第35話
これまで暁人が必死に押し込めていた感情が、崩壊した。
肌の裏側で脈動していた禍々しい力が、決壊したダムの奔流となって血管を駆け巡る。
「……ん?」
ヴェスパーが、微かに眉を動かした。首を掴んでいる手から、異常な熱量が伝わってきたからだ。
「アァァァァァァァッ!!」
獣のような咆哮と共に、暁人の両手がヴェスパーの腕をガシッと掴んだ。
「――っ!?」
次の瞬間、ヴェスパーの身体がフワリと宙に浮いた。
ヴェスパーの拘束が強引に引き剥がされ、そのまま背後の廃ビルへと放り投げられたのだ。
ドガァァァンッ!!
ヴェスパーの身体がコンクリートの壁をぶち抜き、凄まじい粉塵が舞い上がる。
地面に落ちた暁人は、泥水を四散させながら弾丸のように躍り出た。その瞳は完全に血走り、人間の限界を超えた出力で肉体が軋みを上げている。
「よくも……霧島を……ッ!!」
怒りと、己の中に巣食う鬼としての衝動。それが完全に混ざり合い、暁人を理不尽な暴力の権化へと変えていた。
壁にめり込んだヴェスパーが体勢を立て直すよりも早く、暁人の拳が肉を裂く重さで大気を叩き斬る。
「オオォォォォォッ!!」
無我夢中の連撃。左右からの拳打、蹴り上げ、瓦礫を砕く掌底。
雨粒すらもその暴力的な風圧に弾かれ、周囲一帯は土煙と水飛沫で完全に視界が閉ざされる。一撃ごとにアスファルトが陥没し、周囲の建物がひしゃげていく。
特級の鬼を相手に、暁人は完全に押し勝っていた。
「死ね……ッ! 死ねェェッ!!」
暁人は獣のように跳ね、上空へ逃れようとしたヴェスパーの胸ぐらを掴み、そのまま大地へ向けて渾身の力で叩きつけた。
ズドォォォォォンッ!!
地響きと共に、路地に巨大なクレーターが穿たれる。
バキリ、という不吉な骨の砕ける音が響き、ヴェスパーは糸の切れた人形のように泥水の中へ沈んだ。
「ハァッ……! ハァッ……!」
暁人は血塗れの拳を震わせながら、荒い息を吐いた。
やった。これだけの連撃を叩き込んだんだ。いくら化け物でも、ただで済むはずが――。
しかし。
土煙の向こう側で、ピチャリ、と泥水を跳ねる足音が響いた。
「……まぁまぁ、なりそこないにしてはよくできたほうではないですか」
静寂の中で響いたその声には、先ほどまでの激戦の疲労など微塵も含まれていなかった。
澄み渡るほどに甘美で冷酷な響き。
ゆっくりと立ち上がったヴェスパーの表情には、狼狽も焦りもない。崩れた豪奢な服の汚れを優雅に払いながら、まるで幕間の喝采を待つ役者のように、ふふ、と喉を鳴らして嗤っていた。
「お見事。死の淵にあってなお引き出されるそのエネルギー……実に良い」
暁人が目を見開く。
ヴェスパーが一歩踏み出すたび、周囲の空気が重く澱んでいく。暁人が先ほど与えたはずの無数の傷も、砕いたはずの骨も、黒い蒸気を上げて瞬く間に再生し、影も形もなく消え去っていた。
「な……んで……っ」
「まさか、本気で私を殺せるとでも思ったのですか?」
耳元で、溜息のように囁かれた。
――暁人の背筋に、氷柱が突き刺さるような悪寒が走る。ヴェスパーは先ほどの位置から動いていないはずなのに、その声は暁人のすぐ真後ろから聞こえた。
「ただ……観察していたのですよ。貴方がどの程度の反応を見せてくれるのか、この身を以て体験したくて」
そこにいたのは、全てを見下ろす圧倒的な観客としての傲慢さだった。
最初から、勝負になどなっていなかった。奴にとって、今の暁人の決死の反撃すら、子供とじゃれあう程度の遊びに過ぎなかったのだ。
「あ……」
暁人が反射的に振り返ろうとした、その時。
ズブッ。
水風船が割れるような、ひどく間の抜けた音が響いた。
反撃しようと腕を動かすよりも早く、ヴェスパーの細く青白い腕が、まるで濡れた紙を破るかのような手応えで、暁人の腹部を背後から深々と貫いていた。
「が、は……っ……!」
暁人の口から、どろりとした赤黒い塊が溢れ出す。
貫かれた腹部から急速に熱が抜け落ち、視界が真っ暗に染まっていく。
ヴェスパーは、羽をもいだ小鳥を憐れむように優しく、暁人の耳元で厳かに告げた。
「さあ、眠りなさい、出来損ない。あなたの命の瞬きは、実に退屈しのぎになりましたよ」
暁人の身体から完全に力が抜け、ヴェスパーの腕から滑り落ちていく。
ぐしゃり、と泥水の上に倒れ伏した少年の姿を、冷たい雨音だけが静かに塗り潰していった。




