ねえ、暁人。明日のことなんだけどさ」

紬は自分の膝を抱え込み、少し視線を落としながら、小さな声で言った。

「街に行ったら、ちょっとだけ、駅の裏にあるケーキ屋さんに寄ってもいい?」

「ケーキ? 紬、ダイエット中じゃなかったっけ」

「……違う、私のじゃなくて」


紬は少し照れたように視線を泳がせ、それから楽しそうに目を細めて、遠くを指差した。

視線の先では、快が子供たちに囲まれながら、豪快に笑い転げている。


あいつの誕生日が、もうすぐだった。

「あぁ……。なるほどな」

「ふふ、内緒だよ? サプライズなんだから」

「分かったよ。快には黙っとく」

「ありがと。楽しみだね」


通り抜ける風が、紬の髪を優しく揺らす。

遠くで、蝉の鳴き声が、じりじりと、けれどどこか心地よく響いていた。

何気ない、退屈で、愛おしい、いつもの午後。


その、瞬間だった。


――ウゥゥゥゥゥン!!! ウゥゥゥゥゥン!!!


世界のすべての音を圧殺するような、耳をつんざく爆音が、彼らの頭上から降り注いだ。

施設の白い壁に設置された警告灯が、一斉に激しく明滅し始める。




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