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喰情千界  作者: 遥斗
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第1話



世界から色彩を奪ったような、ひび割れた白。

壁も、床も、天井も、すべてが神経を逆撫でするような無機質な白に染まっていた。

規則正しく並ぶ蛍光灯が、チカチカと不快なハム音を立てている。鼻を突くのは、ツンと張り詰めた消毒液と、どこか鉄サビに似た生臭い匂い。地下実験区画そこは、人々の喧騒代わりに、常に電子音が支配する場所だった。


厚い防弾ガラスの向こう。

一人の男が、椅子に縫い付けられるように拘束されていた。

両手両足を締め付けるのは、鈍い光を放つ鋼鉄のリング。首にも太い金属襟が嵌められている。年齢は三十代そこそこだろうか。肉の落ちた鎖骨のまわりや、痩せ細った腕には、どす黒く変色した無数の注射痕が、痛々しく残っていた。


ガラスのこちら側では、彼とは対照的に、折り目が付き清潔にされた白衣を着た研究員たちが、冷たい光を放つモニターを凝視している。


「禍素、渦紋濃度、安定。バイタル、許容範囲内です」

「禍紋活性率二十七パーセント。……よし、次を入れろ」

「了解。第三段階薬剤、投与開始」


低く乾いたキーボードの打鍵音。それと同時に、男の腕に突き刺さったチューブを、粘り気のある透明な薬液が滑り落ちていく。


男の指先が、ビクンと跳ねた。


「……あ、が……っ」


喉の奥から、乾いた砂を吐き出すような声が漏れる。


「たのむ……、もう……やめて、くれ……。何も、わからなくなるんだ……」


懇願は、分厚いガラスに遮られるまでもなく、誰の耳にも届かない。研究員の一人は、爪を噛みながら淡々と数値を記録し続けるだけだった。


「感情刺激、フェーズ2へ移行。視覚ノイズ開始」


パチン、と照明が落ち、男の目の前にある壁一面のモニターが、暴力的な輝度で明滅を始めた。


映し出されたのは、地獄絵図だ。

爆ぜる炎。泥にまみれた鮮血。髪を振り乱して泣き叫ぶ女。骨組みだけになって崩れ落ちる家。


男は拒絶するように瞼を閉じようとした。だが、目蓋さえも極小の器具で固定されている。


「……やめろ、見せるな……っ!」


さらに、スピーカーから鋭い音響が鼓膜を刺す。

引き裂かれるような子供の泣き声。助けを求める、聞き覚えのあるはずの小さな声。耳を塞ぎたくても、鋼鉄の拘束具はミリ単位の自由も許さない。


「違う、俺は、俺はそんなこと……!」

「俺じゃない……! やめろォ!!」


心拍数を刻む電子音が、狂ったようなテンポで高鳴っていく。


「感情波形、臨界点を突破」

「禍素反応、急激に増大しています! 覚醒閾値まであと五――」


男が、獣のような咆哮を上げた。

その瞬間だった。


――ピッ。


あまりに小さく、頼りない電子音。

直後、研究室を照らしていた全てのモニターが、一斉に血のような赤に変色した。


《ERROR》

《ERROR》

《ERROR》


頭上から、感情の消え失せた女性の機械音声が降り注ぐ。


『警告。実験体制御不能。覚醒異常。職員は直ちに当区画より避難してください』


「チッ、ブレインカットは!? 緊急停止コードを打て!」

「ダメです、システムがダウンしてる……薬剤が止まりません!」

「拘束圧を最大にしろ! 潰しても構わん!」


研究員たちの、余裕の消えた怒号が飛び交う。


ガラスの向こうで、男がゆっくりと顔を上げた。

濁っていた眼球が、内側から発光するように赤く染まっている。そして、裂けた皮膚の下から、煤のような黒い紋様が、生き物のようにドクドクと脈打ちながら全身へ這い回り始めた。


バキィッ。


耳を圧する金属の悲鳴。


「拘束圧、一気に低下! 嘘だろ、鋼鉄製だぞ!?」

「ありえない、渦紋値が跳ね上がって――」


バキンッ!!!


爆音とともに、数センチの厚みがある鋼鉄のリングが粉々に砕け散り、ガラスにぶつかって激しい音を立てた。研究員の誰かが短い悲鳴を上げる。


男は、糸の切れた人形のように、けれど確実に、床へ足をつけた。

その右腕は、すでに人間のカタチを留めていなかった。

炭化したような黒い外殻に覆われ、指先からはナイフのような爪が伸びている。異常なほどに膨れ上がった筋肉は、人間というよりは、飢えた大型の肉食獣のそれだった。


「撃て! 射殺しろ!!」


隔離室の天井から自動小銃が突き出され、乾いた銃声が狭い室内に反響する。

肉を削り、骨を砕く鈍い音が何度も響き、男の身体に何発もの銃弾が吸い込まれていく。だが、男はよろめきさえしなかった。


男が一歩、踏み出す。


次の瞬間、爆音とともに防弾ガラスが内側から粉砕された。

飛び散るガラスの破片。悲鳴を上げる間もなく、一番近くにいた研究員の身体が、おもちゃのように宙へ舞う。


ベチャリ、と重い音がして、残ったガラスの破片に赤い飛沫がべっとりと張り付いた。


鼓膜を突き刺すサイレン。肉を裂く音。狂ったような銃声と、生きたいと願う人間の無様な絶哀。

それら全てを嘲笑うように、施設全体で赤い警告灯が、まるで巨大な怪物の瞬きのように明滅し始めた。


『緊急事態発生。鬼化個体を確認。全区画を強制封鎖します。職員は速やかに――』


冷淡なアナウンスが、冷たい地下の通路へ広がっていく。

誰も知る由がなかった。

これが、彼らの築き上げた平穏な地獄の、本当の終わりになるということを。



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