第37話
雨の冷たさも、腹部にポッカリと空いた風穴の熱さも、今の俺には感じることができなかった。
致命傷だったはずの傷口から、赤黒い蒸気が爆発的に吹き荒れる。完全に沈黙したはずの心臓が、バクンッ、バクンッ、と鼓動を打ち始めた。
「……しぶといですね。心臓は完全に潰したはずですが」
血だまりに伏していたはずの俺が立ち上がると、ヴェスパーは心底面倒くさそうな、そして不快極まりないものを見るように眉をひそめた。先ほどの観察を楽しむほどの興味は消え失せ、ただの手間のかかるゴミ処理に向き合うような冷酷さだ。
「這い回るだけの蛆虫が。二度も三度も潰させないでください、ひどく手間だ。ただの劣等種が足掻いたところで、この私に届くはずもないというのに」
聞こえていなかった。そもそもヴェスパーを見ていない。
泥を蹴り上げる。
渾身の力を込めた俺の拳は、しかし、ヴェスパーの優雅な掌によって呆気なく受け止められた。
「遅い。そして、軽い」
メキメキッ、と俺の拳が握り潰される。
(『痛いよぅ、暁人お兄ちゃん……!』)
脳裏で、年少組の小さな女の子の腕を捻り潰した感触が、鮮烈にフラッシュバックする。ヴェスパーに砕かれた俺の骨の痛みが、あの柔らかく細い関節を無惨にへし折った時の手応えとピタリと重なった。
「あ、あ、あああぁぁぁぁッ!!」
目から止めどなく涙が溢れ出す。なのに、俺の口元は制御できない狂気で三日月のように吊り上がり、ゲラゲラと嗤っていた。
砕かれた拳を強引に引き抜き、俺は逆の腕で異形の爪を振るう。
「痴れ者が……ッ!」
ヴェスパーの赤黒い骨翼が、鋭いギロチンとなって俺の胸から腹までを深く切り裂いた。
大量の鮮血と臓物の破片が雨の中に舞い散る。
(『やめて、暁人くん! 逃げて、みんな……ッ!』)
耳にこびりついた先生の絶叫。
自分の肉がザクロのように裂ける激痛が、俺に懇願しながら引き裂かれ、内臓をぶちまけて死んでいった先生の姿にすり替わる。
「ひぃっ、ふふっ、あああぁぁぁぁッ!!」
泣き叫びながら、血反吐を吐きながら嗤う。圧倒的だった。
ヴェスパーの連撃は、俺の異形化した肉体を容赦なく破壊していく。防ぐことすらできない。ただひたすらに蹂躙されるだけの絶望的な力の差。
現実のヴェスパーに肉を削り取られながら、記憶の中の俺は、逃げ惑う子供たちの頭を次々と壁に叩きつけ、真っ赤な血の華を咲かせている。痛めつけられるたびに、俺が痛めつけた家族の記憶が脳を焼き切るようにフラッシュバックする。
だが、俺は倒れなかった。倒れるわけにはいかなかった。
「なぜ……なぜ貴様、それほどの傷でまだ動く……ッ! 悪食のゾンビめ……!」
ヴェスパーの端正な顔に、初めて明確な嫌悪が浮かぶ。
首の骨が軋み、臓腑が潰れても、俺は泣き嗤いながら獣のようにヴェスパーへと喰らいつき続けた。
(『暁人……どうして……』)
あの日、学友の胸を素手で貫き、その心臓を握り潰したあの生温かい絶望の感触。
それを求めているのか、それともそれを罰するために動いているのか。今の俺には、目の前にいるのが憎き敵なのか、愛すべき家族なのか、もう判別がつかなかった。
「下等種が……ッ! ならば、塵も残さず消し飛ばしてあげましょう!」
ヴェスパーの全身から、周囲の雨粒を瞬時に蒸発させるほどの濃密な殺気が膨れ上がる。
俺は、千切れかけた腕を力なく垂らしながら、ふらりと一歩前へ出た。
視界が赤い。すべてが赤い。
ただ、この両手に巣食う破壊の衝動だけが、相手を地獄へ引きずり込むためだけに、俺の肉体を突き動かしていた。
命を完全に刈り取る、次の一撃に向けて。
血に染まった狂気の静寂が、雨音だけを残して二人を包み込んだ。




