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喰情千界  作者: 遥斗
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第36話


視界が急速に色を失っていく。冷たい雨の音さえも遠のき、意識は重力を失ったように漆黒の深淵へと沈んでいく。


その絶望の底で、暁人の魂は、分厚い鉄の扉の前に行き着いた。

それは他ならぬ暁人自身が、何重にも厳重な鎖を巻きつけ、心の最も深い暗闇に沈めていた禁忌の扉。


(……ああ、そうか。忘れていたんじゃない。俺が、自分で鍵をかけたんだ)


正気を保つために。

あの温かな日常の中で、家族として、あいつらの隣にいるために。

自らの心を騙し切ってでも封印しなければ、とうてい生きてはいけなかった真実。


軋みを上げて、扉が開く。

そこに残されていたのは、ひどく美しく、胸が締め付けられるほど愛おしい記憶だった。


木漏れ日が揺れる、施設の古びた中庭。

三人で額を突き合わせて分け合った、溶けかけの安いソーダアイスの甘い味。快が馬鹿な冗談を言って笑い転げ、紬が呆れたように、けれど鈴を転がすような声で笑う平和な昼下がり。

「暁人くんはいつも頑張りすぎるから」と、先生が不器用な手つきで頭を撫でてくれた時の、あの日向のような温もり。


それらは暁人にとって、世界の何よりも尊く、いつくしむべき宝物だった。

ずっと守りたかった。あの穏やかな光の中に、いつまでも居たかった。


だが、眩いほどの黄金色の記憶は、次の瞬間――粘ついた赤黒い血の海へと反転する。


鮮明に蘇る、あの夜。施設を襲撃した異形の化け物。

絶望の中で覚醒した俺は、化け物をその腕で組み伏せていた。硬い外皮を紙屑のように引き裂き、噴き出す黒い体液を全身に浴びながら、俺はその肉を獣のように貪り食っていた。

それは大切な家族を救うための力などではなく、ただのより強大な本能。


(やめろ……もう、終わったんだ。やめろッ……!)


記憶の中の俺が、ゆっくりと振り返る。

化け物を喰らい尽くし、己の輪郭すら失った異形の視線の先には、恐怖に震える先生たちと、逃げ惑う子供たちの姿があった。


泣き叫び、俺の名前を呼んで縋り付こうとした先生たちを、食事を邪魔する障害物として無意識に薙ぎ払った。かつて俺を優しく撫でてくれたその温かな肉体は、一瞬にして真っ赤な鮮血のカーテンへと変わった。

どれだけ慈しんでくれた記憶があろうと、バケモノにとっては、ただの脆弱な肉の塊に過ぎなかった。

人としてのの魂を深く、深く抉る。


意識を失い、泥の中に倒れていた快と紬。

それ以外の泣き叫ぶ仲間たちを、一人、また一人と無差別に引き裂いていった。血に塗れた手は止まることを知らず、何が家族で、何が敵かも判別できない狂気の中、ただ命を壊すことだけが俺のすべてだった。


「怖いよ……」

震えながら部屋の隅で身を寄せ合う年少組の子供たち。あんなに可愛がっていた小さな命。

俺は、獣の喉を鳴らし、大粒の涙を零しながら、その小さな首を、小さな胸を、壊れた人形を扱うように一つずつプチプチと潰していった。手が血に濡れ、彼らの絶末魔が響くたびに、俺の心は音を立てて崩れていく。


守ると誓ったはずの無垢な命を、俺は世界で一番残酷なやり方で踏みにじった。

守りたかった日常を、他ならぬ俺自身の手で、泥と血の中に塗りつぶしたのだ。


惨劇が終わった後、血の海の中で目を覚ました快と紬。

あの時、俺は一体どんな顔をして、どんな声で彼らに「大丈夫だ」と微笑みかけたのだろう。


思い出すだけで激しい吐き気がする。その絶望的な罪の重さに耐えきれず、俺の脳は自己防衛のために真実を分厚い扉の奥へと封じ込めたのだ。今日まで彼らの隣で、ただの人間としてのうのうと笑っていた俺は、一体どれほど卑劣で、どれほど恐ろしい化物なのだろうか。


『暁人、お前がいれば大丈夫だよ。俺たちは、ずっと一緒だろ?』

『暁人くんがいてくれるから、私は怖くないよ。ずっと守ってくれるよね?』


かつて交わした二人の無垢な言葉が、今の俺には死刑宣告のように胸を深く、深く突き刺す。

二人の隣で笑っていたあの温かな日常は、俺自身が虐殺した、先生や幼い子供たちの無数の命の上に築かれた、崩れかけの砂の城だったのだ。


絶望で心が砕け散る。

こんな命、今ここで終わらせてしまった方がどれほど楽だろうか。


だが――。


(……こいつだけは)


泥の底に沈みゆく意識の中で、心の最も深い底から、熱い叫びが込み上げてきた。


(俺の全部が嘘だったとしても、俺が最低のバケモノだったとしても……っ! あいつらには、笑ってい生きていて欲しいんだ……ッ!)


罪を背負ってでも。地獄に落ちると分かっていても。

あのたった二つの温もりだけは、絶対に手放したくない。


その強烈で身勝手なまでの渇望が、完全に止まりかけていた心臓を強引に再起動させた。


ドクンッ……!!


ヴェスパーに貫かれた腹部の傷口から、蒸気のような赤黒い炎が爆発的に立ち昇った。


「……あ?」


ただの残骸になりかけていたはずの肉体から噴き出した異常な熱量に、ヴェスパーが鬱陶しそうに眉をひそめる。


封印されていた原初の記憶と、ドロドロとした生への執着。それがトリガーとなり、暁人の肉体を完全に作り変えていく。

赤黒い禍々しい紋様が皮下を這い回るように全身を駆け巡り、皮膚を内側から突き破って、分厚く硬質な外骨格が浮かび上がった。


「ガ、ァ……ッ!」


暁人は腹を貫いていたヴェスパーの腕を左手で掴むと、そのまま己の肉から強引に引き抜き、メキリと嫌な音を立ててその手首をへし折った。


「チィッ……」

忌々しげに舌打ちをして後退するヴェスパーを意に介さず、暁人は泥の中に両手を突き立てた。


そして、冷たい雨が降り注ぐ天を仰ぎ、咆哮した。


「アァァァァァァァァァァァッ!!!」


豪雨の夜空を切り裂いたその声は、もはや意味のあるものではない。

それはあの夜、養護施設で無垢な子供たちを引き裂き、咀嚼した、あの産声と全く同じ響きを帯びていた。


ゆっくりと立ち上がった暁人の瞳には、人間としての理性は一滴も残っていない。そこにあるのは、昏い深淵のような底知れぬ飢えと殺意だけ。



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